【日めくり太宰治】1月4日
1月4日の太宰治。
1939年(昭和14年)1月4日。
太宰治 29歳。
甲府市西竪町九三 壽館より
東京府大島元村 柳川館本館
高田英之助宛大島に居るとは、知らなかった。十二月三十一日、君とお逢いするのをたのしみにしていたのでした。おからだ、大事にしていて下さい。
すみ子さん、ずいぶんしょげていて、毎日うつうつして居られる様子で、とても見て居られません。これは、ただ、私一個人の、気持ちだけだから、君にお願いするのですが、もし君が、もっと長く大島に居られるようなら、すみ子さんを、一日でも二日でも、そっと大島に呼んでやりたまえ。君が、もし、その気なら、僕に知らせてくれれば、僕は、齋藤さん御一家へ、そのように談判して、すみ子さんを君のところへ、旅立たせるよう、とにかく、やってみるつもりだ。
僕の結婚式は、井伏氏宅にて八日、同席六人、スルメをさかなに簡素にしていただけるようになって、井伏様大明神です。結婚したら、甲府へ、すぐ五、六円の小さい家借りて、女房は手なべです。「どうにか、なる。」これを信じたまえ。勇敢に、そして御自愛を。
太宰結婚の立役者・高田英之助
今日取り上げたのは、1月4日付、高田英之助に宛てて書かれたハガキです。
師匠・井伏鱒二が、太宰と石原美知子との結婚を仲介したことは有名ですが、実はその裏には、井伏に石原美知子を紹介した
高田英之助は、井伏と同じ広島県の出身。兄・高田類三(嘉助)が井伏と福山誠之館中学校時代の同級生で親友だったことから、少年時代から井伏との親交がありました。
高田は、府中中学を経て、1937年(昭和12年)に慶應大学文学部国文科を卒業。東京日日新聞社(現・毎日新聞)の記者となり、甲府支局へ配属に。この頃、井伏を介して太宰と知り合いました。太宰、伊馬春部(鵜平)と共に、「井伏門の
1938年(昭和13年)7月、井伏は甲府支局にいる高田に、太宰の嫁候補を探すよう依頼します。高田の
須美子は、甲府高等女学校で二年後輩の石原愛子に適齢の姉・美知子がいると紹介し、太宰の結婚話が始まりました。美知子は26歳。甲府高等女学校を出て東京女子高等師範(現・お茶の水女子大学)を卒業し、山梨県立都留高等女学校に勤めていました。翌1939年(昭和14年)1月、太宰と美知子は井伏夫妻の媒酌で結婚式を挙げます。
高田は、1937年(昭和12年)にはじまった日中戦争で、甲府連隊付の記者活動をしていたため、昼夜問わずの激務で体を壊し、病気療養のため、須美子を甲府に残して、単身で大島に渡りました。太宰は高田を心配し、励まし、二人で暮らすことを勧める書簡を数多く送っており、今回紹介したのは、その中の一通です。
ちなみに高田は、1939年(昭和14年)12月に須美子と結婚しています。
太宰は高田の結婚を祝し、12月15日付で、
待ち待ちて ことし咲きけり 桃の花
白と聞きつつ 花は紅なり
不取敢 衷心からの祝意を
奥さまには くれぐれもよろしく。
春服の色 教えてよ 揚雲雀
という詩を添えたハガキを送っています。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(文春文庫、2007年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月3日
1月3日の太宰治。
1933年(昭和8年)1月3日。
太宰治 23歳。
ペンネームの由来
「太宰治」のペンネーム(筆名)の由来には、いくつかの説があり、太宰自身も複数の由来を語っているので、本当はどれなのか分かりませんが、主なものを紹介します。
まずは、1948年(昭和23年)発行の雑誌『大映ファン』に掲載の「太宰治先生訪問記」から。インタビュアーは、女優の関千恵子。『パンドラの匣』の映画化である『看護日記』に関千恵子が主演したことから、このインタビューが実施されました。関千恵子の「先生のペンネームの由来をお聴かせ下さい。」という問いに対して、太宰は、
「特別に、由来だなんて、ないんですよ。小説を書くと、家の者に叱られるので、雑誌に発表する時本名の津島修治では、いけないんで、友だちが考えてくれたんですが、万葉集をめくって、初め、柿本人麻呂から、柿本修治はどうかというんですが、柿本修治は、どうもね。そのうち、太宰権帥大伴の何とかって云う人が、酒の歌を詠っていたので、酒が好きだから、これがいゝっていうわけで、太宰。修治は、どちらも、おさめるで、二つはいらないというので太宰治としたのです。」
と語っています。
「
「小説を書くと、家の者に叱られる」というのは、仕送りをしたり、太宰の心中未遂等の後始末をしてくれた、長兄の津島文治(金木町長、青森県知事、衆議院・参議院議員を歴任。太宰の心中事件や薬物に関する事件に頭を悩ませていた)に、これ以上迷惑をかけられない、という意味が含まれています。
また、太宰の師である井伏鱒二は、
太宰君は改名したと私に披露した。指さきで、手のひらに一字ずつ、太、宰、治、と書いて見せ、「ダザイ、オサム、と読むんです」と云った。すこし気恥ずかしそうな顔であった。改名
怱々 のことだから、云いにくかったのだろう。従来の津島では、本人が云うときには「チシマ」ときこえるが、太宰という発音は、津軽弁でも「ダザイ」である。よく考えたものだと私は感心した。
と、ペンネーム決定の頃について書いています。今ではそうでもないですが、当時は
上記のほかにも、フランス学者・太宰旋門の姓からとった、弘前高校時代の同級生・太宰友次郎の姓からとった、「Desein(ダーザイン。"現存在"の意のドイツ語)」からとった、「ダダイズム」からとった等、様々な説があるようですが、私は個人的に、インタビューで話していた大伴旅人の役職「
ちなみに、太宰の奥さん・津島美知子は、太宰のペンネームについて、次のように回想しています。
知り合ってから間もなくのことだったが、太宰治という筆名の由来について聞いたとき、彼は大体次のように言った。
ペンネームをきめる必要が起った。そのとき一友人が傍にあった万葉集をパラパラ繰っているうちに、太宰というのはどうかと言った。それがよかろうということできめたのだと。
どこでか、またその友人の名も聞かなかったけれども、時間をかけてきめた筆名、あれこれと凝って考えた末での命名でなかったことは確実である。彼の性格からいっても、意味あり気な筆名をつけるなど考えられない。
筆名がきまってから、太宰ー大宰府ー菅原道真の配流と、連想が走ったのか、あるいはもともと好きな言葉で、たまたま、それにゆかりある筆名に決まったものかわからないが、太宰は「配所の月」という言葉が好きで、よく配所で月を見る心境に陥る人であった。
(中略)
名前については、「太宰」の由来を聞いたのとは別のときだったが、「オサメ、オサムだからなあ」と嘆ずるように言うのを聞いた。それが「身を修め、国を治める、二重のオサメ、オサムではやりきれない」という意味だったのならば、重複したオサムを一つにしたのである。
奥さんの言うこと、何だか説得力がある気がします。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・齋藤愼爾 責任編集『太宰治・坂口安吾の世界 ー反逆のエチカ』(柏書房、2010年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月2日
1月2日の太宰治。
1940年(昭和15年)1月2日。
太宰治 30歳。
正月三箇日の間に、昭和十一年十月以後、破門のようになっていて無沙汰していた、佐藤春夫宅にも年始の挨拶に行った。
佐藤春夫宅へ年始の挨拶に
なぜ、太宰は1936年(昭和11年)以降、佐藤春夫(1892~1964)から破門のようになっていたのか。太宰と佐藤春夫との出会いから、簡単に見て行きたいと思います。
1935年(昭和10年)、大正時代を代表する小説家である芥川龍之介の業績を
太宰は、1934年(1934年)2月に、
太宰の書いた『逆行』は、佐藤春夫の強い推薦もあり、第一回芥川賞の候補になりましたが、川端康成の反対によって受賞を逃してしまいます。これが、有名な「芥川賞事件」と呼ばれている事件です。また、盲腸炎での入院中に医師が処方したパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤、正式名日本薬局方複方ヒコデノン注射液)の中毒になっていた太宰は、心身ともに不安定な状態になっており、翌1936年(昭和11年)2月、どうしても芥川賞が欲しいがために、佐藤春夫に懇願の書簡を送ります。
謹啓
一言のいつわりもすこしの誇張も申しあげません。
物質の苦しみが かさなり かさなり 死ぬことばかりを考えて居ります。
佐藤さん一人がたのみでございます。私は 恩を知って居ります。私は すぐれたる作品を書きました。これから もっともっと すぐれたる小説を書くことができます。私は もう十年くらゐ生きてゐたくてなりません。私は よい人間です。しっかりして居りますが、いままで運がわるくて、死ぬ一歩手前まで来てしまいました。芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って、生きて行けます。元気が出ます。お笑いにならずに、私を 助けて下さい。佐藤さんは私を助けることができます。
私をきらわないで下さい。私は かならずお報いすることができます。
お伺いしたほうがよいでしょうか。何日 何時に 来いと おっしゃれば、大雪でも大雨でも、飛んでまゐります。みもよもなくふるえながらお祈り申して居ります。家のない雀
治 拝
佐藤さま
ちなみに、この書簡、1mあります。
この書簡を受け取り、太宰の精神がパビナール中毒のために破綻をきたしていると考えた佐藤春夫は、医師である弟・佐藤秋雄の勤めている病院(済生会芝病院)へ太宰を入院させます。太宰は芝病院を1ヶ月程で退院しますが、その後も、『狂言の神』、『虚構の春』の発表をめぐって佐藤春夫の手助けを得ています。
さらに太宰は、佐藤春夫に『道化の華』、『狂言の神』、『虚構の春』の三部作に『虚構の彷徨』とタイトルをつけてもらい、その序文を書いてもらっていますが、この序文に関して太宰は、9月24日付の書簡で、
「虚構の彷徨」(三百五十枚)の序文、先生ほめて かいて下さい。一言居士は だめ。
井伏さんに装釘してもらいます。
と書いています。
この年の10月、このような太宰の様子を見かね、井伏鱒二からの相談もあり、太宰を東京武蔵野病院に送ることになります。この頃、太宰が一日にパビナールを注射していた平均本数として、同年7月17.5本、8月17本、9月16.2本、10月31本という津島美知子の調査結果も残されています。以後、太宰から佐藤春夫への手紙は後を絶ちます。
その後4年の時を経て、1940年(昭和15年)正月の佐藤春夫宅訪問。太宰は、どんな心境だったのでしょうか。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】1月1日
1月1日の太宰治。
1942年(昭和17年)1月1日。
太宰治 32歳。
正月の井伏鱒二宅訪問
太宰の師・井伏鱒二。
太宰と井伏の出会いを、井伏の「太宰治の死」から引用してみます。
私と太宰君との交際は、割合いに古い。はじめ彼は、弘前在住のころ私に手紙をくれた。その手紙の内容は忘れたが、二度目の手紙には五円の為替を封入して、これを受取ってくれと云ってあった。私の貧乏小説を見て、私の貧乏を察し、お小遣のつもりで送ってくれたものと思われた。東京に出て来ると、また手紙をくれた。面会してくれという意味のものであった。私が返事を出しそびれていると、三度目か四度目の手紙で強硬なことを云ってよこした。会ってくれなければ自殺してやるという文面で、私は威かしだけのことだろうと考えたが、万一を警戒してすぐに返事を出し、万世橋の万惣の筋向うにある作品社で会った。彼は短篇を二つ見せたので、私はその批評をする代りに、われわれの小説を真似ないで、外国の古典を専門に読むように助言した。それから暫くたつと私のうちに来て、彼は私に左翼作家になるように勧誘した。私は反対に、左翼作家にならないように彼に勧めた。
間もなく彼は荻窪に移って来て家も近くなったので、それからはたびたび私のうちに遊びに来た。いっしょに散歩したり、いっしょに旅行にも出た。彼は学校を怠けていたらしく、制服をきて朝のうちから来ることもあるし、また夜おそくなってから来ることもあった。当時たびたび会っていながらも、どんなことをお互いに話したか、その印象がはっきりしないのは妙なものである。よく将棋もさした。私と対馬であった。
太宰から井伏へのファーストコンタクトは、1928年(昭和3年)。弘前高等学校時代に創刊した同人雑誌「細胞文藝」への原稿依頼でした。1926年(大正15年)に『文学界』1月号へ発表された井伏の習作「幽閉」(「山椒魚」の初稿にあたる作品)に感銘を受けた太宰は、井伏にラブコールを送ります。
二度目の手紙と一緒に送られてきたという五円の為替は、井伏が太宰に送った作品「薬局室挿話」への原稿料でした。
1930年(昭和5年)、太宰は東京帝国大学への入学を機に上京。井伏との親睦を深めていき、1933年1月3日に井伏宅を訪問してから、疎開中を除いて、正月に井伏宅を訪問するのが恒例となりました。
今回取り上げた1942年(昭和17年)1月1日は、前年に井伏が陸軍に徴用され、シンガポールに駐在していたため、井伏不在の中での訪問でした。太宰も井伏と同様、文士徴用のための身体検査を受けていますが、「
この日、太宰と一緒に井伏宅を訪問したのは、親友の亀井勝一郎(写真左)と伊馬鵜平(写真を撮影)の2人。
亀井勝一郎(1907~1966)は、太宰の第一創作集『晩年』出版記念会で対面し、太宰が三鷹に転居した1939年(昭和14年)から本格的な交際におよびました。蔵書をほとんど持たない太宰は、近隣に住む亀井の世話になり、生前、自身の死後の全集編集を託したいと願っていたとも言います。
伊馬鵜平(1908~1984)は、「畜犬談」、「十二月八日」など、太宰作品に実名が登場する劇作家です。新宿ムーラン・ルージュやラジオドラマなど多彩な才能によって数々の芸術賞を受けました。太宰が「太宰治」の筆名を用いる前から井伏を介して知り合い、太宰を「津島君」(太宰の本名は「
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】生誕111周年企画、2020年1月1日スタート!
2018年は、太宰治 没後70年。
2019年は、太宰治 生誕110周年。
2年続けて太宰イヤーが続き、 太宰の故郷である青森県五所川原市をはじめ、同県弘前市、東京都三鷹市、同練馬区石神井、埼玉県大宮市、千葉県船橋市、山梨県甲府市、静岡県沼津市など、全国各地の太宰ゆかりの地で様々なイベントが催されました。
私自身も、実家の青森に里帰りした際、青森で開催されたいくつかのイベントや、三鷹や甲府で開催された企画展に足を運んだり、練馬区石神井や大宮で開催されたツアーに参加させて頂いたりと太宰イヤーを満喫し、そのことをブログで書いたりもして、その活動を通して、たくさんの素敵な出会いにも恵まれました。
巷で太宰イヤーを祝う様々なイベントが催されている中、同郷の作家であり、上京してから心の支えになってくれた縁もあることから、ソウルフレンドと慕って止まない太宰のために、自分も何か出来ないか?との思いから始めたのが、「太宰治 生誕110周年記念」と銘打って2019年1月1日から始めた【日刊 太宰治全小説】でした。
冒頭の一文で読者の心をグイッと鷲摑みにし、作品の最後まで読ませてしまうところから、「太宰治は、コピーライター。」というキャッチコピーで、冒頭と結びの一文をキッカケに、そのまま毎日一作品ずつ太宰作品に触れられる、というスタイルで、太宰の小説全155作品を紹介しました。
私は、なまけ癖があるので、155作品分も毎日ブログを更新し続けられるのか?という不安もありましたが、【日刊 太宰治全小説】は想像した以上に多くの方に読んで頂き、毎日のようにブログに訪れて下さる方も多かったため、皆さんの応援に後押しされ、なんとか全155作品を紹介することができました。
そして、来たる2020年。
来年は、太宰治 生誕111周年です。
"1"が3つ並ぶ、なんだかおめでたい年じゃあ、ありませんか!
そして、2年続いた太宰イヤーで、"太宰治"に興味を持って下さった皆さんに、もっと太宰ワールドに浸かってもらいたい!という思いから、「太宰治 生誕111周年記念」と銘打って、こんな企画をご用意しました!
日めくり太宰治
「太宰治 生誕111周年」がスタートする2020年1月1日から、【日めくり太宰治】と称して、毎朝7時にブログを更新します。
「太宰治の生涯について調べるなら、まずはこの本でしょ!」という、山内祥史さんの力作『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)のお力をお借りしながら、太宰の39年という短すぎる生涯から、「太宰にとって、その日はどんな日だったのか?」「太宰はその日、何をしていたのか?」というエピソードを1つずつ選び、毎日紹介していきます。
【日刊 太宰治全小説】でもお世話になった『太宰治の年譜』ですが、今年も力をお借りしながら、太宰の魅力を全力で伝えていきます。
また、紹介の仕方も、参考文献を引用したり、書簡集から引用したり、当ブログでは未紹介のエッセイを引用したり、と趣向を凝らし、毎日いろいろな形で太宰に想いを馳せてもらえたらな…と思っています。
太宰カレンダー
毎日、太宰の色んな顔に出会うことができる【日めくり太宰治】。
このページから、更新済みの記事へ簡単に飛べるように、「太宰カレンダー」と名付けたインデックスも用意しました。気になる日付に簡単に飛ぶことが出来るので、ぜひ活用して頂けたら嬉しいです!
【1月】
1月 1日:正月の井伏鱒二宅訪問
1月 2日:佐藤春夫宅へ年始の挨拶に
1月 3日:ペンネームの由来
1月 4日:太宰結婚の立役者・高田英之助
1月 5日:太宰を慕う弟の死
1月 6日:太宰と日記
1月 7日:太宰の甲府転居
1月 8日:石原美知子との新婚生活
1月 9日:太宰と左翼運動
1月10日: 『織田君の死』
1月11日: 『「晩年」に就いて』
1月12日:太宰と映画
1月13日:太宰と相撲
1月14日:太宰、初の新聞連載
1月15日:太宰と旅行
1月16日:結婚のお礼回り
1月17日: 『「惜別」の意図』
1月18日:叔母キヱと「太宰治『思ひ出』の蔵」
1月19日:太宰と今官一
1月20日:『散華』のモデル・三田循司
1月21日:生前に出版された『太宰治全集』
1月22日:太宰と久保隆一郎の交流
1月23日:「蜃気楼」と『負けぎらいト敗北ト』
1月24日:東京帝大を卒業するために
1月25日:『心の王者』
1月26日:『女生徒』誕生の舞台裏
1月27日:長兄・文治と交わした「覚」
1月28日:佐藤春夫に宛てた4mの書簡
1月29日:太宰と小山清
1月30日:『このごろ』
1月31日:太宰の「実朝時代」
【2月】
2月 1日:太宰の文壇デビュー
2月 2日:太宰と越野タケ
2月 3日:三鷹の仕事部屋
2月 4日:「原稿百枚紛失」事件
2月 5日:太宰の御嶽ハイキング
2月 6日:太宰の「勉強論」と「聖諦」
2月 7日:太宰と初代の新婚生活
2月 8日:太宰と工藤永蔵
2月 9日:「太宰治先生訪問記」
2月10日:太宰の芝済生会病院入院
2月11日:山岸外史から見た第一印象
2月12日:『鬱屈病』
2月13日:太宰と野田宇太郎
2月14日:太宰、入院中に檀一雄と病院脱出
2月15日:『田舎者』と今官一
2月16日:太宰と鰭崎潤
2月17日:『晩年』への熱い想い
2月18日:共産党へのアジト提供
2月19日:太宰治として最初の小説
2月20日:『犯しもせぬ罪を』
2月21日:太宰、太田静子の日記を手にする
2月22日:外村繁と追悼文「太宰君のこと」
2月23日:堤重久、甲府の太宰を訪問
2月24日:太宰、尾崎一雄宅を訪問
2月25日:太宰が住んだ街、三鷹
2月26日:『斜陽』を執筆した安田屋旅館
2月27日:奥さんの母・小山きみ宛の書簡
2月28日:ひばりのモデル・木村庄助
2月29日:酒だけが俺を生かしておいてくれる
【3月】
3月 1日:『酒ぎらい』
3月 2日:結婚後、最初の仕事
3月 3日:長兄・文治の選挙応援
3月 4日:太宰の父・源右衛門の死
3月 5日:小山初代と小舘善四郎の過ち
3月 6日:太宰と阿部合成
3月 7日:山岸の送った絶交状
3月 8日:起雲閣で『人間失格』の執筆開始
3月 9日:太宰が富栄に告げた言葉
3月10日:太宰と東京大空襲
3月11日:太宰と「千草」
3月12日:太宰のパビナール中毒
3月13日:太宰の東大受験
3月14日:太宰の就職活動
3月15日:太宰と将棋
3月16日:鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂
3月17日:太宰、友人の小野正文を訪ねる
3月18日:縊死未遂からの帰還
3月19日:タイミングの悪い小山清
3月20日:太宰治水上心中
3月21日:縊死未遂事件の顛末
3月22日:田中英光との出会い
3月23日:水上心中事件の顛末
3月24日:最初の創作『最後の太閤』
3月25日:太宰、東京帝国大学に合格
3月26日:『作家の像』
3月27日:太宰と富栄の出逢い
3月28日:太宰の近況 ー富栄の日記から
3月29日:根市良三/資生堂パーラー
3月30日:次女・里子の誕生
3月31日:床の間の掛軸
【4月】
4月 1日:学力補充のため、高等小学校へ
4月 2日:『芸術ぎらい』
4月 3日:「東京大空襲」以後、甲府疎開まで
4月 4日:太宰は、本当に麻薬中毒だったのか?
4月 5日:太宰にとっての初代
4月 6日:『如是我聞』の口述筆記①
4月 7日:『井伏鱒二選集 第三巻 後記』
4月 8日:太宰と林聖子さん
4月 9日:堤重久の出征壮行会
4月10日:堤重久の出征壮行会の帰途
4月11日:『一問一答』
4月12日:田辺精肉店の裏のアパート
4月13日:太宰、甲府へ疎開する
4月14日:同郷の在京学生を左翼運動に勧誘?
4月15日:「俳人」太宰治
4月16日:富栄、太田静子への手紙を代筆
4月17日:太宰、お金の無心をする
4月18日:太宰、弘前高等学校に入学
4月19日:戦後の原稿用紙不足
4月20日:最初の全集を刊行した八雲書店
4月21日:太宰、金木第一尋常小学校に入学
4月22日:堤重久に宛てた手紙
4月23日:「N君」中村貞次郎が語る中学時代
4月24日:太宰と阿部「思い出果てなし」
4月25日:疎開中の太宰に「たけさん現わる」
4月26日:「吉祥寺のおばさん」のコスモス
4月27日:太宰と小舘善四郎
4月28日:太宰、友人のために奔走する
4月29日:『人間失格』執筆のため大宮へ
4月30日:太宰、四万温泉:湯元 四萬舘に遊ぶ
【5月】
5月 1日:富栄、薄ら寒い夜の記憶
5月 2日:青森中学時代の太宰
5月 3日:タケさん、修ちゃんの子守りに
5月 4日:富栄、歓びと葛藤と
5月 5日:太宰と美知子の信州旅行
5月 6日:「昔の恩義を忘れず」
5月 7日:『大恩は語らず』
5月 8日:長兄・文治に「嫁っこ、きたよお」
5月 9日:太宰、石神井にて合コンす
5月10日:『当選の日』
5月11日:太宰、大宮を後にする
5月12日:太宰の『津軽』旅行①:三鷹~蟹田
5月13日:『如是我聞』の口述筆記②
5月14日:太宰の「朝日新聞」連載小説
5月15日:『正直ノオト』
5月16日:太宰と3人の女性たち
5月17日:太宰の『津軽』旅行②:今別~竜飛
5月18日:津島源右衛門、衆議院議員に当選
5月19日:師匠・井伏鱒二との出会い
5月20日:芥川比呂志、太宰を訪問する
5月21日:太宰を占う、若い女性占い師
5月22日:「恋している女があるんだ」
5月23日:「修治さんに、憂鬱な嫉妬と不安」
5月24日:太宰の『津軽』旅行③:金木~深浦
5月25日:太田静子の三鷹来訪
5月26日:太宰、東京への移転を切望
5月27日:太宰の『津軽』旅行④:鰺ヶ沢~小泊
5月28日:真夜中のサイダー
5月29日:太宰、甲府で「荷物疎開」
5月30日:太宰、三宅島に遊ぶ
5月31日:「全く望外の印税」速達で届く
【6月】
6月 1日:『悶悶日記』
6月 2日:太宰作品のNHKラジオ放送
6月 3日:太宰の『津軽』旅行⑤:蟹田~三鷹
6月 4日:難航する東京での貸家捜し
6月 5日:『如是我聞』の口述筆記③
6月 6日:最後の「行ってくるよ」
6月 7日:長女・園子の誕生
6月 8日:『春昼』
6月 9日:太宰、創作集の装幀を依頼する
6月10日: 太宰、富栄に「別れよう――」
6月11日:太宰、山岸に再婚のすゝめ
6月12日:太宰心中前日、大宮を訪問
6月13日:太宰と富栄、玉川上水に入水す
6月14日:太宰治の命日
6月15日:『政治家と家庭』
6月16日:太宰が級友に読んだ弔詞
6月17日:心中事件後の朝日新聞報道
6月18日:小山清にとってのLast man
6月19日:ダザイのトリセツ
6月20日:『蒼穹答えず』
6月21日:三兄・圭治の死
6月22日:出来上がったばかりの『晩年』を
6月23日:太宰、鎌滝富方に引越す
6月24日:『革財布』
6月25日:処女短篇集『晩年』刊行
6月26日:太宰と弟子・菊田義孝
6月27日:「太宰さんと旅をする」
6月28日:太宰の逃避行とその終焉
6月29日:佐藤春夫と川端康成からの手紙
6月30日:山岸外史の「再婚機」
【7月】
7月 1日:「最も愛着が深かった」船橋へ
7月 2日:『黒石の人たち』
7月 3日:湯ケ野温泉「福田屋」での執筆
7月 4日:長尾良と太宰の出会い
7月 5日:手製の『思い出』
7月 6日:井伏の叱責と、太宰の言い訳
7月 7日:太宰、「甲府空襲」に遭う
7月 8日:太宰、佐藤春夫への誘い
7月 9日:太宰の3通の手紙
7月10日:『「人間キリスト記」その他』
7月11日:『晩年』の出版記念会
7月12日:久保隆一郎への手紙
7月13日:太宰、「洪水に急襲」される
7月14日:菊田義孝「愛情うすし」
7月15日:太宰、三鷹の借家を契約
7月16日:『哄笑に至る』
7月17日: 「甲府空襲」罹災後の太宰
7月18日:太宰、三鷹「禅林寺」に葬られる
7月19日:太宰と離別後の小山初代
7月20日:太宰、お見合いをセッティング
7月21日:太宰、義弟の下宿探し
7月22日:平岡敏男への近況報告
7月23日:小山初代の命日
7月24日:「河童忌」芥川龍之介の命日
7月25日:『走ラヌ名馬』
7月26日:中畑慶吉に宛てた自身の近況報告
7月27日:佐藤春夫へ「オ許シ下サイ」
7月28日:太宰、甲府から津軽へ疎開
7月29日:「なぜ、君は遊びに来ないのか」
7月30日:富栄、募る太宰への想い
7月31日:弟のように可愛がった小舘善四郎
【8月】
8月 1日:『緒方君を殺した者』
8月 2日:セルフレビューと仮入歯
8月 3日:菊田義孝、三鷹の住居を初訪問
8月 4日:『白猿狂乱』顛末記
8月 5日:『貪婪禍』
8月 6日:田中英光、金木の太宰を訪問
8月 7日:著作をめぐる2人の女性の物語
8月 8日:長兄・文治への近況報告
8月 9日:三鷹の家が、予定どおり完成せず
8月10日:長男・正樹の誕生
8月11日:井伏鱒二へのお礼と決意表明
8月12日:創作活動を再開、静浦村での日々
8月13日:箱根の太宰治
8月14日:川久保屋旅館と第三回芥川賞落選
8月15日:金木で迎えた終戦
8月16日:『ユダヤ人実朝』事件
8月17日:太宰、10年振りに故郷・金木へ
8月18日:太宰、中学4年生の夏休み
8月19日:義弟の下宿、見つかる
8月20日:太宰と木村庄助の書簡
8月21日:第一回芥川賞、落選直後
8月22日:太宰と佐藤春夫、初めての出逢い
8月23日: 鰭崎潤と「聖書知識」
8月24日:戦後の太宰と師匠・井伏鱒二
8月25日:川久保屋旅館滞在中の手紙
8月26日:太宰と別所直樹との出逢い
8月27日:津村信夫と『郷愁』
8月28日:疎開先から弟子と師匠に送る手紙
8月29日:『虎徹宵話』
8月30日:「僕の内臓の一部のような気がする」
8月31日:「僕は君を愛している」
【9月】
9月 1日:念願の、甲府から三鷹への引越し
9月 2日:富栄、太宰に会えぬ日々
9月 3日:『自作を語る』
9月 4日:”一人の若い左翼運動者”津島修治
9月 5日:『天狗』
9月 6日:第2創作集の出版を急ぐ太宰
9月 7日:太宰と太田静子の出逢い
9月 8日:『同じ星』と宮崎譲
9月 9日:桂英澄、入隊前夜
9月10日:野原一夫、太宰に原稿依頼
9月11日:木山捷平への手紙
9月12日:『将軍』と芥川龍之介
9月13日:太宰、御坂峠の天下茶屋へ
9月14日:太宰の朗読会
9月15日:堤重久の除隊
9月16日:太宰と菊田義孝の甲府行
9月17日:太宰、小山初代に「上京せよ」
9月18日:太宰、石原美知子とのお見合い
9月19日:「小説かきたくて、うずうず」
9月20日:太宰「うるせえ、黙ってろ」
9月21日:太宰、終戦後の希望を書く
9月22日:太宰、三浦正次への手紙
9月23日:捗る仕事、断わる仕事
9月24日:信州でのサナトリアム生活を計画
9月25日:『花火』
9月26日:はじめての原稿料で湯河原旅行①
9月27日:はじめての原稿料で湯河原旅行②
9月28日:太宰、芝区白金三光町へ引越し
9月29日:荒れた竹藪の中の、かぐや姫
9月30日:『パンドラの匣』にかける熱量
【10月】
10月 1日:初代、赤羽で降車し、太宰と再会
10月 2日:太宰の講演「近代の病」
10月 3日:太宰、「猟騎兵」の同人に
10月 4日:伊馬鵜平と小山祐士の船橋訪問
10月 5日:『富士に就いて』
10月 6日:なかなかの熱の入れ方「青い花」
10月 7日:初代、太宰の身を案じて井伏宅へ
10月 8日:日本初の銀行強盗、大森ギャング事件
10月 9日:小舘善四郎の自殺未遂
10月10日: 太宰の初恋『思い出』の「みよ」
10月11日:金木から「小田静夫」への手紙
10月12日:疎開先で弟子を気遣う太宰
10月13日:太宰、東京武蔵野病院へ入院
10月14日:葡萄を狩るの記
10月15日:初代、小舘善四郎を付添い看護
10月16日:祖母・津島イシの葬儀
10月17日:『世界的』
10月18日:『純真』
10月19日:東京武蔵野病院入院中の太宰①
10月20日:太宰と中原中也①
10月21日:『角力』
10月22日:『パンドラの箱』連載開始
10月23日:『オリンポスの果実』出版に尽力
10月24日:太宰、井伏への「誓約書」
10月25日:終戦直後、『お伽草子』を刊行
10月26日:「だめな男だとも思っていません」
10月27日:『校長三代』
10月28日:美知子、初めての金木
10月29日:『砂子屋』
10月30日:『パウロの混乱』
10月31日:「難関をひとりで切り抜ける覚悟」
【11月】
11月 1日:『先生三人』
11月 2日:明日帰京と決まった日の午後
11月 3日:太宰の留置とペンネーム「太宰」
11月 4日:東京武蔵野病院入院中の太宰②
11月 5日:同人誌「蜃気楼」創刊
11月 6日:太宰と美知子の結婚披露宴
11月 7日:太宰、最初の心中未遂?
11月 8日:『モナコ小景』
11月 9日:「大へん疲れてしまいました」
11月10日:太宰と中原中也②
11月11日:「ユーモアに就いて」熱弁を振る
11月12日:太宰、東京武蔵野病院を退院
11月13日:『困惑の弁』
11月14日:太宰、金木から三鷹へ帰京
11月15日:證「この子は 私の 可愛い子」
11月16日:太宰、天下茶屋を後にする
11月17日:太宰に文士徴用令書が届く
11月18日:太宰、新潟へゆく
11月19日:富栄「こうした私の心の飛躍」
11月20日:野原一夫、三鷹通いのはじまり
11月21日:太宰の四姉・きやうの死
11月22日:『日記抄』と太平洋戦争中の太宰
11月22日:『現代小説を語る』
11月23日:分家除籍と初代との結納
11月24日:戦時下における三鷹での太宰
11月25日:太宰、平岡敏男と痛飲
11月25日:『歓楽極まりて哀情多し』
11月26日:『かすかな声』
11月27日:『人物に就いて』
11月28日:太宰、田部あつみと小動崎へ
11月29日:鎌倉腰越町小動崎での情死事件
11月30日:太宰に付き添う富栄
【12月】
12月 1日:『思案の敗北』
12月 2日:田部あつみの葬儀と中畑の後始末
12月 3日:井伏の徴用解除と母・夕子の逝去
12月 4日:小舘善四郎と津村信夫に宛てた手紙
12月 5日:富栄「修ちゃんを、守りたい」
12月 6日:太宰、小山清への近況報告
12月 7日:太宰、自殺幇助罪に問われる
12月 8日:「太平洋戦争が始まった」
12月 9日:『九月十月十一月』
12月10日:カルモチン服用による自殺未遂
12月11日:『創作余談』
12月12日:『碧眼托鉢』
12月13日:太宰、山岸に「君は一番強いよ。」
12月14日:「太宰さんの文学はきらい」
12月15日:『此の夫婦』
12月16日:太宰「校正お世話になります」
12月17日:源右衛門、貴族院議員に
12月18日:文藝同人誌「青い花」創刊
12月19日:太宰、「碧眼托鉢」の旅へ
12月20日:『怪談』
12月21日:『惜別』執筆準備のため、仙台へ
12月22日:富栄「お人好しの仙女では…」
12月23日:阿佐ヶ谷会錬成忘年会
12月24日:太宰の年越し準備
12月25日:「ぼくのクリスマスプレゼント」
12月26日:「ぼくの生命を園子にあずける」
12月27日:高田英之助からの吉報を聞いて
12月28日:熱海事件(付け馬事件)①
12月29日:熱海事件(付け馬事件)②
12月30日:山崎富栄「女一人」
12月31日:菊田義孝と過ごす大晦日
それでは、2020年1月1日(水)7時から、毎日の更新をお楽しみに!
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日刊 太宰治全小説】完結のお礼
いつも【日刊 太宰治全小説】をご覧頂き、誠にありがとうございます。
今日も、いつもの時間に、しれっと更新しましたが、おかげさまで、昨日の更新分を以って、無事に完結致しました。
今年2019年が、太宰治生誕110周年にあたるという事もあり、「太宰治はソウルフレンド」とまで言っている手前、何かやりたい!という思いから構想を練り、太宰の小説全155作品を毎日1作品ずつブログで公開していく企画を立ち上げました。
1月1日からスタートした企画でしたが、思った以上に長期化し、気づけば昨日の最終回は276日目の更新。
更新の途中で、事前に予約投稿していた分に追い付いてしまい焦った事や、やっぱり無謀だったかなぁ…と思い、投げ出してしまいそうになった時もありました。
しかし、飽き性で、なかなか最後まで続かない私が、最後まで更新を続ける事ができたのは、毎日ブログを訪れて下さったり、温かい言葉をかけて下さったり、応援して下さった皆さんのおかげです。
この場を借りて、改めてお礼をさせて下さい。
本当にありがとうございました。
今後について
さて、今後ですが、ブログをスタートした当初はSSL対応しておらず、企画途中での対応化が難しかったため、年内の作業完了を目標に、ブログのSSL化作業を随時行っていきます。
作業中は、リンクが上手く繋がらなくなったりと、ご不便をお掛けしますが、基本的にはそのまま太宰作品のデータベースとして残していきたいと考えていますので、その点はご容赦下さい。
また、SSL化対応中は、はてなブログとは別で展開しているnoteの方に記事をアップしていきたいと考えています。
まだまだ太宰治生誕110周年イヤーは続きますし、今年もまだまだ太宰関連のイベントに参加する予定ですので、そのルポ等を中心にアップします。
更新の告知は、Twitterで行っていますので、よろしければフォローをお願いします!
ちょっとだけ告知
最後に、ちょっとだけ告知を。
実は、今年2019年が太宰の生誕110周年という事は、来年2020年は、太宰治生誕111周年になります。1が3つ並んで、なんだかオメデタイですね(笑)
…という事で、来年も今年同様、毎日太宰関連の記事を更新していきたいと考えています。
今、もやっとした構想を形に、しこしこ準備を進めているところです。ある程度の形になった段階で、この場でご案内させて頂ければと思っていますので、ぜひお楽しみに!
【ほかにも太宰関連記事を書いてます!】
【日刊 太宰治全小説】#276「グッド・バイ」コールド・ウォー(二)
【冒頭】
こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも
【結句】
彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。
(未完)
「グッド・バイ コールド・ウォー(二)」について
・新潮文庫『グッド・バイ』所収。
・昭和23年6月3日に脱稿。
・昭和23年7月1日、『朝日評論』七月号に掲載。
グッド・バイ (新潮文庫)
全文掲載(「青空文庫」より)
コールド・ウォー (二)
こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも
キヌ子に殴られ、ぎゃっという奇妙な悲鳴を挙げても、田島は、しかし、そのキヌ子の怪力を逆に利用する
彼のいわゆる愛人たちの中のひとりに、水原ケイ子という、まだ三十前の、あまり
しかし、たった一つ非常な難点があった。彼女には、兄があった。永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者の由で、骨組もなかなか
その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。
田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、
「自分は、ケイ子の兄でありますが。」
という、いかにも力のありそうな男の強い声。はたして、いたのだ。
「雑誌社のものですけど、水原先生に、ちょっと、画の相談、……」
語尾が震えている。
「ダメです。
運が悪い。ケイ子を引っぱり出す事は、まず不可能らしい。
しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。それに、ケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が寄宿しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。兵隊の兄も、まさか殴りやしないだろう。
まさに百パーセントの利用、活用である。
「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。
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