記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】1月11日

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1月11日の太宰治

  1938年(昭和13年)1月11日。
 太宰治 28歳。

  東京市杉並区天沼一ノ二一三 鎌滝方より
  東京市下谷区上野桜木町二七 山崎剛平方 尾崎一雄

 拝啓
 昨年は、いろいろ御むりをお願いいたし、さぞ ごめいわく でございましたでしょう、どうやら 切り抜けました故 他事ながら御安心下さい、原稿なかなか むづかしく、どうやら三枚、本日別封にてお送りいたしました、あんなのでよかったら、どうか御使用下さいまし、
 年賀状いただき、私喪中ゆえ欠礼いたしました、あしからず御了承下さい、
 末筆ながら山崎様にもよろしく     不一

「晩年」に就いて

 ハガキの宛先である尾崎一雄(1899-1983)と太宰との出会いは、1933年(昭和8年)の秋。尾崎が檀一雄の住む上落合の家に引っ越して、二階に檀一雄、一階に尾崎一家が住むようになります。そして、檀のところへやって来る訪問客の一人が太宰でした。太宰より10歳年長の尾崎は、その頃暢気眼鏡(のんきめがね)を、太宰は魚服記』『思い出をそれぞれ発表していました。

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 ハガキに出て来る「どうやら三枚、本日別封にてお送りいたしました」とは、同年2月1日発行の「文筆」に発表されたエッセイ「他人に語る」を指します。これは、のちに昭南書房版信天翁(あほうどり)に収録された際、「『晩年』に就いて」と改題されました。

「晩年」に就いて

 

「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺言になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」としたのです。
 読んで面白い小説も、二、三ありますから、おひまの折に読んでみて下さい。
 私の小説を読んだところで、あなたの生活が、ちっとも楽になりません。ちっとも偉くなりません。なんにもなりません。だから、私は、あまり、おすすめできません。
思い出」など、読んで面白いのではないでしょうか。きっと、あなたは、大笑いしますよ。それでいいのです。「ロマネスク」なども、滑稽(こっけい)出鱈目(でたらめ)に満ち満ちていますが、これは、すこし、すさんでいますから、あまり、おすすめできません。
 こんど、ひとつ、ただ、わけもなく面白い長篇小説を書いてあげましょうね。いまの小説、みな、面白くないでしょう?
 やさしくて、かなしくて、おかしくて、気高くて、他に何が要るのでしょう?
 あのね、読んで面白くない小説はね、それは下手な小説なのです。こわいことなんかない。面白くない小説は、きっぱり拒否したほうがいいのです。
 みんな、面白くないからねえ。面白がらせようと努めて、いっこう面白くもなんともない小説は、あれは、あなた、なんだか死にたくなりますね。
 こんな、ものの言いかたが、どんなにいやらしく響くか、私、知っています。それこそ人をばかにしたような言いかたかもわからぬ。
 けれども私は、自身の感覚をいつわることができません。くだらないのです。いまさら、あなたに、なんにも言いたくないのです。
 激情の極には、人は、どんな表情をするでしょう。無表情。私は微笑の能面になりました。いいえ、残忍のみみずくになりました。こわいことなんかない。私も、やっと世の中を知った、というだけのことなのです。
「晩年」をお読みになりますか? 美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分で、自分ひとりで、ふっと発見するものです。「晩年」の中から、あなたは、美しさを発見できるかどうか、それは、あなたの自由です。読者の黄金権です。だから、あまりおすすめしたくないのです。わからん奴には、ぶん殴ったって、こんりんざい判りっこないんだから。
 もう、これで、しつれいいたします。私はいま、とっても面白い小説を書きかけているので、なかば(うわ)の空で、対談していました。おゆるし下さい。

 尾崎は、友人の浅見淵(あさみふかし)とともに砂子屋書房すなごやしょぼうの「第一小説集叢書そうしょ」を企画。叢書の4番目として、太宰の『晩年』が刊行されました。
 尾崎の回想によれば、4番目には尾崎の『暢気眼鏡』が予定されていたが、檀一雄の要請によって『晩年』が先に刊行されたとのこと。当時、太宰はパビナール中毒だったため、早く本が出版され、印税が入っていることを望んだからのようです。
 上野精養軒で開かれた『晩年』の出版記念会には、尾崎も出席しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11随想』(筑摩書房、1999年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月10日

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1月10日の太宰治

  1947年(昭和22年)1月10日。
 太宰治 37歳。

 午後七時十分、織田作之助が、東京病院宿痾(しゅくあ)の肺結核のため激しく喀血して逝去した。

『織田君の死』

 今日は、作家・織田作之助(1913-1947)の命日です。織田の代表作夫婦善哉(めおとぜんざい)にちなんで善哉忌(ぜんざいき)と呼ばれています。
 織田は、終戦後に太宰や坂口安吾石川淳らと共に無頼派(ぶらいは)新戯作派(しんげさくは)と呼ばれ、「織田作(おださく)」の愛称で親しまれました。

 織田と太宰がはじめて会ったのは、1946年(昭和21年)11月22日。織田、太宰、坂口安吾平野謙(司会)との座談会現代小説を語るが銀座の実業之日本社で行われた時でした。座談会終了後、企画担当の倉崎嘉一を加えた5人でバー「ルパン」へ。ルパンには、青山光二、高木常雄、入江元彦も来ており、太宰は先に帰ったそうです。
 3日後の11月25日には、織田、太宰、安吾鼎談(ていだん)歓楽極まりて哀情多しが『改造』主催で行われました。この日も終了後はバー「ルパン」になだれ込みます。この時、林忠彦が3人の有名な写真を撮影しました。その後、織田の宿泊する佐々木旅館へ移って飲み続けます。太宰はたて続けにタバコを吸い、織田はしきりにヒロポンを注射していたそうです。

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 翌1947年(昭和22年)1月10日、織田は、東京病院宿痾(しゅくあ)の肺結核のため激しく喀血して逝去しました。
 織田の死に接した太宰は、翌日1月11日か12日、『織田君の死』を脱稿します。『織田君の死』は、同年1月13日発行の「東京新聞」第二面の「文化」欄に掲載されました。

『織田君の死』

 

 織田君は死ぬ気でいたのである。私は織田君の短篇小説を二つ通読した事があるきりで、また、()ったのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢ったばかりで、かくべつ深い附き合いがあったわけではない。
 しかし、織田君の(かな)しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。
 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありありと見える心地がしたからだ。
 こいつは、死ぬ気だ。しかし、おれには、どう仕様もない。先輩らしい忠告なんて、いやらしい偽善だ。ただ、見ているより外は無い。
 死ぬ気でものを書きとばしている男。それは、いまのこの時代に、もっともっとたくさんあって当然のように私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当らない。いよいよ、くだらない世の中である。
 世のおとなたちは、織田君の死に就いて、自重が足りなかったとか何とか、したり顔の批判を与えるかも知れないが、そんな恥知らずの事はもう言うな!
 きのう読んだ辰野(たつの)氏のセナンクウルの紹介文の中に、次のようなセナンクウルの言葉が(しる)されてあった。
「生を()てて逃げ去るのは罪悪だと人は言う。しかし、僕に死を禁ずるその同じ詭弁家(きべんか)が時には僕を死の前にさらしたり、死に(おもむ)かせたりするのだ。彼等の考え出すいろいろな革新は僕の周囲に死の機会を増し、彼等の説くところは僕を死に導き、または彼等の定める法律は僕に死を与えるのだ。」
 織田君を殺したのは、お前じゃないか。
 彼のこのたびの急逝(きゅうせい)は、彼の哀しい最後の抗議の詩であった。
 織田君! 君は、よくやった。 

 同年1月12日夜、太宰は芝の愛宕山下の浄土宗天徳寺での通夜に列席し、織田の寝棺の前で十数名と一緒に雑魚寝。13日の12時に桐ヶ谷火葬場での荼毘(だび)にも参列して、 林芙美子青山光二十返肇品川力らと共に骨を拾っています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人神奈川文学振興会 編『生誕105年 太宰治展 ー語りかける言葉ー』(県立神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「坂口安吾デジタルミュージアム
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月9日

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1月9日の太宰治

  1933年(昭和8年)1月9日。
 太宰治 23歳。

 津島修治は、青森検事局に出頭し、様々に調べられ左翼運動との絶縁を誓約、事後処理いっさい長兄文治に託して帰宅の許可を得、何処へも立寄らず状況の途に就いたと考えられる。以来、左翼運動から完全に離脱した。

太宰と左翼運動

 今回は太宰治と左翼運動(マルクス主義)について、参加のきっかけから脱退(転向)までの経緯を、簡単に追っていきます。

 1929年(昭和4年)2月、弘前高等学校長・鈴木信太朗の公金(校友会費・同窓会費・十和田湖畔弘高会館建設費・職員積立金など約一万五千円)無断流用が発覚し、学生たちは、社会科学研究会リーダー・上田重彦(石上玄一郎(いしがみげんいちろう))のもと、5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、鈴木校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取りました。
 弘前高校3年生だった太宰は、ストライキにはほとんど参加しませんでしたが、当時流行していたプロレタリア文学を真似て、事件を大藤熊太の書名で『学生郡』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせています。
 翌1930年(昭和5年)1月16日、弘前警察署は田中清玄(たなかせいげん)武装共産党の末端活動家として働いていた上田ら弘前高等学校社会科研究会の学生9名を、行内左翼分子として逮捕。同年3月3日、逮捕された上田ら4名は放校処分、3名は論旨退学、2名が無期停学を学校当局から申し渡されました。
 同年4月から東京帝国大学生となった太宰は、活動家の工藤永蔵(くどうえいぞう)と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをするようになります。小山初代との結婚をきっかけに津島家を分家除籍されたのは、政治家でもある長兄・文治に、太宰の非合法活動の影響が及ぶのを防ぐという理由もありました。結婚してからは、シンパを(かくま)うよう命令され、居を転々と移します。太宰は警察にもマークされるようになり、2度も留置所を経験しました。
 1932年(昭和7年)7月中旬、長兄・文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署の特高課に出頭させます。太宰は二泊して取り調べを受け、共産党活動との絶縁を誓約して釈放、帰京しました。取り調べの結果、起訴され書類送検となりましたが、形式上に過ぎなかったと言われます。これに伴い、長兄・文治からの仕送りは月額120円から90円に減額となったそうです。太宰の住居に出入りしていた党員も次々と検挙されていったため、共産党との繋がりは自然と絶えることになりました。

 今日1月9日は、青森警察署への出頭の翌年、青森検事局に出頭し、左翼活動から完全に脱退(転向)した日となります。太宰はこの出来事をきっかけに、本格的に作家活動に打ち込んでいきます。
 太宰は後になって左翼活動をしていた時期について、『東京八景』の中で、

例の仕事の手助けの為に、二度も留置所に入れられた。留置所から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地に移転するのである。何の感激も、また何の嫌悪も無かった。それが皆のために善いならば、そうしましょう、という無気力きわまる態度であった。ぼんやり、Hと二人で、雌雄の穴居の一日一日を迎え送っているのである。

と記しています。

 【了】

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【参考文献】
三好行雄 編『別冊國文學№7 太宰治必携』(學燈社、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
猪瀬直樹ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月8日

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1月8日の太宰治

  1939年(昭和14年)1月8日。
 太宰治 29歳。

 午後、井伏鱒二宅で、井伏鱒二夫妻が媒酌し、山田貞一、宇多子夫妻(石原家名代)、斎藤文二郎夫人、中畑慶吉(津島家名代)、北芳四郎などが同席、計九人で、石原美知子との結婚式を挙行。その夜遅く、美知子を連れて新宿発、甲府に帰り、新居に落ち着いた。

石原美知子との新婚生活

 左翼運動、心中未遂、パビナール中毒…、怒涛の20代を送ってきた太宰ですが、美知子との結婚を機に安定期に入り、充実の作家生活を送るようになります。
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 甲府での新婚生活の様子を、山内祥史太宰治の年譜』から引用して見ていきます。

 毎日、執筆に専念。「朝から規則的に机に向ひ」、(ひる)過ぎ、筆をまとめて午後三時近くの銭湯「喜久の湯」へ行き、帰りに増山町の分部(わけべ)豆腐店(分部丑三郎経営)に寄って木綿豆腐を一丁買って帰った。やがて、天秤棒(てんびんぼう)に桶を吊し喇叭(らっぱ)を吹きながら売り歩いていた分部丑三郎が、毎日太宰治の家に立寄るようになり、美知子がガラスの器をもって出てきて買うようになった。
 四時頃から「湯豆腐で晩酌」をし、時には「義太夫などが出ることもあった。「お俊伝兵衛」「壺坂」「朝顔日記」などがおはこだった。」という。「変にからんで」美知子を「泣かせたり、勝手気儘(かってきまま)に」「六、七合飲んで」九時過ぎには、「酔いつぶれて大鼾(おおいびき)で寝てしまうという「習わし」」であった。
 「酒はそのころ一升一円五十銭の地酒をとっていて、一升が二日とも」たなかった。「それで一月の酒屋の払いは、二十円くらいだったから、安心だった」という。窪田酒店の番頭が、自転車でよく布の袋に一升瓶を入れて届けていた。甲府を引き払った後、物置に酒の酒瓶が沢山あり、酒屋がリヤカーにいっぱい積んで帰った。
 家主の龝山(あきやま)浅次郎は「小説家なんて変り者だ、ろくにものも言わん」と言っていた。だが、夫婦は仲睦(なかむつま)じかった。夫婦揃ってよく散歩していたといい、夏、夕涼みの籐椅子(とういす)で一本のバナナを分け合っている姿なども見られたという。
 近所の子供達は、玄関前の三和土(たたき)に、当時小学校でよく使用した石筆で「しんこんさんのうち」と落書きしたりした。
 この年の正月、「国民新聞」が、新聞の長篇連載の向うを張った形として、短篇小説コンクールを催した。参加作家は、新聞社の方が指定したもので、年輩者も二、三混っていたが、大体いずれも三十代の若手少壮作家であった。各作家には、原稿料のほかに掲載期間の新聞代が贈られ、優秀作一篇には、百円の賞金が出るというものであった。
 一月九日以後、結婚後の新居でまず着手されたのは、この「短篇小説コンクール」参加作品の「黄金風景」で、「待ちかまえていたように」美知子に口述筆記させたという。

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 この太宰治 甲府ゆかりの地散策マップ」は、2019年4月27日から6月23日まで山梨県立文学館で開催されていた「特設展『太宰治 生誕110年ー作家をめぐる物語ー』」で配布されていたものです。
 特設展に合わせて6月15日に行われた、東京大学教授・安藤宏氏と秀明大学学長(教授)・川島幸希氏の対談太宰治・著書と資料をめぐって」の参加ルポも書いています。
 処女短篇集『晩年』の収録作・構成についてや、サインを嫌がった太宰お伽草紙』初版・再版・異版についての考察など、興味深いテーマ盛りだくさんです。ぜひ、ご一読下さい。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月7日

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1月7日の太宰治

  1939年(昭和14年)1月7日。
 太宰治 29歳。

 挙式の前日、杉並区清水町二十四番地の井伏鱒二宅に行ったところ、中畑慶吉の配慮で、挙式用の黒羽二重の紋服一重ね、袴、絹の縞の着物一重ねが届けられていて、感激したという。

太宰の甲府転居

 この日は、太宰と石原美知子の結婚前夜でした。太宰は小山初代を落籍した際、婚姻届は出していなかったため、戸籍上は最初の結婚ということになります。

 さらにこの前日1月6日、太宰は甲府に転居しています。

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 これは、美知子による「御崎町新居居間見取り図」です。
 それでは、転居当日の様子を、おなじみ山内祥史太宰治の年譜』から引用してみます。

 風の強い日に、甲府市御崎町五十六番地の借家に移転した。義母くらが見付けてくれた家だった。新居は、「上府中と呼ばれてゐる甲府の山の手のはづれの、静かな町」にあって、「御崎町の通りから小路を南に下った一番奥」であった。建築請負業の龝山(あきやま)浅次郎が、その地所内に自ら建築した二軒の貸家の中の南の方の一棟で、地所全体が黒い板塀で囲まれ、更に一棟毎に塀と小庭が設けられていた。八畳、二畳、一畳三間の家で、「八畳の西側は床の間と押入で、東側は全部ガラス窓、隅に炉が切ってある。三畳は障子で、二畳の茶の間と、一畳の取次とにしきってあった。ぬれ縁が窓の下と小庭に面した南側についていた。家の前には庚申バラなどの植込があり、奥は桑畑で、しおり戸や葡萄棚がしつらえてあっ」て、「通りから引込んで居て静か」な「隠居のやうな感じ」であったという。水門町迄約十分程であった。家賃六円五十銭。

 風呂好きの太宰には嬉しい、家から歩いてすぐのところに「喜久乃湯」があったり、道路を挟んで斜め向かいに分部(わけべ)豆腐店があったりと(歯が悪かった太宰は、酒を飲みながら湯豆腐を食べるのが好きでした。豆腐はタバコの毒を消すとも言っていたそうです。)、心機一転して執筆に(いそ)しむには好立地でした。

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 上の2枚は、出張中に現地を撮影した写真です(あいにくの夜に雨ですが…)。
 太宰治僑居(きょうきょ)跡」には碑が建っており、「太宰治は昭和十四年一月から八ヶ月間ここ御崎町五十一番地で新婚時代を過ごした 短期間であったが充実した想い出の多い地であった」と刻まれています。
 「喜久乃湯」は現在も営業中(10:00~21:30、水曜日・毎月第三木曜日定休。基本料金400円)。1926年(昭和元年)創業で、源泉掛け流し。カランもシャワーも全て源泉のお湯を使用しているそうです。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社学芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月6日

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1月6日の太宰治

  1947年(昭和22年)1月6日。
 太宰治 37歳。

 木枯の強く吹くなか、太田静子が三鷹郵便局近くの仕事部屋を訪れた。吉祥寺の「コスモス」の奥座敷に案内して、太田静子に勧めて書き続けさせていた日記を見たいと伝えた。

太宰と日記

 太宰は、他人の日記を素材に、登場人物の性格や行動、心理を思うままに作り直し、独自の作品として換骨奪胎(かんこつだったい)するのが得意でした。
 『女生徒』は、太宰作品の愛読者だった有明(ありあけしづ)(1919-1981)が19歳の時に書いた4月30日から8月8日までの日記から。『正義と微笑』は、太宰の弟子・堤重久つつみしげひさの弟で、当時前進座の俳優だった堤康久つつみやすひさ(1922-)の日記から。『パンドラの匣』は、結核のため入退院を繰り返し、病気を苦に22歳で服毒自殺をした木村庄助(1921-1943)が書いた、孔舎衙くさか健康道場入院中の日誌から書かれています。 そして、太宰の名を一躍有名にし、彼の作品の中でも1、2の知名度を誇る『斜陽』も、太田静子の日記を基に書かれた作品でした。

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 太田静子(おおたしずこ)(1913-1982)は、1941年(昭和16年)の春、弟の太田通(おおたとおる)に勧められて太宰作品を読み始め、特に『道化の華』に感銘を受けます。
 静子は、1939年(昭和14年)11月15日に長女・満里子を出産するも、満里子は翌月に死亡。翌年には協議離婚しています。満里子の死は自分の責任だと思い込んでいた静子は、「僕はこの手もて、園を水にしずめた。」の一行に釘付けにされました。自分と同じ罪の意識を持った作家がここにいる、という強い想いに突き動かされて手紙を書き、1941年(昭和16年)9月、二人の年下の文学少女の仲間と一緒に三鷹の太宰の家を訪問。ここから、太宰と静子の関係がはじまります。静子の娘・太田治子は、著書『明るい方へ』の中で、

 恐らく彼女に出合う前から太宰は、その手紙の文面に特別な気配を感じ取っていたのかもしれなかった。つまり、この女性からは創作のヒントを得られるかもしれないというインスピレーションがひらめいたと考えられるのである。実際に会って、ますますその思いを深くしたのに違いなかった。

と記しています。
 そして、静子と会う中で、彼女の「文章のセンス」を確信した太宰は、「いずれ自分の書く小説の材料になるかもしれない」と考え、静子に日記を書くように勧めます。
 この時点で、静子は太宰の思惑には気付いていませんでしたが、太宰がはじめて静子に自分の胸の内を告げたのが、今日この日、という訳です。
 少し長い引用になりますが、太田静子『あはれわが歌』から、この日の出来事について書かれている部分を紹介します。

 公園を通って、吉祥寺の町へ出て、駅前を右に折れて少し行くと、ロオズ文庫と書いた汚い家があった。治は入口の戸を叩いて、
「マダム、マダム」と呼んだ。園子はこの家がどういう家なのか、見当がつかなかった。
「マダム、マダム」
「はい」奥の方で声がして、四十五、六の太った、ダリヤのような(ひと)が出て来た。
「あら」小さく叫んで、笑いかけた。
「園子さん?」
「うん」
 治の後から、炬燵をした奥の部間へはいって、マダムと向き合って坐った。マダムはコップにお酒をついで、だまって治の前に置いた。
「美紀が、ゆうべから頭が痛いと言って臥ているんだ」
「奥さんは、園子さんが今日こちらへいらっしゃることを、ご存じだったのね」
「いや、美紀は知らないよ」
「いいえ、知っていらっしゃいますよ。だって、名前をほんの少し変えただけで、住所も筆跡も同じですもの。それに、昨日電報がまいったでしょう?」
 治は、だまって、お酒を飲んでいた。
「園子も此処で働くか」と笑いながら言った。
「私は無理だと思うけど、でも、こちらは何時でも来ていただいてよ」とマダムは園子を眺めた。園子も、ふと、そんな気になって、此処へ住み込む自分を想像してみた。
「いや、駄目だ。園子は駄目だよ。他のお客のことは何もしないから。……園子は僕のことだけしかしないんだ。他のお客が怒ってしまうよ」
 そして治は急にだまり込んだ。しばらくマダムの顔を見て、
「マダム、向うへ行って呉れないか。このひとに、大事な話があるんだ」
「駄目ですよ、園子さんをからかっちゃ駄目ですよ」
「じゃあ向うへ行こう。さあ、おいで」
 治は立って、園子の手をとった。園子が立ちあがろうとすると、
「お嬢さん。いらしてはいけません。わるいことは申しません。先生は心のすれた方なのですよ。通りすがりに、ちょっと、綺麗な花をお摘みになるだけなのですよ。摘んでしまうと、すぐ投げ出しておしまいになります。そしてまた新しい花をお摘みになります。先生がお嬢さんと結婚でもなさると思っていらっしゃるの? お嬢さん、もう、こんなところへいらしてはいけません……」
 治はマダムの顔を立ったまま見ていたが、
「行こう」と園子の手をとった。火の気のない、冷え切った、小さい部屋へ連れてゆくと、襖を切めて、畳の上にきちんと坐った。磨ガラスの戸をガタガタ云わせて、外には寒い木枯が吹いていた。治はだまって、俯向いていた。園子は自分の方から何か言い出さなければならないような気持に駈られ、
「世界の進歩のために、ギロチン台へおたちになる時は、園子もついてゆく……」と言った。
 治はうれしそうに微笑して、園子に近づき、両掌を握りしめ、
「園子の日記が欲しい」と言った。ああ、このひとが言いたかったのは、これだけのことだったのだ、このひとが欲しかったのは、日記だけだったのだ、園子は自分のあわれさを身に沁みて感じた。
「わかった?」
「今度の没落家族の小説に、どうしても園子の日記がいりようなんだ。津軽の家を舞台にして、主人公を僕に、そうしてその愛人を園子にするつもりなんだ。だいたいの筋は出来ている。最後は死、」治は急にだまってしまった。園子は死という言葉を聴いたけれど、何も尋ねなかった。
「小説が出来上がったら、一万円あげるよ」
 園子は一万円もらえたら、どんなにいいだろうと思った。
「じゃあ、これで話は済んだ」
 治は悲しげに微笑した。

 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日文庫、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月5日

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1月5日の太宰治

  1929年(昭和4年)1月5日。
 太宰治 19歳。

 午後零時十五分、青森中学校在学中の弟礼治が、青森市大字寺町四十六番地の県立病院で、敗血症のために突如逝去した。享年十七歳。アヤ達十人が馬橇(ばそり)二台で五所川原駅まで遺骸を迎えに行った。

太宰を慕う弟の死

 太宰は、父・津島源右衛門(げんえもん)と母・タ子(たね)の六男として生まれました(両親にいる11人の子女の10番目)。父は県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員を務めた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」と呼ばれていました。厳格な家庭環境の中、修治(太宰治の本名)が慕っていたのが三兄の圭治。そして、そんな修治を慕っていたのが末弟の礼治でした。

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上の写真、後列右から太宰、弟・礼治。前列右から次兄・英治、長兄・文治、三兄・圭治。

 津島礼治は、1912年(明治45年)生まれ、太宰の3つ下の弟です。
 容貌(ようぼう)も性格も母親のタ子(たね)似で、多少虚弱ではありますが、富士額の美少年として誰からも可愛がられ、ニキビに悩む太宰を嫉妬(しっと)させました。少年時代の太宰は、人前で礼治と容姿を比べらることを何よりも嫌っていたようです。
 1925年(大正14年)4月、県立青森中学校へ進学した礼治は、太宰の下宿していた親戚の豊田家に同宿します。同年10月、太宰は仲間とともに同人誌『蜃気楼(しんきろう)』を創刊しますが、礼治も同人に加えられ、合評会では先輩たちと同等に発言していたそうです。
 太宰の小説『思い出』の中にも、礼治との"思い出"が記されています。

私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願っていたほどであったけれど、こうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん(わか)って来たのである。

 几帳面で、何事にも控えめだった礼治は、成績優秀な太宰に対して劣等感を抱いていたそうです。
 1929年(昭和4年)1月5日、礼治は鼻の手術の後に敗血症に冒され、下宿先で急逝します。多感な時期を、ひとつ屋根の下で共に過ごした弟・礼治。礼治の死は、太宰にとってもショッキングな出来事だったに違いありません。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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