記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】金銭の話

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今週のエッセイ

◆『金銭の話』
 1943年(昭和18年)、太宰治 34歳。
 1943年(昭和18年)9月中旬頃に脱稿。
 『金銭の話』は、1943年(昭和18年)10月1日発行の「雑誌日本」の随筆欄に発表された。なお、この作品には、著者書入のある雑誌切抜が残っている。

「金銭の話

 宵越しの金は持たぬなどという例の江戸っ子気質は、いまは国家のためにもゆゆしき罪悪で、なんとかして二、三千円も貯金してお国の役に立ちたいと思うものの、どういうわけかお金が残らぬ。むかしの芸術家たちには、とかく貯金をいやしむ風習があって、赤貧洗うが如き状態を以て潔しとしていた様子であったが、いまはそのような特殊の生活態度などはゆるされぬ。一億国民ひとしく貯蓄にいそしまなければならぬ重大な時期であると、厳粛に我が身に教えているのだが、どういうわけか、お金が残らぬ。私には貧乏を誇るなんて厭味な、ひねくれた気持はない。どうかして、たっぷりとお金を残したいものだと、いつも思っている。恒産があれば恒心を生ずるという諺をも信じている。貧乏人根性というものは、決していいものではない。貯金のたくさんある人には、やっぱりどこか犯しがたい雅操がある。個人の品位を保つ上にも貯金は不可欠のものであるのに、更にこのたびの大戦の完勝のために喫緊のものであるのだから、しゃれや冗談でなく、この際さらに一段と真剣に貯蓄の工夫をこらすべきである。少し弁解めくけれども、私の職業は貯蓄にいくぶん不適当なのではあるまいか、とも思われる。はいる時には、年に一度か二度、五百円、千円とまとまってはいるのだが、それを郵便局あるいは銀行にあずけて、ほっと一息ついて、次の仕事の準備などをしている間に、もう貯金がきれいに無くなっている、いつのまにやら、無くなっているのである。こまかい事は言いたくないが、私の生活などは東京でも下層に属する生活だと思っている。文字どおりの、あばらやに住んでいる。三鷹の薄汚い酒の店で、生葡萄酒なんかを飲んで文学を談ずるくらいが、唯一の道楽で、ほかには、大きなむだ使いなどをした覚えはない。学生時代には、ばかな浪費をした事もあるが、いまの家庭を営むようになって以来は、私はむしろ吝嗇(りんしょく)になった。けれども、どうもお金が残らぬ。或いは、私は、貧乏性というやつなのかも知れない。一文惜しみの百失いというやつである。一生お金の苦労からのがれられぬ宿業を負って生れて来たのかも知れない。私の耳朶(じだ)は、あまり大きくない。けれども、それだからとて、あきらめてはいけない。お国のためにも、なんとかして工夫をこらすべき時である。結局、私は、下手なのである。やりくりが上手でないのであろう。再思三省すべきであろう。
 私は西鶴の「日本永代蔵」や、「胸算用」を更に熟読玩味する事に依って、貯蓄の妙訣を体得しようと思い立った。西鶴は、いろいろと私には教える。
「人の家にありたきは、梅桜松楓、それよりは金銀米銭ぞかし、庭山にまさりて庭蔵の眺め、」と書いてある。全く賛成である。そうして西鶴は、さまざまな貯蓄の名人の逸事を報告しているのである。
「この男一生のうち草履の鼻緒を踏み切らず、釘のかしらに袖をかけて破らず、よろずに気を付けて其の身一代に二千貫しこためて、行年八十八歳、」で大往生した大長者の話や、または、「腹のへるを用心して、火事の見舞いにも早く進まぬ」若旦那の事や、または、「町並に出る葬礼には、是非なく鳥部山におくりて、人より跡に帰りさまに、六波羅の野辺に奴僕(でっち)もろとも苦参(とうやくを引いて、これを陰干にして腹薬になるぞと、ただは通らず、けつまづく所で燧石(ひうちいし)を拾いて袂に入れける、朝夕の煙を立つる世帯持は、よろず此様に気を付けずしてはあるべからず、此の男、生れ付いて(しは)きにあらず、万事の取りまわし人の(かがみ)にもなりぬべきねがい、(中略)よし垣に自然と朝顔の生へかかりしを、同じ眺めには、はかなき物とて刀豆(なたまめ)に植えかえける。娘おとなしく成りて、やがて嫁入屏風を(こしら)えとらせけるに、洛中づくしを見たらば見ぬ所を歩行(ありき)たがるべし、源氏伊勢物語は心のいたずらになりぬべき物なりと、多田の銀山(かなやま)出盛りし有様書せける」などの殊勝な心掛けの分限者の事やら、「ぬり下駄片足なるを水風呂の下へ焼く時つくづくむかしを思出し、まことに此の木履は、われ十八の時この家に嫁入せし時、雑長持に入れて来て、それから雨にも雪にもはきて、歯のちびたるばかり五十三年になりぬ、われ一代は一足にて(らち)を明けんと思いしに、惜しや片足は野良犬めに(くわ)えられ、はしたになりて是非もなく、きょう煙になす事よと四五度も繰りごとを言いて、」やがて、はらはらと涙を流す隠居の婆様の事など、あきれるばかり事こまかに報告しているのである。すべて、仰望して以て手本となすべき人たちの行跡である。
 私は熟読して、それから立って台所へ行き、何かむだは無いかと、むずかしき顔をして四方を見廻せども、足らぬものはあっても、むだのようなものは一つも発見できなかった。
 一億国民、いまはこの西鶴の物語の中にある大長者たちの如く、こまかき心使いして生活をしているのである。私の狭い庭に於いても、今はかぼちゃの花盛りである。薔薇の花よりも見ごたえがあるようにも思われる。とうもろこしの葉が、風にさやさやと騒ぐのも、なかなか優雅なものである。生垣には隠元豆の(つる)がからみついている。けれども、どうしてだか、私には金が残らぬ。
 どこかに手落ちがあるのだ。或る先輩が、いつか、こうおっしゃった事がある。
「自分の収入を忘れているような人でなくちゃお金が残らぬ。」
 してみると、金銭に淡白な人に、かえってたくさんお金がたまるのかも知れない。いつもお金にこだわって、けちけちしている人にはかえってお金が残らぬものらしい。
 純粋に文章を創る事だけを楽しみ、稿料をもらう事なんぞてんで考えていないような文人にだけ、たくさんの貯金が出来るのかも知れない。

 

太宰自身の「金銭の話」

 太宰の妻・津島美知子は、太宰が「貯金や保険は絶対しない主義だと言明」しており、「生前を通して、死の前後に至るまで税金を納めた記憶がない。一戸構えていて最低限の住民税くらいは納めていた(はず)なのだが、思い出せない。」と回想します。

 太宰は長い間、故郷・津軽から月額90円の仕送りを受けていました(当時の大卒初任給が70~80円)。太宰は、今でこそ「ベストセラー作家」のイメージが強いですが、当時は「知る人ぞ知る作家」でした。
 当時の太宰の様子は「早く仕送りが止まっても困らないようにならなければ、と言うかと思えば、自分がいくら金を遣ったといっても、長兄の遣った金の方がずっと大きいのだ、などとも言い、仕送りを辞退して立派なところを見せたくもあるものの、やはりペン一本に頼る生活には不安な様子であった。」という感じだったそうです。

 美知子は「太宰は裕福な地主の家で育って、自分のかせぎで得た金で生活してゆくべきだとは、考えていなかったと思う。戦前、二人の兄は職についたこともあるが、名誉職のようなもので、報酬を生活費に充てるための「職」ではない。太宰が自分の天分を生かして得た金を特別輝かしいものに考え、これは全部自分の自由に遣ってよい小遣だ、と考えていたのも育ちからいって当然で、これが彼の経済観念のもとになっている。」と分析しています。太宰を慕う来訪客も多く、その接待費にも、多くの収入や仕送りが使われていたことでしょう。
 しかし、美知子は「所帯を持って以来、生活費に窮したことも、質屋に走ったこともない。」とも言っています。

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■太宰と長女・園子を抱く妻・美知子

 

 戦後、小説斜陽がベストセラーになったことで、「知る人ぞ知る作家」だった太宰は、「流行作家」の仲間入りを果たし、大きな転機を迎えます。
 「書けば必ず売れ、印税も時折入るようになってから、太宰は自分の財産は作品だ」と言うようになりました。「銀行も、郵便局も、金の用事はぜんぶ自分でとりしきり、始終、闇商人が出入りして、闇の品を買い入れて」いたといいます。
 しかし、その反面、終戦という大変動機に際会し、仕送りが終止し、地主階級が没落」するという故郷の大きな変化もありました。

 こんな状況の中、1948年(昭和23年)2月に事件が起こります。
 美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 武蔵野税務署から、昭和二十三年二月二十五日付で、前年の所得金額を二十一万円と決定したという通知書と、それにかかる所得税額十一万七千余円、納税期限三月二十五日限という告知書が届いたのである。二十一万の所得に対して半分以上の税額とはひどいが、申告しなかったために出た数字であろうか。

 

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■納税告知書及び領収済通知書 1948年(昭和23年)3月25日が振込期限の振込書。所得金額11万7,702円。同年の文学者高額所得番付で、太宰は4位でした(1位は吉川英治)。

 

 (中略)
 彼の身辺には当時難問題が起こって金の必要も切迫していた。前年の夏、全集の出版を契約した社から、いくらかまとまった金を前払いしてもらって住宅資金に当てたいと、私は切望していたのだが、太宰がうかつに選んだその社からは、前払いどころか二十二年の年末から月々一万円くらいを受けとっているだけだった。太宰の周囲にはいつも人がいて、なかなか税金のことについて話し合う時がない。通知書を受けとって一月以内なら、審査の請求ができると注意書にあるのだが、彼は税金のことを放置したまま長篇を書くため熱海に行ってしまって、帰京したときは、審査請求の期限がきれていた。ともかく武蔵野税務署に行ってみる方がよいのでは、と私は勧めた。初めてのことで、太宰本人でなくてはいけないとふたりとも思っていた。太宰は税務署からの通知書を前にして泣いた。そのころ、心身ともによほど弱っていたのだと思う。正月にも、井伏先生のお宅に年始に伺って、それもしぶっているのを毎年の例だからと、押し出すようにしたのだが、帰ってから茶の間で泣いた。みんなが寄ってたかって自分をいじめる、といって泣いた。その泣き方は彼自身が形容している通り、メソメソという泣き方で、坊っちゃんが外で腕白共にいじめられて泣いて訴えているのと同じで、正月にはなんとかなだめて力づけて元気を回復したように見えた。が、税金のこととなると、ふだんいくら入って、どのように消費されているのか知らないのだから、私も途方にくれるばかりである。
 自分のように毎日、酒と煙草で莫大な税金を納めている者が、この上、税金を納めることはない、と駄々ッ子のように言う太宰に私はもうあきらめて、それでは何か書いてくだされば、それを持って行きますからと言った。太宰は原稿用紙に書いた。

     審査請求書
      明治四十二年六月十九日生
      太宰治(著述業)
      都下三鷹下連雀一一三
さきに納税額の通知書を受取りましたが、別紙の如く、調査費の支出(たとえば、旅行、探訪、資料入手等のための支出)おびただしき上に、昨年は病気ばかりして、茅屋に子供たくさん、悲惨の日常生活をしてまいりまして、とても、納入の可能性ございません、よろしく茅屋に御出張の上、再審査のほど願い上げます。
所得金額
 拾万円也、
    内、原稿料、三万円也
      著者印税、七万円也
旅行、探訪、参考書、資料集め、等の著述業に必ずつきまとう諸支出の残りの、昨年昭和二十二年の全所得、右の通りである事を保証します。
  昭和二十三年四月一日
 武蔵野税務署長殿

 

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■審査請求書

 

 自分で保証します、というのもへんだが、太宰という人はそういう人なのである。いろいろ税務署に泣き言を並べているが、弱虫の太宰がこの当時ほど弱っていたことはない。
 前の年の三月末、二女が生まれた。この頃まではぴんとしていた。出生届に元気よく役場に出かけた姿が目に残る。その姿勢が崩れ始めたのは五月頃からである。被害妄想が(こう)じて、むやみに人を恐れたり、住所をくらましたりする日常になっていた。
 私は太宰の書いた「審査請求書」を武蔵野税務署に持参して、用件を話したが、金の出入りを具体的に細かく書いてくるようにとのことで、四月五日に再び行った。長女の入学式の日だった。学校から帰り、大映に用件があって出かける太宰を送り出してから申告を書いたが、自分が関わっていない金のことなので、記入に苦しみ、乳母車に下の歩けない子二人を乗せて、吉祥寺の奥の税務署に着いたのはもう役所の閉まる間際であったが、このときたいへん親切に受理してもらえてホッとしたことを覚えている。けれどもこれで終ったわけではなくて、税金はこのあと国税局へ廻って五月末に呼び出し状が届いた。
 その前、四月二十四日「審査請求中でも税金の徴収は猶予致しません」という通知書の注意書に従って税務署員が来訪し、私は太宰の留守中に届いていた印税から二千円を支払った。延滞金がその日までに二千円になっていた。

 

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■領収証書 太宰の留守中に税務署員が来訪した際、美知子が届いていた印税から2,000円を支払い、残額が11万5,702円となったが、手数料5円、延滞金が1,647円となっていた。

 

 五月二十九日私は国税局へ行った。千代田区代官町という所だったと思う。九段から濠を渡って田安門から入って、いま日本武道館が建っている右手あたりではなかったろうか。臨時の旧兵舎か何かのような古びた木造二階建であった。係の役人から、収支明細書を書き直してくるように言われてその日は帰った。相談しようにも外泊して帰宅しないから、三十一日の朝、自分で書いて計算して、また国税局に行った。係の方と面談したのは昼近くである。鋭く()かれるが、もともと推察だけで書きこんだ数字だから、しどろもどろである。答に窮して苦しい何分間かの面談がやっと打ちきられて、椅子から立ち上がり、出入り口に向かおうとしたとき、初老の和服の方が私の次の順番を待っていたらしく、壁と机の間に立っていた。私はその方の前の狭い空間を、上半身を(かが)めてすり抜けた。鉄無地の夏羽織に袴を召した、肥った立派な方であった。
 廊下のベンチで、赤子に乳をのませて負い直して帰途についた。
 飯田橋駅に向かって、富士見町の商店街の坂道をくだりながら、誕生過ぎの背の子はぐっすり寝入り、初夏のような強い陽ざしに(あわせ)の背は気味わるく汗ばんだ。連日の寝不足と気疲れが一度に押し寄せてきて、半ば朦朧(もうろう)となった私に、子供のとき観たアメリカ映画の名女優が演じた底無し沼に足を踏みこんで、あがけばあがくほど、ずるずる沈んでしまう恐怖の一シーンが浮かんだ。

 六月二日の夜、国税局の係の方が来訪したので太宰の行きつけの酒の店「千草」に案内した。六月に入ってから雨つづきで、ひどいぬかるみの道であった。このとき係の方と太宰との間に、どんな話し合いがあったか私は知らない。未解決の問題をいくつか残して十四日に太宰は死んだ国税局の方々も驚いたことだろう。しかしこの税金のことが、死の原因の一つになっているとは思われない。税金のことは私に一任したと考えていたと思う。

 

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■所得金額訂正取消通知書 太宰が亡くなって半年後、1948年(昭和23年)12月22日付。太宰が「審査請求書」に記載した10万円に近い、133,200円に訂正された。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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