記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月18日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月18日の太宰治

  1916年(大正5年)1月18日。
 太宰治 6歳。

 従姉じゅうしリエの夫季四郎すえしろうが、津島歯科医院を開業するため、叔母キヱの一家が北津軽郡五所川原町字蝉ノ羽五十番地にヤマショウ(“正”の上に“ヘ”)の屋号で分家した。叔母の一家、キヱ、季四郎、リエ、テイ、幸子こうことともに五所川原に引越し、小学校入学直前までの二か月余を、叔母の家ですごした。

f:id:shige97:20200103093810j:image
■津島家系譜 山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)より。

叔母キヱと「太宰治『思ひ出』の蔵」

 津島キヱは、太宰の母・夕子たねの妹で、太宰の叔母にあたります。

f:id:shige97:20200103095713j:image
■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ、太宰、母・夕子たね。後ろは三上ヤエ先生。

 キヱは、17歳の時に義兄・源右衛門(太宰の父)の実弟・友三郎を婿養子として迎えましたが、友三郎の酒乱や女性交遊が原因で、二児をもうけた後に離婚。その後、青森市の豊田家から実直な常吉を迎えましたが、二児をもうけた後に病没してしまい、28歳で未亡人となり、当時新築された津島邸(現在の斜陽館)に戻って来ていました。
 太宰は、生まれて間もなく乳母に預けられましたが、その乳母が再婚することになったため、キヱの下に移され、4人の娘と一緒に「十畳ひと間の部屋」で育てられました。
 キヱは、病気がちだった姉の夕子たねと異なり健康的で、多少勝気な性格の人で、姉に代わって津島家の主婦の役割をしていました。世話好きで、特に太宰を可愛がり、4人の娘たちも従弟じゅうていの太宰を実の弟のように世話を焼いたため、太宰は小さい頃、自分がキヱの長男だと思っていたと『思い出』などに書いています。
 不眠症だった太宰に、キヱは添い寝して、津軽に伝わる昔話を語って寝かせつけたそうです。その後、子守の越野たけから文字を教わっていますが、幼少時代にこの2人から教わったものが、後に太宰文学のいしずえとなります。キヱが分家して五所川原に転居した際、太宰もキヱに着いて行き、たけも女中として同伴しています。

 キヱは、太宰が青森中学校に入学した際、亡夫・常吉の実家である豊田家に、太宰の世話について熱心に頼み込んだり、太宰が長兄・文治と義絶中に里帰りした際、実家に泊まる事ができない太宰を五所川原の家に迎えるなど、面倒をみています。

 現在、キヱの家があった場所は津島歯科医院となり、隣にある蔵は「太宰治『思ひ出』の蔵」として公開。当時の外観を残しています。この蔵は、2011年(平成23年)に地区画整理事業のため一度解体されましたが、その時に木材を保存し、2014年(平成26年)8月に再築されたものです。

f:id:shige97:20200103220458j:image

 太宰治『思ひ出』の蔵」は、実家に帰省中の2020年1月3日に訪問。noteに記事を投稿しています!

 【了】

********************
【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月17日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月17日の太宰治

  1944年(昭和19年)1月17日。
 太宰治 34歳。

 日本文学報国会小説部会幹事会が開催され、「五大宣言小説化」の件が審議されている。この時、太宰治は「執筆候補者」に「選定」されたものと思われる。

『惜別』の意図

 同1944年(昭和19年)2月3日、太宰は、麹町区三年町の社会事業会館で開催された、日本文学報国会小説部会の「大東亜五大宣言小説執筆希望者」による協議会に出席。この会で「全執筆希望者から小説の梗概こうがいならびに意図を原稿用紙二三枚に執筆提出を」うことが決定し、太宰はこの直後に、「『惜別』の意図」を執筆しています。

f:id:shige97:20200101173436j:image

『惜別』の意図

 昭和三十五年、当時二十二歳の周樹人しゅうきじん(後の世界的文豪、魯迅ろじん)が、日本国にいて医学を修め、以て疫病者の瀰漫びまんする彼の祖国を明るく再建せんとの理想に燃え、清国留学生として、横浜に着いた、というところから書きはじめるつもりであります。多感の波の眼には、日本の土地がどのように写ったか。横浜、新橋間の車中に於いて、窓外の日本の風景を眺めながらの興奮、ならびに、それから二箇年間、東京の弘文学院に於ける純真にして内気な留学生々活。東京という都会を彼はどのように愛し、また理解したか。けれども彼には、彼の仲間の留学生たちに対する自己嫌悪にも似た反発もあり、明治三十七年、九月、清国留学生のひとりもいない仙台医学専門学校に入学するのでありますが、それから二箇年間の彼の仙台に於ける生活は、彼の全生涯を決定するほどの重大な時期でありました。彼はこの時期に於いて、二、三の日本の医学生から意地悪をされたのも事実でありますが、また一方に於いては、それを償ってあまりある程の、得がたい日本の良友と恩師を得ました。ことにも藤野厳九郎教授の海よりも深い恩愛に就いては、彼は後年、「藤野先生」という謝恩の念に満ちあふれた名文を草しているほどで、「ただ先生の写真のみは今なお僕の北京の寓居の東側の壁に、書卓に向って掛けてある。夜間倦んじ疲れて、懈怠けたいの心が起ろうとする時、頭をもたげて燈光の中に先生の黒い痩せたお顔を瞥見べっけんすると、いまにも抑揚頓挫のある言葉で話しかけようとしていられるかの如く思われる。と忽ち又それが僕の良心を振いおこさせ、そして勇気を倍加させてくれる」と書いてあります。さらにまた重大の事は、この仙台の町に、唯一人の清国留学生として下宿住居をしているうちに、彼は次第に真の日本の姿を理解しはじめて来たという一事であります。時あたかも日露戦争の最中であります。仙台の人たちの愛国の至情に接して、外国人たる彼さえ幾度となく瞠目し感奮させられる事があったのでした。彼も、もとより彼の祖国を愛する熱情に燃えて居る秀才ではありますが、眼前に見る日本の清潔にして溌剌たる姿に較べて、自国の老憊ろうはいの姿を思うと、ほとんど絶望に近い気持になるのであります。けれども希望を失ってはならぬ。日本のこの新鮮な生気はどこから来るのか。彼は周囲の日本人の生活を、異常の緊張を以て、観察しはじめます。由来、清国の青年の日本留学の真意は、日本こそ世界に冠たる文明国と考えてやって来るのではなく、やはり学ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粹を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだ方が安直に西洋の文明を吸収できるというところに在ったようで、二十二歳の周樹人もまた、やはり、そのような気持で日本に渡って来たのは致し方のないところであったのでありますが、しかし、彼のさまざま細かい観察の結果、日本人の生活には西洋文明と全く違った独自の凜乎たる犯しがたい品位の存する事を肯定せざるを得なくなったのであります。清潔感。中国に於いては全然見受けられないこの日本の清潔感は一体、どこから来ているのであろうか。彼は日本の家庭の奥に、その美しさの淵源がひそんでいるのではなかろうかと考えはじめます。或いはまた、彼の国に於いては全く見受けられない単純な清い信仰(理想といってもよい)を、日本の人がすべて例外なく持っているらしい事にも気がつきます。けれども、やはり、はっきりは、わかりません。次第に彼は、教育に関する御勅語、軍人に賜りたる御勅諭までさかのぼって考えるようになります。そうして、ついに、中国がその自らの独立国としての存立を危うくしているのは、決して中国人たちの肉体の病気の故ではなくして、あきらかに精神の病のせいである、すなわち、理想喪失という怠惰にして倨傲きょごうの恐るべき精神の疾病の瀰漫びまんるのであるという明確の結論を得るに到ります。然して、この病患の精神を改善し、中国維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文芸に依るのが最も捷径しょうけいではなかろうかと考え、明治三十九年の夏(六月)、医学専門学校を途中退学し、彼の恩師藤野先生をはじめ、親友、または優しかった仙台の人たちとも別れ、文芸強国の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意気軒昂いきけんこうたる上京を以て作者は擱筆かくひつしようと思って居ります。梗概だけを述べますと、いやに理屈っぽくなっていけませんが、周樹人の仙台に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思って居ります。魯迅の晩年の文学論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい触れず、ただ純情多感の若い一清国留学生としての「周さん」を描くつもりであります。中国の人をいやしめず、また、決して軽薄におだてる事もなく、所謂いわゆる潔白の独立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中国の若い智識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感懐を抱かしめ、百発の銃弾以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図を存しています。

  この5枚の原稿の欄外には、「(第二項、独立親和)/(付、三項、文化昂揚)」とあり、太宰は「大東亜五大宣言」のうち、第二項と第三項との小説化を意図していたことが分かります。
 タイトルは、最初「『清国留学生』(課題)」と記して全体を抹消し、次に右側に「支那の人」と記してまた抹消し、最後に「『惜別』の意図」と記して決定しました。
 美知子は、「当時の世情にあっては、再会を期し難い気持が何人の胸中にもあった」「今日、会った人でも、お互い明日の命の知れぬ時勢であったから」「惜別」という言葉は「切実に響いた」と書き残しています。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月16日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月16日の太宰治

  1939年(昭和14年)1月16日。
 太宰治 29歳。

 石原家の母くらと二人で、二十円を半分ずつ出し合い、末広(すえひろ)と菓子とを添えて、斎藤文二郎宅へ正式にお礼に行った。

結婚のお礼回り

 妻・美知子の母親・くらと一緒に、今回の縁談で仲人を果たしてくれた斎藤宅へお礼に行きます。

 ちなみに、お菓子と一緒に持って行ったという末広(すえひろ)とは、扇子(せんす)のこと。
 お見合いの時の結納品に用いられる一対の扇子で、慶事に着用する着物の帯に挟み入れる扇子も「末広」と呼ぶそうです。末広がりの形状をしていることから付けられた名称のようで、今回の場合は、縁談の仲介をした関係者への引き出物として、扇子とお菓子を用いた、ということになります。

f:id:shige97:20200116192811j:image

 太宰は、今日この時の様子を、上京後に太宰の面倒を見ていた津島家出入りの呉服商中畑慶吉なかはたけいきち宛の封書(1月17日付)に記しています。

  甲府市御崎町五六より
  青森県五所川原町旭町 中畑慶吉宛

 拝啓
 お手紙 ありがたく拝誦仕りました
 祝言の夜のお言葉 身にしみて 忘れては居りませぬ
 奮闘いたします 成功 不成功は天運にも よることと存じますが しかし いまは健康も充分ですし とにかく猛奮闘してみせます
 一日も早く 故郷の母上はじめ 皆さまと 晴れて対面 致したく存じます
 きょう十六日、私と 石原氏母堂と 二人 正式に仲人の斎藤氏宅へお礼にまいりました
 その際、二十円、私と石原氏と半分ずつ出し合い、末広とお菓子を添えて、ほんのお礼の印として 差し出しました
 もっとお礼したかったのですが 私も お小使いの中から 工面するより他なく 石原氏と相談して十円ずつ出し合い、包んで、石原氏の母堂のお名前と 私の名前とを書いて 差し出しました
 もう これで たいてい こちらの挨拶は きれいにすみました
 おかげさまでございます 思いもかけず 立派に式をして下され 私も肩身が広うございます いくら お礼を言っても とても足りませぬ
 立派にご期待におむくいしたく、決意するところ ございます
 新しいふとんも 井伏様より 送っていただき用いて居ります
 ほんとうに どんなにか いろいろ御世話になったことで ございましょう
 三月には 甲府へおいで下さる由、いまから楽しみにて、二人指折り数えてお待ちして居ります
 家賃は安くても 八畳 三畳 一畳 小綺麗で 日当りよく いい家です
 静かで 仕事できますゆえ 何卒ご安心下さい
 石原氏 御家族のこと、別紙に 御母堂に書いていただきました
 いま お家に居られるかたは、母堂、冨美子姉様、妹愛子さん、弟明君の四人だけです
 他に、三女 うた子姉様は、東京市板橋区上板橋町七ノ四四〇四山田貞一氏に嫁ぎ、山田氏は帝大工科出身の技師で、こんどの私たちの結婚をも、よく理解下され、ひとかたならぬ お世話下さいました
 次女は 京城帝国大学の講師 小林英夫氏に嫁ぎ、先年 男児ひとり残して なくなられた由にて、美知子は四女です、
 なお、いま生きていたら私と同年の筈の長男、左源太氏は、東京帝大医学部在学中に病没なされた由です
 大体以上の如くでございます
 今宵 寒さきびしく 手先こごえ 乱筆 読みにくいことと存じますが 何卒 御判読ねがいます
 美知子も一生懸命でございますゆえ 全く御安心下さい
 末筆ながら 奥様には くれぐれも よろしく
                       修 治 拝
 中 畑 様

f:id:shige97:20200101170138j:image
甲府市水門町の石原家にて。前列左から太宰、母くら、後列左より妹愛子、美知子、弟明、姉冨美子。

 太宰と美知子の結婚については、先に公開している以下の記事でも紹介しています。

 ちなみに、封書の最後に出て来る「板橋在住の山田氏」とは、短篇集女生徒の装丁絵を描いた山田貞一です。

f:id:shige97:20200113145036j:plain
f:id:shige97:20200116211058j:image

■1939年(昭和14年)1月8日、井伏鱒二夫妻の媒酌で井伏家において挙式。前列右から井伏鱒二、太宰、妻・美知子、井伏夫人・節代。後列右から北芳四郎、山田貞一(美知子の三姉・宇多子の夫)、中畑慶吉、1人おいて宇多子。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月15日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月15日の太宰治

  1941年(昭和16年)1月15日。
 太宰治 31歳。

  美知子とともに伊豆伊東温泉に一泊旅行をした。

太宰と旅行

 太宰と旅行について、津島美知子『回想の太宰治からの引用で見ていきます。

 昭和十五、六年頃はまだ戦争の影響もさほどでなく、太宰の身辺も平穏であった。
 この頃は小旅行をよく試みた。そのうちで私が同行したのは、十六年の小正月の伊東への一泊旅行と、十五年七月の伊豆旅行の帰途とである。甲府には頻繁に行った。太宰は甲府市内はもちろん、勝沼葡萄園ぶどうえん、夏は月見草でうずまる笛吹川の河原や、甲運亭という川べりの古い料亭、酒折さかおりのみや善光寺湯村温泉富士川沿いに南下して市川大門町などに足跡を残しているから、やはり郷里についでは甲州をよく歩いている。
 伊東の旅行のときは、一度きめて入った宿なのに、気に入らずに出て、別の旅館に行ったり、帰りに寄った横浜の中華街では、安くてうまい店を探してさんざん歩きまわり結局つまらない店に当たったりして、この一泊旅行といい、八十八夜の旅といい、「東京八景」を書くため滞在した湯ケ野の宿といい、宿屋の選定、交渉などは全く駄目な人であった。結局それは旅行下手ということにもなるだろうと思う。誰でも初めての旅館の玄関に立つことには、ためらいを感ずるものではあるが。太宰の場合、郷里では旅先にそれぞれ定宿があり、生家の顔で特別待遇を受けてきた。生家の人みな顔の利かないところへは足をふみ入れない主義のようである。そして旅立ちとなると、日程、切符の入手、手荷物の手配、服装に至るまで、いっさい整えられて身体だけ動かせばよいのだ。過保護に育ち、人任せの習慣が身についていた。その一方一度行ってよい印象を受けたところには、二度三度と訪れて、案内役のような形で先輩友人と同行している。三保灯台みほとうだい下の三保園、甲州の葡萄郷や甲府市街、湯村温泉奥多摩などである。結局三島から西には旅行することなしに終ってしまったが、戦時中だったためにそういう結果になったまでで、旅行ぎらいではなかった。食堂車でビールを飲む楽しさを語ったことがあるから、長生きしていたら大いに旅行していたかもしれない。気が利いて何から何までやってくれるおともがいたらという条件つきであるがーー。 

 「三島から西には旅行することなしに終ってしまった」太宰ですが、1946年(昭和21年)1月25日、太宰は一番弟子の堤重久つつみしげひさに宛てた手紙の中で、以下のように記しています。

 拝復 とにかく御無事の御様子、何よりです。こちらは浪々転々し、とうとう生れた家へ来ましたが、今年の夏までには、小田原、三島、または京都、なんて考えている。東京には家が無いだろうから、東京から汽車で二、三時間というところ、そのへんに落ちつく事になるだろうと思っている。
 天皇が京都へ行くと言ったら、私も行きます。このごろの心境如何いかん。心細くなっていると思う。苦しくなるとたよりを寄こす人だからね。

  この手紙は、太宰が青森県金木町の生家に疎開している時に書かれましたが、その宛先は京都市左京区の「三森豊方 堤重久宛」となっています。弟子から京都での生活について聞かされ、京都への移住も検討していたのでしょうか。
f:id:shige97:20200111153626j:image
■1942年(昭和17年)4月、奥多摩で一番弟子・堤重久と。太宰は堤に、死の直前まで最も心を許し、親愛の情を示したそうです。撮影・桂英澄

 もし、太宰が長生きしていたら、美知子の言う通り「大いに旅行」した旅行記なんかも読めたかもしれません。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人神奈川文学振興会 編『生誕105年 太宰治展 ー語りかける言葉ー』(県立神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月14日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月14日の太宰治

  1946年(昭和21年)1月14日。
 太宰治 36歳。

  青森県金木町 津島文治方より
  仙台市東三番丁 河北新報社出版局 村上辰雄宛

 拝復、本日二千円たしかに頂戴ちょうだいつかまつりました。受領書、別に同封いたしました、このたびは本当にお手数をおかけ致し、旅は道づれ世は情、とつくづく感じいりました、からおせじではございません。本当にありがとうございました。
 新聞に依ると、流行の争議が御社にもはじまったようで、落ちつかない事でございましょう、みんなが幸福になるよう、円満の解決を祈っています、春になると、私もいちど東京へ行こうと思っていますが、その折、酒さかなを背負って仙台へ下車して、パンドラ出版記念会をひらきたいと思っています。
 どうか、この時代の苦しさを耐えて、切り抜けるよう、力を合わせてやっていきましょう。
 きょうは、心からのお礼まで。 敬具
  村 上 様                         太宰 治

 太宰、初の新聞連載

 太宰が青森県金木町(現・五所川原市)の生家に疎開中、宮城県仙台市村上辰雄むらかみたつおに宛てて書かれた手紙です。
 村上は、河北新報社(かほくしんぽうしゃ)の出版局長で、1944年(昭和19年)に太宰が『惜別』の取材旅行で仙台を訪れた際、世話になっています。
f:id:shige97:20200114001543j:image

 翌1945年(昭和20年)9月下旬、村上は夜行列車で金木町にいる太宰を訪ね、戦後最初の新聞小説を依頼します。村上の「書いてくれるね」の問いに、太宰は「うん、書きたいと思っているのがあるんだ。(略)何しろ終戦だろう。僕は、改めて希望というものを感じている。パンドラのはこから、最後に見つけ出した生きがいというか、もう長虫だの歯のある蛾だの毒蛇は見たくもないんだ」と即答したそうです。
 太宰にとって初めての新聞連載で、小山書店から刊行予定でしたが、出版許可がなかなか下りず、発行が延引しているうちに、発行間際の1944年(昭和19年)12月に印刷工場が戦禍に遭い、原稿が焼失してしまった『雲雀ひばりの声』(の校正刷り)の内容を戦後のことに書き改めて執筆しました。

 連載は1945年(昭和20年)10月22日から始まり、「河北新報」と同時に、青森県下の地方紙「東奥日報」にも掲載されました。
 新聞小説の原稿は、〆切ギリギリに新聞社に届くのが普通なのに、太宰は原稿を80枚ずつ、10日ごとに前後3回で送り届けたため、河北新報社の人々や挿画担当の画伯を驚かせたそうです。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月13日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月13日の太宰治

  1944年(昭和19年)1月13日。
 太宰治 34歳。

 「東京新聞」に「横綱」を発表。

太宰と相撲(すもう)

 太宰は、相撲についてのエッセイを「横綱」含めて3本書いています。
 今回は、太宰が相撲について書いたエッセイ3本を発表年順に紹介します。

 まずは、1940年(昭和15年)6月15日発行『相撲』第五巻第六号の「夏場所全勝負並日々印象記」欄に「『武技』よりも『芸技』・・・十四日目の印象・・・」の題名で発表され、のちに昭南書房版『信天翁(あほうどり)』に収録の際に改題された国技館です。

国技館

 

 生れてはじめて本場所というものを、見せてもらったわけであります。世人のわいわい騒ぐものには、ことさらに背を向けたい私の悲しい悪癖から、相撲に就いても努めて無関心を装って来たわけであります。けれども、内心は、一度見て置きたいと思っていたのでありました。むかしの姿が、そこにいまだ残っているような気がしていたからであります。
 協会から案内の御手紙をもらったので、(はかま)をはいて出かけました。国技館に到着したのは、午後四時頃でありました。招待席は、へんに窮屈で、その上たいへん暑かったので、すぐに廊下に出て、人ごみのうしろから、立って見ていました。
 雛壇(ひなだん)を遠くから眺めると、支那の模様のように見えます。毛氈(もうせん)の赤が、少し黒ずんでいて、それに白っぽい青が交錯(こうさく)されて在るのです。白っぽい青とは、観客の服装の色であります。団扇(うちわ)が無数にひらひら動いています。ここには、もう夏が、たしかに来ているのです。
 土俵の黒白青赤の四本の柱は、悲しいくらいどぎつい原色なのでありました。埴輪(はにわ)のような、テラコッタの肌をしているのであります。
 全体の印象を申せば、玩具のような、へんな悲しさであります。泥絵具の、鳩笛(はとぶえ)を思い出しました。お(とり)様の熊手の装飾、まねき猫、あんな幼い、悲しくやりきれないものを感じました。江戸文化というものは、こんな幼稚な悲しさ、とでも言うものの中に生育していたのではないか、とさえ思いました。
 取組を、四、五番見ましたが、あまり、わかりませんでした。照國という力士は、上品な人柄のようであります。本当に怒って取組んだら、誰にも負けないだろうと思いました。相手の五ツ島とかいう力士の人柄には、あまり感心しませんでした。勝ちゃいいんだろう、という(すさ)んだ心境が、どこかに見えます。勝負に勝っても、いまのままでは、横綱になれません。もう一転びの必要があります。
 用事があったので、照國、五ツ島の取組を見て、それだけで帰りました。
 四、五番を見ただけですから、自信を以ては言えませんけれど、力士の取組に、「武技」というよりは、「芸技」のほうを、多く感じました。いいことか、悪いことか、私には、わかりません。

  続いて、1941年(昭和16年)1月5日発行の『都新聞』第一九一〇八号の第一面の「大波小波」欄に「今年はどんな題材を」の課題に対して「男女川(みなのがわ)と羽左」の題名で発表され、のちに新紀元社版『薄明』収録時に改題された男女川(みなのがわ)羽左衛門です。 

男女川(みなのがわ)羽左衛門

 

 横綱、男女川が、私の家の近くに住んでいる。すなわち、共に府下三鷹下連雀の住人なのである。私は角力(すもう)に関しては少しも知るところが無いのだけれど、それでも横綱、男女川に就いては、時折ひとから噂を聞くのである。噂に拠れば、男女川はその身長に就いての質問を何よりも恐れるそうである。そうして自分の実際の身長よりも二寸くらい低く言うそうである。つまり、大男の自分を憎悪しているのである。自己嫌悪、含羞(がんしゅう)、閉口しているのであろう。必ずや神経のデリケエトな人にちがいない。自転車に乗って三鷹の駅前の酒屋へ用達(ようた)しに来て、酒屋のおかみさんに叱られてまごついている事もある。やはり、自転車に乗って三鷹郵便局にやって来て、窓口を間違ったり等して顔から汗をだらだら流し、にこりともせず、ただ狼狽(ろうばい)しているのである。
 私はそんな男女川の姿を眺め、ああ偉いやつだといつも思う。よっぽど出来た人である。必ずや誠実な男だ。
 ひとの噂に拠れば、男女川はひどく弱い角力だそうである。敗れてばかりいるそうである。てんで角力を取る気がないらしいという話もある。けれども私は、その事に就いても感服している。いつか新聞で、かれの自戦記を読んだが、あの文書は、忘れがたい。(いわ)く「われは横綱らしく強いところを見せようとして左の腕を大きくぶるんと振って相手を片手で投げ飛ばそうとしたが、相手は小さすぎて、われの(かいな)はむなしく相手の頭の上を通過し、われはわが力によろめき自ら腰がくだけて敗れたのである。とかく横綱は、むずかしい。」
 羽左衛門の私生活なども書いてみたい。朝起きてから、夜寝るまで。面白いだろうと思う。題は「たちばな。」けれども、私は、男女川の小説も、羽左衛門の物語も、一生涯、書く事は無いだろう。或る種の作家は、本気に書くつもりの小説を前もって広告する事を避けたがるものである。書かない小説を、ことさらに言ってみるものである。私も、どうやらそれに近い。

 最後はいよいよ、1944年(昭和19年)1月13日発行の『東京新聞』第四百六十六号の第四面の「文化」欄に発表された横綱です。

横綱

 

 二、三年前の、都新聞の正月版に、私は横綱男女ノ川(みなのがわ)に就いて書いたが、ことしは横綱双葉山に就いて少し書きましょう。
 私は角力に就いては何も知らぬのであるが、それでも、横綱というものには無関心でない。或る正直な人から聞いた話であるが、双葉山という男は、必要の無いことに対しては返辞をしないそうである。お元気ですか。お寒いですね。おいそがしいでしょう。すべて必要の無い言葉である。双葉山は返辞をしないそうである。
 何とか返辞をしろ、といきり立ち腕力に訴えようとしても、相手は双葉山である。どうも、いけない。
 或るおでんやの床の間に「忍」という一字を大きく書いた掛軸があった。あまり上手でない字であった。いずれ、へんな名士の書であろうと思い、私は軽蔑(けいべつ)して、ふと署名のところを見ると、双葉山である。
 私は酒杯を手にして長大息(ちょうたいそく)を発した。この一字に依って、双葉山の十年来の私生活さえわかるような気がしたのである。横綱の忍の教えは、可憐(かれん)である。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】

【日めくり太宰治】1月12日

f:id:shige97:20191205224501j:image

1月12日の太宰治

  1944年(昭和19年)1月12日。
 太宰治 34歳。

 1月10日から13日まで、熱海の山王ホテルに滞在して、八木隆一郎、如月敏とともに、「佳日」の脚色に当たった。

太宰と映画

 この年の1月3日、東宝プロデューサー山下良三が、太宰宅を突然来訪。佳日映画化の申し入れがあり、承諾しています(映画タイトル「四つの結婚」)。

f:id:shige97:20191231152546j:image
■映画「四つの結婚」撮影現場で、スタッフと。前列右より江川宇礼雄入江たか子、太宰、山根寿子、高峰秀子。後列右より青柳信雄監督、清川荘司山田五十鈴河野秋武、山下良三プロデューサー、志村喬

 太宰は映画が好きだったようで、太宰と映画について、次のように書かれています。

 檀一雄『小説 太宰治には、「檀君。こんな活動を見たことない? 海辺でね、チャップリンが、風に向って盗んだ皿を投げるんだ。捨てたつもりで駆け出そうとすると、その同じ皿が、舞い戻ってくるんだよ。同じ手の中に、投げても投げても帰ってくるんだ。泣ける、ねぇ」と太宰が語る場面があります。
 太田治子『明るい方へ』には、「新宿の武蔵野館でシモーヌ・シモン主演のフランス映画『乙女の湖』を一緒に観た。」と、太宰と太田静子が一緒に映画を鑑賞する場面があります。
 太宰が人間失格執筆時に滞在した大宮でも、映画館に足を運んでいたそうで、この時観ていたのは邦画。太宰は近眼だったため、決まって一番前の席に座っていたといいます。

 ちなみに、太宰が通っていた映画館「日活館」は、『男はつらいよ』で有名な渥美清が初舞台を踏んだ場所。旅芸人の父を持つ友人に誘われて幕引きのバイトをしていた渥美は、セリフもない通行人役として初舞台を踏んだそうです。1946年(昭和21年)、太宰が大宮に滞在する2年前のことです。

 また、太宰作品は何度か映画化もされています。

 生前に映画化された作品としては、1944年(昭和19年)9月に東宝が映画化した佳日「四つの結婚」)と、翌1945年(昭和20年)に大映が映画化したパンドラの匣「看護婦の日記」)があります。

f:id:shige97:20191231161049j:image
■「看護婦の日記」主演の関千恵子と。

 太宰の死後には、真白ましろき富士の(原作『葉桜と魔笛』、吉永小百合 主演、1963年)、奇巌城の冒険(原案『走れメロス』、三船敏郎 主演、1966年)、走れメロス東映アニメーション、1992年)が映画化されています。

 また、太宰治生誕100年を記念して、2009年から2010年にかけて斜陽(秋原正俊 監督、佐藤江梨子 主演、2009年)、ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~根岸吉太郎 監督、松たか子浅野忠信 主演、2009年)、パンドラの匣(富永昌敬 監督、染谷将太 主演、2009年)、人間失格荒戸源次郎 監督、生田斗真 主演、2010年)が映画化されています。 

f:id:shige97:20211031143243j:image

 さらに、太宰治生誕110年だった、昨年2019年には『人間失格 太宰治と3人の女たち』(蜷川実花 監督、小栗旬 主演、2019年)が公開され、今年2020年2月14日には、グッドバイ~嘘からはじまる人生喜劇~成島出 監督、大泉洋小池栄子 主演)の公開も控えています。

f:id:shige97:20211031143253j:image

 【了】

********************
【参考文献】
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日文庫、2012年)
・滝口明祥『太宰治ブームの系譜』(ひつじ書房、2016年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

【今日は何の日?
 "太宰カレンダー"はこちら!】

太宰治、全155作品はこちら!】