記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日刊 太宰治全小説】#186「惜別」三

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【冒頭】
その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無警戒は、不思議なような気もするが、しかし、正しい人というものは、何か安心感を与えてくれるもののようである。

【結句】
もう今では自分の進路は、一言で言える。支那杉田玄白になる事だ。それだけだ。支那杉田玄白になって、支那の維新の狼煙のろしを挙げるのだ。

 

惜別せきべつ」について

新潮文庫『惜別』所収。
・昭和20年2月20日頃に脱稿。
・昭和20年9月5日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。


惜別 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無警戒は、不思議なような気もするが、しかし、正しい人というものは、何か安心感を与えてくれるもののようである。私はもう、その清国留学生に、すっかり安心してしまっていた。周さんは、宿のどてらに着換えたら、まるで商家の若旦那わかだんなの如く小粋こいきであった。言葉も、私より東京弁上手じょうずなくらいで、ただ宿の女中に向って使う言葉が、そうして頂戴ちょうだい、すこし寒いのよ、などとさながら女性の言葉づかいなのが、私に落ちつかぬ感じを与えた。たまりかねて私は、それだけはやめてくれ、と口をとがらして抗議したら、周さんはけげんな面持ちで、だって日本では、子供に向っては、子供の言葉で、おてて、だの、あんよだの、そうでチュか、そうでチュか、と言うでしょう、それゆえ女性に対した時にも女性の言葉で言うのが正しいのでしょう、と答えた。私は、でも、それはキザで、聞いて居られません、と言ったら、周さんは、その「キザ」という言葉に、ひどく感心して、日本の美学は実にきびしい、キザという戒律は、世界のどこにもないであろう、いまの清国の文明は、たいへんキザです、と言った。その夜、私たちは宿で少し酒を飲み、深更しんこうまで談笑し、月下の松島を眺める事を忘れてしまったほどであったのである。周さんもあとで私に、日本へ来てあんなにおしゃべりした夜は無いと言っていた。周さんはその夜、自分の生立おいたちやら、希望やら、清国の現状やらを、あきれるくらいの熱情をもって語った。東洋当面の問題は、科学だと何度も繰りかえして言っていた。日本の飛躍も、一群の蘭医にって口火を切られたのだと言っていた。一日も早く西洋の科学を消化して列国に拮抗きっこうしなければ、支那もまた、いたずらに老大国の自讃に酔いながら、みるみるお隣りの印度インドの運命を追うばかりであろう。東洋は古来、精神界においては、西洋と較べものにならぬほど深く見事に完成せられていて、西洋の最もすぐれた哲学者たちが時たま、それをわずかに覬覦きゆしては仰天しているという事も聞いているが、西洋はそんな精神界の貧困を、科学によって補強しようとした。科学の応用は、人間の現実生活の享楽に直接役立つので、この世の生命に対する執着力の旺盛おうせいな紅毛人たちの間に於いて異常の進歩をとげ、東洋の精神界にまで浸透して来た。日本はいち早く科学の暴力を察して、進んでこれを学び取り、以て自国を防衛し、国風を混乱せしめる事なく、之の消化に成功し、東洋における最も聡明な独立国家としての面目を発揮する事が出来た。科学は必ずしも人間最高の徳ではないが、しかし片手に幽玄の思想の玉を載せ、片手に溌剌はつらつたる科学の剣を握っていたならば、列国も之には一指もふれる事が出来ず、世界に冠絶した理想国家となるに違いない。清国政府は、この科学の猛威に対して何のなすところも無く、列国の侵略を受けながらも、大川は細流に汚されずとでもいうような自信を装って敗北を糊塗ことし、ひたすら老大国の表面の体裁のみを弥縫びほうするに急がしく、西洋文明の本質たる科学を正視し究明する勇気無く、学生には相も変らず八股文はっこぶんなど所謂いわゆる繁文縟礼はんぶんじょくれいの学問を奨励して、列国には沐猴而冠もっこうにしてかんす滑稽こっけいなる自尊の国とひそかに冷笑される状態に到らしめた。自分は支那を誰にも負けぬくらいに愛している。愛しているから、不満も大きい。いまの清国は、一言で言えば、怠惰だ。わけのわからぬ自負心に酔っている。古い文明の歴史は、何も支那だけが持っているとは限らない。印度はどうだ、埃及エジプトはどうだ。そうしてその国の現状はどうだ。支那慄然りつぜんとすべきである。このままでいいという自負心は、支那を必ず自壊に導く。支那には、いま余裕も何も有るはずはないのだ。自惚うぬぼれを捨てて、まず西洋の科学の暴力と戦わなければならぬ。これと戦うには、彼の虎穴に敢然と飛び込んで、一日も早くその粋を学び取るより他は無い。日本の徳川幕府鎖国政策に向って最初に警鐘を乱打したのは、蘭学という西洋科学であったという話を聞いている。自分は支那杉田玄白になりたい。科学の中でも自分は、西洋医学に最も心をひかれている。なぜ西洋科学の中で、自分がこのように特に医学に注目するようになったか、その原因の一つは、自分の幼少のころの悲しい経験の中にもひそんでいる。自分の家には昔から多少の田地も有り、まあ相当の家庭と人にも言われていたのだが、自分が十三の時、祖父が或るややこしい問題に首を突込んで獄につながれ、一家はそのため、にわかに親戚しんせき、近隣の迫害を受けるようになり、その上、父が重病で寝込んでしまったので、自分たちの家族はたちまち暮しに窮し、自分は弟と共に親戚の家に預けられた。けれども自分はその家の者たちから、乞食と言われて憤然、自分の生家に帰ったが、それから三年間、自分は毎日のように、質屋と薬屋に通わなければならなかった。父の病気がいっこうにくならなかったのだ。薬屋の店台は自分と同じくらいの高さで、質屋の店台はさらにその倍くらいの高さであった。自分は質屋の高い台の上に、着物や首飾を差し上げ、なんだこんなガラクタ、と質屋の番頭に嘲弄ちょうろうされながら、わずかの銭を受けとり、すぐその足で薬屋に走るのだ。家に帰ると、また別の事でいそがしかった。父のかかりつけの医者は、その地方で名医と言われている人であったが、その処方は、はなはだ奇怪なもので、あしの根だの、三年霜に打たれた甘蔗かんしょだのを必要とした。自分は毎朝、河原へ蘆の根を掘りに行き、また、三年霜に打たれた甘蔗を捜しまわらなければいけなかった。この医者には二年かかったが、父の病気はいよいよ重くなるばかりであった。それから医者をかえて、さらに有名な大先生にかかったが、こんどは、蘆の根や、三年霜に打たれた甘蔗のかわりに、蟋蟀しっしゅつ一つがい、平地木十株、敗鼓皮丸はいこひがんなどという不思議なものが必要だった。蟋蟀一対には註が附いていて、「原配、すなわち、生涯同棲どうせいしていたものに限る」とあった。昆虫こんちゅう貞節でなければものの役には立たぬと見えて、後妻をめとったり再嫁したやつは、薬になる資格さえ無いというわけである。けれども、それを捜すのに、自分はそんなに骨を折らなくてすんだ。自分の家の裏庭は百草園と呼ばれて、雑草の生い繁った非常に広大な庭で、自分の幼少の頃の楽園であったが、そこへ行けば、蟋蟀の穴がいくつでも見つかり、自分は同じ穴に二匹んでいる蟋蟀を勝手に所謂「原配」ときめて、二匹一緒に糸でしばって、生きているのをそのまま薬鑵やかんの熱湯に投げ込めばそれでよかった。しかし「平地木十株」というのには、ひどくまごついた。それがどんなものだか、誰も知らなかったのだ。薬店に聞いても、お百姓に聞いても、薬草取りに聞いても、年寄りに聞いても、読書人に聞いても、大工に聞いても、みな一様に頭を振るだけであった。最後に、祖父の弟で昔から植木の好きな老人のことを思い出し、そこへ行って尋ねてみたら、さすがに彼だけは知っていた。それは、山中の樹の下に生える一種のひょろひょろした樹で小さな珊瑚珠さんごじゅみたいなあかい実がなる、普通みな「老弗大」と呼んでいるものだ、と教えてくれた。こうして「平地木十株」のほうも、どうやら解決できたが、もう一つ、敗鼓皮丸という難物があった。この丸薬は、大先生の自慢の処方で、特に父のような水腫すいしゅのある病人に卓効を奏するということであった。この神薬を売っている店は、この地方にたった一軒あるきりで、そうして、その店は自分の家と五里もはなれていた。それに、その神薬は破れた古太鼓の皮で作ったものだという。水腫は一に鼓脹こちょうともいうところから、破れた太鼓の皮を服用すればたちどころにその病気を克服できるという理窟りくつらしい。自分は子供心にも、破れた古太鼓の皮などのを信じる事が出来ず、その丸薬を求めに五里の路を往復するのが、ひとしお苦痛であった。自分のそのような努力は、やっぱり全部むだな事であった。父の病気は日一日と重くなるばかりで、ほとんど虫の息になったが、かの大先生は泰然たいぜんたるもので、瀕死ひんしの父の枕元で、これは前世の何かのごうです、医はく病をいやすも、命を癒すあたわず、と古人の言にもあります、しかし、手段はまだ一つ残っています、それは家伝の秘法になっているのですが、一種の霊丹を病者の舌に載せるのです、舌は心の霊苗なり、と古人の言にあります、この霊丹は、いまはなかなか得難いものですが、お望みとあらばお譲りしてあげてもよい、値段も特別に安くしてあげます、一箱わずか二元という事にしましょう、いかがです、と自分に尋ねた。自分は思い惑って即答しかねていると、病床の父が自分の顔を見てかすかに頭を振って見せた。父もやはり自分と同様に、この大先生の処方に絶望している様子であった。自分は途方に暮れて、ただ父の枕元に坐って、父の死を待っていなければならなくなった。父の容態がいよいよだめと思われた朝、近所のえんという世話好きの奥さんがやって来て、父の様子を一目見て驚き、あなたはまあ、何をぼんやりしているのです、お父さんの魂は鬼界に飛んで行こうとしているではありませんか、早く呼び戻しなさい、大声で、お父さんお父さん、と呼びなさい、呼ばないとお父さんは死んでしまいます、と真顔で自分をしかったのである。自分は、そんなおまじないの如きものを信じなかったが、しかしいまは、おぼれる者のわらをつかむ気持で、お父さん! と叫んだ。衍奥さんは、もっと大きい声で呼ばなければだめです、と言う。自分はさらに大きい声で、お父さん! お父さん! と連呼した。もっと、もっと、と傍で衍奥さんがせき立てる。自分は、のどから血が出そうになるまで叫びつづけた。しかし、父の霊魂を引きとめる事が出来なかったと見えて、父は自分に呼びつづけられながら、冷たくなった。父は三十七歳、自分は十六歳の初秋の事である。自分は今でもあの時の自分の声を記憶している。忘れる事が出来ない。あの時の自分の声を思い出すと、自分は抑え切れない激怒を感ずる。自分の少年の頃の無智に対する腹立たしさでもあり、また支那の現状に対する大きい忿懣ふんまんでもある。三年霜にうたれた甘蔗、原配の蟋蟀、敗鼓皮丸、そんなものはなんだ。悪辣あくらつなる詐欺さぎと言ってよかろう。また、瀕死の病人の魂を大声で呼びとめるというのも、恥かしいみじめな思想だ。さらにまた、医は能く病いを癒すも、命を癒す能わず、とは何という暴論だ。恐るべき鉄面皮の遁辞とんじに過ぎないではないか。舌は心の霊苗なり、とはどんな聖人君子の言葉か知らないが、何の事やらわけがわからぬ。完全な死語である。見るべし、支那の君子の言葉もいまは、詐欺師の韜晦とうかいの利器として使用されているではないか。自分たちは幼少の頃から、ただもう聖賢の言葉ばかりを暗誦あんしょうさせられて育って来たが、この東洋の誇りの所謂いわゆる「古人の言」は、既に社交の詭辞きじに堕し、憎むべき偽善と愚かな迷信とのみを※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)うんじょうさせて、その思想の発生当初の面目をいつのまにやら全く喪失してしまっているのだ。どんな偉大な思想でも、それが客間の歓談の装飾に利用されるようになった時には、その命が死滅する。それはもう、思想でない。言葉の遊戯だ。西洋のそれと比較にならぬほど卓越していた筈の、東洋の精神界も、永年の怠惰な自讃に酔って、その本来の豊穣ほうじょうもほとんど枯渇こかつしかかっている。このままでは、だめだ。自分は父に死なれて以来、いよいよ周囲の生活に懐疑と反感を抱き、懊悩おうのう焦慮の揚句あげく、ついに家郷を捨て、南京ナンキンに出た。何でもかまわぬ、新しい学問をしたかったのである。母は泣いて別れを惜しみ、八元の金を工面くめんして自分に手渡した。自分はその八元の金を持って異路に走り、異地にのがれ、別種の人生を探し、求めようとしたのである。南京に出て、どのような学校にはいるか。第一の条件は、学費の要らない学校でなければいけなかった。江南水師学堂は、その条件にだけは、かなっていた。自分はまずそこへ入学した。そこは海軍の学校で、自分はさっそく帆柱に登る練習などさせられたが、しかし新しい学問はあまり教えてくれなかった。わずかに It is a cat, Is it a rat ? など初歩の英語の手ほどきを受けただけであった。ちょうどその頃だ。かの康有為こうゆういが、日本の維新にのっとり、旧弊を打破し大いに世界の新知識を採り、もって国力回復の策を立てよと叫び、所謂「変法自強の説」を帝にすすめ、いれられて国政の大改革に着手したが、アイテルカイトの Dame ならびにその周囲の旧勢力の権変にい、新政は百日にして破れ、帝は幽閉され、康有為は同志の梁啓超りょうけいちょうらと共に危く殺害からのがれて、日本に亡命した。この戊戌ぼじゅつ政変の悲劇をよそにして、It is a cat を大声で読み上げているのは、甚だ落ちつかない気持であった。自分も既に十八歳である。ぐずぐずしては居られぬ。早く新知識の中核に触れてみたい。自分は転校を決意した。つぎに選んだのは、南京の礦路学堂である。ここも学費は要らなかった。鉱山の学校であって、地学、金石学のほかに、物理、化学、博物学など、新鮮な洋学の課目があったので、どうやら少し落ちつく事が出来た。語学も、It is a cat, ではなくて、der Man, die Frau, das Kind, という事になった。自分には独逸ドイツ語のほうが、英語よりも洋学の中核に近いように漠然と感じられていたので、それもまたうれしい事の一つであった。校長も一個の新党で、梁啓超主筆の雑誌「時務報」などの愛読者だったらしく、「変法自強の説」にもひそかに肯定を与えていたようで、漢文の試験にも他の儒者先生のように古聖賢の言を用いず、「華盛頓ワシントン論」というハイカラな問題を出したりして、儒者先生たちはその問題を見て、かえって自分たち生徒に、華盛頓って、どんな事だい、とこっそり尋ねる始末であった。生徒たちの間でも、新書を読む気風が流行して、中でも厳復の漢訳した「天演論」が圧倒的な人気を得ていた。博物学者 Thomas Huxley の Evolution and Ethics を漢文に訳したもので、自分も或る日曜日に城南へ買いに出かけた。厚い一冊の石印の白紙本で、値段はちょうど五百文だった。自分は之を一気に読了した。いまでも、その冒頭の数ペエジの文章をそっくりそのまま暗記している。いろいろの訳本が、続々と出版せられていた。自分たちの語学の力が、未だ原書を読みこなすまでに到ってはいなかったので、いきおい漢訳の新本にたよらざるを得なかった。「物競」も出た。「天択」も出た。蘇格拉第ソクラテスを知った。柏拉図プラトーを知った。斯多※(「口+臈のつくり」、第3水準1-15-20)ストイックを知った。自分たちは手当り次第に何でも読んだ。当時、このような新書を手にする事は、霊魂を毛唐に売り渡す破廉恥はれんち至極の所業であるとされて、社会のはげしい侮蔑ぶべつと排斥を受けなければならなかったが、自分たちは、てんで気にせず、平然とその悪魔の洞穴どうけつ探検を続けた。学校では、生理の課目は無かったが、木版刷の「全体新論」や「化学衛生論」を読んでみて、支那の医術は、意識的もしくは無意識的なかたりに過ぎない、という事をいよいよ明確に知らされた。このように、自分の心に嵐が起っているのと同様に、支那の知識層にも維新救国の思想が颱風たいふうの如く巻き起っていた。その頃すでに、独逸の膠州湾こうしゅうわん租借そしゃくを始めとして、露西亜ロシアは関東州、英吉利イギリスはその対岸の威海衛、仏蘭西フランスは南方の広州湾を各々租借し、次第にまたこれらの諸国は、支那に於いて鉄道、鉱山などに関する多くの利権を得て、亜米利加アメリも、かねて東洋に進み出る時機をうかがっていたが、遂にその頃、布哇ハワイを得て、さらに長駆東洋侵略の歩をすすめて西班牙イスパニヤと戦い比律賓フィリッピンを取り、そこを足がかりにしてそろそろ支那に対して無気味な干渉を開始していた。もう、支那の独立性も、風前の燈火のように見えて来た。救国の叫びが、国内に充満するのも当然の事のように思われた。しかし、支那にとって不吉の事件が相ついで起った。戊戌ぼじゅつの政変がその一つであり、さらに、その二年後に起った北清事変は、いよいよ支那の無能を全世界に暴露した致命的な乱であった。自分は翌年の十二月、礦路学堂を卒業したが、鉱山技師として金銀銅鉄の鉱脈を捜し出せる自信は無かった。自分がこの学校に入学したのは、鉱山技師になりたいからでは無かったのだ。現在の支那を少しでもよくしたいために、何か新しい学問をきわめてみたかったのだ。そうしてこの三年間、自分はこの学校において、鉱山の勉強よりも、西洋科学の本質を知ろうとして、そのほうの勉強ばかりして来たのだ。だからその時の自分には、卒業とは名ばかりで、実際は、鉱山技師の資格など全く無かったのである。自分も既に二十一歳になっていた。早く人生の進路を決定しなければならぬ。義和団ぎわだんの乱に依って清朝の無力が、列国だけでなく、支那の民衆にも看破せられ、支那の独立性を保持するには打清興漢の大革命こそ喫緊きっきんなれとの思想が澎湃ほうはいとして起り、さきに海外に亡命していた孫文そんぶんは、すでにその政治綱領「三民主義」を完成し、これ支那革命の旗幟きしとして国内の同志を指導し、自分たち洋学派の学生も大半はその「三民主義」の熱烈な信奉者となって、老憊ろうぱいの清国政府を打倒し漢民族の新国家を創造し、もって列国の侵略に抗してその独立性を保全すべしと叫んで学業を放擲ほうてきし、直接革命運動に身を投ずる者も少くなかった。自分も、その風潮に刺戟せられて、支那の危急を救うためには、必ず或る種の革命が断行せられなければならぬと察照するに到ってはいたが、しかし、それには、列国の文明の本質をさらにもっと深く究明するのが何よりも緊急の事のように思われた。自分の知識は未だ幼稚である。ほとんど何も知らないと言ってよい。学業を捨て、いますぐ政治運動に身を投ずる者の憂国の至情もわかるが、しかし、究極の目標は同じであっても、自分の目下の情熱は、政治の実際運動よりも、列国の富強の原動力に対する探究に在った。それが科学であるとは、その頃、はっきり断定するに到ってはいなかったが、しかし、西洋文明の粋は、独逸国に行けば、最も確実に把握はあく出来るのではあるまいかという、おぼろげな見当をつけて、自分の生涯の方針も、独逸に留学する事に依って解決されるのかも知れないと考えた。しかし、自分は貧乏である。故郷を捨て、南京に出て来た事さえ精一ぱいであった自分が、さらに万里を踏破とうはして独逸国に留学するにはどうしたらよいか、まるで雲上の楼閣を望見するが如き思いであった。独逸国へ留学する事が絶望だとしたら、あますところは、もう一つの道しか無かった。日本へ行く事だ。その頃、政府が費用を出して、年々すこしずつの清国留学生を日本に送りはじめていたのである。その二、三年前に張之洞ちょうしどうの著した有名な勧学篇などにも、大いに日本留学の必要が力説されていて、日本は小国のみ、しかるに何ぞおこるのにわかなるや、伊藤、山県やまがた榎本えのもと陸奥むつの諸人は、みな二十年前、出洋の学生なり、その国、西洋のためにおびやかさるるを憤り、その徒百余人をひきい、わかれて独逸、仏蘭西、英吉利にいたり、あるいは政治工商を学び、あるいは水陸兵法を学び、学成りて帰り、もって将相となり、政事一変し、東方に雄視す、などという論調でもって日本を讃美し、そうして結論は、「遊学の国にいたりては、西洋は日本にかず」という事になっているが、しかし、その理由としては、

一、みち近くして費をはぶき、多くの学生を派遣し得べし。
一、日本文は漢文に近くして、通暁し易し。
一、西学は甚だ繁、およそ西学の切要ならざるものは、日本人すでに刪節さんせつして之を酌改す。
一、日支の情勢、風俗相近く、したがい易し。事なかばにして功倍する事、之にすぐるものなし。

 という工合のものであって、決して日本固有の国風を慕っているのでは無く、やはり学ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粋を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだほうが安直に西洋の文明を吸収できるという一時の便宜主義から日本留学を勧奨していた、といっても過言では無かろうと思う。当時、日本に留学する学生が年々増加していたが、ほとんどその全部が、この勧学篇に依ってあらわされている思想と大同小異の、へんに曲折された意図を以て、日本留学に出かけて行くような状態であって、自分もまた、その例にもれず、独逸行きを不可能と見て、その代りに日本留学を志望するに到ったという事実を告白しなければならぬ。自分は政府の留学生の試験に応じて、パスした。日本は、どんなところか。自分には、それにいての予備知識は何も無かった。かつて日本を遊歴した事のある礦路学堂の先輩のもとをおとずれて、日本遊学の心得を尋ねた。その先輩の言うには、日本へ行って最も困るのは足袋たびだ、日本の足袋は、てんで穿けやしないから、支那しなの足袋を思い切ってたくさん持って行くがいい、それから紙幣は不自由な時があるから、全部、日本の現銀に換えて持って行った方がいい、まあ、そんなものだ、ということだったので、自分は早速さっそく支那の足袋を十足買って、それから所持金を全部、日本の一円銀貨に換え、ひどく重くなった財布さいふを気にしながら、上海シャンハイで船に乗って横浜に向った。しかしその先輩の遊学心得は少し古すぎたようである。日本では、学生は制服を着て、靴と靴下を穿かなければいけなかった。足袋の必要は全然なかった。また、あの恥かしいくらい大きな一円銀貨は、日本でとうの昔に廃止されていて、それをまた日本の紙幣に換えてもらうのに、たいへんな苦労をした。それは後の話だが、自分がその明治三十五年、二十二歳の二月、無事横浜に上陸して、日本だ、これが日本だ、自分もいよいよこの先進国で、あたらしい学問に専念できるのだ、と思った時には、自分のそれまで一度もあじった事の無かった言うに言われぬほのぼのしたよろこびが胸に込み上げて来て、独逸行きの志望も何も綺麗きれいに霧散してしまったほどで、本当に、あのような不思議な解放のよろこびは、これからの自分の生涯において、支那の再建が成就した日ならともかく、その他にはおそらく再び経験することが出来ないのではなかろうかと思われる。自分はそれから新橋行きの汽車に乗ったが、窓外の風景をひとめ見て、日本は世界のどこにも無い独自の清潔感を持っていることを直感した。田畑は、おそらく無意識にであろう、美しくきちんと整理されている。それに続く工場街は、黒煙濛々もうもうと空をおおいながら、その一つ一つの工場の間をさわやかな風が吹き抜けている感じで、その新鮮な秩序と緊張の気配は、支那において全く見かけられなかったもので、自分はその後、東京のまちを朝早く散歩する度毎に、どの家でも女の人が真新しい手拭てぬぐいを頭にかぶって、たすきをかけて、いそがしげに障子しょうじにはたきをかける姿を見て、その朝日を浴びて可憐かれんに緊張している姿こそ、日本の象徴のように思われて神の国の本質をちらと理解できたような気さえしたものだが、それに似たけなげな清潔感を、自分の最初の横浜新橋間の瞥見べっけんに依っても容易に看取し得たのである。要するに、過剰が無いのである。倦怠けんたいの影が、どこにもよどんでいないのである。日本に来てよかった、と胸が高鳴り、興奮のため坐っていられず、充分に座席があったのに横浜から新橋まで一時間、自分はほとんど立ったままであった。東京に着いて、先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園芝公園隅田堤すみだづつみ飛鳥山あすかやま公園、帝室博物館、東京教育博物館、動物園、帝国大学植物園、帝国図書館、まるでもう無我夢中で、それこそあなたがさっきお話したような、あなたが仙台をはじめて見た時の興奮と同様の、いや、おそらくはそれの十倍くらいの有頂天で、ただ、やたらに東京の市中を歩きまわったものだが、しかし、やがて牛込の弘文学院に入学して勉強するに及んで、この甘い陶酔から次第に醒めて、ややもするとまた昔の懐疑と憂鬱ゆううつに襲われる事が多くなった。自分が東京に来たこの明治三十五年前後から、清国留学生の数も急激に増加し、わずか二、三年のうちに、もう支那からの留学生が二千人以上も東京に集って来て、これを迎えて、まず日本語を教え、また地理、歴史、数学などの大体の基本知識を与える学校も東京に続々と出来て、中には怪しげな速成教育を施して、ひともうけをたくらむ悪質の学校さえ出現した様子で、しかし、そのたくさんの学校の中で、自分たちの入学した弘文学院は、留日学生の、まあ、総本山とでもいうような格らしく、学校の規模も大きく設備もととのい、教師も学生もまじめなほうであったが、それでも、自分は日一日と浮かぬ気持になって行くのを、どうする事も出来なかった。一つには、あなたがさっき言ったように、おなじ羽色のからすが数百羽集ると猥雑わいざつに見えて来るので同類たがいに顰蹙ひんしゅくし合うに到る、という可笑おかしい心理に依るのかも知れないが、自分もやはり清国留学生、いわば支那から特に選ばれて派遣されて来た秀才というような誇りを持っていたいと努力してみるものの、どうも、その、選ばれた秀才が多すぎて、東京中いたるところに徘徊はいかいしているので、拍子抜けのする気分にならざるを得ないのである。春になれば、上野公園の桜が万朶ばんだの花をひらいて、確かにくれないの軽雲の如く見えたが、しかし花の下には、きまってその選ばれた秀才たちの一団が寝そべって談笑しているので、自分はその桜花爛漫らんまんを落ちついた気持で鑑賞することが出来なくなってしまうのである。その秀才たちは、辮髪べんぱつを頭のてっぺんにぐるぐる巻にして、その上に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽こっけいと申し上げるより他は無かった。中にちょっとお洒落しゃれなのもいて、制帽のいただきがとがらないように辮髪を後頭部の方に平たく巻いて油でぴったり押えつけるという新工夫を案出して、その御苦心は察するにあまりあったが、帽子を脱ぐと、男だか女だかわからない奇怪な感じで、うしろ姿などいやになまめかしくて、思わずぞっとする体のものであった。そうしてかえって、自分のように辮髪を切り落している者を、へんに軽蔑の眼で見るのだからたまらない。また、その選ばれた秀才の一団が、市街鉄道などにどやどや乗り込んだ時には、礼譲の国から来た人間の面目を発揮するのはここだとでもいうつもりか、互いに座席の譲り合いで大騒ぎをはじめる。甲が乙に掛けろと言えば乙は辞退して丙に掛けろと言う。丙は固辞して丁にすすめる。丁はさらに鞠躬如きっきゅうじょとして甲にお掛けなさいと言う。日本の老若男女の乗客があっけにとられて見ている中で、大声でわめいて互いに揖譲ゆうじょうして終らぬうちに、がたんと車体が動くと同時に、その一団は折りかさなって倒れる。自分は片隅かたすみでかくれるようにしてそれを眺めて、恥かしいとも何とも言いようない気持になったものだ。しかし、それはまだ深くとがむべきではなかった。そのような同胞の無邪気な努力を情なく思う自分の気取った心に罪があるのかも知れない。自分の憂鬱の原因は他にもう一つあった。それは学生たちの不勉強であった。支那の革命運動の現状に就いて、自分はまだはっきりした事はわからぬが、三合会、哥老会、興中会などの革命党の秘密結社は、孫文を盟主として、もうとっくに大同団結をげている様子で、さきに日本に亡命して来た康有為一派の改善主義は、孫文一派の民族革命の思想と相容あいいれず、康有為はひそかに日本を去って欧洲に旅立ったらしく、いまは孫文所謂いわゆる三民五憲の説が圧倒的に優勢になって、その確立せられた主義綱領に基づいて、いよいよ活溌な実際行動の季節に突入した状態のように見受けられ孫文ご自身も、東京にあらわれて日本の志士の応援を得て種々画策し、このごろでは東京が支那革命運動の本拠になっているような工合らしいので、留日学生の興奮もすさまじく、寄るとさわると打清興漢の気勢を挙げ、学業も何も投げ棄ててしまっている有様である。しかし、それも憂国の至情の発するところ、無理もないと思われるのであるが、中にはこのどさくさにまぎれて自身の出世を計画している者もあり、ひどいのは、れいの速成教育で石鹸せっけん製造法など学び、わずか一箇月の留学であやしげな卒業証書を得て、これからすぐ帰国して石鹸を製造し、大もうけをするのだ、と大威張りで吹聴ふいちょうして歩いている風変りの学生さえあったほどで、自分が時たま、神田駿河するがだいの清国留学生会館に用事があって出かけて行くと、その度毎に二階で、どしんどしんと物凄ものすごい大乱闘でも行われているような音が聞えて、そのために階下の部屋の天井板が振動し、天井のちりが落ちて階下はいつも濛々もうもうとしていた。その変異が、あまり度重なるので、或る日、自分は事務所の人に二階ではどのような騒動が演じられているのかと尋ねたらその事務所の日本人のじいさんは苦笑しながら、あれは学生さんたちがダンスの稽古けいこをしていらっしゃるのですと教えてくれた。もう自分には、このような秀才たちと一緒にいるのがとても堪え切れなくなって来た。いまは支那にとって、新しい学問が絶対に必要な時なのだ。列国の猛威に対抗するためには、打清興漢の政治運動も勿論もちろん急務に違いないが、しかし、新しい学問に依って、列国の威力の本質を追求する事も自分たち学生に負わされた職業ではなかろうか。もとより自分は孫先生を尊敬し、その三民五憲の説に共感している事においてもあえて人後に落ちぬつもりであるが、しかし、その三民主義の民族、民権、民生の説の中で、自分には民生の箇条が最も理解が容易であった。いつも自分の目先にちらついているものは、少年の頃、三春秋、父の病気をなおそうとして質屋の店台と薬屋の店台の間を毎日のように往復し、名医と称せられる詐欺師の言を信じて、平地木やら原配の蟋蟀しっしゅつやらをうろうろ捜し廻っている自分の悲惨な姿であった。また眠られぬ夜など、自分の耳にひそひそ入って来る声は、おろかな迷信にたより、父の霊魂を引きとめようとして瀕死ひんしの父の枕元まくらもとのども破れよと父の名を呼んだ、あのあさましい自分のわめき声である。あれが支那の民衆の姿だ。いまだって、少しも変ってはいないのだ。聖賢の言は、生活の虚飾として用いられ、いたずらに神仙の迷信のみ流行し、病人は高価な敗鼓皮丸はいこひがんを押し売りされて、日増ひましに衰弱するばかりなのだ。この支那の民衆の現状をどうする。この惨めな現状に対する忿懣ふんまんから、自分は魂を毛唐に一時ゆだねて進んで洋学に志したのだ。母にそむいて故郷を捨てたのだ。自分の念願は一つしか無い。いわく、同胞の新生である。民衆の教化なくして、何の改革ぞや、維新ぞや。しかも、この民衆の教化は、自分たち学生の手に依らずして、誰がよくし得るところか。勉強しなければならぬ。もっと、もっと、勉強しなければならぬ。自分はその折、漢訳の明治維新史を読んでみた。そうして日本の維新の思想が、日本の一群の蘭学者に依って、絶大の刺戟を受けたという事実を知った。これだと思った。これだからこそ日本の維新も、あのように輝かしい成功を収めることが出来たのだと思った。何よりもまず、科学の威力に依って民衆を覚醒かくせいさせ、これを導いて維新の信仰にまで高めるのでなければ、いかなる手段の革命も困難を極めるに違いない。まず科学だ、と自分はその維新史を読んで、はじめて自分の生涯の方針をさぐり当てたような気がした。支那はいまこの科学の力に依って、大にしては列国の侵略と戦い、その独立性を保全し、小にしては民衆個々の日常生活をうるおし新生の希望と努力をうながすべきである。これは自分のあまい夢であろうか。夢でもよい。自分はその夢の実現のために、生涯を捧げ切る。自分のこれからの生涯はおそらく少しも派手なところの無い、ひどく地味なものになるだろう。しかし、自分は民衆のひとりひとりに新生の活力を与え、次第に革命の信仰にまで導いて行くのだ。愛国の至情の発現は、多種多様であるべきだ。必ずしもいますぐ政治の直接行動に身を投ずる必要は無い。自分は、いまもっと勉強しなければならぬ。まず科学の中の、医学を修めよう。自分に新しい学問の必要を教えてくれたのは、あの少年の頃の医者の欺瞞ぎまんだ。あの時の憤怒ふんぬが、自分に故郷を捨てさせたのだ。自分の新しい学問への志願は、初めから医術とつながっていたとも言える。瀕死の父の枕元で、父の名を絶叫したあの時の悲惨な声が、いつでも自分の耳朶じだを撃って、自分を奮激させて来たではないか。医者になろう。明治維新史に依ると、当時の蘭学者の大部分も医者であった。いや、西洋の医術を学び取るために、蘭語の勉強を始めた者も多かった。それほど、日本においても、更に進歩した医術が他のどんな科学よりもさきに、民衆に依って渇望されていたのだ。医学は、民衆の日常生活に最も近い結びつきを持っているものだ。病いをなおしてやるというのは、民衆の教化の第一歩だ。自分はまず、日本に於いて医学を修め、帰国して自分の父のように医者にあざむかれてただ死を待つばかりのような病人を片端から全治させて、科学の威力を知らせ、愚な迷信から一日も早く覚醒させるよう民衆の教化に全力を尽し、そうして、もし支那が外国と干戈かんかを交えた時には軍医として出征し、新しい支那の建設のため骨身を惜しまず働こう、とここに自分の生涯の進路がはじめて具体的に確定せられたわけであったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形にとがった制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳であり、石鹸製造であり、大乱闘の如きダンスの練習である。そうしてことしの二月、日本は北方の強大国露西亜に対して堂々と戦を宣し、日本の青年たちは勇躍して戦場に赴き、議会は満場一致で尨大ぼうだいの戦費を可決し、国民はあらゆる犠牲を忍んで毎日の号外の鈴の音に湧き立っている。自分は、この戦争は大丈夫、日本が勝つと思う。このように国内が活気汪溢おういつしていて、負ける筈はない。それは自分の直感であるが、同時に、自分はこの戦争が勃発ぼっぱつして以来、非常に恥かしい気分に襲われた。この戦争は、人に依っていろいろの見方もあるであろうが、自分はこの戦争も支那の無力が基因であると考えている。支那に自国統治の実力さえあったなら、こんどの戦争も起らなくてすんだであろうに、これではまるで支那の独立保全のために日本に戦争してもらっているようにも見えて、考え様に依っては、支那にとってはまことに不面目な戦争ではあるまいか。日本の青年達が支那の国土で勇敢に戦い、貴重な血を流しているのに、まるで対岸の火事のように平然と傍観している同胞の心裡しんりは自分に解しかねるところであった。しかも同じ年配の支那の青年たちが、奮起するどころか、相も変らず清国留学生会館でダンスの稽古にふけっているのを見るに及んで、自分もようやく決意した。しばらく、この留学生の群と別れて生活しよう。自己嫌悪、とでもいうのであろうか、自分の同胞たちの、のほほん顔を見ると、恥かしくいまいましく、いたたまらなくなるのだ。ああ、支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい。もはや躊躇ちゅうちょしている時では無い。自分は麹町こうじまち区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学の志望を述べ、やがて、この仙台医専編入されることにきまった。東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると、さすがにさびしかった。汽車で上野を出発して、日暮里にっぽりという駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少しで落涙しそうになった。それからしばらくして水戸という駅を通過し、これは明末の義臣朱舜水しゅしゅんすい先生の客死されたところ、Wandervogel の大先輩の悲壮の心事をしのび、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来て見ると、東京の十分の一にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの人の言葉も、まさか鴃舌げきぜつというほどではなかったが、東京の人の言葉にくらべて、へんに語勢が強く、わかりにくいところが多かった。まちの中心は流石さすがに繁華で、東京の神楽坂かぐらざかくらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東北地方の重鎮じゅうちんとしてのどっしりした実力は稀薄きはくのように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積うっせきされているのだが、仙台は所謂いわゆる文明開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨しているというような感じがした。ここは伊達政宗だてまさむねという大名の開いたまちだそうであるが、日本で、der Stutzer の気取屋のことを「伊達者」といっているのは、案外、仙台のこんな気風をからかったことから始ったのではないかしらと思われるほど、意味も無く都会風に気取っているまちであった。要するに、自信も何も無いくせに東北地方第一という沽券こけんにこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」のように自分には思われたのだが、しかし、あなたがさっき話してくれたように北方の奥地からいきなりこの仙台に出て来た人にとっては、この土地の文明開化も豪華絢爛けんらんたるものに見えて、これに素直に驚歎し、順服するというのは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策のねらいで、それが伝統的な気風になり、維新後三十七年を経過したいまでも、その内容空疎に多少おどおどしながらやっぱり田舎紳士いなかしんしの気取りを捨て切れないでいるのである。しかし、こんな悪口を言っても、自分はこの仙台のまちに特に敵意をいだいているというわけでは決してない。地方の、産業の乏しい都会は、たいていこんな悲しい気取りで生きているものだ。これから自分は一生涯の、おそらくは最も重大な時期を、仙台のまちにゆだねてしまうのだから、つい念入りにこのまちの性格に就いて考え、あれこれと不満を並べてみたくなっただけの事で、こんな気風のまちは、学問するにはかえって好適の土地なのかも知れない。事実、このまちへ来てから、自分の学習は順調である。多分、物はれなるを以てとうとしとするからであろう、自分は、この仙台のまちにとって、最初の、またただ一人の清国留学生だというので、非常に珍重がられ、それこそあなたの言うように、何の見どころのないからすでも、ただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらでなく、漆黒しっこくつばさも輝いて見えるらしく、学校の先生たちもまるで大事なお客様か何かのように自分を親切にあつかってくれるので、自分はかえってまごついているくらいである。自分にとって、こんなに皆から温情を示されるのは、生れてはじめてのことである。きっと枯枝の烏を、買いかぶっているのに違いない。有難く思うと同時に、また、あの人たちの好意を裏切ったら相すまぬという不安も自分は持っている。同級生たちも、おそらくは物珍らしさからであろう、朝、教室で顔を見合わせると、たいてい、向うから微笑ほほえみかけてくれるし、また、隣りの席に坐った生徒は、進んで自分にナイフや消ゴムを貸してくれて、中でも津田憲治とかいう東京の府立一中から来たのを少し自慢にしている背の高い生徒は最も熱烈な関心を持っているようで、何かと自分にこまかい指図さしずをしてくれて、カラアがよごれていますよ、クリイニングに出しなさい、とか、雨降りの時の長靴を一足買いなさい、とか、服装の事まで世話を焼き、とうとう自分の下宿まで出張して来て、これはいかん、すぐここから引越して僕の下宿へおいでなさい、と言う。自分の下宿は、こめヶ袋ぶくろ鍛冶屋前丁かじやまえちょうの宮城監獄署の前にあって、学校にも近いし食事も上等だし自分には大いに気にいっていたのだが、その津田さんの言によれば、この下宿屋は、監獄の囚人の食事の差入屋を兼ねているからいかん、という事であって、いやしくも清国留学生の秀才が、囚人と同じ鍋のめしを食っているというのは、君一個人の面目問題ばかりでなく、ひいては貴国の体面にも傷をつける事になるから早く引越さなければいけない、と幾度も幾度も忠告してくれて、自分は笑いながら、そんなことは自分はちっとも気にしていない、と言っても、いやいや君は遠慮してうそをついているのだろう、支那の人は何よりも体面ということを重んずるということだ、囚人と同じめしを食っても気にならんというのは嘘でしょう、早くこの不吉な宿を引上げて僕の下宿へ来たまえ、と執拗しつようにすすめる。ひどくまじめな顔をして、そんなことを言うのだが、あれで内心は自分をからかっているのかも知れない。どうだか、わかったものではないが、とにかく友の好意を無下むげにしりぞけて怒られてもつまらないから、自分は仕方なく、その津田さんの荒町の下宿に引越した。こんどは監獄からは遠くなったけれども、食事が以前のようにいいとは言えない。毎朝のおぜんに、なまの里芋をりつぶしてどろりとさせたものが出て、これにはどうにもはしをつけかねて非常に困惑したが、れいの津田さんは、或る朝、自分の部屋をのぞいて、それをなぜたべないのかと、すぐに見とがめて、それはなかなか養分の多いものだから必ずたべなければいけない、それを、おみおつけにまぜて充分にきまわすと、おいしいとろろ汁が出来上るから、そのとろろ汁をごはんにかけて食べるといい、と教えてくれて、それから自分は毎朝、おみおつけにまぜて掻きまわしてごはんにかけてたべなければならなくなった。あのひとも、決して悪い人間ではないらしいが、どうもあの過度の親切には、閉口している。しかしまあ、いまのところ、津田さんのこんなおせっかいが少し苦痛なだけで、あとは、自分には何の不服も無い。全部、順調である。幸福な身の上と言っていいのかも知れない。学校の講義はどれもこれも新鮮で、自分の永年の志望も、ここへ来て、やっとかなえてもらえたような気がしている。中でも、解剖学の藤野先生の講義は面白い。別に変ったところも無い講義だが、それでも、やはりあの先生の人格が反映されているのか、自分ばかりでなく、他の生徒もみな楽しそうに聴講している。前学年に及第できなくて原級にとどまった所謂古狸ふるだぬきの連中の話に拠れば、藤野先生は服装に無頓着むとんじゃくで、ネクタイをするのを忘れて学校へ出て来られる事がしばしばあり、また冬は、膝小僧ひざこぞうをかくす事が出来ないくらいの短い古外套ふるがいとうを着て、いつも寒そうにぶるぶる震えて、いつか汽車に乗られた時、車掌は先生を胡散うさんくさい者と見てとったらしく、だしぬけに車内の全乗客に向い、このごろ汽車の中に掏摸すりが出没していますから皆さま御用心なさい、と叫んだとか、その他、まだまだ面白い逸事があるらしく、お心も高潔のようだし、講義も熱心で含蓄が深いのに、一面に於いてそんな脱俗の風格をお持ちのせいか、クラスの所謂古狸連は、この先生にれ、くみし易しとしている様子で、この先生の講義の時には、何でも無い事にでもわっと笑声を挙げてはやすので教室がたいへんにぎやかになるのである。最初の授業の時も、この先生が、やや猫背になって大小さまざまの本を両わきにかかえて教室にあらわれ、そのたくさんの本を教壇の机の上に高く積み上げてから、ひどくゆっくりした語調で、わたくしは、藤野厳九郎と申すもので、と言いかけたら、れいの古狸たちが、どっと笑い出したので、自分は先生を何だか気の毒に思ったくらいである。しかし、この最初の講義は、日本における解剖学の発達の歴史であって、その時、持って来られた大小さまざまの本は、昔から現代に到るまでの日本人の解剖学に関する著作であった。杉田玄白の「解体新書」や「蘭学事始らんがくことはじめ」などもその中にあった。そうして、玄白たちが小塚原こづかっぱらの刑場で罪人のしかばね腑分ふわけする時の緊張などを、先生は特徴のあるゆっくりした語調で説いて聞かせたが、あの最初の講義は、自分の前途を暗示し激励してくれているようで、実に深い感銘を受けた。もう今では自分の進路は、一言で言える。支那杉田玄白になる事だ。それだけだ。支那杉田玄白になって、支那の維新の狼煙のろしを挙げるのだ。

 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【日刊 太宰治全小説】#185「惜別」二

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【冒頭】
私が東北の片隅のある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅しょうちょくが降り、私の仙台に来たころには遼陽りょうようもろく陥落し、つで旅順総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。

【結句】
この、私たちがはじめて言葉を交した日から周さんは、藤野先生のお名前をしばしば口にしていたのである。

 

惜別せきべつ」について

新潮文庫『惜別』所収。
・昭和20年2月20日頃に脱稿。
・昭和20年9月5日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。


惜別 (新潮文庫)

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■松島の風景

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 私が東北の片隅かたすみのある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅しょうちょくが降り、私の仙台に来たころには遼陽りょうようもろく陥落かんらくし、ついで旅順りょじゅん総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、つつじヶ岡おか隊ととなえられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨緑江おうりょっこうの渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功をて、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載せられ、森徳座という芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というにわか仕立ての狂言を上場したりして、全市すこぶる活気横溢おういつ、私たちも医専の新しい制服制帽を身にまとい、何か世界の夜明けを期待するような胸のふくれる思いで、学校のすぐ近くを流れている広瀬川の対岸、伊達だて家三代の霊廟れいびょうのある瑞鳳殿ずいほうでんなどにお参りして戦勝の祈願をしたものだ。上級生たちの大半の志望は軍医になっていますぐ出陣する事で、まことに当時の人の心は、単純とでも言おうか、生気溌剌はつらつたるもので、学生たちは下宿で徹宵てっしょう、新兵器の発明にいて議論をして、それもいま思うとき出したくなるような、たとえば旧藩時代の鷹匠たかじょうに鷹の訓練をさせ、鷹の背中に爆裂弾をしばりつけて敵の火薬庫の屋根に舞い降りるようにするとか、または、砲丸に唐辛子とうがらしをつめ込んでこれを敵陣の真上に於いて破裂させて全軍に目つぶしを喰わせるとか、どうも文明開化の学生にも似つかわしからざる原始的と言いたいくらいの珍妙な発明談に熱中して、そうしてこの唐辛子目つぶし弾の件は、医専の生徒二、三人の連名で、大本営に投書したとかいう話も聞いたが、さらに血の気の多い学生は、発明の議論も手ぬるしとして、深夜下宿の屋根にい上って、ラッパを吹いて、この軍隊ラッパがまたひどく仙台の学生間に流行して、輿論よろんは之を、うるさしやめろ、と怒るかと思えばまた一方に於いては、大いにやれ、ラッパ会を組織せよ、とおだてたり、とにかく開戦して未だ半箇年というに、国民の意気は既に敵を呑んで、どこかに陽気な可笑おかしみさえ漂っていて、そのころ周さんが「日本の愛国心は無邪気すぎる」と笑いながら言っていたが、そう言われても仕方の無いほど、当時は、学生ばかりでなく仙台市民こぞって邪心なく子供のように騒ぎまわっていた。
 それまで田舎の小さい城下町しか知らなかった私は、生れて初めて大都会らしいものを見て、それだけでも既に興奮していたのに、この全市にみなぎる異常の活況に接して、少しも勉強に手がつかず、毎日そわそわ仙台の街を歩きまわってばかりいた。仙台を大都会だと言えば、東京の人たちに笑われるかも知れないが、その頃の仙台には、もう十万ちかい人口があり、電燈などもその十年前の日清にっしん戦争の頃からついているのだそうで、松島座、森徳座では、その明るい電燈の照明の下に名題役者なだいやくしゃの歌舞伎が常設的に興行せられ、それでも入場料は五銭とか八銭とかの謂わば大衆的な低廉ていれんのもので手軽に見られる立見席もあり、私たち貧書生はたいていこの立見席の定連じょうれんで、これはしかし、まあ小芝居の方で、ほかに大劇場では仙台座というのがあり、この方は千四、五百人もの観客を楽に収容できるほどの堂々たるもので、正月やお盆などはここで一流中の一流の人気役者ばかりの大芝居が上演せられ、入場料も高く、また盆正月の他にもここに浪花節なにわぶしとか大魔術とか活動写真とか、たえず何かしらの興行物があり、この他、開気館という小ぢんまりした気持のいい寄席が東一番丁にあって、いつでも義太夫ぎだゆうやら落語やらがかかっていて、東京の有名な芸人はほとんどここで一席お伺いしたもので、竹本呂昇ろしょう義太夫なども私たちはここで聞いて大いにたんのうした。そのころも、芭蕉ばしょうつじが仙台の中心という事になっていて、なかなかハイカラな洋風の建築物が立ちならんではいたが、でも、繁華な点では、すでに東一番丁に到底かなわなくなっていた。東一番丁の夜のにぎわいは格別で、興行物は午後の十一時頃までやっていて、松島座前にはいつものぼりが威勢よくはためいて、四谷怪談よつやかいだんだの皿屋敷さらやしきだの思わず足をとどめさすほど毒々しい胡粉ごふん絵具の絵看板が五、六枚かかげられ、弁や、とかいう街の人気男の木戸口でわめく客呼びの声も、私たちにはなつかしい思い出の一つになっているが、この界隈かいわいには飲み屋、蕎麦そば屋、天ぷら屋、軍鶏しゃも料理屋、蒲焼かばやき、お汁粉しるこ、焼芋、すし、野猪のじし鹿しかの肉、牛なべ、牛乳屋、コーヒー屋、東京にあって仙台に無いものは市街鉄道くらいのもので、大きい勧工場かんこうばもあれば、パン屋あり、洋菓子屋あり、洋品店、楽器店、書籍雑誌店、ドライクリーニング、和洋酒缶詰かんづめ、外国煙草屋、ブラザア軒という洋食屋もあったし、蓄音機ちくおんきを聞かせる店やら写真屋やら玉突屋やら、植木の夜店もひらかれていて、軒並に明るい飾り電燈がついて、夜を知らぬ花の街のおもむきを呈し、子供などはすぐ迷子まいごになりそうな雑沓ざっとうで、それまで東京の小川町も浅草も銀座も見た事の無い田舎者の私なんかを驚嘆させるには充分だったのである。いったいここの藩祖政宗まさむね公というのは、ちょっとハイカラなところのあった人物らしく、慶長十八年すでに支倉はせくら六右衛門常長を特使としてローマに派遣して他藩の保守退嬰派たいえいは瞠若どうじゃくさせたりなどして、その余波が明治維新後にも流れ伝っているのか、キリスト教の教会が、仙台市内の随処にあり、仙台気風を論ずるには、このキリスト教を必ず考慮に入れなければならぬと思われるほどであって、キリスト教の匂いの強い学校も多く、明治文人の岩野泡鳴ほうめいというひとも若い頃ここの東北学院に学んで聖書教育を受けたようだし、また島崎藤村とうそんも明治二十九年、この東北学院に作文と英語の先生として東京から赴任して来たという事も聞いている。藤村の仙台時代の詩は、私も学生時代に、がらでもなく愛誦あいしょうしたものだが、その詩風には、やはりキリスト教の影響がいくらかあったように記憶している。このように当時の仙台は、地理的には日本の中心から遠く離れているように見えながらも、その所謂いわゆる文明開化の点においては、早くから中央の進展と敏感に触れ合っていたわけで、私は仙台市街の繁華にたまげ、また街の到るところ学校、病院、教会など開化の設備のおびただしいのに一驚し、それからもう一つ、仙台は江戸時代の評定所ひょうじょうしょ、また御維新後の上等裁判所、のちの控訴院と、裁判の都としての伝統があるせいか、弁護士の看板を掲げた家のやけに多いのに眼をみはり、毎日うろうろ赤毛あかゲットの田舎者よろしくの体で歩きまわっていたのも、無理がなかった、とまあ、往時おうじの自分をいたわって置きたい。
 私はそのように市内の文明開化に興奮する一方、また殊勝らしい顔をして仙台周辺の名所旧蹟をもさぐって歩いた。瑞鳳殿にお参りして戦勝祈願をしたついでに、向山むかいやまに登り仙台全市街を俯瞰ふかんしては、わけのわからぬ溜息ためいきが出て、また右方はるかに煙波渺茫びょうぼうたる太平洋を望見しては、大声で何か叫びたくなり、若い頃には、もう何を見ても聞いても、それが自分にとって重大な事のように思われてわくわくするもののようであるが、かの有名な青葉城の跡を訪ねて、今も昔のままに厳然と残っている城門を矢鱈やたらに出たり入ったりしながら、われもし政宗公の時代に生れていたならば、とらちも無い空想にふけり、また、俗に先代萩せんだいはぎ政岡まさおかの墓と言われている三沢初子の墓や、支倉六右衛門の墓、また、金も無けれど死にたくも無しの六無斎ろくむさい林子平はやししへいの墓などを訪れて、何か深い意味ありげに一礼して、その他、つつじヶ岡おか、桜ヶ岡、三滝温泉、宮城野原みやぎのはら多賀城たがじょうしなど、次第に遠方にまで探索の足をのばし、とうとうる二日つづきの休みを利用して、日本三景の一、松島遊覧を志した。
 お昼すこし過ぎに仙台を発足して、四里ほどの道をぶらぶら歩いて塩釜しおがまに着いた頃には、日も既に西に傾き、秋風が急につめたく身にしみて、へんに心細くなって来たので、松島見物は明日という事にして、その日は塩釜神社に参拝しただけで、塩釜の古びた安宿に泊り、あくる朝、早く起きて松島遊覧の船に乗ったのであるが、その船には五、六人の合客があって、中にひとり私と同様に仙台医専の制服制帽の生徒がいた。鼻下に薄髭うすひげやし、私より少し年上のように見えたが、でも、緑線を附けた医専の角帽はまだ新しく、帽子の徽章きしょうもまぶしいくらいにきらきら光って、たしかに今秋の新入生に違いなかった。何だか一、二度、教室でその顔を見かけたような気もした。けれども、そのとしの新入生は日本全国から集って百五十人、いや、もっと多かったようで、東京組とか、大阪組とか、出生の国を同じくする新入生たちはそれぞれ群を作って、学校にいても、また仙台のまちへ出ても、一緒に楽しそうに騒ぎまわっていたものの、田舎の私の中学から医専に来たのは私ひとりで、それに私は、生来口が重い上に、ご存じの如くひどい田舎訛いなかなまりなので、その新入生たちにまじって、冗談を言い合う勇気もなく、かえってひがんで、孤立を気取り、下宿も学校から遠く離れた県庁の裏に定めて、同級生の誰とも親しく口をきかなかったのは勿論もちろん、その素人しろうと下宿の家族の人たちとも、滅多めったに打ち解けた話をする事は無かった。それは仙台の人たちだって、かなり東北訛りは強かったが、私の田舎の言葉ときたら、それどころでは無く、また、私も無理に東京言葉を使おうとしたら、使えないわけはないのだが、どうせ田舎出だという事を知られているのに、きざにいい言葉を使ってみせるのも、気恥かしいのである。これは田舎者だけにわかる心理で、田舎言葉を丸出しにしても笑われるし、また努力して標準語を使っても、さらに大いに笑われるような気がして、結局、むっつりの寡黙居士かもくこじになるより他は無いのである。私がその頃、他の新入生と疎遠だったのは、そのような言葉の事情にもるが、また一つには、私にもやはり医専の生徒であるという事の誇りがあって、からすもただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらで無く、漆黒しっこくつばさも輝いて見事に見えるけれども、数十羽かたまって騒いでいると、ゴミのようにつまらなく見えるのと同様に、医専の生徒も、むれをなして街を大声で笑いながら歩いていると角帽の権威も何もあったものでなく、まことに愚かしく不潔に見えるので、私はあくまでも高級学徒としての誇りを堅持したい心から、彼等を避けていたというような訳もあったのである、と言えば、ていさいもいいが、もう一つ白状すると、私はその入学当初、ただ矢鱈に興奮して仙台の街を歩きまわってばかりいて、実は、学校の授業にも時々、無断欠席をしていたのである。これでは、他の新入生たちと疎遠になるのも当り前の話で、その松島遊覧の船でひとりの新入生と顔を合せた時も、私は、ひやりとして、何だかひどく工合ぐあいが悪かった。私は船客の中の唯一の高潔な学徒として、大いに気取って、松島見物をしたかったのに、もうひとり、私と同じ制服制帽の生徒がいたのではなんにもならぬ。しかもその生徒は都会人らしく、あかぬけがしていて、どう見ても私より秀才らしいのだから実にしょげざるを得なかったのだ。毎日まじめに登校して勉強している生徒にちがいない。涼しく澄んだ眼で私のほうを、ちらと見たので、私は卑屈なあいそ笑いをして会釈えしゃくした。どうも、いかぬ。烏が二羽、船ばたにとまって、そうして一羽はやつれて翼の色艶いろつやも悪いと来ているんだから、その引立たぬ事おびただしい。私はみじめな思いで、その秀才らしい生徒からずっと離れた片隅に小さくなって坐って、そうしてなるべく、その生徒のほうを見ないように努めた。きっと東京者にちがいない。早口の江戸っ子弁でぺらぺら話しかけられてはたまらない。私は顔をきつくそむけて、もっぱら松島の風光をで楽しむような振りをしていたが、どうも、その秀才らしい生徒が気になって、芭蕉の所謂、「島々の数を尽してそばだつものは天をゆびさし、伏すものは波にはらばう、あるは二重ふたえにかさなり三重みえにたたみて、左にわかれ、右につらなる。負えるあり、いだけるあり、児孫じそんを愛するが如し。松のみどりこまやかに、枝葉しよう汐風しおかぜに吹きたわめて、屈曲おのずからためたる如し。そのけしき※(「穴かんむり/目」、第3水準1-89-50)ようぜんとして美人のかんばせよそおう。ちはやぶる神の昔、大山おおやまつみのなせるわざにや。造化ぞうか天工てんこう、いずれの人か筆をふることばを尽さん、云々うんぬん。」の絶景も、はなはだ落ちつかぬ心地ここちで眺め、船が雄島の岸に着くやいなや誰よりも先に砂浜に飛び降り、逃げるが如くすたこら山の方へ歩いて行って、やっとひとりになってほっとした。寛政年間、東西遊記上梓じょうしして著名な医師、橘南谿たちばななんけい松島紀行れば、「松島にあそぶ人は是非ともに舟行すべき事なり、また富山に登るべき事なり」とあるので、その頃すでに松島へ到るには汽車の便などもあったのに、わざわざ塩釜まで歩いて行って、そこから遊覧船に乗り込んでみたのであるが、私とそっくりの新しい制服制帽の、しかも私よりはるかに優秀らしい生徒が乗り合わせていたので、にわかに興がめて、洞庭どうてい西湖を恥じざる扶桑ふそう第一の好風も、何が何やら、ただ海と島と松と、それだけのものの如く思われて、甚だ残念、とにかくこれから富山に登って、ひとり心ゆくまで松島の全景を鳥瞰ちょうかんし、舟行の失敗を埋合わせようと考え、山に向っていそいだものの、さて、富山というのはどこか、かいもく見当がつかぬ。ままよ、何でも、高い所へ登って松島湾全体を眺め渡す事が出来たらいいのだ、それで義理がすむのだ、といまは風流の気持も何も失い、野暮やぼな男の意地で秋草をきわけ、まるで出鱈目でたらめに細い山道を走るようにして登って行った。疲れて来ると立ちどまり振りかえって松島湾を見て、いやまだ足らぬ、これくらいの景色を、あの橘氏が「八百八島つらなれる風景画にかける西湖の図に甚だ似たり遥かに眼をめぐらせば東洋限りもなく誠に天下第一の絶景」などとめるわけはない、橘氏はもっと高いところから眺め渡したのに違いない、登ろう、とまた気を取りなおして、山の奥深くわけいるのであるが、そのうちに、どうやら道を踏み違えたらしく、鬱蒼うっそうたる木立の中に迷い込み、眺望どころでなくなって、あわてて遮二無二しゃにむに木立を通り抜け、見ると、私は山の裏側に出てしまったらしく、眼下の風景は、へんてつも無い田畑である。東北線を汽車が走って行くのが見える。私は、山を登りすぎたのである。まことにつまらない思いで、芝生の上に腰をおろし、空腹を感じて来たので、宿で作ってもらったおにぎりを食べ、ぐったりとなって、そのまま寝ころび、うとうと眠った。
 かすかに歌声が聞えて来る。耳をすますと、その頃の小学唱歌、雲の歌だ。
  またたひまには、山をおおい、
  うち見るひまにも、海を渡る、
  雲ちょうものこそ、すしくありけれ、
  雲よ、雲よ、
  雨とも霧とも、見るまに変りて、
  あやしく奇しきは、
  雲よ、雲よ、
 私は、ひとりで、噴き出した。調子はずれと言おうか、何と言おうか、実に何とも下手へたくそなのである。歌っているのは、子供でない。たしかに大人の、異様な胴間声どうまごえである。まことに驚くべき歌声であった。私も小学校の頃から唱歌は、どうも苦手で、どうやら満足に歌えるのは「君が代」一つくらいのものであったが、それでも、その驚くべき歌の主よりは、少し上手じょうずに歌えるのでなかろうかと思った。黙って聞いていると、その歌の主は、はばかるところ無くその雲の歌を何遍も何遍も繰りかえして歌うのである。あるいはあの歌の主は、かねがねあまりに自分が歌が下手なので、思いあまって、こんな人里はなれた山奥でひそかに歌の修行をしているのかも知れない、と思ったら、同様に歌の下手な私には、そぞろその歌の主がなつかしくなって来て、ひとめそのお姿を拝見したいという慾望が涌然ようぜんと起って来た。私は立ち上って、そのひどい歌声をたよりに山をめぐった。或いはすぐ近くに聞え、或いは急に遠くなり、けれども絶えずその唱歌の練習は続いて、ふいに、私は鉢合はちあわせするほど近く、その歌の主の面前に出てしまった。私もまごついたが、相手は、もっと狼狽ろうばいしたようであった。れいの秀才らしい生徒である。白皙はくせきの顔を真赤にして、あははと笑い、
「さきほどは、しつれい。」とてれかくしの挨拶あいさつを述べた。
 言葉に訛りがある。東京者ではない、と私はとっさのうちに断定した。たえず自分の田舎訛りに悩んでいる私はそれだけ他人の言葉の訛りにも敏感だった。ひょっとしたら、私の郷里の近くから来た生徒かも知れぬ、と私はいよいよこの歌の大天才に対して親狎しんこうの情をいだき、
「いや、僕こそ、しつれいしました。」とわざと田舎訛りを強くして言った。
 そこはうしろに松林のある小高い丘で、松島湾の見晴しも、悪くなかった。
「まあ、こんなところかな?」と私はその生徒と並んで立ったまま眼下の日本一の風景を眺め、「僕はどうも、景色にイムポテンツなのか、この松島のどこがいいのか、さっぱり見当がつかなくて、さっきからこの山をうろうろしていたのです。」
「僕にも、わかりません。」とその生徒は、いかにもたどたどしい東京言葉で、「しかし、だいたいわかるような気がします。この、しずかさ、いや、しずけさ、」と言いよどんで苦笑して、「Silentium,」と独逸ドイツ語で言い、「あまりに静かで、不安なので、唱歌を声高く歌ってみましたが、だめでした。」
 いや、あの歌だったら松島も動揺したでしょう、と言ってやろうと思ったが、それは遠慮した。
「静かすぎます。何か、もう一つ、ほしい。」とその生徒は、まじめに言い、「春は、どうでしょうか。海岸の、あのあたりに桜の木でもあって、花びらが波の上に散っているとか、または、雨。」
「なるほど、それだったらわかります。」なかなか面白い事を言うひとだ、と私はひそかに感心し、「どうも、この景色は老人むきですな。あんまり色気が無さすぎる。」調子に乗ってつまらぬ事を言った。
 その生徒は、あいまいな微笑を頬に浮かべて煙草に火をつけ、
「いや、これが日本の色気でしょう。何か、もう一つ欲しいと思わせて、沈黙。Sittsamkeit, 本当にいい芸術というのも、こんな感じのものかも知れませんね。しかし、僕には、まだよくわかりません。僕はただ、こんな静かな景色を日本三景の一つとして選んだ昔の日本の人に、驚歎しているのです。この景色には、少しも人間の匂いが無い。僕たちの国の者には、このさびしさはとても我慢できぬでしょう。」
「お国はどちらです。」私は余念なく尋ねた。
 相手は奇妙な笑い方をして、私の顔を黙って見ている。私は幾分まごつきながら、重ねて尋ねた。
「東北じゃありませんか。そうでしょう?」
 相手は急に不機嫌ふきげんな顔になって、
「僕は支那しなです。知らないはずはない。」
「ああ。」
 とっさのうちに了解した。ことし仙台医専清国しんこく留学生が一名、私たちと同時に入学したという話は聞いていたが、それでは、この人がそうなのだ。唱歌の下手くそなのも無理がない。言葉が妙に、苦しくて演説口調なのも無理がない。そうか。そうか。
「失礼しました。いや、本当に知らなかったのです。僕は東北の片田舎から出て来て、友達も無いし、どうも学校が面白くなくて、実は新学期の授業にもちょいちょい欠席している程で、学校の事に就いては、まだなんにも知らないのです。僕は、アインザームの烏なんです。」自分でも意外なほど、軽くすらすらと思っている事が言えた。
 あとで考えた事だが、東京や大阪などからやって来た生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の家族たちにさえ打ち解けず、人間ぎらいという程ではなくても、人みしりをするという点では決して人後に落ちない私が、京、大阪どころか、海のかなたの遠い異国からやって来た留学生と、何のこだわりも無く親しく交際をはじめる事が出来たのは、それは勿論、あの周さんの大きい人格のしからしめたところであろうが、他にもう一つ、周さんと話をしている時だけは、私は自分の田舎者の憂鬱から完全に解放されるというまことに卑近な原因もあったようである。事実、私は周さんと話している時には、自分の言葉の田舎訛りが少しも苦にならず、自分でも不思議なくらい気軽に洒落しゃれや冗談を飛ばす事が出来た。私がひそかに図に乗り、まわらぬ舌にむち打って、江戸っ子のべらんめえ口調を使ってみても、その相手が日本人ならば、あいつ田舎者のくせに奇怪な巻舌を使っていやがるとかつはあきれ、かつは大笑いするところでもあったろうが、この異国の友は流石さすがにそこまでは気附かぬ様子で、かつて一度も私の言葉を嘲笑ちょうしょうした事が無かったばかりか、私のほうから周さんに、「僕の言葉、何だか、へんじゃないですか。」と尋ねてみた事さえあったが、その時、周さんは、きょとんとした顔をして、「いや、あなたの言葉の抑揚は、強くてたいへんわかりやすい。」と答えたほどであった。これを要するに、何の事は無い、私より以上に東京言葉を使うのに苦労している人を見つけて私が大いに気をよくしたという事が、私と周さんとの親交の端緒になったと言ってよいかも知れないのである。可笑おかしな言い方であるが、私には、この清国留学生よりは、たしかに日本語がうまいという自信があったのである。それで私は、その松島の丘の上でも、相手が支那の人と知ってからは、大いに勇気を得てすこぶる気楽に語り、かれが独逸語ならばこちらも、という意気込みで、アインザームの烏などという、ぞっとするほどキザな事まで口走ったのであるが、かの留学生には、その孤独アインザームという言葉がかなり気に入った様子で、
「Einsam,」とゆっくりつぶやいて、遠くを見ながら何か考え、それから突然、「しかし僕は、Wandervogel でしょう。故郷が無いのです。」
 渡り鳥。なるほど、うまい事を言う。どうも独逸語は、私よりもはるかに上手なようだ。もう独逸語を使う事はよそう、と私はとっさに戦法をかえて、
「でも、支那にお帰りになったら、立派なお家があるのでしょう。」とたいへん俗な質問を発した。
 相手はそれに答えず、
「これから親しくしましょうね。支那人は、いやですか?」と少し顔を赤くして、笑いながら言った。
「けっこうですな。」ああ、なぜ私はあの時、あんな誠意のない、軽薄きわまる答え方をしたのであろう。あとで考え合わせると、あのとき周さんは、自分の身の上の孤独寂寥せきりょうに堪えかねて、周さんの故郷の近くの西湖に似たと言われる松島の風景を慕って、ひとりでこっそりやって来て、それでもやっぱり憂愁をまぎらす事が出来ず、やけになって大声で下手な唱歌などを歌って、そうして、そこに不意にあらわれたヘマな日本の医学生に、真剣に友交を求めたのに違いないのだ。けれども私は、かねてから実は内心あこがれていないわけでもなかったところの江戸っ子弁というやつをはばからず自由に試みられる恰好かっこうの相手が見つかって有頂天になっていたので、そんな相手の気持など何もわからず、ただもうのぼせて、「大いに、けっこうです。」とうわの空で言い、「僕は支那の人は大好きなんです。」とふだん心に思ってもいない事まで口走る始末であった。
「ありがとう。あなたは、失礼ですが、僕の弟によく似ているのです。」
「光栄です。」と私は、ほとんど生粋きっすいの都会人の如き浅墓あさはかな社交振りを示して、「その弟さんは、しかし、あなたに似て頭がいいのでしょう? その点は僕と違うようですね。」
「どうですか。」とくったく無げに笑いながら、「あなたがお金持で、弟は貧乏だというところも違います。」
「まさか。」さすがの社交家も、之には応対の仕様が無かった。
「本当です。父が死んでから、一家はバラバラに離散しました。故郷があって、無いようなものです。相当な暮しの家に育った子供が、急にその家を失った場合、世間というものの本当の姿を見せつけられます。僕は親戚しんせきの家に寄寓きぐうして、乞食こじき、と言われた事があります。しかし、僕は、負けませんでした。いや、負けたのかも知れない。der Bettler,」と小声で言って煙草を捨て、靴の先で踏みにじりながら、「支那ではね、乞食の事をホワツと言うのです。花子はなこと書きます。乞食でいながら、Blume を anmassen しようとするのは、Humor にもなりません。それは、愚かな Eitelkeit です。そうです。僕のからだにも、その虚栄アイテルカイトの Blut が流れているのかも知れない。いや、現在の清国の姿が、ganz それです。いま世界中で、あわれなアイテルカイトで生きているのは、あの Dame だけです。あの Gans だけです。」
 熱して来るとひとしお独逸語が連発するので、にわか仕立ての社交家もこれには少なからず閉口した。私には江戸っ子弁よりも、さらにさらに独逸語が苦手なのである。窮した揚句あげく
「あなたは、お国の言葉よりも、独逸語のほうがお得意のようですね。」と一矢を報いてやった。何とかして、あの独逸語を封じなければならぬ。
「そうではありません。」と相手は、私の皮肉がわからなかったらしく、まじめに首を振って、「僕の日本語が、おわかりにならぬかと思って。」
「いや、いや。」私はここぞと乗り出し、「あなたの日本語は、たいへん上手です。どうか、日本語だけで話して下さい。僕は、まだ独逸語は、どうも。」
「やめましょう。」と向うも、急にはにかんで、おだやかな口調にかえり、「僕は、馬鹿な事ばかり言いました。しかし、独逸語は、これからも、うんと勉強しようと思っています。日本の医学の先駆者、杉田玄白げんぱくも、まず語学の勉強からはじめたようです。藤野先生も最初の授業の時に、杉田玄白蘭学らんがくの苦心を教えてくれましたが、あなたは、あの時、――」と言いかけて、私の顔をのぞいてへんに笑った。
「欠席しました。」
「そうでしょう。どうもあの時、あなたの顔は見かけなかった。僕は、本当は、あなたを入学式の日から知っているのです。あなたは、入学式の時、制帽をかぶって来ませんでしたね。」
「ええ、何だかどうも、角帽が恥かしくて。」
「きっと、そうだろうと思っていました。あの日、制帽をかぶって来ない新入生が二人いました。ひとりは、あなたで、もうひとりは、僕でした。」と言って、にやりと笑った。
「そうでしたか。」と私も笑った。「それでは、あなたも、やはり、――」
「そうです。恥かしかったのです。この帽子は、音楽隊の帽子に似ていますからね。それから、僕は、学校へ出るたびに、あなたの姿を捜していました。けさ、船で一緒になって、うれしかったのです。しかし、あなたは僕を避けていました。船から降りたら、もういなくなっていました。でも、やっぱり、ここで逢いました。」
「風が、寒くなりましたね。下へ降りましょうか。」妙に、てれくさくなって来たので、私は話頭を転じた。
「そうね。」と彼は、やさしく首肯うなずいた。
 私は、しんみりした気持で周さんの後について山を降りた。何か、このひとが、自分の肉親のような気がして来た。うしろの松林から松籟しょうらいが起った。
「ああ。」と周さんは振りかえって、「これで完成しました。何か、もう一つ欲しいと思っていたら、この松の枝を吹く風の音で、松島も完成されました。やっぱり、松島は、日本一ですね。」
「そう言われると、そんな気もしますが、しかし僕には、まだ何だか物足りない。西行さいぎょうの戻り松というのが、このへんの山にあると聞いていますが、西行はその山の中の一本松の姿が気に入って立ち戻って枝ぶりを眺めたというのではなく、西行も松島へ来て、何か物足りなく、浮かぬ気持で帰る途々みちみち、何か大事なものを見落したような不安を感じ、その松のところからまた松島に引返したというのじゃないかとさえ考えられます。」
「それは、あなたがこの国土を愛し過ぎているから、そんな不満を感じるのです。僕は浙江省せっこうしょう紹興しょうこうに生れ、あの辺は東洋のヴェニスと呼ばれて、近くには有名な西湖もあり、外国の人がたいへん多くやって来て、口々に絶讃するのですが、僕たちから見ると、あの風景には、生活の粉飾が多すぎて感心しません。人間の歴史の粉飾、と言ったらいいでしょうか。西湖などは、清国政府の庭園です。西湖十景だの三十六名蹟めいせきだの、七十二勝だのと、人間の手垢てあかをベタベタ附けて得意がっています。松島には、それがありません。人間の歴史と隔絶されています。文人墨客ぼっかくこれを犯す事が出来ません。天才芭蕉も、この松島を詩にする事が出来なかったそうじゃありませんか。」
「でも、芭蕉は、この松島を西湖にたとえていたようですよ。」
「それは、芭蕉が西湖の風景を見た事が無いからです。本当に見たら、そんな事を言うはずはありません。まるで、違うものです。むしろ舟山列島に似ているかも知れません。しかし、浙江海は、こんなに静かではありません。」
「そうですかねえ。日本の文人、墨客たちは、昔から、ずいぶんお国の西湖を慕っていて、この松島も西湖にそっくりだというので、遠くから見物に来るのです。」
「僕も、それは聞いていました。そう聞いていたから、見に来たのです。しかし、少しも似ていませんでした。お国の文人も、早く西湖の夢からめなければいけませんね。」
「しかし、西湖だって、きっといいところがあるのでしょう。あなたもやはり、故郷を愛しすぎて、それで点数がからくなっているのでしょう。」
「そうかも知れません。真の愛国者は、かえって国の悪口を言うものですからね。しかし、僕は所謂いわゆる西湖十景よりは、浙江の田舎いなかの平凡な運河の風景を、ずっと愛しています。僕には、わが国の文人墨客たちの騒ぐ名所が、一つとしていいと思われないのです。銭塘せんとうの大潮は、さすがに少し興奮しますが、あとは、だめです。僕は、あの人たちを信用していないのです。あの人たちは、あなたの国でいう道楽者と同じです。彼等は、文章を現実から遊離させて、堕落させてしまいました。」
 山から降りて海岸に出た。海は斜陽に赤く輝いていた。
「わるくないです。」と周さんは微笑ほほえんで、両手をうしろに組み、「月夜は、どうだろう。今夜は、十三夜の筈だが、あなたは、これからすぐお帰りですか。」
「きめていないんです。学校はあしたも休みですね。」
「そうです。僕は、月夜の松島も見たくなりました。つき合いませんか。」
「けっこうです。」
 僕は、まったく、どうでもよかったのである。学校が休みでなくっても、それまでちょいちょい勝手に欠席していたのだし、二日つづきの休暇を利用するというのも下宿の家族の者たちへの手前、あまり怠惰な学生と見られても工合が悪いので、几帳面きちょうめんにそんな日を選んだというだけの話で、実際は、二日つづきの休暇も三日つづきの休暇も、問題でなかったのである。
 私があまりに唯々諾々いいだくだくと従ったら、周さんは敏感に察したらしく、声を挙げて笑い、
「しかし、あさってからは学校へ出て、僕と一緒に講義のノオトをとりましょう。僕のノオトは、たいへん下手ですが、ノオトは僕たち学生の、」と言って、少しとぎれて、「Preiszettel のようなものです。」とまた私の苦手の独逸語を使い、「何円何十銭というふだです。これが無いと、人は僕たちを信用しません。学生の宿命です。面白くなくても、ノオトをとらなければいけません。しかし、藤野先生の講義は、面白いですよ。」
 この、私たちがはじめて言葉をかわした日から周さんは、藤野先生のお名前をしばしば口にしていたのである。

 
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【日刊 太宰治全小説】#184「惜別」一

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【冒頭】
これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。

【結句】
どうせ、私には名文も美文も書けやしないのだから、くどくど未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已矣ノミ」という事だけを心掛けて、左顧さこ右眄うべんもせずに書いて行けばいいのであろう。「なんじノ知ラザル所ハ、人ソレコレテンヤ」である。

 

惜別せきべつ」について

新潮文庫『惜別』所収。
・昭和20年2月20日頃に脱稿。
・昭和20年9月5日、『惜別』を朝日新聞社から刊行。


惜別 (新潮文庫)

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■学生時代の魯迅

 

全文掲載(「青空文庫」より)

これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。



 先日、この地方の新聞社の記者だと称する不精鬚ぶしょうひげをはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、と問う。そのとおりだ、と私は答えた。
「明治三十七年の入学ではなかったかしら。」と記者は、胸のポケットから小さい手帖てちょうを出しながら、せっかちに尋ねる。
「たしか、その頃と記憶しています。」私は、記者のへんに落ちつかない態度に不安を感じた。はっきり言えば、私にはこの新聞記者との対談が、終始あまり愉快でなかったのである。
「そいつあ、よかった。」記者は蒼黒おぐほおに薄笑いを浮かべて、「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っているはずだ。」とあきれるくらいに強く、きめつけるような口調で言い、手帖をひらいて私の鼻先に突き出した。ひらかれたペエジには鉛筆で大きく、
 周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅ろじんとなって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
「たとえば、どんなところが?」と、記者は一ひざ乗り出して、「いや、実はね、藤野先生という題の魯迅の随筆を読むと、魯迅が明治三十七、八年、日露戦争の頃、仙台医専にいて、そうして藤野厳九郎という先生にたいへん世話になった、と、まあ、そんな事が書かれているのですね、それで私は、この話をうちの新聞の正月の初刷りに、日支親善の美談、とでも言ったような記事にして発表しようと思っているのですがね、ちょうどあなたがそのころの、仙台医専の生徒だったのではあるまいかとにらんでやって来たようなわけです。いったい、どんな工合でした、そのころの魯迅は。やはりこの、青白い憂鬱ゆううつそうな表情をしていたでしょうね。」
「いいえ、別にそう。」私のほうで、ひどく憂鬱になって来た。「変ったところもございませんでした。なんと申し上げたらいいのでしょうか、非常に聡明そうめいな、おとなしい、――」
「いや、そんなに用心しなくてもいいんだ。私は何も魯迅の悪口を書こうと思っているのじゃないし、いまも言ったように、東洋民族の総親和のために、これを新年の読物にしようと思っているのですからね、ことにこれはわが東北地方と関係のあることでもありますから、わばまあ地方文化への一つの刺戟しげきになるのです。だから、あなたもわが東北文化のために大いに自由闊達かったつに、当時の思い出話を語って下さい。あなたにご迷惑のかかるような事は絶対に無いのですから。」
「いいえ、決して、そんな、用心なんかしていませぬのですが。」その日は、なぜだか、気が重かった。「何せもう、四十年も昔の事で、決して、そんな、ごまかす積りはないのですけれども、私のような俗人のたわいない記憶など果してお役に立つものかどうか。――」
「いや、いまはそんな、つまらぬ謙遜けんそんなんかしている時代じゃありませんよ。それでは、私は少し質問しますが、記憶に残っているところだけでも答えて下さい。」
 それから記者は一時間ばかり、当時の事をいろいろ質問して、私のしどろもどろの答弁にすこぶる失望の面持で帰って行ったが、それでも、ことしの正月にはその地方の新聞に、「日支親和の先駆」という題で私の懐古談の形式になっている読物が五、六日間連載された。さすがに商売柄、私のあんな不得要領の答弁をたくみに取捨して、かなり面白い読物にまとめている手腕には感心したが、けれども、そこに出ている周さんも、また恩師の藤野先生も、また私も、まるで私には他人のように思われた。私の事など、どんなに書かれたって何でも無いけれども、恩師の藤野先生や周さんが、私の胸底の画像とまるで違って書かれているので読んだ時には、かなりの苦痛を感じた。これもみな私の答弁の拙劣に原因しているのであろうが、でも、どうも、あんなに正面切って次々と質問されるとこちらは、しどろもどろにならざるを得ないのである。とっさに適切の形容等、私のような愚かな者にはとても思い浮かばず、まごついて、ふとつぶやいた無意味な形容詞一つが、妙に強く相手の耳にはいって自分の真意を曲解されてしまう事も少くないだろうし、どうも私は、この一問一答は、にがてなのだ。それで私は、こんどの記者の来訪には、非常に困惑し、自分のしどろもどろの答弁に自分で腹を立て、記者が帰ってからも二、三日、悲しい思いで暮したのだが、いよいよ正月になって、新聞に連載された懐古談なるものを読み、いまは、ただ藤野先生や、周さんに相すまない気持で一ぱいで、自分も既に六十の坂を越えて、もうそろそろこの世からおいとまをしてもよい年になっているし、いまのうちに、私の胸底の画像を、正しく書いて残して置くのも無意義なことではないと思い立ったのである。といっても私は、何もあの新聞に連載された「親和の先駆」という読物に、ケチを附けるつもりは無いのである。あのような社会的な、また政治的な意図をもった読物は、あのような書き方をせざるを得ないのであろう。私の胸底の画像と違うのも仕方の無いことで、私のは謂わばまあ、田舎いなか耄碌もうろく医者が昔の恩師と旧友を慕う気持だけで書くのだから、社会的政治的の意図よりは、あの人たちの面影をただていねいに書きとめて置こうという祈念のほうが強いのは致し方の無い事だろう。けれども私は、それはまた、それで構わないと思っている。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。恩師と旧友の面影を正すというのは、ささやかな仕事に似て、また確実に人倫の大道に通じているかも知れないのである。まあ、いまの老齢の私に出来る精一ぱいの仕事、というようなところであろう。このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、しかし、毎日よく晴れた上天気で、この私の南向きの書斎は火鉢ひばちが無くても春の如くあたたかく、私の仕事も、敵の空襲に妨げられ萎縮するなどの事なく順調に進んで行きそうな、楽しい予感もする。

 さて、私の胸底の画像と言っても、果して絶対に正確なものかどうか、それはどうも保証し難い。自分では事実そのままに語っているつもりでも、凡愚の印象というものは群盲象をさぐるの図に似て、どこかに非常な見落しがあるかも知れず、それに、もうこれは四十年も昔の事で、凡愚の印象さらにあいまいの度を加えて、ただいま恩師と旧友の肖像を正さんと意気込んで筆をっても、内心はなはだ心細いところが無いでもない。まあ、あまり大きい慾を起さず、せめて一面の真実だけでも書き残す事が出来たら満足という気持で書く事にしよう。どうも、としをとると、愚痴ぐちやら弁解やら、言う事が妙にしちくどくなっていけない。どうせ、私には名文も美文も書けやしないのだから、くどくどと未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已ノミ矣」という事だけを心掛けて、左顧さこ右眄うべんもせずに書いて行けばいいのであろう。「ナンジノ知ラザル所ハ、人ソレコレテンヤ」である。 

 「惜別」二 へ

  

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【日刊 太宰治全小説】#183「竹青」

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【冒頭】
むかし湖南の何とやら群邑(ぐんゆう)に、魚容(ぎょよう)という名の貧書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。この魚容君など、氏育ち共に賤(いや)しくなく、眉目清秀(びもくせいしゅう)、容姿また閑雅の趣きがあって、書を好むこと色を好むが如しとは言えないまでも、とにかく幼少の頃より神妙に学に志して、これぞという道にはずれた振舞いも無かった人であるが、どういうわけか、福運には恵まれなかった。

【結句】
一年後に、玉のような美しい男子が生れた。魚容はその子に「漢産」という名をつけた。その名の由来は最愛の女房にも明かさなかった。神烏の思い出と共に、それは魚容の胸中の尊い秘密として一生、誰にも語らず、また、れいの御自慢の「君子の道」も以後はいっさい口にせず、ただ黙々と貧しいその日暮しを続け、親戚の者たちにはやはり一向に敬せられなかったが、格別それを気にするふうも無く、極めて平凡な一田夫として俗塵(ぞくじん)に埋もれた。  

 

竹青(ちくせい)」について

新潮文庫お伽草紙』所収。
・昭和20年3月5日頃に脱稿。
・昭和20年4月1日付発行(5月下旬発売)、『文藝』四月号に「竹青ー新曲聊斎志異」(にちに副題を削除)として発表。


お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 むかし湖南こなんの何とやら郡邑ぐんゆうに、魚容という名の貧書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。この魚容君など、うじ育ち共にいやしくなく、眉目びもく清秀、容姿また閑雅かんがおもむきがあって、書を好むこと色を好むがごとしとは言えないまでも、とにかく幼少の頃より神妙に学に志して、これぞという道にはずれた振舞いも無かった人であるが、どういうわけか、福運には恵まれなかった。早く父母に死別し、親戚しんせきの家を転々して育って、自分の財産というものも、その間に綺麗きれいさっぱり無くなっていて、いまは親戚一同から厄介者やっかいものの扱いを受け、ひとりの酒くらいの伯父おじが、酔余すいよの興にその家の色黒くせこけた無学の下婢かひをこの魚容に押しつけ、結婚せよ、よい縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑ではあったが、この伯父もまた育ての親のひとりであって、わば海山の大恩人に違いないのであるから、その酔漢の無礼な思いつきに対して怒る事も出来ず、涙をこらえ、うつろな気持で自分より二つ年上のその痩せてひからびた醜い女をめとったのである。女は酒くらいの伯父のめかけであったといううわさもあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑して、魚容が「大学の道は至善にとどまるにり」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走ごちそうに止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って、「あなた、すみませんが、これをみな洗濯して下さいな。少しは家事の手助けもするものです」と魚容の顔をめがけて女のよごれ物を投げつける。魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬いななきて白日暮れ、剣鳴て秋気来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、わが故土にいながらも天涯の孤客こかくの如く、心はびょうとしてむなしく河上を徘徊はいかいするという間の抜けた有様であった。
「いつまでもこのようなみじめな暮しを続けていては、わが立派な祖先に対しても申しわけが無い。乃公おれもそろそろ三十、而立じりつの秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つなぐって家を飛び出し、満々たる自信をもっ郷試きょうしに応じたが、如何いかにせん永い貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼとぼと、また故郷のあばら屋に帰る途中の、悲しさは比類が無い。おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、洞庭湖どうていこはん呉王廟ごおうびょうの廊下にい上って、ごろりと仰向あおむけに寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。乃公の如きは幼少の頃より、もっぱらひとりを慎んで古聖賢の道をきわめ、学んでしこうして時にこれを習っても、遠方から福音の訪れ来る気配はさらに無く、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、大勇猛心を起して郷試に応じても無慙むざんの失敗をするし、この世には鉄面皮の悪人ばかり栄えて、乃公の如き気の弱い貧書生は永遠の敗者として嘲笑せられるだけのものか。女房をぶん殴って颯爽さっそうと家を出たところまではよかったが、試験に落第して帰ったのでは、どんなに強く女房に罵倒ばとうせられるかわからない。ああ、いっそ死にたい」と極度の疲労のため精神朦朧もうろうとなり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世をのろい、わが身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶからすの大群を見上げ、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と小声で言って、眼を閉じた。
 この湖畔の呉王廟は、三国時代の呉の将軍甘寧かんねいを呉王と尊称し、之を水路の守護神としてあがめまつっているもので、霊顕すこぶるあらたかの由、湖上往来の舟がこの廟前を過ぐる時には、舟子かこども必ず礼拝し、廟の傍の林には数百の烏が棲息せいそくしていて、舟を見つけると一斉に飛び立ち、唖々ああとやかましさわいで舟の帆柱に戯れ舞い、舟子どもは之を王の使いの烏として敬愛し、羊の肉片など投げてやるとさっと飛んで来て口にくわえ、千に一つも受け損ずる事は無い。落第書生の魚容は、この使い烏の群が、嬉々ききとして大空を飛び廻っている様をうらやましがり、烏は仕合せだなあ、と哀れな細い声でつぶやいて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし。」と黒衣の男にゆり起されたのである。
 魚容は未だ夢心地で、
「ああ、すみません。しからないで下さい。あやしい者ではありません。もう少しここに寝かせて置いて下さい。どうか、叱らないで下さい。」と小さい時からただ人に叱られて育って来たので、人を見ると自分を叱るのではないかとおびえる卑屈な癖が身についていて、この時も、譫言うわごとのように「すみません」を連発しながら寝返りを打って、また眼をつぶる。
「叱るのではない。」とその黒衣の男は、不思議なしわがれたる声で言って、「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるというお言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた。
 たちまち、魚容はおすの烏。眼をぱちぱちさせて起き上り、ちょんと廊下の欄干らんかんにとまって、くちばしで羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応きょうおうにあずかっている数百の神烏しんうにまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手じょうずに嘴に受けて、すぐにもう、生れてはじめてと思われるほどの満腹感を覚え、岸の林に引上げて来て、こずえにとまり、林に嘴をこすって、水満々の洞庭の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風ひるがえす黄金浪花千片か」などと所謂いわゆる君子蕩々然とうとうぜんとうそぶいていると、
「あなた、」とえんなる女性の声がして、「お気に召しまして?」
 見ると、自分と同じ枝にめすの烏が一羽とまっている。
「おそれいります。」魚容は一揖いちゆうして、「何せどうも、身は軽くして泥滓でいしを離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。
「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」
「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
「いやじゃないが、」魚容は狼狽ろうばいして、「乃公おれにはちゃんと女房があります。浮気は君子の慎しむところです。あなたは、乃公を邪道に誘惑しようとしている。」と無理に分別顔を装うて言った。
「ひどいわ。あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの? ひどいわ。これはみな呉王さまの情深いお取りはからいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは呉王さまから言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さんの事なんか忘れてしまってもいいのよ。あなたの奥さんはずいぶんお優しいお方かも知れないけれど、あたしだってそれに負けずに、一生懸命あなたのお世話をしますわ。烏のみさおは、人間の操よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをお傍に置いて下さいな。あたしの名前は、竹青というの。」
 魚容は情に感じて、
「ありがとう。乃公も実は人間界でさんざんの目にって来ているので、どうも疑い深くなって、あなたの御親切も素直に受取る事が出来なかったのです。ごめんなさい。」
「あら、そんなに改まった言い方をしては、おかしいわ。きょうから、あたしはあなたの召使いじゃないの。それでは旦那だんな様、ちょっと食後の御散歩は、いかがでしょう。」
「うむ、」と魚容もいまは鷹揚おうようにうなずき、「案内たのむ。」
「それでは、ついていらっしゃい。」とぱっと飛び立つ。
 秋風嫋々じょうじょうと翼をで、洞庭の烟波えんぱ眼下にあり、はるかに望めば岳陽のいらか灼爛しゃくらんと落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐かれん一点の翠黛すいたいを描いて湘君しょうくんおもかげをしのばしめ、黒衣の新夫婦は唖々ああと鳴きかわして先になり後になりうれえず惑わずおそれず心のままに飛翔ひしょうして、疲れると帰帆の檣上しょうじょうにならんで止って翼を休め、顔を見合わせて微笑ほほえみ、やがて日が暮れると洞庭秋月皎々こうこうたるを賞しながら飄然ひょうぜんねぐらに帰り、互に羽をすり寄せて眠り、朝になると二羽そろって洞庭の湖水でぱちゃぱちゃとからだを洗い口をすすぎ、岸に近づく舟をめがけて飛び立てば、舟子どもから朝食の奉納があり、新婦の竹青はいしく恥じらいながら影の形に添う如くいつも傍にあって何かと優しく世話を焼き、落第書生の魚容も、その半生の不幸をここで一ぺんに吹き飛ばしたような思いであった。
 その日の午後、いまは全く呉王廟の神烏の一羽になりすまして、往来の舟の帆檣にたわむれ、折から兵士を満載した大舟が通り、仲間の烏どもは、あれは危いと逃げて、竹青もけたたましく鳴いて警告したのだけれども、魚容の神烏は何せ自由に飛翔できるのがうれしくてたまらず、得意げにその兵士の舟の上を旋回せんかいしていたら、ひとりのいたずらっの兵士が、ひょうと矢を射てあやまたず魚容の胸をつらぬき、石のように落下する間一髪、竹青、稲妻いなずまの如く迅速に飛んで来て魚容の翼をくわえ、さっと引上げて、呉王廟の廊下に、瀕死ひんしの魚容を寝かせ、涙を流しながら甲斐甲斐かいがいしく介抱かいほうした。けれども、かなりの重傷で、とても助からぬと見て竹青は、一声悲しく高く鳴いて数百羽の仲間の烏を集め、羽ばたきの音も物凄ものすごく一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面をあおって大浪を起したちまち舟を顛覆てんぷくさせて見事に報讐ほうしゅうし、大烏群は全湖面を震撼しんかんさせるほどの騒然たる凱歌がいかを挙げた。竹青はいそいで魚容のもとに引返し、その嘴を魚容の頬にすり寄せて、
「聞えますか。あの、仲間の凱歌が聞えますか。」と哀慟あいどうして言う。
 魚容は傷の苦しさに、もはや息も絶える思いで、見えぬ眼をわずかに開いて、
「竹青。」と小声で呼んだ、と思ったら、ふと眼がめて、気がつくと自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で呉王廟の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前のかえでの林を照らして、そこには数百の烏が無心に唖々と鳴いて遊んでいる。
「気がつきましたか。」と農夫の身なりをしたじじいが傍に立っていて笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」
「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に眼を醒まさない。肩をつかんでゆすぶっても、ぐたりとしている。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、眼の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色もよくないが、どこか病気か。」
「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっともいていない。「すみませんでした。」とれいのあやまり癖が出て、坐り直して農夫に叮嚀ていねいにお辞儀をして、「お恥かしい話ですが、」と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。
 農夫はあわれに思った様子で、ふところから財布さいふを取出しいくらかの金を与え、
「人間万事塞翁さいおうの馬。元気を出して、再挙をはかるさ。人生七十年、いろいろさまざまの事がある。人情は飜覆ほんぷくして洞庭湖波瀾はらんに似たり。」と洒落しゃれた事を言って立ち去る。
 魚容はまだ夢の続きを見ているような気持で、呆然ぼうぜんと立って農夫を見送り、それから振りかえって楓の梢にむらがる烏を見上げ、
「竹青!」と叫んだ。一群の烏が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛びまわり、それからまっすぐに湖の方へいそいで行って、それっきり、何の変った事も無い。
 やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きい溜息ためいきをついて、力無く故土に向けて発足する。
 故郷の人たちは、魚容が帰って来ても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく伯父の家の庭石の運搬を魚容に命じ、魚容は汗だくになって河原から大いなる岩石をいくつも伯父の庭先まで押したりいたりかついだりして運び、「貧してえん無きは難し」とつくづく嘆じ、「あしたに竹青の声を聞かばゆうべに死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほどはげしく懐慕せられるのである。
 伯夷叔斉はくいしゅくせいは旧悪をおもわず、うらみこれを用いてまれなり。わが魚容君もまた、君子の道に志している高邁こうまいの書生であるから、不人情の親戚をも努めて憎まず、無学の老妻にも逆わず、ひたすら古書に親しみ、閑雅の清趣を養っていたが、それでも、さすがに身辺の者から受ける蔑視べっしには堪えかねる事があって、それから三年目の春、またもや女房をぶん殴って、いまに見ろ、と青雲の志をいだいて家出して試験に応じ、やっぱり見事に落第した。よっぽど出来ない人だったと見える。帰途、また思い出の洞庭湖畔、呉王廟に立ち寄って、見るものみな懐しく、悲しみもまた千倍して、おいおい声を放って廟前で泣き、それから懐中のわずかな金を全部はたいて羊肉を買い、それを廟前にばらいて神烏に供して樹上から降りて肉をついばむ群烏を眺めて、この中に竹青もいるのだろうなあ、と思っても、皆一様に真黒で、それこそ雌雄をさえ見わける事が出来ず、
「竹青はどれですか。」と尋ねても振りかえる烏は一羽も無く、みんなただ無心に肉を拾ってたべている。魚容はそれでも諦められず、
「この中に、竹青がいたら一番あとまで残っておいで。」と、千万の思慕の情をこめて言ってみた。そろそろ肉が無くなって、群烏は二羽立ち、五羽立ち、むらむらぱっと大部分飛び立ち、あとには三羽、まだ肉を捜して居残り、魚容はそれを見て胸をとどろかせ手に汗を握ったが、肉がもう全く無いと見てぱっと未練みれんげも無く、その三羽も飛び立つ。魚容は気抜けの余りくらくら眩暈めまいして、それでもなお、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞はるがすみに煙る湖面を眺めてただやたらに溜息をつき、「ええ、二度も続けて落第して、何の面目があっておめおめ故郷に帰られよう。生きて甲斐かいない身の上だ、むかし春秋戦国の世にかの屈原くつげんも衆人皆酔い、我ひとめたり、と叫んでこの湖に身を投げて死んだとかいう話を聞いている、乃公おれもこの思い出なつかしい洞庭に身を投げて死ねば、あるいは竹青がどこかで見ていて涙を流してくれるかも知れない、乃公を本当に愛してくれたのは、あの竹青だけだ、あとは皆、おそろしい我慾の鬼ばかりだった、人間万事塞翁の馬だと三年前にあのおじいさんが言ってはげましてくれたけれども、あれは嘘だ、不仕合せに生れついた者は、いつまでっても不仕合せのどん底であがいているばかりだ、これすなわち天命を知るという事か、あはは、死のう、竹青が泣いてくれたら、それでよい、他には何も望みは無い」と、古聖賢の道をきわめた筈の魚容も失意の憂愁に堪えかね、今夜はこの湖で死ぬる覚悟。やがて夜になると、輪郭りんかくにじんだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白くぼうとして空と水の境が無く、岸の平沙へいさは昼のように明るく柳の枝は湖水のもやを含んで重く垂れ、遠くに見える桃畑の万朶ばんだの花はあられに似て、微風が時折、天地の溜息の如く通過し、いかにも静かな春の良夜、これがこの世の見おさめと思えば涙もそでにあまり、どこからともなく夜猿やえんの悲しそうな鳴声が聞えて来て、愁思まさに絶頂に達した時、背後にはたはたと翼の音がして、
「別来、つつが無きや。」
 振り向いて見ると、月光を浴びて明眸皓歯めいぼうこうし二十はたちばかりの麗人がにっこり笑っている。
「どなたです、すみません。」とにかく、あやまった。
「いやよ、」と軽く魚容の肩を打ち、「竹青をお忘れになったの?」
「竹青!」
 魚容は仰天して立ち上り、それから少し躊躇ちゅうちょしたが、ええ、ままよ、といきなり美女の細い肩を掻き抱いた。
「離して。いきが、とまるわよ。」と竹青は笑いながら言って巧みに魚容の腕からのがれ、「あたしは、どこへも行かないわよ。もう、一生あなたのお傍に。」
「たのむ! そうしておくれ。お前がいないので、乃公は今夜この湖に身を投げて死んでしまうつもりだった。お前は、いったい、どこにいたのだ。」
「あたしは遠い漢陽に。あなたと別れてからここを立ち退き、いまは漢水の神烏になっているのです。さっき、この呉王廟にいる昔のお友達があなたのお見えになっている事を知らせにいらして下さったので、あたしは、漢陽からいそいで飛んで来たのです。あなたの好きな竹青が、ちゃんとこうして来たのですから、もう、死ぬなんておそろしい事をお考えになっては、いやよ。ちょっと、あなたも痩せたわねえ。」
「痩せる筈さ。二度も続けて落第しちゃったんだ。故郷に帰れば、またどんな目に遭うかわからない。つくづくこの世が、いやになった。」
「あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。人間いたるところに青山せいざんがあるとか書生さんたちがよく歌っているじゃありませんか。いちど、あたしと一緒に漢陽の家へいらっしゃい。生きているのも、いい事だと、きっとお思いになりますから。」
「漢陽は、遠いなあ。」いずれが誘うともなく二人ならんでびょうの廊下から出て月下の湖畔を逍遥しょうようしながら、「父母いませば遠く遊ばず、遊ぶに必ず方有り、というからねえ。」魚容は、もっともらしい顔をして、れいの如くその学徳の片鱗へんりんを示した。
「何をおっしゃるの。あなたには、お父さんもお母さんも無いくせに。」
「なんだ、知っているのか。しかし、故郷には父母同様の親戚の者たちが多勢いる。乃公は何とかして、あの人たちに、乃公の立派に出世した姿をいちど見せてやりたい。あの人たちは昔から乃公をまるで阿呆か何かみたいに思っているのだ。そうだ、漢陽へ行くよりは、これからお前と一緒に故郷に帰り、お前のその綺麗きれいな顔をみんなに見せて、おどろかしてやりたい。ね、そうしようよ。乃公は、故郷の親戚の者たちの前で、いちど、思いきり、大いに威張ってみたいのだ。故郷の者たちに尊敬されるという事は、人間の最高の幸福で、また終極の勝利だ。」
「どうしてそんなに故郷の人たちの思惑ばかり気にするのでしょう。むやみに故郷の人たちの尊敬を得たくて努めている人を、郷原きょうげんというんじゃなかったかしら。郷原は徳の賊なりと論語に書いてあったわね。」
 魚容は、ぎゃふんとまいって、やぶれかぶれになり、
「よし、行こう。漢陽に行こう。連れて行ってくれ。逝者ゆくものかくの如きかな、昼夜をてず。」てれ隠しに、はなはだ唐突な詩句をしょうして、あははは、と自らをあざけった。
「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと仕度がしてあります。ちょっと、眼をつぶって。」
 魚容は言われるままに眼を軽くつぶると、はたはたと翼の音がして、それから何か自分の肩に薄い衣のようなものがかかったと思うと、すっとからだが軽くなり、眼をひらいたら、すでに二人は雌雄の烏、月光を受けて漆黒しっこくの翼は美しく輝き、ちょんちょん平沙を歩いて、唖々と二羽、声をそろえて叫んで、ぱっと飛び立つ。
 月下白光三千里の長江ちょうこう、洋々と東北方に流れて、魚容は酔えるが如く、流れにしたがっておよそ二ときばかり飛翔して、ようよう夜も明けはなれてはるか前方に水の都、漢陽の家々のいらか朝靄あさもやの底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。近づくにつれて、晴川せいせん歴々たり漢陽の樹、芳草萋々せいせいたり鸚鵡おうむの洲、対岸には黄鶴楼のそびえるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば別山だいべつざんの高峰眼下にあり、ふもとには水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水蜿蜒えんえんと天際に流れ、東洋のヴェニスぼうの中に収り、「わが郷関きょうかんいずれの処ぞこれなる、煙波江上、人をして愁えしむ」と魚容は、うっとり呟いた時、竹青は振りかえって、
「さあ、もう家へまいりました。」と漢水の小さな孤洲の上で悠然と輪を描きながら言った。魚容も真似して大きく輪を描いて飛びながら、脚下の孤洲を見ると、緑楊りょくよう水にひたり若草けむるが如き一隅にお人形の住家みたいな可憐な美しい楼舎があって、いましもその家の中から召使いらしき者五、六人、走り出て空を仰ぎ、手を振って魚容たちを歓迎している様が豆人形のように小さく見えた。竹青は眼で魚容に合図して、翼をすぼめ、一直線にその家めがけて降りて行き、魚容もおくれじと後を追い、二羽、その洲の青草原に降り立ったとたんに、二人は貴公子と麗人、にっこり笑い合って寄り添い、迎えの者に囲まれながらその美しい楼舎にはいった。
 竹青に手をひかれて奥の部屋へ行くと、その部屋は暗く、卓上の銀燭ぎんしょく青烟せいえんき、垂幕すいばくの金糸銀糸は鈍く光って、寝台には赤い小さな机が置かれ、その上に美酒佳肴かこうがならべられて、数刻前から客を待ち顔である。
「まだ、夜が明けぬのか。」魚容はの抜けた質問を発した。
「あら、いやだわ。」と竹青は少し顔をあからめて、「暗いほうが、恥かしくなくていいと思って。」と小声で言った。
「君子の道は闇然あんぜんたり、か。」魚容は苦笑して、つまらぬ洒落しゃれを言い、「しかし、いんむかいて怪を行う、という言葉も古書にある。よろしく窓を開くべしだ。漢陽の春の景色を満喫しよう。」
 魚容は、垂幕を排して部屋の窓を押しひらいた。朝の黄金の光がっと射し込み、庭園の桃花は、繚乱りょうらんたり、うぐいす百囀ひゃくてん耳朶じだをくすぐり、かなたには漢水小波さざなみが朝日を受けて躍っている。
「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」魚容は思わずそう言ってしまって、愕然がくぜんとした。乃公は未だあの醜い女房を愛しているのか、とわが胸に尋ねた。そうして、急になぜだか、泣きたくなった。
「やっぱり、奥さんの事は、お忘れでないと見える。」竹青は傍で、しみじみ言い、かすかな溜息をもらした。
「いや、そんな事は無い。あれは乃公の学問を一向に敬重せず、よごれ物を洗濯させたり、庭石を運ばせたりしやがって、その上あれは、伯父の妾であったという評判だ。一つとして、いいところが無いのだ。」
「その、一つとしていいところの無いのが、あなたにとって尊くなつかしく思われているのじゃないの? あなたの御心底は、きっと、そうなのよ。惻隠そくいんの心は、どんな人にもあるというじゃありませんか。奥さんを憎まずうらまず呪わず、一生涯、労苦をわかち合って共に暮して行くのが、やっぱり、あなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたは、すぐにお帰りなさい。」竹青は、一変して厳粛な顔つきになり、きっぱりと言い放つ。
 魚容は大いに狼狽ろうばいして、
「それは、ひどい。あんなに乃公を誘惑して、いまさら帰れとはひどい。郷原だの何だのと言って乃公を攻撃して故郷を捨てさせたのは、お前じゃないか。まるでお前は乃公を、なぶりものにしているようなものだ。」と抗弁した。
「あたしは神女です。」と竹青は、きらきら光る漢水の流れをまっすぐに見つめたまま、更にきびしい口調で言った。「あなたは、郷試には落第いたしましたが、神の試験には及第しました。あなたが本当に烏の身の上を羨望せんぼうしているのかどうか、よく調べてみるように、あたしは呉王廟の神様から内々に言いつけられていたのです。禽獣きんじゅうに化して真の幸福を感ずるような人間は、神に最も倦厭けんえんせられます。いちどは、こらしめのため、あなたを弓矢で傷つけて、人間界にかえしてあげましたが、あなたは再び烏の世界に帰る事を乞いました。神は、こんどはあなたに遠い旅をさせて、さまざまの楽しみを与え、あなたがその快楽に酔いれて全く人間の世界を忘却するかどうか、試みたのです。忘却したら、あなたに与えられる刑罰は、恐しすぎて口に出して言う事さえ出来ないほどのものです。お帰りなさい。あなたは、神の試験には見事に及第なさいました。人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗をてらうのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。ただいま召使いの者たちに、舟の仕度をさせて居ります。あれに乗って、故郷へまっすぐにお帰りなさい。さようなら。」と言い終ると、竹青の姿はもとより、楼舎も庭園も忽然こつぜんと消えて、魚容は川の中の孤洲に呆然と独り立っている。
 帆もかじも無い丸木舟が一そうするすると岸に近寄り、魚容は吸われるようにそれに乗ると、その舟は、飄然ひょうぜん自行じこうして漢水を下り、長江をさかのぼり、洞庭を横切り、魚容の故郷ちかくの漁村の岸畔に突き当り、魚容が上陸すると無人の小舟は、またするするとおのずから引返して行って洞庭の烟波えんぱの間に没し去った。
 すこぶるしょげて、おっかなびっくり、わが家の裏口から薄暗い内部を覗くと、
「あら、おかえり。」と艶然えんぜんと笑って出迎えたのは、ああ、驚くべし、竹青ではないか。
「やあ! 竹青!」
「何をおっしゃるの。あなたは、まあ、どこへいらしていたの? あたしはあなたの留守に大病して、ひどい熱を出して、誰もあたしを看病してくれる人がなくて、しみじみあなたが恋いしくなって、あたしが今まであなたを馬鹿にしていたのは本当に間違った事だったと後悔して、あなたのお帰りを、どんなにお待ちしていたかわかりません。熱がなかなかさがらなくて、そのうちに全身が紫色にれて来て、これもあなたのようないいお方を粗末そまつにした罰で、当然の報いだとあきらめて、もう死ぬのを静かに待っていたら、腫れた皮膚が破れて青い水がどっさり出て、すっとからだが軽くなり、けさ鏡を覗いてみたら、あたしの顔は、すっかり変って、こんな綺麗な顔になっているので嬉しくて、病気も何も忘れてしまい、寝床から飛び出て、さっそく家の中のお掃除などはじめていたら、あなたのお帰りでしょう? あたしは、うれしいわ。ゆるしてね。あたしは顔ばかりでなく、からだ全体変ったのよ。それから、心も変ったのよ。あたしは悪かったわ。でも、過去のあたしの悪事は、あの青い水と一緒にみんな流れ出てしまったのですから、あなたも昔の事は忘れて、あたしをゆるして、あなたのお傍に一生置いて下さいな。」
 一年後に、玉のような美しい男子が生れた。魚容はその子に「漢産」という名をつけた。その名の由来は最愛の女房にも明さなかった。神烏の思い出と共に、それは魚容の胸中の尊い秘密として一生、誰にも語らず、また、れいの御自慢の「君子の道」も以後はいっさい口にせず、ただ黙々と相変らずの貧しいその日暮しを続け、親戚の者たちにはやはり一向に敬せられなかったが、格別それを気にするふうも無く、極めて平凡な一田夫として俗塵ぞくじんに埋もれた。

自註。これは、創作である。支那のひとたちに読んでもらいたくて書いた。漢訳せられる筈である。

 

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【日刊 太宰治全小説】#182「吉野山」(『新釈諸国噺』)

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【冒頭】

拝啓。その後は、ごぶさたを申して居ります。までたく御男子御出生の由、大慶に存じます。いよいよ御家運御隆昌(ごりゅうしょう)の兆(きざし)と、おうらやましく思います。御一家いきいきと御家業にはげみ、御夕食後の御団欒(ごだんらん)はまた格別の事でありましょう。

【結句】

このたびのまことに無分別の遁世、何卒あわれと思召し、富籤(とみくじ)と観音像と、それから色紙の事お忘れなく、昔の遊び仲間の方々にもよろしくお伝え下され、陽春の頃には、いちど皆様そろって吉野へ御来駕(ごらいが)のほど、ひたすら御待ち申し上げます。頓首。 

 

吉野山」(『新釈諸国噺』)について

新潮文庫お伽草紙』所収。

・昭和20年1月27日、生活社から刊行の『新釈諸国噺』に収載。

お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 
吉野山  (大和やまと) よろず文反古ふみほうぐ、歿後三年刊行
 
 拝啓。その後は、ごぶさたを申してります。めでたく御男子御出生のよし、大慶に存じます。いよいよ御家運御隆昌ごりゅうしょうきざしと、おうらやましく思います。御一家いきいきと御家業にはげみ、御夕食後の御団欒ごだんらんはまた格別の事でありましょう。このお正月は御男子御出生と二つお目出度がかさなり、京の初春もわがものと思召おぼしめし、ひとしお御一家の笑声も華やかに、昔の遊び仲間も集り、都の極上の酒を酌交くみかわし、とかく楽しみは京の町人、それにつけても先年おろかな無分別を起して出家し、眼夢とやら名を変えて吉野の奥にわけ入った九平太は、いまどうしているかしらんと、さだめし一座の笑草になさった事でございましょうね。いやを申し上げているのではありません。眼夢、かくのごとく、いまはつくづく無分別の出家遁世とんせいを後悔いたし、冬の吉野の庵室あんしつに寒さに震えてすわって居ります。思えば、私の遁世は、何の意味も無く、ただ親兄弟を泣かせ、そなた様をはじめ友人一同にも、無用の発心ほっしんやめたまえ、としげく忠告致されましたが、とめられると尚更なおさら、意地になって是が非でも出家遁世しなければならぬような気持ちになり、とめるな、とめるな、浮世がいやになり申した、明日ありと思う心の仇桜あだざくら、など馬鹿ばかな事をわめいて剃髪ていはつしてしまいまして、それからすぐそっと鏡をのぞいてみたら、私には坊主頭ぼうずあたまが少しも似合わず、かねがね私の最も軽蔑けいべつしていた横丁の藪医者やぶいしゃの珍斎にそっくりで、しかも私の頭のあちこちに小さい禿はげがあるのを、その時はじめて発見つかまつり、うんざりして、実は既にその時から少し後悔していたのです。白状のしついでに私の出家遁世の動機をも、いまは包まず申し上げますが、私はあなた様たちのお仲間にいれてもらって一緒にお茶屋などに遊びにまいりましても、ついに一度も、もてた事はなく、そのくせ遊びは好きで、あなた様たちの楽しそうな様子を見るにつけても、よし今夜こそはと店の金をごまかし血の出るような無理算段して、私のほうからあなた様たちをお誘い申し、そうしてやっぱり、私だけもてず、お勘定はいつも私が払い、その面白おもしろくない事、る夜やぶれかぶれになって、女に向い、「男は女にふられるくらいでなくちゃ駄目だめなものだ」と言ったら、その女は素直に首肯うなずき、「本当に、そのお心掛けが大事ですわね」と真面目まじめに感心したような口調で申しますので、立つ瀬が無く、「無礼者!」と大喝だいかつして女を力まかせに殴り、諸行無常を観じ、出家にならねばならぬと覚悟をめた次第で、今日つらつら考えると私のような野暮で物欲しげで理窟りくつっぽい男は、若い茶屋女に好かれるはずはなく、親爺おやじのすすめる田舎女でも、おとなしくもらって置けばよかったとひとりで苦笑致して居ります。まことに山中のひとり暮しは、不自由とも何とも話にならぬもので、ごはんの煮たきは気持ちもまぎれて、まだ我慢も出来ますが、下着の破れを大あぐらいて繕い、また井戸端いどばたにしゃがんでふんどしの洗濯せんたくなどは、御不浄の仕末以上にもの悲しく、殊勝らしくお経をあげてみても、このお経というものも、聞いている人がいないとさっぱり張合いの無いもので、すぐ馬鹿らしくなって、ひとりで噴き出したりして、やめてしまいます。立ち上って吉野山の冬景色を見渡しても、都の人たちが、花と見るまで雪ぞ降りけるだの、春に知られぬ花ぞ咲きけるだの、いい気持ちで歌っているのとは事違い、雪はやっぱり雪、ただ寒いばかりで、あのうそつきの歌人めが、とむらむら腹が立って来ます。このように寒くては、墨染の衣一枚ではとてもしのぎがたく、墨染の衣の上にどてらをひっかけ、犬の毛皮を首に巻き、坊主頭もひやひやしますので寝ても起きても頬被ほおかぶりして居ります。この犬の毛皮は、この山の下に住む里人からくまの皮だとだまされて、馬鹿高い値段で買わされたのですが、尻尾しっぽがへんに長くてその辺に白い毛もまじっていますので、これは、白と黒のぶちの犬の皮ではないか、と後で里人に申しますと、その白いところは熊の月の輪という部分で、熊にっては月の輪がおしりのほうについている、との返事で、あまりの事に私も何とも言葉が出ませんでした。本当に、この山の下の里人は、たちが悪くて、何かと私をだましてばかり居ります。諸行無常を観じて世を捨てた人には、金銭など不要のものと思いのほか、里人が持って来る米、味噌みその値段の高い事、高いと言えば、むっと怒ったような顔をして、すぐに品物を持帰るような素振りを見せて、お出家様が御不自由していらっしゃるかと思って一日ひまをつぶしてこんな山の中に重いものを持ち運んで来るだ、いやなら仕方が無い、とひとりごとのように言い、私も、この品が無ければ餓死するよりほかは無いし、山を降りて他の里人にたのんでも同じくらいの値段を言い出すのはわかり切っていますし、泣き泣きその高い米、味噌を引きとらなければならないのです。山には木の実、草の実が一ぱいあって、それを気ままにとって食べてのんきに暮すのが山居の楽しみと心得ていましたが、聞いて極楽、見て地獄とはこの事、この辺の山野にはいずれも歴とした持主がありまして、ことしの秋に私がうっかり松茸まつたけを二、三本取って、山の番人からもう少しで殴り殺されるようなひどい目に遭いました。この方丈のいおりも、すぐ近くの栗林くりばやしの番小屋であったのを、私が少からぬ家賃で借りて、庵の裏の五坪ばかりの畑だけが、まあ、わずかに私の自由になるくらいのもので、野菜も買うとなるとなかなか高いので、大根人蔘にんじんの種を安くゆずってもらってこの裏の五坪の畑にき、まことに興覚めな話で恐縮ですが、出家も尻端折しりばしょりで肥柄杓こえびしゃくを振りまわさなければならぬ事もあり、その収穫は冬に備えて、縁の下に大きい穴を掘って埋めて置かなければならず、目前に一目千本の樹海を見ながら、まきはやっぱり里人から買わないと、いやな顔をされるし、ここへ来てにわかに浮世の辛酸をめ、何のための遁世やら、さっぱりわけがわからなくなりました。遁世してこのようにお金がかかるものとは思いも寄らず、そんなにお金も持って来ませんでしたので、そろそろ懐中も心細くなり、何度下山を思い立ったかわかりません。けれども、一旦いったん濁世じょくせを捨てた法師が、またのこのこ濁世の親御の家へ帰って泣いておわびをするなどは古今に例の無い事のようにも思われますし、これでも、私にはまだ少し恥を知る気持も意地もあり、また、ここを立ちのくにしても、里人への諸支払いがだいぶたまって居りますし、いま借りて使っている夜具や炊事道具を返すに当ってもまた金銭のややこしい問題が起るのではなかろうかと思えば、下山の決心もにぶります。と言えば、少していさいもいいけれども、実はもう一つ、とても私がいますぐ下山できないつらい理由があるのです。京の私の家のことし八十八歳になるばばさまが、大事のへそくりの百両を、二十年ほど前に小さい茶壺ちゃつぼにいれて固くふたをして、庭の植込みの奥深く、三本ならびのすぎの木の下に昔から屋敷に伝っているささやかなお稲荷いなりのお堂があって、そのお堂の縁の下にお盆くらいの大きさの平たい石があるのですが、その石の下にです、れいの茶壺を埋めて置いて、朝から日の暮れるまでに三度、夜寝る前に一度、日に都合四度ずつ竹のつえをついて庭を見廻みまわる振りをして、人知れず植込みの奥にを光らせてはいって行き、その隠し場所の安泰をたしかめ、私がまだ五つ六つの時分は、ばばさまにたいへん可愛かわいがられてもいましたし、また私をほんの子供と思って気をゆるしていたのでございましょう、或る日、私を植込みの奥に連れて行き、その縁の下の石を指差して、あの下に百両あるぞ、ばばを大事にした者に半分、いやいや一割あげるぞ、としわがれた声で言いまして、私はそれ以来どうにもその石の下が気になってたまらず、二十年後あなた様たちに遊びを教えられて、たちまち金に窮して悪心起り、とうとう一夜、月の光をたよりに石の下を掘り起し、首尾よく茶壺を見つけて、その中から三十両ばかり無断で拝借して、またもとのように茶壺を埋め、上に石を載せて置き、ばばさまに見つかるかと、ひやひやしてしばらくは御飯ものどにとおらず、天を拝し地に伏してひたすら無事を念じ、ばばさまはやっぱりお年のせいか、あのように眼を光らせても石の下まで見抜く事は出来なかった様子で、毎日四度ずつ調べに行っても平気な顔で帰って来るので、私も次第に大胆になり、その後も十両、二十両と盗み、やがて無常を観じて出家する時には、残っている金をそっくり行きがけの駄賃だちんとして拝借して旅立ったようなわけで、あのばばさまの生きていらっしゃる限り、私はおそろしくて家へ帰る事が出来ないのです。ばばさまは、まだきっとあの茶壺のからっぽな事にはお気附きづきなさらず、相変らず日に四度ずつ見廻りに行っている事でありましょうが、お気附きなさらぬままで頓死とんしでもなさったならば、ばばさまも仕合せ、また私の罪も永遠にうやむやになって、大手を振って家へ帰れるというわけになるのです。けれども、ばばさまのあのお元気では、きっと百まで生きるでしょうし、頓死など待っているうちに、孫の私のほうが山中の寒さにこごえ死にするような事になるかも知れません。思えば思うほど、心細くなります。昔の遊び友達、あるいは朝湯で知合った人、または質屋の手代てだい、出入りの大工、駕籠かごかきの九郎助にまで、とにかく名前を思い出し次第、知っている人全部に、吉野山の桜花の見事さを書き送り、おしなべて花の盛りになりにけり山の端毎はごとにかかる白雲、などと古人の歌をだれの歌とも言わず、ちょっと私の歌みたいに無雑作らしく書き流し、遊びに来て下さい、と必ず書き添えて、またも古人の歌「吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つらむ」と思わせぶりに書き結び、日に二通も三通も里人に頼んで都に送り、わがまことの心境は「吉野山やがて出でんと思ふ身を花散る頃はお迎へたのむ」というような馬鹿げたものにて、みずから省みて苦笑の他なく、けれども、かかるせつなき真赤な嘘もまた出家の我慢忍辱にんにくと心得、吉野山のどかに住みやすげに四方八方へ書き送り、さて、待てども待てども人ひとり訪ねて来るどころか、返事さえ無く、あの駕籠かきの九郎助など、かねがね私があれほどたくさん酒手をやり、どこへ行くにも私のお供で、若旦那わかだんなが死ねばおらも死にますなどと言っていたくせに、私があれほどていねいな手紙を書き送ってやったのに一片の返事も寄こさぬとは、ひどいじゃありませんか。九郎助に限らず、以前あんなに私を気前がいいの、正直だの、たのもしいだのとめていた遊び仲間たちも、どうした事でしょう、私が出家したら、ぱったり何もお便りを下さらず、もう私が何もあの人たちのお役に立たない身の上になったから、それでくるりと背を向けたというわけなのでしょうか、それにしても、あまり露骨でむごいじゃありませんか。こんなに皆からつまはじきされるとは心外です。私はいったいどんな悪い事をしたのでしょう。ばばさまのへそくりを拝借したとしても、それは一家の内の事で、また、地中に埋もれた財宝を、掘り出して世に活用せしめたのは考え様にっては立派な行為とも言えると思うのです。しかも、諸行無常を観じ出家遁世するのは、上品な事で、昔の偉い人はたいていこれをやっているのです。それくらいの事は、皆さまにもわかりそうなものです。それなのに、私を軽蔑して仲間はずれにしようとなさる。それは、あんまりですよ。私は決して下品な男ではないんです。これから大いに勉強もしようと思っているのです。出家というものは、高貴なものです。馬鹿になさらず、どうかどうかお見捨てなく、いつまでもお附き合いを願います。たまにはお手紙も下さいよ。あんなに皆に遊びに来いと書き送ってやったのだから、誰かひとり、ひょっとしたらお見えになるかも知れぬ、と毎日毎日むなしく待ちこがれ、落葉が風に吹かれて地をう音を、都の人の足音かと飛立って外にけ出し、蕭条しょうじょうたる冬木立を眺めて溜息ためいきをつき、夜は早く寝て風が雨戸をゆり動かすのを、もしや家から親御さまのお迎えかなど、らちも無い空頼みしていそいで雨戸をあけると寒月皎々こうこうと中空にかかり、わが身ひとつはもとの身にして、南無阿弥陀なむあみだと心底からの御念仏を申し、掛蒲団かけぶとんを裏返しにして掛けて寝ると恋しい女の面影おもかげを夢に見ると言伝えられているようですから、こんなさびしい夜にこそ、と思うのですが、さて、私にはこれぞときまった恋人も無く、誰でもいいとはいうものの、さあ、誰の面影が出るか、など考えて、実に馬鹿らしくなり、深夜暗闇くらやみの中でひとりくすくす笑ってしまいました。ばばさまの面影などが出ては、たまりません。こんな味気ない夜には、お酒でもあると助かるのですが、この辺の地酒は、へんにすっぱくて胸にもたれ、その上、たいへん高価なので、いまいましく、十日にいちど五合くらい買って我慢しています。この山里の人は、何かとよくが深く、この下の渓流にはあゆがうようよいて、私は出家の身ながら、なまぐさを時たま食べないと骨ばなれして五体がだるくてたまらなくなりますので、とって食おうと思い、さまざま工夫してみましたが、鮎もやはり生類しょうるい、なかなかすばしこく、不器用な私にはとても捕獲出来ず、そのような私のむだな努力の姿を里人に見つけられ、里人は私のなまぐさ坊主たる事を看破致し、それにつけ込んで、にやにや笑いながら鮎の串焼くしやきなど持って来て、おどろくほど高いお金を請求いたします。私は、もうここの里人から、すっかり馬鹿にされて、どしどしお金をき上げられ、犬の毛皮を熊の毛皮だと言って買わされたり、また先日は、すりばちをさかさにして持って来て、これは富士山の置き物で、御出家の床の間にふさわしい、安くします、と言い、あまりに人をなめた仕打ちゆえ、私はくやし涙にむせかえりました。それにつけても、お金が欲しく、そろそろ富籤とみくじの当り番がわかったころだと思いますが、私のは、たしか、イの六百八十九番だったはずです。当っているでしょうか。あの富籤を、京の家の私の寝間、床柱の根もとの節穴に隠して置きましたが、お願いですから、親爺に用ありげな顔をして私の家へ行き、寝間に忍び込んで床柱の根もとの節穴に指を突き込み、富籤を捜し出して、当っているかどうか、調べてみて下さい。当っているといいんですけれどもね。たぶん当っていないかと思いますが、でも、とにかく、念のために調べて見て下さいまし。お願いついでに、橋向うの質屋へ行って、私がたしか一両であずけて置いた二寸ばかりの小さな観音像を受け出して下さいませんか。他の品は、みな流してもいいのです。あの観音像だけは、是非とも受け出して下さい。あれは、ばばさまからおまもりとして幼少の頃もらったもので、珊瑚さんごに彫ったものですから、一両では安すぎるのです。受け出して、道具屋の佐兵衛に二十両で売って下さい。佐兵衛は、あれを二十両でいつでも引取ると言っていたのです。ついでに私の寝間の、西北のすみの畳の下に色紙一枚かくしてありますから、あれも佐兵衛のところへ持って行ってみて下さい。あの色紙は、茶屋の枕屏風まくらびょうぶに張ってあったものですが、私はもてない腹いせに、ひっぱがして家へ持って帰ったのです。雪舟せっしゅうではないかと思っているのですが、あるいは贋物にせものかも知れません。とにかく佐兵衛に見せて、そこはあなた様も抜け目なく、相応の値段で売りつけてやって下さい。贋物であっても、出来は悪くない色紙のようですから、五十両と吹かけてみて下さい。売れましたら、観音像の代金と一緒に、お手数でも、こちらへすぐにお送り願います。このたびは、あなた様にもいろいろ御手数をかけるわけですが、御礼としてしまの羽織を差上げたいと思います。それはいま九郎助が持っているのです。ちょっといきな縞で、裏の絹もずいぶん上等のものです。九郎助は駕籠かきのくせに、おしゃれな男で、あの羽織をむやみに着たがりますので、私は一時借してやってそのままになっているのです。決してくれてやったのではありませんから、どうか九郎助から取り上げてあなた様がお召しになって下さい。あんな恩知らずの九郎助には、もっともっとこらしめを見せてやりたいと思います。かまいませんから、あれを九郎助から取上げてやって下さい。あなた様は色が白いから、きっとあの羽織はお似合いの事と思います。私は色が黒いのであの羽織は少しも似合いませんでした。墨染の衣だけでも似合うかと思いの他、私は肩幅が広いので弁慶のような荒法師の姿で、おおかみに衣の例に漏れず、何もかも面白くなく、既に出家していながら、更にまた出家遁世したくなって何が何やらわからず、ただもう死ぬるばかり退屈で、
 なげきわび世をそむくべき方知らず、吉野の奥も住みしと言へり
 という歌の心、お察しねがいたく、実はこれとて私の作った歌ではなく、人の物もわが物もこの頃は差別がつかず、出家遁世して以来、ひどく私はすれました。このたびのまことに無分別の遁世、何卒なにとぞあわれと思召し、富籤と観音像と、それから色紙の事お忘れなく、昔の遊び仲間の方々にもよろしくお伝え下され、陽春の頃には、いちど皆様そろって吉野へ御来駕ごらいがのほど、ひたすら御待ち申し上げます。頓首とんしゅ
よろづ文反古ふみほうぐ、巻五の四、桜の吉野山難儀の冬)

 

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【日刊 太宰治全小説】#181「遊興戒」(『新釈諸国噺』)

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【冒頭】

むかし上方の山粋人、吉郎兵衛、六右衛門、甚太夫とて、としは若し、家に金あり、親はあまし、男振りもまんざらでなし、しかも、話にならぬ阿呆というわけでもなし、三人さそい合って遊び歩き、そのうちに、上方の遊びもどうも手ぬるく思われて来て、生き馬の目を抜くとかいう東国の荒っぽい遊びを風聞してあこがれ、或るとし秋風に吹かれて江戸へ旅立ち、途中、大笑いの急がぬ旅をつづけて、それにしても世の中に美人は無い、色が白ければ鼻が低く、眉があざやかだと思えば顎(あご)が短い、いっそこうなれば女に好かれるよりは、きらわれたい、何とかして思い切りむごく振られてみたいものさ、などと天を恐れぬ雑言を吐き散らして江戸へ着き、あちらこちらと遊び廻ってみても、別段、馬の目を抜く殺伐なけしきは見当たらず、やはりこの江戸の土地も金、どこへ行っても下にも置かずもてなされ、甚だ調子抜けがして、江戸にもこわいもの無し、どこかに凄い魔性のものはいないか、と懐手して三人、つまらなそうな様子で、上野黒門より池の端のほうへぶらいぶらり歩いて、しんちゅう屋の市右衛門とて当時有名な金魚屋の店先にふと足をとどめ、中庭を覗(のぞ)けば綺麗な生簀(いけす)が整然と七、八十もならび、一つ一つの生簀には清水が流れて水底には緑の藻がそよぎ、金魚、銀魚、藻をくぐり抜けて鱗を光らせ、中には尾鰭(おひれ)の長さ五寸以上のものもあり、生意気な三粋人も、その見事さには眼を丸くして驚き、日本一の美人をここで見つけたと騒ぎ、なおも見ていると、その金魚を五両、十両の馬鹿高い値段で、少しも値切らず平気で買って行く人が次々とあるので、やっぱり江戸は違う、上方には無い事だ、あの十両の金魚は大名の若様のおもちゃであろうか、三日養って猫に食われてそれでも格別くやしそうな顔もせずまたこの店へ来て買うのであろうな、いかさま武蔵野は広い、はじめて江戸を見直したわい、などと口々に勝手な事を言って単純に興奮し、これを見ただけでも江戸へ来たかいがあった、上方へのよい土産話が出来た、と互いによろこび首肯(うなず)き合っているところへ、賤(いや)しい身なりの小男が、小桶に玉網(たも)を持ち添えてちょこちょこと店へやって来て、金魚屋の番頭にやたらにお辞儀をしてお追従(ついしょう)笑いなどしている。小桶を覗いてみると無数のぼうふらがうようよ泳いでいる。

【結句】

さすがに放埓の三人も、昔の遊び友達の利左の浅間ましい暮しを見ては、うんざりして遊興も何も味気ないものに思われ、いささか分別ありげな顔になって宿へ帰り、翌(あく)る日から殊勝らしく江戸の神社仏閣をめぐって拝み、いよいよ明日は上方へ帰ろうという前夜、宿の者にたのんで少なからぬ金子を谷中の利左の家へ持たせてやり、亭主は受け取るまいから、内儀にこっそり、とくどいくらいに念を押して言い含めてやったのだが、その使いの者は、しばらくして気の毒そうな顔をして帰り、お言いつけの家をたずねましたが、昨日、田舎へ立ちのいたとやら、いろいろ近所の者にたずねて廻っても、どこへ行ったのかついに行先きを突き止める事が出来ませんでしたという口上で、三人はそれを聞いて利左の行末を思い、いまさらながら、ぞっとして、わが身の上も省られ、ああ、もう遊びはよそう、と何だかわけのわからぬ涙を流して誓約し、いよいよ寒さのつのる木枯しに吹きまくられて、東海道を急ぎに急ぎ、おのおのわが家に帰りついてからは、人が変ったみたいにけち臭くよろずに油断のない男になり、ために色街は一時さびれたという、この章、遊興もほどほどに止(とど)むべしとの戒歟(いましめか)。 

 

「遊興戒」(『新釈諸国噺』)について

新潮文庫お伽草紙』所収。

・昭和20年1月27日、生活社から刊行の『新釈諸国噺』に収載。

お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 
遊興戒  (江戸) 西鶴置土産、五十二歳(歿ぼつ
 
 むかし上方かみがたの三粋人、吉郎兵衛きちろべえ六右衛門ろくえもん太夫じんだゆうとて、としはわかし、家に金あり、親はあまし、男振りもまんざらでなし、しかも、話にならぬ阿呆あほうというわけでもなし、三人さそい合って遊び歩き、そのうちに、上方の遊びもどうも手ぬるく思われて来て、生き馬の目を抜くとかいう東国の荒っぽい遊びを風聞してあこがれ、るとし秋風に吹かれて江戸へ旅立ち、途中、大笑いの急がぬ旅をつづけて、それにしても世の中に美人は無い、色が白ければ鼻が低く、まゆがあざやかだと思えばあごが短い、いっそこうなれば女に好かれるよりは、きらわれたい、何とかして思い切りむごく振られてみたいものさ、などと天を恐れぬ雑言ぞうごんを吐き散らして江戸へ着き、あちらこちらと遊びまわってみても、別段、馬の目を抜く殺伐なけしきは見当らず、やはりこの江戸の土地も金次第、どこへ行っても下にも置かずもてなされ、はなはだ拍子抜けがして、江戸にもこわいもの無し、どこかにすごい魔性のものはいないか、と懐手ふところでして三人、つまらなそうな様子で、上野黒門くろもんよりいけはたのほうへぶらりぶらり歩いて、しんちゅう屋の市右衛門いちえもんとて当時有名な金魚屋の店先にふと足をとどめ、中庭をのぞけば綺麗きれい生簀いけすが整然と七、八十もならび、一つ一つの生簀には清水が流れて水底には緑のがそよぎ、金魚、銀魚、藻をくぐり抜けてうろこを光らせ、中には尾鰭おひれの長さ五寸以上のものもあり、生意気な三粋人も、その見事さには無邪気にを丸くして驚き、日本一の美人をここで見つけたと騒ぎ、なおも見ていると、その金魚を五両、十両馬鹿ばか高い値段で、少しも値切らず平気で買って行く人が次々とあるので、やっぱり江戸は違う、上方には無い事だ、あの十両の金魚は大名の若様のおもちゃであろうか、三日養ってねこに食われてそれでも格別くやしそうな顔もせずまたこの店へ来て買うのであろうな、いかさま武蔵野むさしのは広い、はじめて江戸を見直したわい、などと口々に勝手な事を言って単純に興奮し、これを見ただけでも江戸へ来たかいがあった、上方へのよい土産話が出来た、と互いによろこび首肯うなずき合っているところへ、いやしい身なりの小男が、小桶こおけ玉網たもを持ち添えてちょこちょこと店へやって来て、金魚屋の番頭にやたらにお辞儀をしてお追従ついしょう笑いなどしている。小桶を覗いてみると無数のぼうふらがうようよ泳いでいる。
「金魚のえさか。」とひとりが興覚め顔してつぶやいた。
「えさだ。」もうひとりも、溜息ためいきをついて言った。
 何だか白けた真面目まじめな気持ちになってしまった。たかが金魚を、一つ十両で平然と買って行く人もあり、また一方では、そのえさのぼうふらを売って、ほそぼそと渡世している人もある。江戸は底知れずおそろしいところだ、と苦労知らずの三粋人も、さすがに感無量のていであった。
 小桶に一ぱいのぼうふらを、たった二十五文で買ってもらって、それでもうれしそうに、金魚屋の下男にまで、それではまた、といやしい愛嬌あいきょうを振りきいそいそと立ち去るその小男のうしろ姿を見送ってひとりが、
「おや、あれは、利左りざじゃないか。」と言ったので、ほかの二人は、ぎょっとした。
 月夜の利左という浮名を流し、それこそ男振りはよし、金はあり、この三粋人と共に遊んで四天王と呼ばれ、数年前に吉州という評判の名妓めいぎ請出うけだし、ふっと姿をかくした利左衛門りざえもん、それが、まさか、と思えども見れば見るほど、よく似ている。
「利左だ、間違いない。」とひとりは強く断定を下し、「あの右肩をちょっと上げて歩く癖は、むかしから利左の癖で、あれがまた小粋こいきだと言って、わしにも右肩を上げて歩けとうるさくすすめる女があって閉口した事がある。利左に違いない。それ、呼びとめろ。」
 三人は走って、ぼうふら売りをつかまえてみると、むざんや、まさしく利左がなれの果。
「利左、お前はひどい。吉州には、わしも少しれていたが、何もお前、そんな、わしはお前を恨みに思ったりなんかしてやしないよ。黙って姿を消すなんて、水くさいじゃないか。」
と吉郎兵衛が言えば、甚太夫も、
「そうよ、そうよ。どんなつらい事情があったって、一言くらいわしたちに挨拶あいさつして行くのが本当だぞ。困った事が起った時には、お互い様さ。茶屋酒のんで騒ぐばかりが友達じゃない。見れば、ひでえ身なりで、まあ、これがあの月夜の利左かい。わしたちにたった一言でも知らせてくれたら、こんな事になりはしなかったのに、ぼうふら売りとは洒落しゃれが過ぎらあ。」と悪口を言いながら涙を流し、六右衛門は分別顔して、利左衛門のせた肩をたたき、
「利左、でも、えてよかった。どこへ行ったかと心配していたのだ。お前がいなくなったら、さびしくてなあ。上方の遊びもつまらなくなって、こうして江戸へ出て来たが、お前と一緒でないと、どこの遊びも面白おもしろくない。ここでうたが百年目さ。どうだい、これから、わしたちと一緒に上方へ帰って、また昔のように四人で派手に遊ぼうじゃないか。お金の事や何かは心配するな。口はばったいが、わしたち三人がいている。お前の一生は引受けた。」
と頼もしげな事を言ったが、利左は、顔を青くしてふんと笑い、そっぽを向きながら、
「何を言っていやがる。人の世話など出来るつらかよ。わざわざこの利左をなぶりに上方からやって来たのか。御苦労な事だ。こっちは、これが好きでやっているのさ。かまわないでくれ。遊びの果は皆こんなものだ。ふん。いまにお前たちだって、どんな事になるかわかったものじゃない。一生引受けたは笑わせやがる。でもまあ昔の馴染甲斐なじみがいに江戸の茶碗酒ちゃわんざけでも一ぱい振舞ってやろうか。利左は落ぶれてもお前たちのごちそうにはならんよ。酒を飲みたかったら附いて来い。あはは。」と空虚な笑い方をして、小桶を手にさげてすたすた歩く。三人は、気まずい思いで顔を見合せ、とにかく利左の後を追って行くと、利左はひどく汚い居酒屋へのこのこはいって行って、財布をさかさに振り、
「おやじ、これだけある。昔の朋輩ほうばいにおごってやるんだ。茶碗で四はい。」と言って、昔に変らず気前のいいところを見せたつもりで、先刻の二十五文を残らず投げ出せば、入口でうろうろしている三人は、ああ、あの金は利左の妻子が今夜の米代としてあてにして、いまごろはなべを洗って待っているだろうに、おちぶれても、つまらぬ意地と見栄みえから、けちでないところを見せたつもりかも知れないが、あわれなものだ、と暗然とした。
「おい、まごまごしてないで、ここへ腰かけて飲めよ。茶碗酒の味も忘れられぬ。」と口をゆがめて苦笑いしながら、わざと下品にがぶがぶ飲み、手の甲で口のまわりをぐいとぬぐって、「ああ、うめえ。」とまんざらうそでもないように低くうめいた。三人も、おそるおそる店の片隅かたすみに腰をおろして、欠けた茶碗を持ち無言で乾盃かんぱいして、少し酔って来たので口も軽くなり、
「時に利左、いまでも、やはり吉州と?」
「いまでも、とは何だ。」と利左は言葉を荒くして聞きとがめ、「粋人らしくもねえ。口のききかたに気をつけろ。」と言って、すぐまた卑屈ににやりと笑い、「その女ゆえに、御覧のとおりのぼうふら売りさ。悪い事は言わねえ。お前たちもいい加減に茶屋遊びを切り上げたほうがいいぜ。上方一と言われた女も、手活ていけの花としてながめると、三日てばしおれる。いまじゃ、長屋の、かかになって、ひとつき風呂ふろへ行かなくても平気でいる。」
「子供もあるのか。」
「あたりめえよ。間の抜けた事を聞くな。親にも似ねえさるみたいな顔をした四つの男の子が、根っからの貧乏人の子らしく落ちついて長屋で遊んでいやがる。見せてやろうか。少しはお前たちのいましめになるかも知れねえ。」
「連れて行ってくれ。吉州にも逢いたい。」と吉郎兵衛は本音を吐いた。利左は薄気味悪い微笑をほおに浮べて、
「見たら、あいそが尽きるぜ。」と言い、蹌踉そうろうと居酒屋を出た。
 谷中やなかの秋の夕暮は淋しく、江戸とは名ばかり、このあたりは大竹藪おおたけやぶ風にざわつき、うぐいすならぬむらすずめ初音町はつねちょうのはずれ、薄暗くじめじめした露路を通り抜けて、額におしめのしずくを受け、かぼちゃのつるまたぎ越え、すえ葉も枯れて生垣いけがきに汚くへばりついている朝顔の実一つ一つ取り集めているばばの、この種を植えてまた来年のたのしみ、と来年どころか明日知れぬ八十あまりらしい見るかげも無き老躯ろうくを忘れて呟いているよくの深さに、三人は思わず顔を見合せてあきれ、利左ひとりは、何ともない顔をして小腰をかがめ、婆さま、その朝顔の実を一つ二つわしの家へもわけて下さいまし、何だか曇ってまいりましていけませぬ、など近所のよしみ、有合せのつらいお世辞を言い、陰干しの煙草たばこをゆわえた細縄ほそなわの下をくぐって突き当りのあばらやの、窓から四歳の男の子が、やあれ、ととさまが、ぜぜ持ってもどらしゃった、と叫ぶもふびん、三人の足は一様に立ちすくんだ。利左は平気を装い、
「ここだ、この家だ。三人はいったら、すわるところが無いぞ。」と笑い、「おい、お客さまだぞ。」と内儀に声を掛ければ、内より細き声して、
「そのお三人のうち、伊豆屋いずや吉郎兵衛さま、お帰り下さいまし。そのお方には昔お情にあずかった事がございます。」という。吉郎兵衛へどもどして、
「いや、それはお固い。昔の事はさらりと水に流して。」と言えば、利左も、くるしそうに笑い、
「そうだ、そうだ。長屋のかかにお情もくそもあるものか。自惚うぬぼれちゃいけねえ。」とすさんだ口調で言い、がたぴし破戸やれどをあけて三人を招き入れ、「座蒲団ざぶとんなんて洒落たものはねえぞ。お茶くらいは出す。」
 女房にょうぼうは色青ざめ、ぼろの着物のすそをそそくさと合せて横坐りに坐って乱れた髪をき上げ、仰向いて三人の顔を見て少し笑い、
「まあ。」と小さい声で言ったきり、お辞儀をするのも忘れている。亭主ていしゅはいそがしそうに狭い部屋を歩きまわり、仏壇の戸びらの片方はずれているのを引きむしり、菜切庖丁なきりぼうちょうで打ち割って、七輪しちりんにくべてお茶をわかし、先刻窓から顔を出していた子供はと見れば、いつの間にか部屋の隅の一枚蒲団にこぶ巻になって寝ている。どうやらまっぱだかの様子で、くちびるを紫にしてがたがた寒さにふるえている。
「坊やは、寒そうだな。」と客のひとりが、つい口をすべらしたら、内儀は坐ったまま子供のほうを振り返って見て、「着物を着るのがいやなんですって。妙な癖で、着物を着せてもすぐ脱いで、ああしてはだかで寝るんです。かんの虫のせいでしょうよ。」とさり気なく言ったが、坊やは泣き声を出して、
「うそだ、うそだ。坊は、さっきどぶへ落ちて、着るものが無くなったから、こうして寝かされて、着物のかわくのを待っているのだ。」という。内儀も気丈な女ながら、ここにいたってこらえかね、人前もはばからず、泣き伏す。亭主は七輪の煙にむせんだ振りをして眼をこする。三人の客は途方に暮れ、無言で眼まぜして帰り仕度をはじめ、挨拶もそこそこに草履ぞうりをつっかけて門口に出て、それから小声でささやき合い、三人の所持の金子きんす全部、一歩金いちぶきん三十八、こまがね七十目ばかり取り集め、門口に捨てられてある小皿こざらの上に積みかさね、足音を忍ばせて立ち去った。狭い露路から出て、三人一緒にほっと大きい溜息をついた途端に、
「ふざけた真似まねをするな!」と背後に利左の声、ぎょっとして振りむくと利左衛門は金子を載せた小皿を持ち息せき切って、「人の家へやって来て、お茶も飲まずに帰り、そのうえ、こんな犬のくそみたいなものを門口に捨てやがって、人間の附き合いの法も知らねえ鼻ったれ小僧め。よくもよくも、月夜の利左をなめやがったな。もう二度とふたたびお前たちの鼻の下の長いつらを見たくねえ。これを持ってとっとと帰れ!」と眼の色をかえてわめき、「馬鹿にするな!」とくだんの小皿を地べたにたたきつけて、ふっと露路の夕闇ゆうやみに姿を消した。
「いや、ひどいめに遭った。」と吉郎兵衛は冷汗をぬぐい、「それにしても、吉州も、きたない女になりやがった。」
色即是空しきそくぜくうか。」と甚太夫はひやかした。
「ほんとうに、」吉郎兵衛は、少しも笑わず溜息をつき、「わしはもう、きょうから遊びをやめるよ。卒堵婆小町そとばこまちを眼前にありありと見ました。」
「出家でもしたいところだね。」と六右衛門はひとりごとのように言い、「わしはもう殺されるのではないかと思った。おちぶれた昔の友達ほどおそろしいものはない。みちで逢っても、こちらから言葉をかけるのは遠慮すべきものかも知れない。誰だい、一ばん先に言葉をかけたのは。」
「わしではないよ。」と吉郎兵衛は口をとがらせて言い、「わしは、ただ、吉州にひとめ逢いたくて、それで。」と口ごもった。
「お前だよ。」と甚太夫は冷静な口調で、「お前が一ばんさきに走って行って、一ばんさきに声をかけて、おまけに、また、あいつの家へ連れて行ってくれなんて、つまらぬ事を言い出したのも、みんなお前じゃないか。つつしむべきは好色の念だねえ。」
「面目ない。」と吉郎兵衛は、素直にあやまり、「以後はふっつり道楽をやめる。」
「改心のついでに、その足もとに散らばっているお金を拾い集めたらどうだ。」と六右衛門は、八つ当りの不機嫌ふきげんで、「これだって天下の宝だ。むかし青砥左衛門尉藤綱あおとさえもんのじょうふじつなさまが、」
滑川なめりがわを渡りし時、だろう。わかった、わかった。わしは土方人足どかたにんそくというところか。さがしますよ、拾いますよ。」と吉郎兵衛は尻端折しりばしょりして薄暗闇の地べたをい一歩金やらこまがねやらを拾い集めて、「こうして一つ一つにして拾ってみると、お金のありがたさがわかって来るよ。お前たちも、少し手伝ってごらん。まじめな気持ちになりますよ。」
 さすが放埓ほうらつの三人も、昔の遊び友達の利左の浅間しい暮しを見ては、うんざりして遊興も何も味気ないものに思われ、いささか分別ありげな顔になって宿へ帰り、あくる日から殊勝らしく江戸の神社仏閣をめぐって拝み、いよいよ明日は上方へ帰ろうという前夜、宿の者にたのんで少からぬ金子を谷中の利左の家へ持たせてやり、亭主は受け取るまいから、内儀にこっそり、とくどいくらいに念を押して言い含めてやったのだが、その使いの者は、しばらくして気の毒そうな顔をして帰り、お言いつけの家をたずねましたが、昨日、田舎へ立ちのいたとやら、いろいろ近所の者にたずねて廻っても、どこへ行ったのかついに行先きを突きとめる事が出来ませんでしたという口上で、三人はそれを聞いて利左の行末を思い、いまさらながら、ぞっとして、わが身の上もかえりみられ、ああ、もう遊びはよそう、と何だかわけのわからぬ涙を流して誓約し、いよいよ寒さのつのる木枯しに吹きまくられて、東海道を急ぎに急ぎ、おのおのわが家に帰りついてからは、人が変ったみたいにけち臭くよろずに油断のない男になり、ために色街は一時さびれたという、この章、遊興もほどほどにとどむべしとの戒歟いましめか
(置土産、巻二の二、人には棒振虫同前に思はれ)

 

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【日刊 太宰治全小説】#180「粋人」(『新釈諸国噺』)

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【冒頭】

「ものには堪忍という事がある。この心掛けを忘れてはいけない。ちっとは、つらいだろうが我慢をするさ。夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。きまり切っているんだ。

【結句】

台所では、婆と蕾が、「馬鹿というのは、まだ少し脈のある人の事」と話合って大笑いである。とかく昔の浪花(なにわ)あたり、このような粋人とおそろしい茶屋が多かったと、その昔にはやはり浪花の粋人のひとりであった古老の述懐。 

 

「粋人」(『新釈諸国噺』)について

新潮文庫お伽草紙』所収。

・昭和20年1月27日、生活社から刊行の『新釈諸国噺』に収載。

お伽草紙 (新潮文庫)

 

全文掲載(「青空文庫」より)

 
粋人   (浪花なにわ) 世間胸算用せけんむねさんよう、五十一歳
 
「ものには堪忍かんにんという事がある。この心掛けを忘れてはいけない。ちっとは、つらいだろうが我慢をするさ。夜の次には、朝が来るんだ。冬の次には春が来るさ。きまり切っているんだ。世の中は、陰陽、陰陽、陰陽と続いて行くんだ。仕合せと不仕合せとは軒続きさ。ひでえ不仕合せのすぐお隣りは一陽来復の大吉さ。ここの道理を忘れちゃいけない。来年は、これあ何としても大吉にきまった。その時にはお前も、芝居の変り目ごとに駕籠かごで出掛けるさ。それくらいの贅沢ぜいたくは、ゆるしてあげます。かまわないから出掛けなさい。」などと、朝飯を軽くすましてすぐ立ち上り、つまらぬ事をもっともらしい顔して言いながら、そそくさと羽織をひっかけ、脇差わきざしさし込み、きょうは、いよいよ晦日おおみそか、借金だらけのわが家から一刻も早くのがれ出るふんべつ。家に一銭でも大事の日なのに、手箱の底をいて一歩金いちぶきん二つ三つ、小粒銀三十ばかり財布に入れて懐中にねじ込み、「お金は少し残して置いた。この中から、お前の正月のお小遣いをのけて、あとは借金取りに少しずつばらまいてやって、無くなったら寝ちまえ。借金取りの顔が見えないように、あちら向きに寝ると少しは気が楽だよ。ものには堪忍という事がある。きょう一日の我慢だ。あちら向きに寝て、死んだ振りでもしているさ。世の中は、陰陽、陰陽。」と言い捨てて、小走りに走って家を出た。
 家を出ると、急にむずかしき顔して衣紋えもんをつくろい、そり身になってそろりそろりと歩いて、物持の大旦那おおだんながしもじもの景気、世のうつりかわりなど見てまわっているみたいな余裕ありげな様子である。けれども内心は、天神様や観音様、南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ不動明王摩利支天まりしてん、べんてん大黒、仁王におうまで滅茶めちゃ苦茶にありとあらゆる神仏のお名をとなえて、あわれきょう一日の大難のがれさせたまえ、たすけ給えと念じてのさき真暗、全身鳥肌とりはだ立って背筋から油汗がわいて出て、世界に身を置くべき場所も無く、かかる地獄の思いの借財者の行きつくところは一つ。花街である。けれどもこの男、あちこちの茶屋に借りがある。借りのある茶屋の前は、からだをななめにしてかにのように歩いて通り抜け、まだいちども行った事の無い薄汚い茶屋の台所口からぬっとはいり、
「婆はいるか。」と大きく出た。もともとこの男の人品骨柄じんぴんこつがらは、いやしくない。立派な顔をしている男ほど、借金を多くつくっているものである。悠然ゆうぜんと台所にあがり込み、「ほう、ここはまだ、みそかの支払いもすまないと見えて、あるわ、あるわ、書附かきつけが。ここに取りちらかしてある書附け、全部で、三、四十両くらいのものか。世はさまざま、しめて三、四十両の支払いをすます事も出来ずに大晦日を迎える家もあり、また、わしの家のように、呉服屋の支払いだけでも百両、お金は惜しいと思わぬが、奥方のあんな衣裳いしょう道楽は、大勢の使用人たちの手前、しめしのつかぬ事もあり、こんどは少しひかえてもらわなくては困るです。こらしめのため、里へかえそうかなどと考えているうちに、あいにくと懐姙かいにんで、しかも、きょうこの大晦日のいそがしい中に、産気づいて、早朝から家中が上を下への大混雑。生れぬさきから乳母を連れて来るやら、取揚婆とりあげばばを三人も四人も集めて、ばかばかしい。だいたい、大長者から嫁をもらったのが、わしの不覚。奥方の里から、けさは大勢見舞いにけつけ、それ山伏、それ祈祷きとう、取揚婆をこっちで三人も四人も呼んで来てあるのに、それでも足りずに医者を連れて来て次の間に控えさせ、これは何やら早め薬とかいってなべでぐつぐつ煮てござる。安産のまじないに要るとか言って、子安貝こやすがい海馬かいば松茸まつたけの石づき、何の事やら、わけのわからぬものを四方八方に使いを走らせて取寄せ、つくづく金持の大袈裟おおげさな騒ぎ方にあいそがつきました。旦那様は、こんな時には家にいぬものだと言われて、これさいわい、すたこらここへ逃げて来ました。まるでこれでは、借金取りに追われて逃げて来たような形です。きょうは大晦日だから、そんな男もあるでしょうね。気の毒なものだ。いったいどんな気持だろう。酒を飲んでも酔えないでしょうね。いやもう、人さまざま、あはははは。」と力の無い笑声を発し、「時にどうです。言うも野暮だが、もちろん大晦日の現金払いで、子供の生れるまで、ここで一日あそばせてくれませんか。たまには、こんな小さい家で、こっそり遊ぶのも悪くない。おや、正月のたいを買いましたね。小さい。家が小さいからって遠慮しなくたっていいでしょう。何も縁起ものだ。もっと大きいのを買ったらどう?」と軽く言って、一歩金一つ、婆のひざの上に投げてやった。
 婆は先刻から、にこにこ笑ってこの男の話に相槌あいづちを打っていたが、心の中で思うよう、さてさて馬鹿ばかな男だ、よくもまあそんな大嘘おおうそがつけたものだ、お客の口先を真に受けて私たちの商売が出来るものか。酔狂のお旦那がわざと台所口からはいって来て、私たちをまごつかせて喜ぶという事も無いわけではないが、眼つきが違いますよ。さっき、台所口からのぞいたお前さんの眼つきは、まるで、とがにんの眼つきだった。借金取りに追われて来たのさ。毎年、大晦日になると、こんなお客が二、三人あるんだ。世間には、似たものがたくさんある。玉虫色のお羽織に白柄しらつか脇差、知らぬ人が見たらお歴々と思うかも知れないが、この婆の目から見ると無用の小細工。おおかた十五も年上の老い女房にょうぼうをわずかの持参金を目当てにもらい、その金もすぐ使い果し、ぶよぶよ太って白髪頭しらがあたまの女房が横ずわりに坐って鼻の頭に汗をきながら晩酌ばんしゃくの相手もすさまじく、かせぎに身がはいらず質八しちばち置いて、もったいなくも母親には、黒米のからうすをふませて、弟には煮豆売りに歩かせ、売れ残りのくなった煮豆は一家のお惣菜そうざい、それも母御のばあさまが食べすぎると言って夫婦でじろりとにらむやつさ。それにしても、お産の騒ぎとは考えた。取揚婆が四人もつめかけ、医者は次の間で早め薬とは、よく出来た。お互いに、そんな身分になりたいものさね。大阿呆おおあほうめ。お金は、それでもいくらか持っているようだし、現金払いなら、こちらは客商売、まあ、ごゆるりと遊んでいらっしゃい。とにかく、この一歩金、いただいて置きましょう、贋金にせがねでもないようだ。
「やれうれしや、」と婆はこぼれるばかりの愛嬌あいきょうを示して、一歩金を押しいただき、「鯛など買わずに、この金は亭主ていしゅに隠して置いて、あたしの帯でも買いましょう。おほほほ。ことしの年の暮は、貧乏神と覚悟していたのに、このような大黒様が舞い込んで、これで来年中の仕合せもきまりました。お礼を申し上げますよ、旦那。さあ、まあ、どうぞ。いやですよ、こんな汚い台所などにお坐りになっていらしては。洒落しゃれすぎますよ。あんまり恐縮で冷汗が出るじゃありませんか。なんぼ何でも、お人柄にかかわりますよ。どうも、長者のお旦那に限って、台所口がお好きで、困ってしまいます。貧乏所帯の台所が、よっぽどもの珍らしいと見える。さ、すいにも程度がございます。どうぞ、奥へ。」世におそろしきものは、茶屋の婆のお世辞である。
 お旦那は、わざとはにかんで頭を掻き、いやもう婆にはかなわぬ、と言ってなよなよと座敷に上り、
「何しろたべものには、わがままな男ですから、そこは油断なく、たのむ。」と、どうにもきざな事を言った。婆は内心いよいよあきれて、たべものの味がわかる顔かよ。借金で首がまわらず青息吐息で、火を吹く力もないような情ない顔つきをしている癖に、たべものにわがままは大笑いだ。かゆの半杯ものどには通るまい。料理などは、むだな事だ、と有合せの卵二つを銅壺どうこに投げ入れ、一ばん手数のかからぬ料理、うで卵にして塩を添え、酒と一緒に差出せば、男は、へんな顔をして、
「これは、卵ですか。」
「へえ、お口に合いますか、どうですか。」と婆は平然たるものである。
 男は流石さすがに手をつけかね、腕組みして渋面つくり、
「この辺は卵の産地か。何か由緒ゆいしょがあらば、聞きたい。」
 婆は噴き出したいのをこらえて、
「いいえ、卵に由緒も何も。これは、お産に縁があるかと思って、婆の志。それにまた、おいしい料理の食べあきたお旦那は、よく、うで卵など、酔興に召し上りますので、おほほ。」
「それで、わかった。いや、結構。卵の形は、いつ見てもよい。いっその事、これに目鼻をつけてもらいましょうか。」と極めてまずい洒落を言った。婆は察して、売れ残りの芸者ひとりを呼んで、あれは素性の悪い大馬鹿の客だけれども、お金はまだいくらか持っているようだから、大晦日の少しは稼ぎになるだろう、せいぜいおだててやるんだね、と小声で言いふくめて、その不細工の芸者を客の座敷に突き出した。男は、それとも知らず、
「よう、卵に目鼻の御入来。」とはしゃいで、うで卵をむいて、食べて、口の端に卵の黄味をくっつけ、あるいはきょうはれられるかも知れぬと、わが家の火の車も一時わすれて、お酒を一本飲み、二本飲みしているうちに、何だかこの芸者、見た事があるような気がして来た。馬鹿ではあるが、女に就いての記憶は悪強い男であった。女は、大晦日の諸支払いの胸算用をしながらも、うわべは春のごとく、ただ矢鱈やたらに笑って、客に酒をすすめ、
「ああ、いやだ。また一つ、としをとるのよ。ことしのお正月に、十九の春なんて、お客さんにからかわれ、羽根を突いてもたのしく、何かいい事もあるかと思って、うかうか暮しているうちに、あなた、一夜明けると、もう二十はたちじゃないの。はたちなんて、いやねえ。たのしいのは、十代かぎり。こんな派手な振袖ふりそでも、もう来年からは、おかしいわね。ああ、いやだ。」と帯をたたいて、もだえて見せた。
「思い出した。その帯をたたく手つきで思い出した。」男は記憶力の馬鹿強いところを発揮した。「ちょうどいまから二十年前、お前さんは花屋の宴会でわしの前に坐り、いまと同じ事を言い、そんな手つきで帯をたたいたが、あの時にもたしか十九と言った。それから二十年っているから、お前さんは、ことし三十九だ。十代もくそもない、来年は四十代だ。四十まで振袖を着ていたら、もう振袖に名残なごりも無かろう。からだが小さいから若く見えるが、いまだに十九とは、ひどいじゃないか。」と粋人も、思わず野暮の高声になって攻めつけると、女は何も言わずに、伏目になって合掌した。
「わしは仏さんではないよ。縁起でもない。拝むなよ。興覚めるね。酒でも飲もう。」手をたたいて婆を呼べば、婆はいち早く座敷の不首尾に気附いて、ことさらに陽気に笑いながら座敷に駈けつけ、
「まあ、お旦那。おめでとうございます。どうしても、御男子ときまりました。」
「何が。」と客はけげんな顔。
「のんきでいらっしゃる。お宅のお産をお忘れですか。」
「あ、そうか。生れたか。」何が何やら、わけがわからなくなって来た。
「いいえ、それはわかりませんが、いまね、この婆が畳算たたみざんうらなってみたところ、あなた、三度やり直しても同じ事、どうしても御男子。私の占いは当りますよ。旦那、おめでとうございます。」と両手をついてお辞儀をした。
 客は、まぶしそうな顔をして、
「いやいや、そう改ってお祝いを言われても痛みいる。それ、これはお祝儀しゅうぎ。」と、またもや、財布から、一歩金一つ取り出して、婆の膝元に投げ出した。とても、いまいましい気持である。
 婆は一歩金を押しいただき、
「まあ、どうしましょうねえ。暮から、このような、うれしい事ばかり。思えば、きょう、あけがたの夢に、千羽のつるが空に舞い、四海しかいなみ押しわけて万亀ばんきが泳ぎ、」と、うっとりと上目使いして物語をはじめながら、お金を帯の間にしまい込んで、「あの、本当でございますよ、旦那。眼がさめてから、やれ不思議な有難い夢よ、とひどく気がかりになっていたところにあなた、いきなお旦那が、お産のすむまで宿を貸せと台所口から御入来ですものねえ、夢は、やっぱり、正夢まさゆめ、これも、日頃のお不動信心のおかげでございましょうか。おほほ。」と、ここを先途せんどと必死のお世辞。
 あまりと言えば、あまりの歯の浮くような見え透いたお世辞ゆえ、客はたすからぬ気持で、
「わかった、わかった。めでたいよ。ところで何か食うものはないか。」と、にがにがしげに言い放った。
「おや、まあ、」と婆は、大袈裟にのけぞって驚き、「どうかと心配してりましたのに、卵はお気に召したと見え、残らずおあがりになってしまった。すいなお方は、これだから好きさ。たべものにあきたお旦那には、こんなものが、ずいぶん珍らしいと見える。さ、それでは、こんど何を差し上げましょうか。数の子など、いかが?」これも、手数がかからなくていい。
数の子か。」客は悲痛な顔をした。
「あら、だって、お産にちなんで数の子ですよ。ねえ、つぼみさん。縁起ものですものねえ。ちょっと洒落た趣向じゃありませんか。お旦那は、そんな酔興なお料理が、いちばん好きだってさ。」と言い捨てて、素早く立ち去る。
 旦那は、いよいよ、むずかしい顔をして、
「いまあの婆は、つぼみさん、と言ったが、お前さんの名は、つぼみか。」
「ええ、そうよ。」女は、やぶれかぶれである。つんとして答える。
「あの、花のつぼみの、つぼみか。」
「くどいわねえ。何度言ったって同じじゃないの。あなただって、頭の毛が薄いくせに何を言ってるの。ひどいわ、ひどいわ。」と言って泣き出した。泣きながら、「あなた、お金ある?」と露骨な事を口走った。
 客はおどろき、
「すこしは、ある。」
「あたしに下さい。」色気も何もあったものでない。「こまっているのよ。本当に、ことしの暮ほど困った事は無い。上の娘をよそにかたづけて、まず一安心と思っていたら、それがあなた、一年経つか経たないうちに、乞食こじきのような身なりで赤子をかかえ、四、五日まえにあたしのところへ帰って来て、亭主が手拭てぬぐいをさげて銭湯へ出かけて、それっきりほかの女のところへ行ってしまった、と泣きながら言うけれど、馬鹿らしい話じゃありませんか。娘もぼんやりだけど、その亭主もひどいじゃありませんか。育ちがいいとかいって、のっぺりした顔の、俳諧はいかいだか何だかお得意なんだそうで、あたしは、はじめっから気がすすまなかったのに、娘が惚れ込んでしまっているものだから、仕方なく一緒にさせたら、銭湯へ行ってそのまま家へ帰らないとは、あんまり人を踏みつけていますよ。笑い事じゃない。娘はこれから赤子をかかえて、どうなるのです。」
「それでは、お前さんに孫もあるのだね。」
「あります。」とにこりともせず言い切って、ぐいと振り挙げた顔は、すごかった。「馬鹿にしないで下さい。あたしだって、人間のはしくれです。子も出来れば、孫も出来ます。なんの不思議も無いじゃないか。お金を下さいよ。あなた、たいへんなお金持だっていうじゃありませんか。」と言って、ほおをひきつらせて妙に笑った。
 粋人には、その笑いがこたえた。
「いや、そんなでもないが、少しなら、あるよ。」とうろたえ気味で、財布から、最後の一歩金を投げ出し、ああ、いまごろは、わが家の女房、借金取りに背を向けて寝て、死んだ振りをしているであろう、この一歩金一つでもあれば、せめて三、四人の借金取りの笑顔を見る事は出来るのに、思えば、馬鹿な事をした、と後悔やら恐怖やら焦躁しょうそうやらで、胸がわくわくして、生きて居られぬ気持になり、
「ああ、めでたい。婆の占いが、男の子とは、うれしいね。なかなか話せる婆ではないか。」
とかすれた声で言ってはみたが、蕾は、ふんと笑って、
「お酒でもうんと飲んで騒ぎましょうか。」と万事を察してお銚子ちょうしを取りに立った。
 客はひとり残されて、暗憺あんたん、憂愁、やるかたなく、つい、苦しまぎれのおならなど出て、それもつまらない思いで、立ち上って障子をあけてにおいを放散させ、
「あれわいさのさ。」と、つきもない小唄こうたを口ずさんで見たが一向に気持が浮き立たず、やがて、三十九歳の蕾を相手に、がぶがぶ茶碗酒ちゃわんざけをあおっても、ただ両人まじめになるばかりで、顔を見合せては溜息ためいきをつき、
「まだ日が暮れぬか。」
「冗談でしょう。おひるにもなりません。」
「さてさて、日が永い。」
 地獄の半日は、竜宮りゅうぐうの百年千年。うで卵のげっぷばかり出て悲しさ限りなく、
「お前さんはもう帰れ。わしはこれから一寝入りだ。眼が覚めた頃には、お産もすんでいるだろう。」と、いまは、わが嘘にみずから苦笑し、ごろりと寝ころび、
「本当にもう、帰ってくれ。その顔を二度とふたたび見せてくれるな。」と力無い声で歎願たんがんした。
「ええ、帰ります。」と蕾は落ちついて、客のおぜん数の子を二つ三つ口にほうり込み、「ついでに、おひるごはんを、ここでごちそうになりましょう。」と言った。
 客は眼をつぶっても眠られず、わが身がぐるぐる大渦巻おおうずまきの底にまき込まれるような気持で、ばたんばたんと寝返りを打ち、南無阿弥陀なむあみだ、と思わずお念仏が出た時、廊下に荒き足音がして、
「やあ、ここにいた。」と、丁稚でっちらしき身なりの若い衆二人、部屋に飛び込んで来て、「旦那、ひどいじゃないか。てっきり、この界隈かいわいと見込みをつけ、一軒一軒さがして、いやもう大骨折さ。無いものは、いただこうとは申しませんが、こうしてのんきそうに遊ぶくらいのお金があったら、少しはこっちにも廻してくれるものですよ。ええと、ことしの勘定は、」と言って、書附けを差出し、寝ているのを引起して、詰め寄って何やら小声で談判ひとしきりの後、財布の小粒銀ありったけ、それに玉虫色のお羽織、白柄しらつか脇差、着物までも脱がせて、若衆二人それぞれ風呂敷ふろしきに包んで、
「あとのお勘定は正月五日までに。」と言い捨て、いそがしそうに立ち去った。
 粋人は、下着一枚の奇妙な恰好かっこうで、気味わるくにやりと笑い、
「どうもねえ、友人から泣きつかれて、判を押してやったが、その友人が破産したとやら、こちらまで、とんだ迷惑。金を貸すとも、判は押すな、とはここのところだ。とかく、大晦日には、思わぬ事がしゅったい致す。この姿では、外へも出られぬ。暗くなるまで、ここで一眠りさせていただきましょう。」と、これはまたつらい狸寝入たぬきねいり、陰陽、陰陽と念じて、わが家の女房と全く同様の、死んだ振りの形となった。
 台所では、婆と蕾が、「馬鹿というのは、まだ少し脈のある人の事」と話合って大笑いである。とかく昔の浪花なにわあたり、このような粋人とおそろしい茶屋が多かったと、その昔にはやはり浪花の粋人のひとりであった古老の述懐。
胸算用むねさんよう、巻二の二、訛言うそただは聞かぬ宿)

 

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