記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】弱者の糧

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今週のエッセイ

◆『弱者の糧』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)11月下旬頃に脱稿。
 『弱者の糧』は、1941年(昭和16年)1月1日発行の「日本映画」第六巻第一号の「局外批評」欄に発表された。この欄には、ほかに「活動のこと」(池田源尚)、「人間教育における児童映画」(田辺耕一郎)、「俳句の映画」(龍胆寺雄)、「文化映画私見」(下村千秋)、「『悲しみ』の力」(横山美智子)が掲載された。

「弱者の糧

 映画を好む人には、弱虫が多い。私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい。
 何をしても不安でならぬ時には、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。真暗いので、どんなに助かるかわからない。誰も自分に注意しない。映画館の一隅に坐っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんな、いいところは無い。
 私は、たいていの映画に泣かされる。必ず泣く、といっても過言では無い。愚作だの、傑作だのと、そんな批判の余裕を持った事が無い。観衆と共に、げらげら笑い、観衆と共に泣くのである。五年前、千葉県船橋の映画館で「新佐渡情話」という時代劇を見たが、ひどく泣いた。翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら、嗚咽が出た。黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。翌る朝、思い出して、また泣いたというのは、流石に、この映画一つである。どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。あれは、よかった。なんという監督の作品だか、一切わからないけれども、あの作品の監督には、今でもお礼を言いたい気持がある。
 私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、すいぶん多い。
 やはり五年前、船橋に住んでいた頃の事であるが、くるしまぎれに市川まで、何のあてもなく出かけていって、それから懐中の本を売り、そのお金で映画を見た。「兄いもうと」というのを、やっていた。この時も、ひどく泣いた。おもんの泣きながらの抗議が、たまらなく悲しかった。私は大きな声を挙げて泣いた。たまらなくなって便所へ逃げて行った。あれも、よかった。
 私は外国映画は、余り好まない。会話が、少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する文章を一々読みとる事も至難である。私には、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。実に、疲れるのである。それに私は、近眼のくせに眼鏡をかけていないので、よほど前の席に坐らないと、何も読めない。
 私が映画館へ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。
 日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの、この優しい慰めに接して、泣かじと欲するも得ざる也。いい事だか、悪い事だか、私にもわからない。
 観衆たるの資格。第一に無邪気でなければいけない。荒唐無稽を信じなければいけない。大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)は、必ず試合に勝たなければいけない。或る教養深い婦人は、「大谷日出夫(おおたにひでお)という役者は、たのもしくていいわ。あの人が出て来ると、なんだか安心ですの。決して負ける事がないのです。芸術映画は、退屈です。」と言って笑った。美しい意見である。利巧ぶったら、損をする。
 映画と、小説とは、まるでちがうものだ。国技館角力(すもう)を見物して、まじめくさり、「何事も、芸術の極致は同じであります。」などという感慨をもらす馬鹿な作家。
 何事も、生活感情は同じであります、というならば、少しは穏当である。
 ことさらに、映画と小説を所謂「極致」に於いて同視せずともよい。また、ことさらに独自性をわめき散らし、排除し合うのも、どうかしている。医者と坊主だって、路で逢えば互いに敬礼するではないか。
 これからの映画は、必ずしも「敗者の糧」を目標にして作るような事は無いかも知れぬ。けれども観衆の大半は、ひょっとしたら、やっぱり侘しい人たちばかりなのではあるまいか。日劇を、ぐるりと取り巻いている入場者長蛇の列を見ると、私は、ひどく重い気持になるのである。「映画でも(、、)見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息がひそんでいるように、私には思われてならない。
 弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。

 

太宰が観た映画

 太宰は映画が好きだったようで、今回のエッセイ『弱者の糧』だけではなく、友人・知人の回想にも、「太宰と映画」について言及されています。

 太宰の友人・檀一雄の回想小説 太宰治には、太宰のセリフとして、次のように書かれています。

檀君。こんな活動を見たことない? 海辺でね、チャップリンが、風に向って盗んだ皿を投げるんだ。捨てたつもりで駈け出そうとすると、その同じ皿が、舞い戻ってくるんだよ。同じ手の中に、投げても投げても帰ってくるんだ。泣ける、ねぇ」

 今回は、エッセイ『弱者の糧』に登場したものも含め、太宰が観た映画4本を紹介します。


①「新佐渡情話」

 1936年(昭和11年)1月に公開された浪曲トーキー映画です。監督は清瀬英次郎。黒川弥太郎、花井蘭子、酒井米子が出演していました。

【あらすじ】
佐渡の港で、行き倒れ同然に拾われたお梅(花井蘭子)。拾った伊作(山田好良)は、お梅がふしだらな妹・お由(酒井米子)の娘であることを知り、彼女を立派に育ててやろうと決心するが…。

 太宰が「翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら。嗚咽が出た。」「私は前後不覚に泣いたのである。」と書いた映画です。

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■左から、黒川弥太郎、花井蘭子、酒井米子


②「兄いもうと

 1936年(昭和11年)6月に公開され、室生犀星むろうさいせい)の短篇小説『あにいもうと』を、江口又吉が脚色し、木村荘十郎が監督した「傾向映画」です。小杉義男、英百合子丸山定夫が出演していました。
 傾向映画とは、1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけて、当時の経済恐慌や社会文化状況を反映して、階級社会の暴露や闘争を描いた映画群を指します。

【あらすじ】
寒村の川原で堤防を作る人夫頭の赤座(小杉義男)には、妻のりき(英百合子)と長男の伊之(丸山定夫)、長女のもん、次女のさんの三人の子供がいた。東京へ女中奉公に行っていたもんが帰って来るが、彼女は奉公先で出会った小畑という学生の子供を妊娠していた。しかし、お腹の子供が死産し、もんは家を飛び出してしまう。しばらく後、小畑がもんを連れて赤座家を訪れた。父親に止められて来ることができなかったことを詫びる小畑に、赤座は理解を示す。しかし、たまたま帰宅した伊之は、小畑を土手に連れ出し、暴力をふるってしまった。

 太宰が「ひどく泣いた。おもんの泣きながらの抗議が、たまらなく悲しかった。」と評した映画です。

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室生犀星むろうさいせい)(1889~1962) 石川県金沢市出身の詩人・小説家。『あにいもうと』は、1934年(昭和9年)、「文藝春秋」7月号に発表された。室生の養母・赤井ハツをモデルとする赤座もんを主人公に、元々仲が良かったが、妹の妊娠を機に、激しく対立する兄妹の複雑な愛情を描いた。


③「乙女の湖」

 1934年にフランスで製作された、オーストラリアの作家・ヴィッキイ・バウムの小説が原作の青春ドラマ映画。日本での初公開は、1935年(昭和10年)。監督はマルク・アレグレ。ジャン=ピエール・オーモン、シモーヌ・シモンが出演していました。

【あらすじ】
夏の間だけ、チロルの湖で水泳を教える若いエリック。女性の目を惹く美しい容姿を持つ彼を巡り、ロマンティックな物語が展開する。

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 「私は外国映画は、余り好まない。」と言う太宰ですが、1941年(昭和16年)12月中旬、東京駅で愛人・太田静子と落ち合った太宰は、新宿の武蔵野館で、この映画を観ています。


④「弥次喜多凸凹道中」

 1948年(昭和23年)4月に公開された、東海道五十三次を下敷きにしたコメディ映画です。監督は原研吉。清水金一大坂志郎飯田蝶子山路ふみ子が出演していました。

【あらすじ】
例によって、東海道五十三次を今日も歩き続ける彌次郎兵衛(清水金一)と喜多八(大坂志郎)。ここは近江琵琶湖。財布の中は2人とも無一文で足取りも弾まない。やがて、通りかかった一座に入って食にありつこうと思った懸命の努力も、「芸無し」では水の泡。かえって、2人を介抱してくれた鳥追姿のお銀(山路ふみ子)がその美声を買われて一座に入れられてしまう。
ようやく辿り着いた城下町は、悪家老・原野黒兵衛の悪政によるインフレで、市民は苦しんでいた。ところが、江戸からこの町に視察官がやって来る、という情報が黒兵衛の耳に入る。

 太宰は、1948年(昭和23年)4月29日から5月12日までの約2週間、人間失格の「第三の手記 二」と「あとがき」を執筆するために、埼玉県大宮市に滞在していましたが、その際に、大宮駅前にある飲み屋街「南銀座通り」にあった映画館・日活館で、この映画を鑑賞したようです。


 太宰が観た映画4本を紹介しました。
 以下の記事では、「太宰と映画」のタイトルで、映画化された太宰の小説作品について紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
檀一雄小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「新佐渡情話 作品詳細 | シネマNAVI
・HP「新佐渡情話 | 映画 | 日活
・HP「兄いもうと|allcinema
・HP「弥次喜多凸凹道中|MOVIE WALKER PRESS
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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