記憶の宮殿

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【週刊 太宰治のエッセイ】文盲自嘲

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今週のエッセイ

◆『文盲自嘲(もんもうじちょう)
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)10月1日に脱稿。
 『文盲自嘲(もんもうじちょう)』は、1940年(昭和15年)10月の執筆と推定されるが、1942年(昭和17年)10月発行の「琴」第一輯に発表された。

文盲自嘲(もんもうじちょう)

 先夜、音楽学校の古川という人が、お見えになり、その御持参の鞄から葛原しげる氏の原稿を取り出し、私に読ませたのですが、生れつき小心な私は、読みながら、ひどく手先が震えて困りました。こういう事が、いつか必ず起るのではないかと、前から心配していたのでした。私は、「新風」という雑誌の七月創刊号に、「盲人独笑」という三十枚ほどの短篇小説を発表しました。それは、葛原勾当(くずはらこうとう)日記の、仮名文字活字日誌を土台にして、それに私の独創も勝手に加味し、盲人一流芸者の生活を、おぼつかなく展開してみたものでした。けれども、この勾当の正孫の、葛原しげる氏は、私たち文士の大先輩として、お元気で、この東京にいらっしゃる様子なのですから、書きながら、ひどく気になって居りました。御住所を捜し、こちらからお訪ねして、なお(くわ)しく故人の御遺徳をも伺い、それから、私ごとき非文不才の貧書生に、この活字日誌の使用を御許可下さるかどうか、改めてお願して、そのおゆるしを得て、はじめて取りかかるべき筋合いのもであるとは、不徳の小文士と(いえど)も、まずは心得て居りました。それが、締切日の関係やら、私のせっかちやら、人みしりやらで、とうとうその礼を(つく)さぬままにて、発表しました。お叱りは、覚悟の上でありました。けれどもいま、葛原しげる氏の原稿を拝読して、そんなに、厳しいお叱りも無いので、狡猾の小文士は思わず、にやりと笑い、ありがたしと膝を崩そうとした、とたんに、いけませんでした。「えちごじし、九十へんとは、それあ聞えませぬ太宰くん。」とありました。逃げようにも、逃げられません。いたずらに、「やあ、それは困った。やあ、それは、しまった。」などと阿保な言葉ばかりを連発し、湯気の出るほどに赤面いたしました。文盲不才、いさぎよく罪に服そうと存じます。他日、創作集の中に編入する時には、「四きのながめ。琴にて。三十二へん。」と訂正いたします。
 まことに、重ね重ねの御無礼を御海容下さらば幸甚に存じます。秋深く、蟲の音も細くなりました。鏤心(るしん)の秋、琴も文も同じ事なり、まずしい精進をつづけて行こうと思います。

 

盲人独笑』のモデル、葛原勾当(くずはらこうとう)

 太宰の小説盲人独笑は、筝曲家(そうきょくか)である葛原勾当(くずはらこうとう)が遺した葛原勾当日記』を基に執筆されました。

 葛原勾当(くずはらこうとう)(1813~1882)は、江戸後期から明治期に生きた地歌筝曲家、作曲家です。名は重美、前名は矢田柳三。
 葛原勾当は、備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町、現在は福山市)に、庄屋・矢田重知の長子として生まれました。幼い頃から音楽を好んでいましたが、3歳の時に痘瘡(とうそう)(かか)って両眼とも失明し、以後、ますます音楽に心を寄せるようになりました。
 9歳で隣村の瞽女(ごぜ)お菊について、琴と三味線を学びました。瞽女(ごぜ)とは、日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称で、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来するそうです。
 11歳の時に京都に上り、生田流の松野勾当(のちの、松野検校(けんぎょう))に師事し、14歳で座頭になり、その翌年に備後に帰郷。三備地方を巡遊して、広く筝曲の教授に当たる傍ら、たびたび上洛しては、その技を磨きました。
 そののち、郷里の地名をとって「葛原姓」を名乗るようになり、22歳で「勾当」の地位を許されました。江戸時代、幕府は障害者保護政策として、排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとし、盲人の階級を定めていましたが、「勾当」は「検校」より下、「座頭」より上の位階に当たります。この頃から、生田流の名手として、京都以西にもその名が知られるようになりました。
 作曲も行い、筝の研究と普及に一生を捧げました。「花形見」「狐の嫁入」「おぼろ月」などの作曲が、その業績です。
 折り紙の名人でもあり、折り雛やキジなどの作品約60点が現存しており、江戸時代の技法を今に伝えています。
 田中氏あさを(めと)って、二男一女があったそうです。

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葛原勾当(くずはらこうとう)(1813~1882) 江戸後期から明治期に生きた、日本の地歌筝曲家、作曲家。

 太宰が小説盲人独笑を執筆する際に使用した葛原勾当日記』は、1827年(文政10年)、葛原勾当が16歳の時から、1882年(明治15年)に71歳で病没するまで、56年間つけ続けていた日記です。
 はじめの10年間は、稽古の日付・人名・曲名などを代筆で書き留めていただけでしたが、1837年(天保8年)、26歳になってからは、自ら考案した木製活字を用いて、盲目ながら、自分の手で日記をつけ始めました。平仮名、数字、句点、日・月・正・同・申・候・御などの漢字を合わせ、計60数個の木活字を作らせ、各活字の左右側面に1本から17本までの横線を刻むことで、いろは歌の第何段。第何行のどの字であるかを触って識別できるようにしていたそうです。
 葛原勾当日記』は、方言や俗語を交えた口語体で、発音通りに記された箇所が多く、和歌の記載も多いため、音楽史や国語史にとっても好資料となっています。
 また、しばしば歯痛の記述も見られ、19世紀における歯科資料としても注目を浴びているそうです。

 今回のエッセイに登場した葛原しげる(1886~1961)は、葛原勾当の孫で、童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者です。
 作詞した童謡は4000篇とも言われ、「夕日」「とんび」「白兎」「キューピーさん」「白衣」「たんぽぽ」などの代表作があります。
 本名は「葛原𦱳」ですが、普段使用される漢字ではないため、「しげる」と平仮名で表記することが多かったそうです。

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葛原しげる(1886~1961) 葛原勾当の孫で、童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者。

 太宰が使用した葛原勾当日記』は、1916年(大正4年)11月25日付で、博文館から刊行されました。太宰はこの日記の話を、親友の伊馬春部から聞き、本を貸してくれるよう伊馬に頼み、送られてきた仮名文字活字日誌の葛原勾当日記』を土台にして、小説盲人独笑を執筆しました。

 葛原しげるから、

「えちごじし、九十へんとは、それあ聞えませぬ太宰くん。」とありました。逃げようにも、逃げられません。いたずらに、「やあ、それは困った。やあ、それは、しまった。」などと阿保な言葉ばかりを連発し、湯気の出るほどに赤面いたしました。文盲不才、いさぎよく罪に服そうと存じます。他日、創作集の中に編入する時には、「四きのながめ。琴にて。三十二へん。」と訂正いたします。

と言われたという太宰ですが、エッセイの通りに訂正されているかどうかは、ぜひ盲人独笑を読んでみて下さい。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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