記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#264「グッド・バイ」変心(一)

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【冒頭】

文壇(ぶんだん)の、()る老大家が()くなって、その告別式の終り(ごろ)から、雨が降りはじめた。早春の雨である。

【結句】

大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」
 

「グッド・バイ 変心(へんしん)(一)」について

新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年5月18日に脱稿。
・昭和23年6月21日、朝日新聞大阪本社発行の『朝日新聞』、朝日新聞東京本社発行の『朝日新聞』に掲載。

グッド・バイ (新潮文庫)

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全文掲載(「青空文庫」より)  

変心 (一)


 文壇の、る老大家がくなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。
 その帰り、二人の男が相合傘あいあいがさで歩いている。いずれも、その逝去せいきょした老大家には、お義理一ぺん、話題は、女にいての、きわめて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡めがねしまズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢ねんぐのおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士のじゃ目傘めがさにいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
 全部、やめるつもりでいるんです。しかし、それは、まんざらうそで無かった。
 何かしら、変って来ていたのである。終戦以来、三年って、どこやら、変った。
 三十四歳、雑誌「オベリスク」編集長、田島周二、言葉に少し関西なまりがあるようだが、自身の出生に就いては、ほとんど語らぬ。もともと、抜け目の無い男で、「オベリスク」の編集は世間へのお体裁ていさい、実は闇商売やみしょうばいのお手伝いして、いつも、しこたま、もうけている。けれども、悪銭身につかぬ例えのとおり、酒はそれこそ、浴びるほど飲み、愛人を十人ちかく養っているといううわさ
 かれは、しかし、独身では無い。独身どころか、いまの細君は後妻である。先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開そかいし、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。
 終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあずけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、もうけた。
 けれども、それから三年経ち、何だか気持が変って来た。世の中が、何かしら微妙に変って来たせいか、または、彼のからだが、日頃の不節制のために最近めっきりせ細って来たせいか、いや、いや、単に「とし」のせいか、色即是空しきそくぜくう、酒もつまらぬ、小さい家を一軒買い、田舎いなかから女房子供を呼び寄せて、……という里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通る事が多くなった。
 もう、この辺で、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。それに就いて、……。
 それに就いて、さし当っての難関。まず、女たちと上手じょうずに別れなければならぬ。思いがそこに到ると、さすが、抜け目の無い彼も、途方にくれて、溜息ためいきが出るのだ。
「全部、やめるつもり、……」大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」

 

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