記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】3月14日

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3月14日の太宰治

  1935年(昭和10年)3月14日。
 太宰治 25歳。

 三月、東京帝国大学は落第と決定し、都新聞社の入社試験を受けたが、失敗。

太宰の就職活動

 1月24日の記事で、東京帝国大学在学5年目にして取得単位ゼロだった太宰が、大学を卒業できなければ仕送りを停止すると長兄・文治に脅され、何とか卒業するために東奔西走するエピソードを紹介しました。

 しかし、太宰の奮闘も空しく、東京帝国大学"落第"となります。行き詰ってしまった太宰が取った、次なる施策とは?太宰の親友・檀一雄『小説 太宰治から引用して紹介します。

 かりに、東大の卒業が駄目になるような事があるにせよ、都新聞にさえ這入れれば、と、太宰のこれは可憐なまでの悲願であった。
 当時、都新聞の学芸部に勤めていた、中村地平ともしきりに打合わせをし、いかにも大事げに、臆病げに、その忠告なぞにきき入っていたのを覚えています。しかし、ちょうど上泉秀信氏が学芸部長であり、井伏さんのすぐ近所で、今度は案外物になりはしないか、という妄想に大きな望みをかけているようだった。全く甲斐々々しく、太宰は大喧噪(おおはしゃぎ)で、
  青い背広で心も軽く
 などと、流行歌を妹の前で口遊(くちずさ)んで見せたりしながら、私の家から、その青い背広を着込んでいった。口頭試問の時であったろう。
 しかし、見事に落第した。
 太宰の悄気(しょげ)かたはひどかった。連日のように高砂館と云う、荻窪の汚い活動小屋に出掛けていって、
 「泣けるねえ」
 と、いいながら大きなハンカチで、新派悲劇や股旅ものに大粒の涙をこぼしていた。これをまた、自分で「高砂ボケ」と称して、
 「おい、檀君高砂ボケにつき合わないか?」などと

 いいながら、初代さんを伴って、出掛けていったものだった。よく飲んだ。

  大学卒業が不可能だと知った太宰が取った行動は、なんと就職活動でした。都新聞社とは、現在の東京新聞社です。

 太宰と「しきりに打合わせ」をしたという中村地平(なかむらちへい)(1908~1963)は、宮崎県出身の小説家。宮崎県立図書館長や宮崎相互銀行(現在の宮崎太陽銀行)の社長を勤めた人物でもあります。"中村地平"はペンネームで、本名は、"中村治兵衛"です。
 中村は、「『喝采』前後」というエッセイの中で、太宰が中村を都新聞社に訪ねた際、対談中も、パビナールを打つために何度も席を外したことを記しています。

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■中村地平

 中村は、1930年(昭和5年)に4月に東京帝国大学文学部美術史科に入学。入学試験の会場で、太宰と知り合いました。太宰の師でもある井伏鱒二に師事し、太宰・小山祐士とともに、「井伏門下の三羽烏とも言われました。
 東京帝国大学を卒業した、1934年(昭和9年)4月。中村は、土方正巳(ひじかたまさみ)(1909~1997)の紹介で、都新聞社編集局に入社しました。同じ井伏門下である中村を頼っての、太宰の就職活動でしたが、「大喧噪(おおはしゃぎ)」していたのも束の間、失敗に終わってしまいました。

 この後、中村は、1935年(昭和10年)9月、太宰が都新聞社の入社試験失敗後に起こした失踪と自殺未遂を題材にした小説『失踪』(「行動」に掲載)を発表します。中村は、この『失踪』の中で、太宰の風貌・性格を「異様な一青年」「どこかに悲劇的な宿命を感じさせる深い陰影があった」「血肉の愛情というものを知らず、他人の愛情を求める気持ちが強いにも拘らず、他人から注がれるそれを素直には信じられない性格」「弱い性格で、心にもない言葉で表面を糊塗する癖」「ニヒリスティックな彼の性格や生活」と描写し、そして、「君の弱い体で無理に生きてゆく必要はないのだ。修二よ。死にたかったら死んじまえよ」と記しました。

 この中村の『失踪』に対し、太宰は、翌年の1936年(昭和11年)10月、中村との交友を題材にした小説喝采(「若草」九月号に掲載)を発表しました。中村はこれを読み、自分が戯劇化されていると感じ、不快に感じたそうです。

 こうしたやり取りもあり、太宰と中村は絶交状態となっていましたが、1962年(昭和37年)のエッセイ「『喝采』前後」に、当時、作品を読んだ時、「自分がカリカチュアライズされているという理由からだけでなく、文章にあらわれている僕への好意らしきものも、口さきだけの、おべっかにすぎないとひがんだ。読後の印象として、ひどく不愉快なものをうけとった」と述べ、さらに続けて「しかしこんど、あらためてよみかえして、僕は自分に対する太宰の友情を(その限界においてではあるが)素直にうけとることができた。正直に言って、死んだ太宰をひどくなつかしく思ったのである」と、亡き太宰と和解したことを記しています。

 【了】

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【参考文献】
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
青柳いづみこ川本三郎 監修『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、2007年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月13日

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3月13日の太宰治

  1930年(昭和5年)3月13日。
 太宰治 20歳。

 東京帝国大学の入学者選抜試験を受験。

太宰の東大受

 太宰は、東京帝国大学文学部仏蘭西(フランス)文学科の入学者選抜試験を受けるために上京、本郷区森川町の下宿屋に宿を取ったそうです。
 太宰は、『東京八景』の中で、仏蘭西(フランス)文学科を志望した理由を、以下のように書いています。

 私は昭和五年に弘前の高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西文科に入学した。仏蘭西語を一字も解し得なかったけれども、それでも仏蘭西文学の講義を聞きたかった。辰野隆(たつのゆたか)先生を、ぼんやり畏敬(いけい)していた。

  辰野隆(たつのゆたか)(1988~1964)は、フランス文学者で、東京帝国大学教授として、多くの後進を育てました。はじめて本格的にフランス文学を日本に紹介した人物でもあります。

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辰野隆 1955年(昭和30年)撮影。

 自身の作品の中で、辰野隆(たつのゆたか)先生を、ぼんやり畏敬(いけい)していた」ことを志望理由としており、「仏蘭西文学の講義を聞きたかった」と書く太宰ですが、実は「中退しても仏文科の方がイキだ」と思ったのが、本当の志望理由だと言われています。
 弘前高校で太宰の1年先輩だった平岡敏男(ひらおかとしお)(1909~1986)は、『学生時代の太宰治に、以下のように記しています。

 津島は、昭和五年に、東大の仏文科へはいった。フランス文学に、かれが特に深い関心を寄せているという気配は、まったく見えなかったのだが、おそらく、その年の仏文科が無競争、無試験で入学できそうに思われたので、志望したのであろう。ところが、いざとなると試験があった。


 東京帝国大学の入学者選抜試験は、3月13日~15日の3日間にわたって行われました。試験の実施スケジュールは、以下の通り。

3月13日
 国語(10時~12時)
 漢文(13時~15時)
3月14日
 外国語(10時~12時)
  ※英、独、仏から1つを選択。
 身体検査(13時~)
3月15日
 特別試験(10時~12時)
 身体検査(13時~)

 15日の「特別試験」は、一般試験に対して各志望学科で実施する、やや専門的な試験で、各科の意向によって決定されました。この年の仏蘭西文学科では、「仏文和訳」と「仏蘭西語作文」が出題されました。

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■1930年(昭和5年)、東京帝国大学仏文科1年生の太宰。

 太宰は、特別試験の試験場で、「僕にはフランス語はできません。英語の答案を出しておきますが、試験は合格さして下さい。」と監督者に伝えました。これを聞いた他の受験生たちは、騒々しい喚声をあげたそうです。太宰と同じ弘前高校出身の仏蘭西文学科受験者で、「あまり勉強家とはいえないスポーツマン」の三戸斡夫(さんのへみきお)も、手を挙げて監督者に同様の事情を訴えたといいます。
 特別試験の監督者をしていた助教授・辰野隆は、困惑して、嘆願書を書くように勧めます。嘆願書を受け取った辰野は、苦笑いしながら、太宰をパスさせたそうです。

 東京帝大に入学した太宰が、聞きたかったという「仏蘭西文学の講義」を聞いて大学を卒業できたかどうかについては、1月24日の記事で紹介していますので、そちらをご覧ください。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 臨時増刊』(1963年、審美社)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月12日

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3月12日の太宰治

  1936年(昭和11年)3月12日。
 太宰治 26歳。

 第二回(昭和十年下半期)芥川龍之介賞決定。該当者なし。済生会芝病院退院「約一ヶ月後再ビ最初ハ船橋ノ某医ニヨリパビナール・アトロピン注射ヲハジメ(皮下)間モナク自ラ注射」するようになったという。

太宰のパビナール中毒

 1935年(昭和10年)4月、急性虫様突起炎と汎発性の腹膜炎を併発。手術後、患部の疼痛鎮静のため、ほとんど毎日、医師からパビナール(麻薬性鎮痛鎮咳剤、正式名:日本薬局複方ヒコデノン注射液)注射を受けたところ、中毒になってしまいます。
 当時の広告を見ると、「モルヒネコデインに代り、然かも習慣性其他の副作用を著しく軽減し、作用は強力にして発現迅速なり。モルヒニスムに応用して効果を収む。」と書かれています。

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 退院後も、自らパビナールを注射するようになり、日々その本数は増加。所持金が足りなくなって、お金の無心をする手紙を書いたりもしています。
 ちょうどその頃、行われていた第二回芥川賞の選考。銓衡(せんこう)委員だった佐藤春夫に宛てて、芥川賞を懇願する1メートルと4メートルの書簡を書いたエピソードは、過去に記事でも紹介しました。

 冒頭で、済生会芝病院退院の「約一ヶ月後再ビ最初ハ船橋ノ某医ニヨリパビナール・アトロピン注射ヲハジメ(皮下)間モナク自ラ注射」と紹介した中に登場する「某医」とは、長直登病院を経営する医師・長直登(ちょうなおと)のこと。長直登病院は、現在は「川久保診療所」となっています。

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■長直登病院跡(2013年撮影)

 「某医」長直登が名刺の裏に記入捺印した処方により、長直登病院から東へ約400メートルの船橋町五日市上宿533番地にあった川奈部新之助が経営する川奈部薬局の長男・川奈部真左雄から、直接に薬品を購入していたと思われます。

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■川奈部薬局(2013年撮影)

 やがて、薬品の購入先は川奈部薬局から船橋薬局に変えられ、船橋薬局から通帳によるツケでの直接購入が、1936年(昭和11年)10月の東京武蔵野病院入院直前まで続きました。
 「御通」と表紙にある、ツケの記録が記された通帳の裏表紙中央には「津島様」と書かれ、その下方に押されたゴム印には「船橋町九日市中宿/船橋薬局/電話四百二十四番」とあります。
 船橋薬局の正式な所在地は、船橋町九日市1616番地で、経営者は荻生(おぎゅう)せん。ゴム印の住所が「船橋町九日市中宿」となっているのは、「九日市」の「通町」が小字(こあざ)として広かったため、中を「中宿」「橋戸」などと分けていたためです。

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太宰治旧居跡(2013年撮影)

 中野嘉一(なかのかいち)太宰治ー主治医の記録で紹介されている、太宰旧居跡に建て替えた家に住んでいたタクシー運転手さんは「木造平屋建て、間取りは八畳、六畳、四畳半の三間と台所、ふろ、玄関つき。三年前に亡くなった母の話では、家の裏庭に木を植えようと思って土を掘ったら、小判ならぬ注射のアンプルがかたまって出土したりした。これはパビナール中毒だった太宰さんがお棄てになったものだろう」と話しています。

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船橋薬局パビナール購入簿

 1936年(昭和11年)7月1日~10月26日までつけられた、薬品(主にパビナール)の「ツケ払い」通帳。「五」「六」等とあるのがパビナールの本数。太宰の没後に購入簿の分析を試みた妻・美知子による集計では、購入数は7月に544本、8月に526本、9月に488本、10月に406本。記録中、最後のパビナール購入日である10月13日に、太宰は武蔵野病院に入院しました。

 【了】

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【参考文献】
中野嘉一太宰治―主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・『生誕105年 太宰治展―語りかける言葉―』(神奈川近代文学館、2014年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月11日

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3月11日の太宰治

  1947年(昭和22年)3月11日。
 太宰治 37歳。

 三月、小料理屋千草(ちぐさ)が、三鷹下連雀二百十二番地の野川あやの方の斜め向かいの下連雀二百十二番地で店を始め、店の夫婦(鶴巻幸之助、増田静江)と旧知の間柄であった太宰治が頻繁に店を訪れるようになった。

太宰と「千草」

 千草(ちぐさ)は、太宰が接待などにも使った小料理屋で、1947年(昭和22年)の7月頃から、2階の六畳間を仕事部屋として借りています。

 太宰と、店を経営する夫婦(鶴巻幸之助、増田静江)は「旧知の仲」だったということですが、太宰との出会いから再会までを、増田静江「太宰さんと『千草』」から引用して紹介します。

 太宰さんが、初めて私どもの店"千草"においでになったのは、確か昭和十五年頃だったと憶えて居ります。
 その当時、店は三鷹駅前の西に寄った辺りに在りました。今ではもう、二度目の上水寄りの店があった辺りもすっかり変ってしまいましたが――昭和十四、五年の頃は、駅前にお酒を呑ませる店の数はほんのかぞえるほどしかありませんでした。おまけにそろそろお酒が不自由になる時勢でしたので、太宰さんが、お酒を求めて歩き廻られ、たまたま私の店の暖簾(のれん)をくぐられたとしても、何の不思議もないかと思われます。
 "千草"も開店早々で、不慣れな私の応待では、太宰さんもきっと満足なさらなかったでしょうし、先ず敗戦後、再びお会いするまでは、つまり戦前、戦争中はおでん屋とお客とでも云った通り一片のおつきあいに過ぎなかった、と云っていいかと思います。
 太宰さんは、よく若い人たちをお連れになりました。学生さんなんかと、お酒を呑みにと云うより話をしに、何処か語れる場所をといった様子で、若い人たちとの交際を少しも苦になさらず、(むし)ろいろいろ気を遣っていらっしゃるような太宰さんでした。
 お話の上手な、優しい、ちょっと助平な、和服のよく似合う小説家――戦前の太宰さんからはそんな印象を受けた私でした。
 文学、太宰さんのお書きになるものに就いては、何も知らない私です。でもその頃の太宰さんは、生涯の中で一番落着いていらした時期の太宰さんだと人に教わりました。戦後のあの方に比べてみますと、確かに明るい感じの太宰さんだったと、私にも何か分るような気がいたします。

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■「千草」の鶴巻幸之助、増田静江。

 戦後、私どもが山梨県石和の疎開先から帰って来て間もない、あれは昭和二十二年の春だったと思います。三鷹駅前通りで、買物籠を提げた太宰さんにばったりお会いしたのです。私が「先生」と声をかけますと、びっくりしたようなお顔をなさって、
「これは珍しい人と……」
 私は、太宰さんが同じ山梨の甲府疎開なさっていた事は、迂闊(うかつ)にも全く知りませんでしたが、甲府で戦災にあい青森県の金木町に更に疎開なさった事はどういう訳か知って居りました。
「もうお店は開いているの?」
 太宰さんは戦後駅前に出来た露店、闇市場のような所で、相変らずお酒を、いいえ、カストリの類を愛用なさっておいでのようでした。
  (中略)
「また行ってもいいかい?」と仰言(おっしゃ)る太宰さんに、どうぞ いらして下さい、とお誘いして、その日は路上での立話しだけでお別れしましたが、太宰さんが、山崎さんを知ったのも、こんなひょっとしたきっかけからで、再び"千草"に来られるようになったのも、時間的に(ほと)んど同じ頃であった訳で、こじつけみたいですが、何か一つの暗合めいたものを感じたりもしています。当時太宰さんは、三鷹の何処かに仕事部屋を借りてお書きになって居られる様子でしたが、お仕事の方は忙しくなるばかりで、私が、或る時何げなく、店の二階が静かです、と申しあげましたところ早速お使いになることになりました。
 夕方まで外でお仕事をなさった日でも、夕方になると必ずどなたかと一緒にお見えになって、、二階でお酒になりました。そしてそのままお泊りになる事が多くなり、追々お食事の世話までも私どもでするようになっていきました。
 ときには御自分で台所に立たれることもありました。(たら)が好きで、三平汁とでも云うのでしょうか、お魚の頭などを(たき)込んだ塩附けをした汁を好まれました。また箸を使わずに手でつままれることが太宰さんの癖のようでした。

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【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(審美社、1963年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月10日

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3月10日の太宰治

  1945年(昭和20年)3月10日。
 太宰治 35歳。

 陸軍記念日の零時少し前から、本所、深川、下谷、浅草、城東など東京市中下町の各区に、マリアナ基地を発進したアメリカ空軍機B29約百五十機の、焼夷弾による大襲撃があった。

太宰と東京大空襲

 陸軍記念日とは、1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争奉天会戦大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽(しんよう))を占領して奉天城に入城した日です。1906年(明治39年)3月10日が、第一回陸軍記念日でした。

 1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説があります。当時の日本で、この記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布していて、この噂が後々になって事実であるかのように出回っていました。日本側には事実とする書籍や資料が存在しますが、アメリカ側の資料では確認できないそうです。

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■焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影された写真。右側にある川は墨田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館

 東京は、1944年(昭和19年)11月24日以降、106回の空襲を受けましたが、特に1945年(昭和20年)3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25~26日の5回は大規模なものでした。
 その中でも、推定死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間襲撃(下町空襲)は東京大空襲と呼ばれます。この1回の空襲だけで、罹災者は100万人を超えました。

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■東京を空襲しているB-29爆撃機1945年(昭和20年)のものだが、詳細な日時は不明。

 アメリカの大型戦略爆撃機B29、約150機による大襲撃。焼夷弾約20万個が投下され、火は強い風に煽られて、大火災となりました。

 太宰の妻・津島美知子は、三鷹から「東の空が真赤に燃えるのを望見してから、私たちの気持も動揺し始めた」と、当時の様子を語っています。
 同日午前、「文藝」編集部の野田宇太郎が来訪。約束していた小説竹青の原稿を渡しました。野田は、「河出書房が焼けているかも知れないが、たとえどうあっても文藝は刊行するつもりだ」と話して別れました。

●太宰と野田宇太郎については、こちらの記事でも紹介しています。

 同日、弟子の小山清が、下谷区竜泉寺三百三十七番地読売新聞出張所で罹災。太宰を頼って、三鷹に避難してきます。この時の様子を、津島美知子『回想の太宰治から引用してみます。

 下谷の竜泉寺で罹災した小山清氏が太宰を頼って来て、妻子を甲府疎開させることを強く勧められた。これまで甲府市中で、駅に近く三鷹よりずっと家の建てこんだ水門町の実家に疎開する気は全くなかったのに、空襲体験者である小山さんの勧めに従って、三月下旬私と二児とは太宰に送られて甲府疎開することになった。
 荷物をまとめているうちに私は衝動的に、タンスにしまってあった手紙やはがき――それは結婚前とり交わした手紙を太宰がお守りにしようねといって紅白の紐で結んだ一束と、その後の旅信とであったが――をとり出して庭に持ち出し太宰と小山さんふたりの面前で、燃やしてしまった。その折の自分のことをふり返ってみると、この先どうなるかわからないのに、これらの私信を人の目に触れさせたくない気持もあったが、その裏にはこのような事態に当たって、家長である太宰は、何一つはっきりした判断も下さず、意見も出さず、小山さんの言うがままに進退をきめることになったのが、おもしろくなくて、仕事だけの人なのだから仕方がないとはいうものの、じつに頼りない。大体、気の弱い人の常として、第三者に気兼ねして家人をないがしろにする傾向がある。私と子供との甲府行は納得して決まったことではあるが、小山さんが狭いわが家に闖入(ちんにゅう)してきたために追い出されるような気もして、そのようなヒステリックな行動をとったらしい。

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小山清

 美知子が甲府疎開した後、「三鷹陋屋(ろうおく)」で、太宰と小山の共同生活がはじまります。美知子に散々に言われている太宰ですが、小山に「一緒に勉強しよう」と言って、小山との共同生活を快く受け入れたそうです。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月9日

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3月9日の太宰治

  1948年(昭和23年)3月9日。
 太宰治 38歳。

 太宰の発言が発端となり、山崎富栄と夜通し、語り明かす。

太宰が富栄に告げた言葉

 昨日の記事でも取り上げましたが、1948年(昭和23年)のこの頃、太宰は人間失格執筆のため、熱海の起雲閣別館に滞在していました。
 斜陽のヒットにより、ファンやマスコミの来客や原稿の依頼、出版の申し込みが増え、思うように長編作品の執筆に集中できなくなった太宰のために、筑摩書房の創業者で初代社長の古田晁(ふるたあきら)が起雲閣を手配しました。古田は、毎日の来訪客と無理な付き合い酒を重ね、疲労しきった太宰の体調も心配していました。太宰が人間失格の執筆に専念できるよう、身の回りの世話をする山崎富栄と共に起雲閣別館に滞在させたのは、古田の配慮でした。

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筑摩書房の創業者、古田晁

 見送りの人や訪問者が帰り、いよいよ執筆にかかる滞在2日目の夜。太宰は富栄を呼んで、「話をつけようかと思う」と告げます。
 太宰は、何の「話をつけよう」としたのか。まずは、この日の富栄の日記を引用してみます。

三月九日

朝、古田さんから御電話あり
「奥さんですか?」
「サッちゃん」
まさか「奥さんですか?」に「はい」などと答えられるものですか。
熱海は暖かいと思いの外、案外、東京と同じ陽気なので、がっかり。

 伊豆の(かた)に、ここに来てもらって話をつけようかと思う、と仰言るので、背筋がすうっと寒くなって、力が抜けて、少しふるえ出してしまったけど、一度は逢って話さなければならないと仰言っていられたので同意したことから、波紋を招いて、昨夜(八日夜)は一晩中二人共うつらうつらしたりして、語り明かす。お互いに私達は思いやりすぎて、時々こうしたことが起こる。
 どうしても別離などの出来ない私達のこころ、一層哀情を深め、信頼を高めて生きてゆこうと暁を迎える。
 伊豆の地平線は、お乳の先にふれるくらいのところと書かれてあったけれど、ここでみる地平線は私の(まぶた)のあたり
 今日は太宰さんお疲れの様子。小半日、うつらうつら。

  「伊豆の(かた)とは、太田静子(おおたしずこ)のこと。
 この頃、伊豆に住む静子を気にしていた太宰。そんな理由もあって、古田は太宰滞在の地を、すぐに会いに行くことができる熱海に定めたのです。

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 この年の前年である、1947年(昭和22年)5月、太田静子が妊娠に気付いて弟の太田通と共に三鷹へ相談に訪れた時、 太宰は静子と2人きりになるのを避けるために編集者を側から離さず、静子に話し合う機会を与えませんでした。そんな太宰が、今さら静子を呼び寄せて、本気で話をつけようとしたのでしょうか。富栄が「背筋がすうっと寒く」なるほど嫌がるのを、太宰は充分承知したうえで、この話題を持ち出したのでした。古田も、富栄に電話をする際、「奥さんですか?」と、富栄の機嫌をとるために、気を遣ったりしていたのに。

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 富栄が仕方なく静子を呼ぶことに同意すると、話の波紋はますます広まっていきます。子供の養育費の額も何一つ決めておらず、静子からの生活費の催促がいつまで続くのだろうかと2人は追い詰められた心情でした。当然、妻の美知子に打ち明ける訳にもいかず、2人が別れたとしても解決せず、お互いの気持ちを思いやれば余計に、話は噛み合わなくなりました。一晩中、うつらうつらしながら、信頼を一層高めて問題に当たっていこうと語り合い、夜明けを迎えます。
 結局、起雲閣に滞在中、太宰は静子を呼ばずに終わりました。

 そんなこと、わざわざ言わなきゃいいのに。そんな風に、思ってしまいます。

●『人間失格』執筆時の太宰については、こちらの記事でも紹介しています!

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・片山英一郎『太宰治情死考 ●―富栄のための れくいえむ』(たいまつ社、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・梶原悌子『玉川上水情死考』(作品社、2002年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】3月8日

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3月8日の太宰治

  1948年(昭和23年)3月8日。
 太宰治 38歳。

 前日3月7日から、眺望のいい起雲閣別館に滞在。3月8日から、外部との交渉を断って、「人間失格」の執筆に専念した。「山のテッペンでカンヅメには好適」の場所であった。

起雲閣で『人間失格』の執筆開始

 前日の3月7日、太宰は筑摩書房の創業者で初代社長の古田晁(ふるたあきら)(1906~1973)の計らいで、人間失格執筆のため、熱海の起雲閣に向かいます。

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筑摩書房の創業者、古田晁

 この頃の太宰は、斜陽がヒットして流行作家となり、ファンやマスコミの来客が多かったため、三鷹にいては執筆に支障が出る、との配慮から、古田は太宰を熱海・起雲閣へ連れていきました。古田は、作家が執筆するために最適な環境を提供することが得意でした。

 3月7日、熱海・起雲閣へ向かう時の様子を、太宰の愛人・山崎富栄が日記に記しています。

三月七日

 東京発十二時四十分、熱海行。カンヅメ。太宰さん。私。古田さん。セレエヌのマダム。石井さんの五人。
 熱海銀座を眼下に、眺望のいい起雲閣へ登る。どうも、どうも、山の上だけあって全く「登る」です。桜井兵五郎の別荘だったのを、旅館にした由なので、一寸不便に思われるところもある。今度の旅行は、古田さんに一人ぶんのご迷惑をおかけしていて申し訳ないと思っている。
 海岸通りの本館から支配人の吉田さんがみえてひとしきり賑う。

 「セレエヌのマダム」は、神保町のバーのマダムで古田の知人、太宰や富栄とも顔見知りの間柄。「石井さん」は、筑摩書房編集部員の石井立です。

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■太宰と知り合った頃の山崎富栄

 起雲閣は、1919年(大正8年)に桜井兵五郎別荘として築かれ、「熱海の三大別荘」と賞賛された名邸を、1947年(昭和22年)に旅館として建て替えたもので、山本有三志賀直哉谷崎潤一郎舟橋聖一武田泰淳など、日本を代表する文豪たちも訪れた場所です。
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 太宰は、奥さんの津島美知子に宛てた3月10日付のハガキに、起雲閣滞在の様子を次のように記しています。

  熱海市咲見町林ヶ久保 起雲閣別館より
  東京都下三鷹下連雀一一三 津島美知子宛

前略 表記にいて仕事しています。十九日夜にいったん帰り、二十一日にまたここで仕事をつづけます。ここは山のテッペンでカンヅメには好適のようです。留守お大事に、急用あったらチクマへ。     不一。

 連日のように押しかけて来るファンやマスコミの姿もなく、太宰にとっても、「カンヅメには好適」な場所だったようです。
 ここ起雲閣には、途中に2日間の帰京を挟みながら、3月31日までの約20日間滞在。『人間失格』の「第二の手記」までを脱稿します。

 最後に、3月8日付の富栄の日記を引用します。

三月八日

 今日は帰ると仰言っていられたので御見送り方々下へおりる。「常春」で美味しい(私には少し濃すぎる)コーヒーを飲み、ウィスキーを召され、私達だけ山へ帰る。古田さんは本館へ宿泊の由。夜、石井さん、二重マントを持ってきて一泊。

●『人間失格』執筆時の太宰については、こちらの記事でも紹介しています!

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・片山英一郎『太宰治情死考 ●―富栄のための れくいえむ』(たいまつ社、1980年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「熱海市公式ウェブサイト」(https://www.city.atami.lg.jp/shisetsu/location/1003194/1003202.html
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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