記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】もの思う葦(その三)④

f:id:shige97:20210214143058j:plain

今週のエッセイ

◆『もの思う葦(その三)』④
 1936年(昭和11年)、太宰治 27歳。
 1935年(昭和10年)11月19日から22日までの頃に脱稿。
 『もの思う葦(その三)』①は、1936年(昭和11年)1月1日発行の「文藝雑誌」第一巻第一号に、「『晩年』に就いて」「気がかりということに就いて」「宿題」の3篇が発表された。
 なお、標題に付している「(その三)」は、定本としている太宰治全集 11 随想筑摩書房、1999年)において、便宜上付されたもので、週刊 太宰治のエッセイでもこれを踏襲した。

f:id:shige97:20210328093536j:image

「『晩年』に就いて

 私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい回復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。
 けれども、私は、信じて居る。この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集を出さなければならぬことがあるとしても、私はそれに「歌留多」と名づけてやろうと思って居る。歌留多、もとより遊戯である。しかも、金銭を賭ける遊戯である。滑稽にもそれからのち、さらにさらに生きながらえ、三度目の短篇集を出すことがあるならば、私はそれに、「審判」と名づけなければならないようだ。すべての遊戯にインポテンツになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という灯台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨をからだに巻きつけて入水したいものだとさえ思っている。
 さもあらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ。――一瞬間。ひとは、その生涯に於いて、まことの幸福を味い得る時間は、これは百米十秒一どころか、もっと短いようである。声あり。「嘘だ!不幸なる出版なら、やめるがよい。」答えて曰く、「われは、いまの世に二つとなき美しきもの。メヂチのヴイナス像。いまの世のまことの美の実証を、この世に残さんための出版也。
 見よ!ヴイナス像の色に出づるほどの羞恥のさま。これ、わが不幸のはじめ。また、春夏秋冬つねに裸体にして、とわに無言、やや寒き貌こそ、(美人薄命、)天のこの冷酷極りなき嫉妬の鞭を、かの高雅なる眼もてきみにそと教えて居る。」

「気がかりということに就いて」

 気がかりということに、黒白の二種、たしかにあることを知る。なにわぶしの語句、「あした待たるる宝船。」と、プウシキンの詩句、「あたしは、あした殺される。」とは、心のときめきに於いては同じようにも思われるだろうが、熟慮半日、確然と、黒白の如く分離し在るを知れり。


「宿題」

「チェック・チャックに就いて。」「策略ということについて。」「言葉の絶対性ということについて。」「沈黙は金なりということに就いて。」「野性と暴力について。」「ダンディズム小論。」「せいたくに就いて。」「出世について。」「羨望について。」「原始のセンチメンタリティということについて。」そのほか、甚だけちのようなれども、題名をいわれぬもの、十七八項目くらい。少しずつノオトに書きしるしていっているのであるが、いま、「文芸雑誌。」創刊号になにか書くことをすすめられ、何を書こうかと、ノオトを二冊も三冊も出してあちらを覗き、こちらを覗きして、夕暮より、朝までかかった。どれもこれも、胸にひっからまり、工合いよくゆかぬ。牛乳を飲んで、朝の新聞を読んでいるうちに、わかった。
 私の心は千里はなれた磯にいて、浪にくるくる舞い狂っていたのである。私のはじめての本の出版。それで、すべてに、合点がついた。宿題。たくまずして、砂子屋(すなごや)書房主人、山崎剛平やまざきごうへい氏に、ばとんをお渡ししなければならなくなった。私の本がどれくらい、売れるであろうか。私の本の装丁は、うまく行くであろうか。潮どきと鷗と浪の関係。

 附記。これは、半ば以上、私の本の、広告のために書いた、私、昭和十一年よりは、稿料、全く無しか、さもなくば、小説一枚五円、その他のくさぐさの文章一枚三円ときめた。
 今年正月号には、私の血一滴まじって居るとさえ思わせたる編集者の手紙のため。あるいは、書きますと去年の正月にお約束して、以後、一年間、自らすすんでいよいよ強くお約束してしまい、ついには、もの狂いの状態にさえなったがため。私をつねにやわらかくなぐさめ顔の、而も文意あくまで潔白なる編集部の手紙のため、その他、とにかく、いちどは書かなければならぬ事情ありて、断片の語、二十枚あまり書いた。稿料はすべて、私のほうから断って書いた。「人おのおの。おのれひとりの業務にのみ、努めること第一であるが、たまには隣人の、かなしくも不抜の自尊心を、そ知らぬふりして、あたためてやりたまえ。」

 

太宰の処女短篇集『晩年

  今回紹介したエッセイ「『晩年』に就いては、太宰の処女短篇集晩年が刊行される前に発表されました。
 太宰は、このエッセイの中で「この短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った」と語っています。このエッセイが書かれた10年前というと、太宰が旧制弘前高等学校に入学した、1027年(昭和2年)のことです。高校時代から27歳になるまでの時間を捧げたという晩年
 太宰は、この処女短篇集には相当の思い入れがあるようで、今回の「『晩年』に就いてのほかにも、1938年(昭和13年)2月1日発行の「文筆」にエッセイ他人に語る(のちに「『晩年』に就いて」と改題。今回のエッセイとは、同名異作品)を発表したり、1941年(昭和16年)6月20日発行の「文筆」夏季版にエッセイ「晩年」と「女生徒」を発表したりしています。

f:id:shige97:20210627175437j:image
■『晩年』初版本復刻版 1992年(平成4年)、日本近代文学館より「名著初版本復刻 太宰治文学館」として刊行された。

 晩年は、1936年(昭和11年)6月25日付で、砂子屋(すなごや)書房から刊行されました。口絵写真一葉、初版500部、菊判フランス装、241ページ、定価2円(現在の貨幣価値に換算すると、約3,400~4,000円)でした。晩年に収録された短篇は、1篇1篇、後の太宰作品にも通ずる、様々な趣向が凝らされ、「短篇のデパート」と例えられることもあります。なお、太宰の作品に「晩年」というタイトルの小説はありません。

f:id:shige97:20210627182305j:image
■『晩年』口絵写真

 晩年は、現在ではお目にかかる事のない「アンカット本」でした。
 アンカット本とは、小口を切り落とさないで製本した書籍です。本来は、複数ページを印刷した大きな紙(刷本)を折り曲げ、仕上げ寸法に合わせて周囲を切り落とす(仕上げ裁ち、化粧裁ち)という過程で製本されますが、最後の断裁の工程の全部、もしくは一部を行わないのが「アンカット」であり、アンカットのまま製本した本が「アンカット本」です。日本では、「アンカット本」を指して「フランス装」や「フランス綴じ」と呼ぶ事もあります。
 『晩年は、小口のうち上方である「天」のみを断裁(化粧裁ち)せずに残した「天アンカット」です。製本の工程上、小口の三方を切りそろえる「三方裁ち」よりも「天アンカット」の方が、手間とコストのかかる手法です。天を裁断せずに済むような紙の折り方(頭合わせ折)をする必要があり、印刷段階からの工夫が必要となります。 

f:id:shige97:20210627183800j:image
■アンカット本

 アンカット本は、ペーパーナイフで切り開きながら読み進めます。太宰は、先が気になり、はやる気持ちを抑え、丁寧に袋とじ部分を切り開きながら、「両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されること」を願っていたのでしょう。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

太宰治39年の生涯を辿る。
 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

太宰治の小説、全155作品はこちら!】