記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を、自由に旅する。太宰治が、ソウルフレンド。

【太宰治】対談:著書と資料をめぐって

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 太宰治が今年で生誕110周年を迎えるのに合わせ、青森県五所川原市、同弘前市、東京都三鷹市山梨県甲府市など、太宰にゆかりのある地で、様々な催しが行われています。特に6月は、太宰の誕生月であり、玉川上水に投身した太宰の遺体が発見された日でもある桜桃忌(6月19日)もあるため、一番盛り上がりを見せる月です。
 桜桃忌を目前に控えた6月15日、山梨県甲府市にある山梨県立文学館で開催されている「特設展『太宰治 生誕110年ー作家をめぐる物語ー』」に行って来ました。
 4月27日から6月23日まで開催されている特設展に合わせて、対談や講座、映画会など関連イベントも行われているのですが、この日は、東京大学教授・安藤宏氏と秀明大学学長(教授)・川島幸氏の対談「太宰治・著書と資料をめぐって」がありました。参加無料・要申込のイベントで、当初は定員150名での募集でしたが、応募者が殺到したことで、500名収容の講堂での開催に変更になるなど、開催前から期待に胸膨らむ企画でした。
 今回は、この対談について備忘録的にまとめていきます。

 

お茶目な安藤さん

 対談は予定通り13時30分から始まりました。
 司会の女性の紹介の後、お二方が舞台袖から登場。安藤氏の自己紹介で対談は幕を開けます。
 文学研究者は、「活字のみに重きを置いている人」と「直筆原稿など、創作の過程も含めて研究対象とする人」に大別されること。もともと初版本コレクターである川島さんが、コレクターに留まらず、その視点を活かし書誌学をされている稀有な存在であることをお話され、そのまま本題に入ろうとします。
 すると、「私も少し自己紹介しても良いですか?」と川島氏。この状況は、1時間半の対談の中で何度も見られたのですが、話し始めると止まらなくなる安藤さんを制止し、話の軌道を元に戻す川島さんという構図。とてもコミカルで、それだけ見ていても飽きませんでした。
 川島氏の「今日はあいにくの雨ですが…。71年前の今日、同じように雨が降っている中、玉川上水に投身した太宰の捜索活動が始められました。「富士には月見草がよく似合う」と書いていますが、太宰には、雨がよく似合うのかもしれません」というお話の後、安藤氏の主導で本題に入っていきます。

 

『晩年』初版本にこだわる理由

 最初のテーマは、太宰の処女作『晩年』にこだわる理由でした。安藤氏の「川島先生にとっての『晩年』とは?」という質問に対し、「武田家における武田信玄みたいなものですね」と川島氏。これがなければ太宰治は始まらない。最初で最後の遺書。太宰の本質であり、のちの太宰作品の見本市。というような説明が続いた後、「作家が魂を込めた究極の一冊」という言葉が。陳腐な表現ですが、心にズシリと来ました。

 上の写真は、川島氏作成の当日配布資料。
 初公開資料である「『晩年』佐佐木茂索宛献呈本」の署名部分についての資料も一枚差し込みで入っており、当日来場者限定で印刷配布の許可を受け、余った分は破棄すると話されていました。
 資料の中身は、おそらく今回が初出だろうという異装本の紹介もありながら、全32ページのうち、14ページを『晩年』に関する内容に割いています。『晩年』の装丁モデルとなったプルースト『イワン家の方』との異同や、口絵掲載の著者写真、貴重な帯に関する記事など、まさに垂涎の内容。川島氏も「ヤフオクやメルカリで売らないで下さいね」と話していましたが、もし今回の対談に参加できていなかったら、喉から手が出るほど欲しい一冊になっていただろうなぁ…と思います。

 続いて川島氏から、「近代文学研究の観点から見た『晩年』の価値とは?」という質問が。
 これに対し安藤氏は、「命を賭けてつくった遺書」であるという部分に着目しながら、後の作品の見本市であり、密度の高いサンプルであることを話されていました。また、吉行淳之介が「太宰のエッセンスが全て詰まっている。散文詩のよう。」と書いていることを引用し、吉行淳之介大江健三郎など、「この人、本当に太宰読んでたの?」という、意外な作家が『晩年』を絶賛していることから、『晩年』のインパクトの強さを強調していました。

 

『晩年』の収録作・構成について

 続いて川島氏から、太宰作品で本のタイトルと同一名義の作品が収録されていないのは『晩年』と『女性』のみ。『女性』は女性告白体の小説が集められているため納得できるが、「当時、私には一日一日が晩年であった。」という書き出しにもかかわらず、『ダス・ゲマイネ』が『晩年』に収録されていないのはなぜ?という疑問が。
 安藤氏は、『晩年』は遺書として発表されたが、『ダス・ゲマイネ』は第一回芥川賞の次席になった高見順、外村繁、衣巻省三太宰治の4人の新進作家が、文藝春秋からの依頼で、競作として発表されたという点。出版時期は近いが、実際に『晩年』出版を意図して作品が執筆された時期と異なる点を、その理由として上げていました。『晩年』執筆後の太宰が『晩年』執筆後の自分を邂逅して書いた作品が『ダス・ゲマイネ』とも。
 また、『晩年』収録の『逆光』は「ついに一篇も売れなかったけれど、百篇にあまる小説を書いた。」と売れない小説家のことを書きながらも、太宰が初めて商業誌である『文藝春秋』に掲載され、原稿料を手にした作品であるという皮肉な部分にも触れていました。
 また、『晩年』収録作品の中で、唯一直筆原稿が残っているのが『陰火』であり、所有しているのが、まさに山梨県立文学館であるため、「もっと宣伝した方がいい!皆さん、ぜひ見て行って下さい」ということを川島氏は強調していました。展示されている『陰火』の直筆原稿には、「句讀点に注意ねがふ」という書き込みもあり、太宰が句読点にこだわりを持っていたことが伺えました。
 短篇集は作品の発表順に収録されているケースが多いのに、『晩年』は異なることについて。安藤氏は、山内祥史氏の先行研究も踏まえた上で、「ほぼ執筆順」に作品が並べられていて、太宰自身の執筆歴を辿ることができる内容になっていると説明されていました。

 

サインを嫌がった太宰

 次に、初版本蒐集家である川島氏ならではの話題に。
 太宰の署名本というと『晩年』が話題に上がるが、ほかの本での署名本は?と安藤氏。
 後年の太宰は署名を好まなかったようで、出版社に献本リスト(井伏鱒二、知人、血縁者など40名程度)を渡して送本してもらっていたようで、本を贈ることへのこだわりが無くなっていったと言います。『女の決闘』の署名本は一度も見たことがない、と川島氏は話していました。だからこそ余計に、『晩年』署名本の価値が高まってしまうのでしょうか。

 

太宰研究に対する問題提起

 川島氏から大学機関の太宰研究に対する問題提起もありました。
 太宰と同時代作家、萩原朔太郎『月に吠える』、梶井基次郎檸檬』も太宰治の『晩年』と同様に、初版本は500部だったそうです。
 その中で、日本の大学が初版本を所蔵しているのは『月に吠える』12部、『檸檬』6部、『晩年』0部。海外までその視野を広げても、南京大学が1部所蔵しているに限るそうで。
 川島氏は、500部出版された『晩年』のうち、50部は見たと話され、研究機関にはないが、古本の世界にはあり、個人所有分を考えると100部は残存しているのではないか、と考察されていました。
 安藤氏にとって耳に痛い話題だったようですが、人気はあっても社会的な評価がこのような現状に結びついているという結論になりました。 

 

お伽草紙』初版、再版、異版

 続いて、今年4月に直筆完成原稿が発見されて話題になった『お伽草紙』について。この部分は、今回の対談でも一番の山場だったのではないでしょうか。
 『お伽草紙』は、初版(筑摩書房、1945年10月)、再版(筑摩書房、1946年2月)、異版(1948年9月)の3種類が刊行されています。

 上の写真は、安藤氏作成のレジュメ№2です。
 『お伽草紙』の一篇、「瘤取り」の一節は、

 原稿:「アメリカ鬼、イギリス鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶ…」
 初版:「××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶ…」
 再版:「殺人鬼、吸血鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶ…」
 異版:「羅生門の鬼、大江山の鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶ…」

と書き換えられています。
 1945年7月。太宰は疎開先の甲府で『お伽草紙』を書き終えるも、空襲のために焼け出され、原稿を抱えて津軽へ避難。そこで筑摩書房と連絡を取るも、東京の印刷所は残っていなかったため、信州の伊那で印刷されたと言われています。初版でアメリカ、イギリスの部分が伏字になっていることから、終戦直後の状況が感じられます。
 しかし、あわただしい中で発行された『お伽草紙』の組版や書体が気に入らなかった太宰は、初版発行の翌年2月に再版を発行しています。「瘤取り」の冒頭、「ムカシ ムカシノオ話ヨ」が明朝体からゴシック体に改められています。
 そして、南北書園から出版された異版。出版は太宰の死後ですが、企画自体は太宰の生前からあり、「浪漫叢書の一冊として刊行したい」との依頼に対し、「『お伽草紙』で」と太宰が指定したようです。しかし、前述の書き換えの経緯を見ると、異版の「羅生門の鬼、大江山の鬼」の表現だけ雰囲気が異なり、違和感を感じます。この違和感に対する考察を川島氏が行いました。

 

違和感1:異版の底本は初版本
 異版の「瘤取り」冒頭「ムカシ ムカシノオ話ヨ」部分が明朝体になっていることから、底本に初版本を使用していると考えられます。太宰が気に食わなかったため再版が行われたのに、なぜ、わざわざ初版本を底本としたのでしょうか。

 

違和感2:印刷された文字の違和感

 上の写真は、日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)からの引用です。
 書き換えられた「羅生門の」と「大江山の」の部分は印刷が他の部分より濃く、少し左に寄っています。写真だと判別しづらいですが、活版印刷のため、実際の本に触れると、インクのにじみ具合や凹凸から違いを感じとれるそうです。これは、古書蒐集家である川島氏ならではの視点だと感じました。また、その文字数からも、初版の「××××鬼」を校正したと考えられます。
 一度、自分で「殺人鬼、吸血鬼」と書き換えを行った太宰が、作品の雰囲気に全くそぐわない「羅生門の鬼、大江山の鬼」と書き換えを行うでしょうか。

 

結論:校正者は太宰治自身ではなかった
 以上の違和感2点を踏まえた上での結論は、校正者は太宰自身ではなかった、というものでした。
 当初、異版の出版時期はもっと早い予定でしたが、社内のゴタゴタで出版が遅れたようで、そうこうしているうちに太宰が亡くなってしまった。慌てて出版作業に入ったが、戦後ということもあり、再版の存在自体を知らない校正者が初版を底本とし校正を行った、という推論です。
 確かに、太宰の手によるものではなかったと考えると、ストンと胸に落ちるところもあり、安藤氏含め会場全体が納得した瞬間でした。

 

戦時中の自分(「内なる天皇制」)との訣別

   対談最後のテーマは、『パンドラの匣』『佳日』などに見られる検閲についてです。

 太宰がもっとも作品を発表した戦中・戦後は激動の時代でした。戦中は内務省、戦後はGHQの検閲を受けなければならず、修正の跡に当時の様子を垣間見ることができます。

 上の写真は、安藤氏作成のレジュメ№3です。
 『パンドラの匣』の修正について触れています。『パンドラの匣』は1945年10月から翌年1月まで「河北新報」に連載された新聞小説でした。
 1946年6月に河北新報社から出版された『パンドラの匣』から、今回テーマとなる部分を引用してみます。(※引用の際、新仮名遣い、新字体に改めました。以下、同様。)

「…日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。」
「な、なんですか?何を叫んだらいいのです。」
 かっぽれは、あわてふためいて質問した。
「わかっているじゃないか。」と言って、越後獅子はきちんと正座し、
天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳!を叫びたい。」

 固パンは眼鏡をはずした。泣いているのだ。

 続いて、ちょうど1年後の1947年6月に双英書房から出版された『パンドラの匣』から、修正された同様の部分を引用してみます。

「…日本は完全に敗北した。そうして、既に昨日の日本ではない。実に、全く、新しい国が、いま興りつつある。日本の歴史をたずねても、何一つ先例の無かった現実が、いま眼前に展開している。いままでの、古い思想では、とても、とても。」
 固パンは眼鏡をはずした。泣いているのだ。

 アメリカが自由の国であるからこそ「天皇陛下万歳!」という「叫び」を認めてくれるに違いないと主張する場面が、削除の上、書き換えられています。これでは、なぜ固パンが涙を流しているのか、うまく伝わってきません。GHQの検閲印が押され、上記該当部分を自筆で書き込み修正している『パンドラの匣』が残っており、GHQの検閲による修正であることが分かります。

 『文藝別冊 永遠の太宰治 生誕110年記念総特集』(河出書房新社、2019年)に収録、安藤氏が寄稿している「太宰治と現代ー『自己の内なる天皇制』をめぐって」にも書かれていたのですが、太宰は天皇からの相対的な近接の度合を自覚、自らへりくだることで対象との距離を手にし、戦時中における自分の立ち位置をあぶり出すことができたからこそ(「自己の内なる天皇制」)、次々と佳作を書き継ぐことができたと言います。(それを、逆に時代に飲まれていたと捉える見方もありますが。)
 しかし、ちょうど『パンドラの匣』を修正したのと同じ頃に執筆していた『斜陽』の中で、「自己の内なる天皇制」と訣別したような場面があります。前述の安藤氏の寄稿文から引用すると、

 〈日本で最後の貴婦人〉である〈美しいお母さま〉は、その死にあたって〈お老(ふ)けになつた〉〈陛下〉の写真を前に感慨を抱くことになる。だが、実は、この前後をいくら読み返しても、ここで〈陛下〉が登場しなければならぬ物語上の必然はないのである。しかし一見唐突に見えながらも、太宰治の文学にとって、それはやはり一個の必然だった。太宰は、『斜陽』をもって自己の内なる天皇制――生涯試みてきた「へだたり」創り――にある重要な見切りを付けたのではなかろうか。

 この後、大葉葉蔵を主人公にした、自らの人生の総決算のような『人間失格』を執筆することを考えると、感慨深いものがあります。絶筆となった『グッド・バイ』は、これまでの太宰には見られないような「軽さ」を感じさせる作品でしたが、これを執筆していたのは、「これまでの太宰治」と訣別した「新しい太宰治」だったのでしょうか。

※ちなみに、『文藝別冊 永遠の太宰治 生誕110年記念総特集』(河出書房新社、2019年)には、川島氏も「初版本『晩年』をめぐる物語」を寄稿されています!

 

さいごに

 対談のまとめとして安藤氏は、複数の版が存在する中、どの版を後世に残していくのかというのは、研究者や読者に与えられた役目である、ということを話されていました。現存する資料も限られていく中、それらを保存しながら、向き合っていくということの大切さを改めて考えさせられました。
 そして、後世に語り継いでいくために自分自身ができる活動を、今後も継続していきたいと思います。

 対談終了後、川島氏所蔵の初版本展示コーナーも設けられていました。
 写真は、川島氏が「究極の一冊」と呼ぶ『晩年』初版本。ふわっと香る古本の匂いが大好きです。軽い本なのですが、なぜだか、ずしりと重みを感じました。これが、『晩年』に込められた太宰の想いの重量なのでしょうか。
 川島氏の御厚意に感謝です。

 

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