【冒頭】
祝言の夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋の襖(ふすま)のそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台に飾られてある伊勢海老が、まだ生きていて、大きな髭をゆるくうごかしていたのである。
【結句】
人生の出発は、つねにあまい。まず試みよ。破局の次にも、春は来る。桜の園を取りかえす術(すべ)なきや。
「花燭」について
・昭和13年9月10日頃に脱稿。
・昭和14年5月20日、書下ろし短篇集『愛と美について』収載。
全文掲載(「青空文庫」より)
燭をともして昼を継がむ。
一
私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑の初夜を得るように、私は
東京の郊外に男爵と呼ばれる男がいた。としのころ三十二、三と見受けられるが、
「煙草がなくなっちゃったな。」
「ああ、」と男爵は微笑して立ちあがり、「僕もね、さっきから煙草吸いたくて。」嘘である。男爵は、煙草を吸わないひとであった。「買って来よう。」気軽に出かける。
男爵というのは、
かれは、そんな男であった。訪問客のひとりが活動写真の撮影所につとめることになりそれがそのひとの自慢らしく、誰かにその仕事振りを見てもらいたげなのであるが、ほかの訪問客たちは鼻で笑って相手にせぬので、男爵は気の毒に思い、ぜひ私に見せて下さい、と頼んでしまった。男爵は、いったいに無趣味の男であった。弓は初段をとっていたが、これは趣味と言えるかどうか。じゃんけんさえ、はっきりは知らなかった。石よりも
その日、男爵は二時間ちかく電車にゆられて、撮影所のまちに到着した。草深い田舎であったが、けれどもかれは油断をしなかった。
「や。しっけい、しっけい。煙草あるかい?」
男爵は、にこにこ笑って立ちあがり、ポケットから煙草を二つ差し出し、
「僕も、やっと今しがた来たばかりで、どうも、おそくなって。」と変なあやまりかたをした。
「ま、いいさ。」相手の男は、気軽にゆるした。「僕もね、きょうから生田組の撮影がはじまっているので、てんてこ舞いさ。」言いながら落ちつきなく手を振り足踏みして、てんてこ舞いをしてみせた。
男爵は、まじめになり、その男のてんてこ舞いを見つめ、一種の感動を
「はり切っていますね。」そう不用意に言ってしまって、ひやとした。自分のそんな世俗の評語が、芸術家としての相手の誇りを傷けはせぬかと、案じられた。「芸術の制作衝動と、」すこしとぎれた。あとの言葉を内心ひそかにあれこれと組み直し、やっと整理して、さいごにそれをもう一度、そっと口の中で復誦してみて、それから言い出した。「芸術の制作衝動と、日常の生活意慾とを、完全に一致させてすすむということは、なかなか
「そんなでもないさ。」相手の男は、そう言って、ひひと卑屈に笑った。「うちの撮影所、見たいか?」
男爵は、もう、見たくなかった。
「ぜひとも。」と力こめてたのんでしまった。死ぬる思いであった。
「オーライ!」ばかばかしく大きい声で叫んで、「カムオン!」またばかばかしく叫んで、飲食店から飛んで出た。かれは仕方なく、とぼとぼ、そのあとを追うのである。
その男は、撮影監督の助手をつとめていた。バケツで水を運んだり、監督の椅子を持って歩いたり、さまざまの労役をするのである。そうして、そんな仕事をしている自分の姿を、得意げに、何時間でも見せていたい様子で、男爵もまた、その気持ちを察し、なんの興味もない撮影の模様を、
「それはね、もう一粒のごはんつぶをすりつぶし、それを
男爵は、あまりのばからしさに、からだがだるくなった。ふっと眼がしらが熱くなり、理由はわからぬが、泣きたくなった。わあ、と大声あげて叫び出したい思いなのである。けれども、立ち去るわけにいかない。それは、失礼である。なるほど、と感心した振りをして厳粛にうなずき、なおも見つづけていなければならぬのである。
その撮影が、どうにか一くぎりすんで、男爵は、
「新やん。」うしろから、低くそう呼ばれて、ふりむくと、いままで髭の男のお給仕をしていて二十回以上も、まあ、とあきれていたあの小柄な令嬢の笑顔が暗闇の中に黄色く浮んでいた。「新やん。ちっともお変りにならないのね。あたし、さっき、ひとめ見て、ちゃんとわかったわ。でも、撮影中でしょう、だもんだから、だまって、ごめんなさいね。」ひと息で言ってしまって、それから急に固くなり、「ほんとうに、おひさしぶりでございました。お国では、皆様おかわりございませぬでしょうか。」
男爵は、やっと思い出した。
「あ、とみ、とみだね。」田舎の
「よく来たねえ。」まるで意味ないことを
相手の女も、多少、興奮している様子であった。男爵のその白痴めいた寝言を、気にもとめず、
「新やんこそ、よくおいで下さいました。あたし、ゆっくりお話申しあげたいのですけれど、いま、とっても、いそがしいので、あ、そうそう、九時にね、新橋駅のまえでお待ち申して居ります。ほんの、ちょっとでよろしゅうございますから、あの、ほんとに、お願い申しあげます。おいやでしょうけれど、ほんとに。」あたりに気をくばりながら、口早に低くそう懇願する有様には、真剣なものがあった。ひとにものをたのまれて、拒否できるような男爵ではなかった。
「ああ、いいよ。いいとも。」
撮影所から退去して、電車にゆられながら、男爵は、ひどく不愉快であった。もとの女中と、新橋駅で逢うということが、いやらしく下品に感じられてならなかった。
九時に新橋駅で、小さいとみを捜し出して、男爵は、まるで、口もきかずに、ずんずん歩いた。とみは、ほとんど駈けるようにしてそのあとを追いながら、右から左から、かれの顔を覗き込んでは、際限なくいろいろの質問を発した。おもに、故郷のことに
「あたし、なんでも知っててよ。新やんのこと、あたし、残らず聞いて知っています。新やん、あなたはちっとも悪いことしなかったのよ。立派なものよ。あたし、昔から信じていたわ。新やんは、いいひとよ。ずいぶんお苦しみなさいましたのね。あたし、あちこちの人から聞いて、みんな知っているわ。でも、新やん、勇気を出して、ね。あなたは、負けたのじゃないわ。負けたとしたら、それは、神さまに負けたのよ。だって、新やんは、神さまになろうとしたんだ。いけないわ。あたしだって、苦労したわよ。新やんの気持ちも、よくわかるわ。新やんは、或る瞬間、人間としての一ばん高い苦しみをしたのよ。うんと誇っていいわ。あたし、信じてる。人間だもの、誰だって欠点あるわ。新やん、ずいぶんいいことなさいました。てれちゃだめよ。自信もって、当然のお礼を要求していいのよ。新やん、どうして、立派なものよ。あたし、汚い世界にいるから、そのこと、よくわかるの。」
男爵は、夢みるようであった。何を女が、と、とみの不思議な
とみにとんと背中を押されて、よろめき、資生堂へはいった。ボックスにふたり向い合って坐ったら、ほかの客が、ちらちら男爵を盗み見る。男爵を見るのではなかった。そんな貧弱な青年の恰好を眺めたって、なんのたのしみにもならない。とみを見るのである。ずいぶん有名な女優であった。男爵は、無趣味の男ゆえ、それを知らない。人々のその無遠慮な視線に腹を立て、仏頂づらをしていた。
「それごらん。おまえが、そんな鳥の羽根なんかつけた帽子をかぶっているものだから、みんな笑っているじゃないか。みっともないよ。僕は、女の
とみは笑っていた。
「何がおかしい。おまえは、へんに生意気になったね。さっきも僕がだまって聞いていると、いい気になって、婦人雑誌でたったいま読んで来たようなきざなことを言いやがる。僕は、おまえなんかに慰めてもらおうとは思っていない。女は、もっと女らしくするがいい。不愉快だ。僕は、もうかえる。話なんて、ほかに何もないんだろう?」言っているうちに、わけのわからぬ、ひどい屈辱を感じて来た。失敬なやつだ。僕を遊び仲間にしようとしている。おまえなんかに、たのしまれてたまるものか。すっと立ちあがって、ひとりさっさと資生堂を出た。とみは落ちついて、母のような微笑で、そのうしろ姿を眺めていた。
二
男爵は、資生堂を出て、まっすぐに郊外の家へかえった。その郊外の小さい駅に降り立って、男爵は、やっと人ごこちを取り戻した。たすかった。まず、
――私は、やっぱり、私の育ちを誇っている。なんとか言いながらも、私は、私の家を自慢している。厳粛な家庭である。もし、いま、私の手許に全家族の記念写真でもあったなら、私はこの部屋の床の間に、その写真を飾って置きたいくらいである。人々は、それを見て、きっと、私を羨むだろう。私は、瞬時どんなに得意だろう。私は、その大家族の一人一人に就いて多少の誇張をさえまぜて、その偉さ、美しさ、誠実、
「なるほど君は幸福だ。」と悲鳴に似た讃辞を呈して私の自慢話をさえぎり、それから一つの質問を発する。「けれども、この写真には、君がはいっていないね。どうしたの?」
それに就いて、私は答える。
「それは、当りまえだ。僕は、二、三の悪いことをしたから、この記念写真にはいる資格がないのだ。それは、当りまえだ。僕には、とても、その資格がないのだ。」
現在は、私もまだ、こんな工合いで、私の家の人たちも、あれは、わがままで、嘘つきで、だらしがないから、もっともっと苦労させてあげよう。つらくても、みんな、だまって見ていよう。あれは、根がそんなに劣った子ではないのだから、そのうち、きっと眼がさめる。そう信じて、そうしてその日を待っている。私は、それを知っているから、死にたく思う苦しい夜々はあっても、夜のつぎには朝が来る、夜のつぎには朝が来る、と懸命に自分に言い聞かせて、どうにか生き伸び、努力している。三年後には、私も、きっと、その記念写真の一隅に立たせてもらえる。私は、からだが悪いから、ひょっとしたら、その写真にいれてもらうまえに、死ぬかも知れない。そのときには、私の家の人たちは、その記念写真の右上に白い花環で囲んだ私の笑顔を写し込む。
けれども、それは、三年、いやいや、五年十年あとのことになるかも知れない。私は田舎では、相当に評判がわるい男にちがいないのだから、家ではみんな許したくても、なかなかそうはいかない場合もあろう。とつぜん私が、そのわるい評判を背負ったままで、帰郷しなければならぬことが起ったら、どうしよう。私はともかく、それよりも、家の人たちは、どんなにつらい思いであろう。去年の秋、私の姉が死んだけれど、家からはなんの知らせもなかった。むりもないことと思い、私はちっとも、うらまなかった。けれども、もし、これは、めっそうもない、不謹慎きわまる、もし、ではあるが、もし、母がそうなったら、どうしよう。ひょっとしたら、私は、知らせてもらえるかも知れない。知らせてもらえなくても、私は、我慢しなければいけない。それは、覚悟している。
それを考えてみたい。
電報が来る。私は困る。部屋の中をうろうろ歩きまわる。大いに困る。困って困って唸るかも知れない。お金がないのである。動きがつかないのである。私の訪問客たちは、みんな私よりも貧しく、そうして苦しい生活をしているのだから、こんな場合でも、とても、たのむわけにはいかない。知らせることさえ、私は、苦痛だ。訪問客たちは、そんな、まさかのときでも、役に立たないことを私以上に苦痛に思うにちがいない。私は、訪問客たちに、無益の恥をかかせたくない。それはかえって、私にとって、もっともっと苦痛だ。私は、ふと、死のうかと思う。ほかのこととはちがう。母の大事に接して、しかもこのふしだらでは、とてもこれは、人間の資格がない。もう、だめだ、と思う、そのとき、電報
私は、服装のことで思い悩む。
故郷に着いて、ほとんど十年ぶりで田舎の風物を見て、私は、歩きながら、泣くかも知れない。気を取り直して、家へはいる。トランクひとつさげていない自身の姿を、やりきれなく思う。家の中は、小暗く、しんとしている。あによめが、いちばんさきに私の姿を見つけるにちがいない。私は、すでに針のむしろの思いである。私は、阿呆のような無表情にちがいない。ただ、ぬっとつっ立っている。あによめの顔には、たしかに、恐怖の色があらわれる。ここに立っているこの男は、この薄汚い中年の男は、はたしてわたしの義弟であろうか。ねえさん、ねえさんと
母の病室。ああ、これは、やっぱり困ったことだ。どうにも想像の外である。私の空想は、必ずむざんに適中する。おそろしい。考えてはならぬところだ。ここは、避けよう。
私が母の病室から、そっとすべり出たとき、よそに嫁いでいる私のすぐの姉も、忍び足でついて出て来て、
「よく来たねえ。」低く低くそう言う。
私は、てもなく、
この姉だけは、私を恐れず、私の泣きやむのを廊下に立ったままで、しずかに待っていて呉れそうである。
「姉さん、僕は親不孝だろうか。」
――男爵は、そこまで考えて来て、頭から蒲団をかぶってしまった。久しぶりで、涙を流した。
すこしずつ変っていた。謂わば赤黒い散文的な俗物に、少しずつ移行していたのである。それは、人間の意志に依る変化ではなかった。一朝めざめて、或る偶然の事件を目撃したことに依って起った変化でもなかった。自然の陽が、五年十年の風が、雨が、少しずつ少しずつかれの姿を太らせた。一茎の植物に似ていた。春は花咲き、秋は紅葉する自然の現象と全く似ていた。自然には、かなわない。ときどきかれは、そう
このごろは、かれも
そうは思いながらも、やっぱりかれもくだらない男であった。自信がなかった。訪問客たちを拒否することができなかった。おそろしかった。坊主殺せば、と言われているが、弱い貧しい人たちを、いちどでも拒否したならば、その拒否した指の先からじりじり腐って、そうして七代のちまで
三
とみから手紙が来た。
三日まえから沼津の海へロケーションに来ています。私は、浪のしぶきをじっと見つめて居ると、きっとラムネが飲みたくなります。富士山を見て居ると、きっと
坂井新介様。
とみ。
助監督のSさんからも、このごろお噂うけたまわって居ります。男爵というニックネームなんですってね。おかしいわ。男爵は、寝床の中でそれを読んだ。はじめ、まず、笑った。ひどく奇怪に感じたのである。とみも、都会のモダンガールみたいに、へんな言葉づかいの手紙を書く、ということが、異様にもの珍らしく、なかなか笑いがとまらなかった。けれども、ふっと、厳粛になってしまった。与えられることは、かたく拒否できても、ものをたのまれて決していやと言えないのは、この種類の人物の宿命である。男爵は、別紙の略図というものを見た。撮影所の在るまちの駅から、さらに二つ向うの駅で下車することになっていた。行かなければならない。男爵は、暗い気持ちになって、しぶしぶ起きた。きょうは、十六日、きょうこれからすぐ出かけて、かたづけてしまおうと思った。なまけものほど、気がかりの当座の用事を一刻も早く片附けてしまいたがるものらしい。
電車から降りて、見ると、これは撮影所のまちよりも、もっとひどい田舎だった。一望の麦畑、麦は五、六寸ほどに伸びて、やわらかい緑色が溶けるように、これはエメラルドグリンというやつだな、と無趣味の男爵は考えた。歩いて五、六分、家は、すぐわかった。なかなかハイカラな構えの家だったので、男爵には、一驚だった。呼鈴を押す。女中が出て来る。ばかなやつだな、役者になったからって、なにも、こんなにもったいぶることはない、と男爵は、あさましく思った。
「坂井ですが。」
けばけばしいなりをして、眉毛を剃り落した青白い顔の女中が、あ、と
「用事って、なんだい。あんな手紙よこしちゃいけないよ。僕は、これでも、いそがしいのだからね。」
「ごめんなさいまし。」とみは、うやうやしくお辞儀をして、「よくおいで下さいましたこと。」深い感動をさえ、顔にあらわしていた。
男爵は、それを顎で答えて、
「いい家じゃないか。やあ、庭もひろいんだね。これじゃ、家賃も高いだろう。」有名な女優は、借家などにはいなかった。これはとみが、働いて自分でたてた家である。「虚栄か。ふん。むりしないほうがいいぞ。」男爵は、もっともらしい顔してそう言った。
応接室に通され、かれは、とみから、その一生の大事なるものに就いて相談を受けた。とみは、ことしの秋になると、いまの会社との契約の期限が切れる、もうことし二十六にもなるし、この機会に役者をよそうと思う。田舎の老父母は、はじめからとみをあきらめ、東京のとみのところに来るように、いくら言ってやっても、田舎のわずかばかりの田畑に恋着して、どうしても東京に出て来ない。ひとり弟がいるのだが、こいつが、父母の反対を押し切って、六年まえに姉のとみのところへ駈けつけて来て、いまは、私立の大学にかよっている。どうしたらいいでしょう。それが相談である。男爵は、呆れた。とみを、ばかでないかと疑った。
「ふざけるのも、いい加減にし給え。」あまりのばからしさに、男爵は警戒心さえ起して、多少よそ行きの言葉を使った。「どこがいったい、一生の大事なんです。結構な身分じゃないか。わざわざ僕は、遠いところからやって来たんだぜ。どこをどう、聞けばいいのだ。田舎のものたちが、おまえをあきらめて、全然交渉をたっているのなら、それはそれでいいじゃないか。弟が、どうなったって、男だ。どうにかやって行くだろう。おまえに責任は無い。あとは、おまえの自由じゃないか。なんだ、ばかばかしい。」散々の不気嫌であった。
「ええ、それが、」
「いいだろう。僕の知ったことじゃない。」
「は、」とみは恐れて首をちぢめた。「あの、それに就いて、――」
「さっさと言ったらいいだろう。おまえは一たい僕をなんだと思ってんだい。むかしからおまえには、こんな工合に、なんのかのと、僕にうるさくかまいたがる癖があったね。よくないよ。僕には、からかわれているとしか思われない。」むやみに腹が立つのである。
「いいえ。決してそんな。」必死に打ち消し、「お願いがございます。ひとつ、弟に説いてやって下さるわけには、――」
「僕が、かい。何を説くんだ。」
とみは、
「それは、おまえのわがままだ。エゴイズムだ。」とみの話の途中で、男爵は大声出した。女性の露骨な身勝手があさましく、へんに弟が可哀そうになって、義憤をさえ感じた。「虫がよすぎる。ばかなやつだ。大ばかだ。なんだと思っていやがんだ。」男爵このごろ、こんなに立腹したことはなかった。怒鳴り散らしているうちに、身のたけ一尺のびたような、不思議なちからをさえ体内に感じた。
あまりの
「あの。とにかく。弟に。」聞きとれぬほど低くとぎれとぎれに言い、身をひるがえして部屋から飛び出た。
「おうい、とみや。」十年まえに呼びつけていた口調が、ついそのまま出て、「僕は知らんぞ。」たいへんな騒ぎになった。
ドアが音も無くあいて、眼の大きい浅黒い青年の顔が、そっと室内を
「おい、君。君は、誰だ。」見知らぬひとに、こんな乱暴な口のききかたをする男爵ではなかったのである。
青年は悪びれずに、まじめな顔して静かに部屋へはいって来て、
「坂井さんですか。僕は、くにでいちどお目にかかったことがございます。お忘れになったことと思いますが。」
「ああ、君は、とみやの弟さんですね。」
「ええ、そうです。何か僕に、お話があるとか。」
男爵は覚悟をきめた。
「あるよ。あるとも。言って置くけれどもね、僕は、いま、非常に不愉快なんだ。実に、どうにも、不愉快だ。君の姉さんは、あれは、ばかだよ。僕は、君の味方だ。僕は、ものを隠して置けないたちだから、みんな言っちまうがね、君の姉さんは、ちかく結婚したいっていうんだ。相手は、なかなか立派な人なんだそうだ。いや、それは、いいんだ。結構なことだ。僕の知ったことじゃない。けれども、そのあとがいけない。さもしい。なんのことはない、君を邪魔にしているんだ。僕は君を信じている。ひとめ見て僕には、わかる。君たち学生は、いや、僕だって同じようなものだが、努力の方針を見失っているだけだ。いや、その表現を失っているだけだ。学問の持って行きどころが無いじゃないか。世の中が、君たちのその胸の中に埋もれている誠実を理解してくれないだけのことだ。姉に捨てられたら、僕のとこに来い。一緒にやって行こう。なに、僕だって、いつまでもうろうろしているつもりはないのだ。僕は、こんな無益な侮辱を受けたことはない。女中の走り使いなんか、やらされて、たまるものか。だいいち、その相手の男なるものも、だらしないじゃないか。女房の弟ひとり養えなくて、どうする。」
「いいえ。僕は、」青年は、立ったまま、きっぱり言った。「養ってもらおうなどと思いません。ただ、僕を不潔なものとして、遠ざけようとする精神が、たまらないのです。僕にだって理想があります。」
「そうだ。そうとも。どうせ、そいつは、ろくな男じゃない。」言ってしまって、へどもどした。「いずれにもせよ、僕の知ったことじゃない。勝手にするがいい、と、とみやにそう言って置いて呉れ。僕は、非常に不愉快だ。かえります。僕を、なんだと思ってんだ。いいえ、かえります。弟がそんなにいやなら、僕がひきとるとそう言って置いてくれ。」
「失礼ですが、」青年は、かえろうとする男爵のまえに立ちふさがり、低い声で言った。「養うの、ひきとるのと、そんな問題は、古いと思います。だい一あなたには、人間ひとり養う余裕ございますか。」男爵は、どぎもを抜かれた。思わず青年の顔を見直した。「自身の行為の覚悟が、いま一ばん急な問題ではないのでしょうか。ひとのことより、まずご自分の救済をして下さい。そうして僕たちに見せて下さい。目立たないことであっても、僕たちは尊敬します。どんなにささやかでも、個人の努力を、ちからを、信じます。むかし、ばらばらに取り壊し、
「やあ。」男爵は、歓声に似た叫びをあげた。「君は、君は、はっきりそう思うか。」
「僕だけでは、ございません。自己の中に、アルプスの
来た。待っていたものが来た。新しい、全く新しい次のジェネレーションが、少しずつ少しずつ見えて来た。男爵は、胸が一ぱいになり、しばらくは口もきけない有様であった。
「ありがとう。それは、いいことだ。いいことなんだ。僕は、君たちの出現を待っていたのです。好人物と言われて笑われ、ばかと言われて
言っているうちに涙がこぼれ落ちそうになったので、あわてて部屋の外に飛び出した。
男爵がそのまま逃げるようにして、とみの家を辞し去ってから、青年は、応接室のソファに、どっかと腰をおろし、ひとりでにやにや笑った。とみが、こっそりドアをあけて、はいって来た。
「作戦、図にあたれり。」不良青年は、煙草の輪を天井にむけて吐いた。「なかなか、いいひとじゃないか。僕も、あのひと好きだ。姉さん、結婚してもいいぜ。苦労したからね。十年の恋、報いられたり。」
とみは、涙を浮べ、小さく弟に
男爵は、何も知らず、おそろしくいきごんで家へかえり、さて、別にすることもなく、思案の果、家の玄関へ、忙中謝客の貼紙をした。人生の出発は、つねにあまい。まず試みよ。破局の次にも、春は来る。桜の園を取りかえす
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