7月24日の太宰治。
1927年(昭和2年)7月24日。
太宰治 18歳。
七月二十四日未明の芥川龍之介の自殺に、激しい衝撃を受ける。
「河童忌」芥川龍之介の命日
1927年(昭和2年)7月24日未明。『続西方の人』を書き上げた芥川龍之介(1892~1927)は、雨の降りしきる中、田端の自室で、斎藤茂吉から貰っていた致死量の睡眠薬を飲んで、服毒自殺しました。享年35歳。
芥川の命日は、小説『河童』にちなんで、「河童忌」と呼ばれています。戒名は、「懿文院龍之介日崇居士」。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺にあります。
芥川は、1916年(大正5年)、第四次「新思潮」創刊号に掲載した『鼻』が夏目漱石から称賛され、文壇へのデビューのきっかけになり、その後、流行作家となりました。短編小説の名手で、代表作に『羅生門』、『戯作三昧』、『蜘蛛の糸』、『地獄変』、『藪の中』、『河童』、『歯車』などがあります。
太宰は、芥川の文学から強い影響を受けたと言われています。
1924年(大正13年)、太宰16歳の頃から芥川の小説に親しむようになり、青森中学校時代には、『侏儒楽』や『将軍』など、芥川を意識した作品も書いています。
■芥川龍之介の自殺を報じる、青森の地元紙「東奥日報」 1927年(昭和2年)7月25日付。
弘前高等学校在学中、芥川自殺の報に接した太宰は、激しい衝撃を受け、感動に心を震わせました。直後、生家から下宿先の弘前に帰り、その2階に閉じ籠り続けたそうです。青森中学・弘前高校の同期で、理科甲類・上野泰彦によると、「芥川の自殺を賛嘆・羨望すること言葉を昂奮しながら述べ」ていたといいます。
芥川の自殺から受けた<衝撃>は、「年を経るにしたがっていろいろな形で太宰治の内部に定着し、彼の独自な気質と溶けあって、いつのまにか太宰治的な発想を生み出す源泉となっていった」と上野は分析しています。
この頃から、太宰は学業を放棄、私生活にも「変化」が現われはじめました。
この女師匠のもとで嗅ぎつけた芸妓の世界への憧れから、青森市や浅虫温泉に足を運んで、花柳界に出入りするようになります。
■弘前高等学校1年次、「地鉱」(自然科学・地理学習ノート)
太宰が、1935年(昭和10年)に設立された文学賞の受賞に執着したのは、その賞に「芥川龍之介」の名が冠されていたことも、理由の1つだったのでしょうか。
太宰が死の直前に執筆したエッセイ『如是我聞』に次のような一節があります。
君について、うんざりしていることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解っていないことである
これは、志賀直哉に向けられた言葉です。
太宰の晩年にあっても、芥川の作品が、決して軽くはない位置を占めていた可能性は否定できませんが、『如是我聞』以外に、太宰作品中で芥川に対する直接的な言及は少なく、太宰の芥川受容が、「作家・太宰治に影響を与えた」とまでは、言い切れないような気もします。
しかし、高校時代のノートに「芥川龍之介」の名前を書き連ねていたり、「習作期」の作品群に芥川を意識した作品も見られることから、「作家・太宰治の誕生に影響を与えた作家の1人」とは言えるのかもしれません。
ちなみに、太宰は、「貴公子ハムレット」と呼ばれた芥川の長男・芥川
【了】
********************
【参考文献】
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************
【今日は何の日?
"太宰カレンダー"はこちら!】
【太宰治、全155作品はこちら!】