記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【考察】太宰治は、本当に首を絞められたのか?

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(最終更新日:2022.9.14)

"太宰治は、本当に首を絞められたのか?"

 今回は、ちょっとセンセーショナルなタイトルですが、最後まで読んで頂ければ、タイトルに込めた想いも理解して頂けるのではないかと思っています。

 太宰治は今年2019年6月19日に、生誕110周年を迎えます。

 太宰を"ソウルフレンド"と呼び、慕っている私は、毎朝7時に太宰治の作品を一作品ずつ紹介していく【日刊 太宰治全小説】という記事をアップしたり、太宰の誕生日である桜桃忌に更新予定の記事執筆の準備をしたりと、太宰浸りの日々を過ごしています。
 そんな中、今回改めて気になったのが、太宰の死因です。

 山崎富栄さんと、玉川上水で心中した太宰ですが、実はその死の真相は明らかになっていません

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 しかし、心中直後から「太宰は山崎富栄に殺された」という無理心中説が、文壇人や国文学者の中で定説となり、富栄さんは悪女に仕立て上げられました。
 無理心中説を提唱する大学教授の作品には、三鷹署はあえて発表はさし控えたが、太宰の首筋を細縄でしめた絞殺のあとから、かれの死は富栄による他殺であると認定したのである」と書かれてあるものもあります。

 はたして、太宰治は、本当に首を絞められたのか?

 当時の報道や山崎富栄さんにもスポットをあてながら、考察していきます。

 

太宰の心中報道について

 太宰は、1948年6月13日に失踪し、6日後19日に、山崎富栄さんとの心中遺体が発見されました。失踪から遺体発見までを簡単に時系列にまとめてみます。

○6月6日(日)

朝、いつものように「仕事部屋に行ってくるよ」と言って、気軽に外出。
この日を最後に自宅には帰らず、富栄さんの部屋(太宰は仕事部屋としても使っていた)で過ごす。

 

○6月13日(日)
 午後11時半~翌14日午前4時頃の間

太宰、富栄さんと家出。

 

○6月14日(月)
 
お昼頃

遺書が発見され、2人の捜索活動が開始。

 

○6月15日(火)

空梅雨で6月に入ってから雨が降っていなかったが、この日から降りはじめる。
玉川上水の辺で、小バサミ、富栄さんの家にあったガラスの小皿、青い透明な300㏄のガラスビン、水が入った茶色のビールの小ビンが発見される。
近くには下駄で抉ったような跡が残っていた。

 

○6月19日(土)
 午前6時50分頃

夜中からの雨が激しくなり、明け方には豪雨に。
投身現場から1キロ半下流の川底の杭に引っ掛かっているところを発見される。
太宰の脇の下の位置に紐があり、富栄さんと結ばれていた。
この日は、太宰捜索の最終日の予定だった。

 太宰の奥さん・津島美知子さんは、著者『回想の太宰治』

外出のとき玄関に揃えた駒下駄をそそくさとつっかけて出てゆく前のめりのうしろ姿が目に残る。

と記しています。生前、最後に自宅を後にした時も、太宰はこんな感じで出て行ったのでしょうか。

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 太宰失踪の第一報を報じたのは、連載小説グッド・バイを掲載予定だった朝日新聞の6月15日付朝刊のみ。「太宰治氏家出か」の小さな見出しのベタ記事で、あまり大きな記事ではありませんでした。

太宰治氏家出か

北多摩郡三鷹下連雀作家太宰治氏(本名津島修治)(40)は十三日夜同町内の山崎晴子さん(30)方に美知子夫人と友人にあてた遺書らしいものを残して晴子さんと二人で行方をくらませていることが十四日わかり、同日夫人が三鷹署へ捜索願を出した
 夫人あての遺書には「小説も書けなくなった。人に知られぬところに行ってしまいたい」という意味のことが書いてあると夫人は語った、晴子さんの部屋には二人の写真をならべ線香をたき荷物は片づけてあった
(昭和23年6月15日)

 太宰失踪の第一報では、富栄さんの名前は誤って報道されていました。ちなみに、記事中の年齢は数え年です。

 続けて、翌16日朝日新聞に掲載された続報を見てみましょう。(※判読不明箇所はと表記。)

太宰治氏情死
 玉川上水に投身、相手は戦争未亡人
 ”書けなくなった”と遺書

特異な作風をもって終戦後メキメキと売出した人気作家太宰治氏は昨報のごとく愛人と家出。所轄三鷹署では行方を探していたが前後の模様から付近の玉川上水に入水情死したものと認定。玉川上水を中心に二人の死体を捜索している
家出した北多摩郡三鷹下連雀太宰治氏(四〇)=本名津島修治=および〓人間町下連雀野川内山崎富栄さん=晴子は誤り=の行方につき三鷹署では十五日早朝から捜索を開始した

 

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十四日東京都水道局久我山〓〓に男もの〓コマゲタと女もの〓〓〆めじまの緒のゲタ、各片方が発見されており、十五日朝になって井の頭公園寄りの玉川上水土手で、富栄さんのものと見られる化粧袋を、太宰家出入りの同町三一三元新潮社員林聖子さん(〓)が発見、中には小さいハサミ、青酸カリの入っていたらしい小ビンと水を入れていたらしい大ビンのほか、〓〓とかすに用いたらしい小ザラ一枚が入っており、すぐ傍らの草を踏みしめて土手を下ったあともあり、〓〓のゲタは両名のものと判明したので、上水に投身したものと認定、下流一帯を探しているが、増水のため捜索は困難を極め、午後六時、一たん捜索を打切った

 

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同氏は自宅のほかに鶴巻幸之助方に仕事部屋をもっていたが十日ほど前からはどちらへも姿を見せず、ずうっと愛人の家にいた、同女の部屋はきちんとして整理され、本ダナの上に太宰氏と同女の写真をかざり、線香一束、小さい茶わんに水がそなえてあり、友人伊馬春部にあてた太宰氏自筆「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」(伊藤佐千夫の歌)の色紙がおいてあった

 

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太宰氏と行を共にした山崎富栄さんは滋賀郡八日市八日市市山崎靖弘氏(七〇)の長女で父の経営していた神田の某美容〓〓で修業後しばらく美容師をしていたが、戦争中三井物産社員奥名修一氏と結婚、間もなく夫はマニラで現地徴用となり、同地で戦死した、その後三鷹美容院に勤める傍ら未亡人のさびしさを好きな文学書でなぐさめているうち昨年二月ごろ三鷹駅の屋台店で太宰氏と知合ったもので、最近は太宰氏の原稿の仕事を手伝っていた、同店先の話によると富栄さんは平素おとなしく太宰氏との間に特別の関係があるとは見られなかったという

 

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太宰氏には美知子夫人との間に園子(〓)正樹(〓)里子(〓)の三児があるが昭和八年以来四五回自殺を企てたことがあるといわれる、夫人は気分が悪いと面会をさけているが、同家には朝から豊島輿志雄(とよしまよしお)林芙美子伊馬春部氏ら知人がつめかけている

 

略歴 情死者の太宰治氏は現青森県知事津島文治氏の実弟青森県金木町の農家に生れ、青森中学、弘前高校から東大にすゝみ仏文中退、文筆生活に入り「虚構の彷徨」で文壇にデビュー、戦後は第一線に活躍、昨年発表した「斜陽」はとくに好評だった

 

■絶筆「グッド・バイ

同氏は本紙に掲載予定の長編小説「グッド・バイ」を執筆中だったが第十三回で筆を絶っており夫人あての遺書には「小説がかけなくなった 人の知らぬところへ行ってしまいたい」という意味を記し友人あての一筆には「永居するだけ皆をくるしめこちらもくるしく、かんにんして被下度(くだされたし)、子供は凡人にてもお叱りなさるまじく」とあり 仕事先の鶴巻夫妻にあてた富栄さんと連名のものには「いろいろ迷惑をかけてすまぬ、永い間親切にして下さいました、忘れません」とあった

 

■「悩んでいた」

豊島輿志雄氏談 太宰君は終戦後とくに親しくつき合っていた、富栄さんとも連立ってときどき遊びに来ていた、無口だが飲むとよう話すたちだった、〓〓的になにか事情のあることが直感できたが深くは立入らなかった、最近の心境をよく現している作品は「展望」に一回分だけ発表した「人間失格」だと思う、近ごろは収入は多かったが入れば入るだけ使うので奥さんには迷惑をかけたと思う、とに角、おしい作家をなくして残念だ

 

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■豊島輿志雄(1890~1955) 小説家、翻訳家、仏文学者、児童文学者。晩年の太宰は、豊島を最も尊敬し、富栄を伴って、度々、本郷の豊島の自宅で酒を酌み交わした。太宰の葬儀で、豊島が葬儀委員長を務めている。

 

「富栄の兄がお友達」
母親のぶさんは語る

【大津発】山崎富栄さんの八日市町の実家を訪えば父親は電報をみて上京、留守居の母のぶさん(六八)は語る
 太宰さんとは富栄の兄が学生時代に友達だったというのでとくに親しくなったと聞いています最近は熱海や埼玉県大宮からたびたび便りをよこし、病身の太宰さんの面倒を見てあげたいから師弟の関係を許してくれといって来ましたが父は許していませんでした
(昭和23=1948年6月16日)

 気になるのは「青酸カリ」についての記述ですが、その他については、正確な事実を伝えている記事といえるでしょう。

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 最後に、太宰の遺体が発見された翌日の20日朝日新聞に掲載された記事を見てみましょう。

 太宰氏の情死体発見

【武蔵野発】作家太宰治氏(四〇)と愛人山崎富栄さん(三〇)の二人の死体は投身したと推定される十三日夜から七日目、太宰氏の誕生日に当たる十九日午前六時〓十分ごろ三鷹〓〓〓四十六先玉川上水の新橋下(投身現場から一キロ半下流)の川底の棒クイに抱き合ったままでかゝっているのを通行人が発見、七時三鷹〓署に届けた

 この日早朝死体捜索班は玉川の上水〓を上流で断水、水かさも減じ深さ四尺ぐらいになったところで発見されたもので、互いの脇の下から女の腰紐で離れないように固く結び合い、家での日の姿そのままに太宰治はワイシャツにボタン、山崎さんは黒のツーピース姿だった

死体は十時半まず山崎さん、続いて太宰氏も引揚げられ直ちに火葬に付された

 

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■「太宰だけ熱心な雑誌社で用意された棺に入れられていたが、富栄さんは正午すぎまでムシロをかぶせたまま堤の上におかれ、実父山崎晴弘(七〇)さんが、変りはてたわが子の前にたった一人。忘れられた人のように立っていた」(当時の報道) 合羽を脱いで着せかけ、わが子に傘をさしかける父・晴弘。

 

■あす告別式

太宰治氏と愛人の心中死体は検視の結果入水による水死と断定された、太宰氏の方は二十日夜豊島氏井伏、山中、亀井、古田ら知人が集って通夜ののち二十一日午後一時から下連雀の自宅で告別式が行われるが、山崎さんの葬儀は別に父親晴弘さん、親類知人の手で通夜をしたのち郷里滋賀県八日市町に持ち帰って改めて葬儀が挙行されることになった

 

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■太宰を乗せた霊柩車

(昭和23=1948年6月20日)

 ここまで当時の報道記事を読んで、"太宰が富栄さんに殺された"という書かれ方は、一切されていないのが分かります。

 それでは、当時の報道を踏まえた上で、太宰の心中について、どのような"定説"がつくられていったのかを見ていきたいと思います。

 

捏造された"定説"

 ここからは、長篠康一郎氏の労作『太宰治武蔵野心中』からの引用を中心に、「捏造された"定説"」について見ていきます。

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 まず、他殺説で本家と見なされる大学教授(三枝康高氏)の記述として、著作『太宰治とその生涯』から、以下の部分を引用して紹介しています。

 三鷹署はあえて発表はさし控えたが、太宰の首筋を細紐でしめた絞殺のあとから、かれの死は富栄による他殺であると認定したのである

 なぜ「三鷹署はあえて発表」を「差し控えた」のか、根拠すら示されていませんが、警察の認定として、「絞殺」「富栄による他殺」と断言しています。
 また、同教授は続けて、

おそらく富栄はパビナールを用いて、ふらふらになった太宰を玉川上水の堤へ伴い、かれの首筋を絞めたがすぐには死にきれず、あの世へいっても離すまいと、しごきでふたりの身体を堅くしばりつけたうえで、かねて用意の青酸加里をあおって、水中へずるずると引きずりこんだものと見える。その死に場所を見ると、太宰の下駄で土を深くえぐり取った跡が二条残っていて、いよいよの時、かれが死ぬまいと抵抗したのを偲ぶことができた

と記しています。

 当時、青酸カリを飲んだという噂が広まり、玉川上水は東京都民の水道用水だったことから、「毒物を飲んで飛び込むとは非常識だ」という非難の声があがったため、水道局は水質検査を実施。後日、水からも遺体からも毒物反応は見られなかったため、服毒の事実はなかったと発表されています。

 また、太宰が小説を連載していた雑誌「新潮」の編集者だった野原健一氏は、『矢来町半世紀』で、

投身現場と推定された土堤の上に、遺留品として最初に発見されたのは、この青酸カリの入っていたと思われる空瓶だったのである。私はこの瓶が草ムラの中にあるのを最初に見た一人だった

と記していますが、この記述について、『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』を記した松本侑子氏は、野原氏に「土手の空瓶を見ただけで、なぜ青酸カリだとわかったのか、という点」について質問。
 野原氏は、

「あれは早とちりでした。太宰さんから、富栄が青酸カリをもっていると言われたことが念頭にあって、とっさにそう思ったんです。でも、冷静になって考えれば、根拠はありません」

と、「即答、明言」したそうです。

 また、郷土作家研究家(小野正文氏)は、『太宰治をどう読むか』で、 

この自殺は、当時の現場を検証した田無署によって、他殺と認定された。太宰は最後まで死に抵抗したというのが今日の常識である

と記していますが、なぜか三鷹署が田無署に変わった上で、「今日の常識」になったと記しています。

 「創られた"常識"」は、さらに蔓延します。

 高等学校で採用している国語の教科書(1976年度版「現代国語(三)」)に、次の文章が掲載されました。

 敗戦後、かれは東京に転入したが、結果から云うと無慙な最期をとげるため東京に出て来たようなものであった。彼は女といっしょに上水に身を投げた。

 その死に場所を見ると、彼の下駄で土を深くえぐり取った跡が二条のこっていて、いよいよのとき彼が死ぬまいと抵抗したのを偲ぶことが出来た。その下駄の跡は連日の雨でも一箇月後まで消えないで残っていた。

 『点滴』と題されたこの文章の作者は、太宰の師である井伏鱒二です。

 見て来たように、世間一般に流布され、文壇や国文学界の常識・定説とまで言われた他殺説(無理心中説)ですが、太宰は戦中から戦後にかけて多くの作品を発表し、新進作家として、今後が期待されていたため、「出版の権利やその他の利害関係」、富栄さんへの嫉妬心が入り混じって創られていったのではないでしょうか。
 また、死の直後に人間失格が発売され、心中報道と相まって、さらに太宰文学の人気は高まったため、無理心中説に同調した方が得になると、文学者や編集者を中心に、他殺説が肯定される流れができていったのではないかとも想像されます。

 しかし、富栄さんの遺族にとっては、とてもショッキングな展開であったことは、言うまでもありません。
 文京区関口にある永泉寺に山崎家のお墓がありますが、世間の風体を憚り、当初は富栄さんの名前は彫られていなかったそうです。1961年にお墓を建て直した際、供養のために富栄さんの名前が彫られましたが、没年月日は刻まれていません

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 娘の過ちは永久に償わなければならず、また、死後の娘が鞭打たれることのないようにという計らいからだそうです。 

 事実とは異なり、「バーのマダム」「酒場女」と報道され、罵られた富栄さん。
 続いて、富栄さんはどのような方だったのか、見ていきたいと思います。

 

山崎富栄さんについて

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 山崎富栄さんは、1919年9月24日、東京府東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)に生まれました。お父さんの山崎晴弘さんは、日本最初の美容学校である、東京婦人美髪美容学校(お茶の水美容学校)の設立者でした。
 父・晴弘さんの下で英才教育を受けて育ち、高等女学校を卒業後は、聴講生として慶應義塾大学で学ぶ傍ら、義姉の山崎つたと、銀座2丁目でオリンピア美容院も経営しました。

 1944年12月9日、三井物産社員の奥名修一さんと結婚しますが、12月21日に修一さんは三井物産マニラ支店に単身赴任。直後、マニラへのアメリカ軍上陸を受けて現地召集され、マニラ東方の戦闘に参加したまま、行方不明となりました。
 その後、1945年3月の東京大空襲オリンピア美容院とお茶の水美容学校が焼失してしまったため、滋賀県神崎郡八日市町(現・東近江市)に疎開。この疎開中、マニラからの帰還兵から、奥名戦死の報告を受けました。
 その後、鎌倉市への転居を経て、1946年11月14日に三鷹へ移住しました。お茶の水美容学校の卒業生である塚本サキが経営するミタカ美容院に勤務する傍ら、夜は進駐軍専用キャバレー内の美容室で働いていました。

 太宰との運命の出会いは、1947年3月27日の夜心中の1年3ヶ月前太宰 37歳、富栄さん 27歳。場所は、屋台のうどん屋でした。
 富栄さんは、太宰との思い出を6冊のノートに記しており、死後、『太宰治との愛と死のノート』として刊行されています。このノートから、太宰と出会った日の記述を引用してみます。

 今野さんの紹介で御目にかかる。場所は何と露店のうどんやさん。特殊な、まあ、私達からみれば、やっぱり特殊階級にある人である――作家という。流説にアブノーマルな作家だとおききしていたけれど、"知らざるを知らずとせよ"の流法で御一緒に箸をとる。"貴族だ"と御自分で仰言(おっしゃ)るように上品な風采。

 初めの頃は、御酒気味な先生のお話を笑いながら聞いていたけれども、たび重ねて御話を伺ううちに、表情、動作のなかから真理の呼び声、叫びのようなものを感じて来るようになった。私達はまだ子供だと、つくづく思う。

 先生は、現在の道徳打破の捨石になる覚悟だと仰言(おっしゃ)る。また、キリストだとも仰言る。――「悩み」から何年遠ざかっていただろうか。あのときから続けて勉強し、努力していたら、先生のお話からも、どれほど大切な事柄が学ばれていたかと思うと、悲しい。こうしてお話を伺っていても漠然としか理解できなことは、情けない。

 千草で伺った御言葉に涙した夜から、先生の思想と共になら、あのときあの言葉ではないけれども――「死すとも可なり」という心である。

 聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか、の問いに答えて私は次のように答えた。「機にかなって語る言葉は銀の彫刻物に金の林檎を()めたるが如し」「吾子よ我ら言葉もて相愛することなく、行為と真実とをもてすべし」

 新聞社の青年と、今野さんと私とでお話したとき、情熱的に語る先生と、青年の真剣な御様子と、思想の確固さ。そして道理的なこと。人間としたら、そう在るべき道の数々。何か、私の一番弱いところ、真綿でそっと包んででもおいたものを、鋭利なナイフで切り開かれたような気持ちがして涙ぐんでしまった。

 戦闘、開始!覚悟をしなければならない。私は先生を敬愛する。

 次兄・山崎年一(としかず)さんが、旧制弘前高等学校で太宰の2年先輩だったり、富栄さんの下宿が太宰行きつけの小料理屋・千草の斜め向かいだったことから、太宰と富栄さんは急接近していきます。
 ちなみに、この「戦闘、開始!」のフレーズは、『斜陽』の第六章に引用されています。

 1947年5月3日、新憲法発布の日。

"死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか"
"死ぬ気で、恋愛? 本当は、こうしているのもいけないの……"
"有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ"
"うん、好き。でも、私が先生の奥さんの立場だったら、悩む。でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい……"
"そうでしょう!"
"奥さんや、お子さんに対して、責任を持たなくては、いけませんわ"
"それは持つよ、大丈夫だよ。うちのなんか、とてもしっかりしているんだから"

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 1947年5月21日。

 お別れするときには、一度はあげる覚悟をしておりました。性的の問題というものは、慎みが必要だし、社会生活の全面と絡みあって、真面目に扱われてゆくのが本当だということを御承知のはずなのに。
 至高無二の人から、女として最高の喜びを与えられた私は幸せです。
 Going my way 行け、吾等が道、人生、成りゆきにまかせましょう。自然にまかせましょう。私はもう何時お別れしても悔いない。しかし、できることならば、一生、御一緒に生きていきたいと(ねが)わずにはいられない。

 1947年7月7日、旦那さん・修一さん戦死の公報を受け取りました。

 1947年7月9日。

 悲しいひと二人、千草に泊る。
「太宰さんは私のために死ぬんじゃないってこと、分かりますわ」
「君のために生きてるんですよ。本当ですよ」
「私の方が苦しいわ」
「僕の方が苦しいよ。話すと君が泣くと思うから言わないけど。僕の腕を継いでくれる人のいないのは悲しいね」
「惜しい、太宰さんを死なせるのは、勿体ないわ」
「サッちゃんは、女太宰だね、だから好きなんだ」

 1947年11月12日、太田静子さんが、太宰の娘・治子さんを出産します。このことに、富栄さんは衝撃を受けます。

 1947年11月16日。 

 いろいろのことがありました。
 泣きました。顔がはれるくらい
 泣きました。わびしすぎました。
"サッちゃん、ツラかったかい"
 いいえ、そんなお言葉どころではありませんでした。もう、死のうかと思いました。
 苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられていくみたいでした。ほんとうは、ほんとうは泣くまい、泣くまいと頑張っていたのです。涙を出さないようにと、机の上を拭いてみたり、立ってみたり、縫物を広げてみたり、ほんとうは、そっとして、ふれないでいてほしかったのです。

 (中略)

"僕達二人は、いい恋人になろうね。死ぬときは、いっしょ、よ。連れていくよ"
"お前に僕の子を産んでもらいたいなあ――"
"修治さん、私達は死ぬのね"
"子供を産みたい"
"やっぱり、私は敗け"
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたいくらいのくやしさで、涙が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に――。)

 富栄さんは、肺結核で健康状態が悪い太宰のために、看護婦役として献身的に付き添い、約20万円の貯金を、太宰の飲食費や薬品代、訪問客の接待費などに使い果たしていました。
 当時、結核は伝染すると考えられていたため、富栄さんが部屋を借りていた野川家の同居人一同から、

一、ゴミ溜に棄てたちり紙の件
一、御不浄の消毒の件
一、洗濯を井戸端でしてほしい件

 (1948年1月31日付ノートより) 

以上の3点について、しっかり気を付けて欲しい旨の注意を受けます。

 喀血した際に、血痰が詰まって苦しんでいる太宰の血痰を自ら吸い出した、というエピソードも残っています。

 1948年5月26日、27日と、富栄さんは「どうしても子供を産みたい。欲しい。きっと産んでみせる。貴方と私の子供を。」「わたしにも赤ちゃんくださいね。」と記しています。
 こんなにも、太宰に生きて欲しい、赤ちゃんが欲しいと望んでいる富栄さんが、太宰の首を絞めて殺すことができるでしょうか? 

 

太宰、心中の原因

  太宰は、その39年間の生涯の中で、4度の自殺未遂を経験しています。

【1回目】
 1929年12月10日。20歳。

下宿でカルモチンを嚥下し、翌日夕方まで昏睡状態に。
『地主一代』第一回分を執筆後、第二学期試験がはじまる前夜のことだった。

 

【2回目】
 1930年11月28日。21歳。

銀座のバーホリウッドの女給・田部あつみさんと鎌倉で心中未遂。あつみさんは亡くなり、太宰だけが生き残る。
最初の妻、小山初代さんとの結婚に起因し、実家である津島家から分家除籍された直後だった。

 

【3回目】
 1935年3月16日。25歳。

鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂。
東京帝国大学を落第、都新聞社の採用試験を受け失敗した直後だった。

 

【4回目】
 1937年3月20日。27歳。

前年、パビナール中毒療養のため、武蔵野病院に入院していた際、初代さんが親戚の小舘善四郎と間違いを起こしてしまったことに起因。谷川岳山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが、失敗。

 

 1939年、美知子さんとの結婚してから自殺未遂は途絶えましたが、事あるごとに太宰は自殺未遂を繰り返していました。
 「自殺」は、太宰の処世術だったのかもしれません。

 それでは、1948年6月13日、太宰が心中を思い立った原因は、何だったのでしょう。

 私は、117,700円という高額の所得税納付通知が来たことが原因だったのではないか、と考えています。

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所得税納付通知

 太宰は、得た原稿料を酒代と煙草代で浪費してしまっており、税金を納められるだけの現金を持っていませんでした。
 太宰は、自分では出頭せず、税務署との交渉を美知子さんに一任しました。美知子さんも初めての経験で要領を得ず、所得税減税の「審査請求書」を提出したり、1歳2ヶ月の次女・里子さんを背負って、武蔵野税務署や千代田区国税局に通ったりしました。

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■審査請求書

 美知子さんが所得税減税の「審査請求書」を提出した2ヶ月後の6月2日、国税局の係員が太宰を訪ね、三鷹まで話し合いに来ています。申告通り税金が減税されたのか、美知子さんは聞いていません。
 おそらく太宰は、国税局の係員が言う通りのことを、そのまま受け入れたのではないでしょうか。しかし、太宰の手許に納税資金はありません。
 富栄さんのノートにも、太宰の所得税についての記述はありません。進退極まってしまった太宰は、富栄さんに軽い気持ちで「僕と心中してみないか」と声を掛けたのではないでしょうか。
 しかし、肺結核の病状が日に日に悪化し、苦しんでいる太宰を見続けていた富栄さんは、それを太宰の冗談とは受け取れなかった。
 これが、事の真相ではないかと思います。

 

絞殺の跡は本当にあったか

 そして、いよいよ今回の記事の核心。
 太宰は、富栄さんに首を絞めて殺されたのか?という部分です。

 答えは"否"です。これほどまでに太宰のことを想っていた富栄さんが、太宰を絞め殺すとは考えにくいと思います。
 しかし、太宰の首についていたという「首を絞めた跡」とは、どこから出て来たのか。
 太宰の娘である太田治子さんが、自身の父・太宰と母・太田静子さんについて書いた著作 『明るい方へ』、以下のような記述があります。

 昭和十九年の一月下曽我の庭の池の前に(筆者中・太宰と太田静子が)二人して腰かけている時、
「その首の跡は、どうしたの?」
 彼女は静かな声で聞いてきた。鎌倉の山の中で首を吊ろうとして失敗してできた赤いアザだった。
 太宰は、うつむいていた。むしろ嬉しかったのだと思う。人はそのアザに気付きながら、わざと何もいわなかった。

 これは、3回目の縊死未遂の際、首に残った跡のことです。

 この首の跡については、太宰と同い年の友人女性である秋田富子さんも話していたと言います。
 森まゆみ『聖子ー新宿のBAR「風紋」の女主人』には、富子さんの娘・林聖子さんの回想として、次のように書かれています。

「母の直感は恐ろしいほど当たるんです。二度やる人は三度やる。母が言ってたけど、太宰さんはお酒を飲むと首のところに赤い筋が出るって」

 この首のアザが本当だとすると、太宰の親友たちは見慣れているため、あえて気に留めなかったが、三鷹署は検死の際に「首に赤いアザあり」と判断。それを伝え聞いた文壇関係者がその事実を利用した、とは考えられないでしょうか。 

 

さいごに

 以上が、太宰の玉川心中に関する、私の現在の考えです。
 思えば、太宰だけではなく、富栄さんについても色々と文献を探して読み始めたのは、7年ほど前に、三鷹太宰治文学サロン」を訪問した時でした。

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太宰治文学サロン

 文学サロン在中のボランティアの方と、太宰について意見交換をしている中で、「あなたは山崎富栄さんについて、どう考えていますか?」と質問されました。その時は、富栄さんについてあまり知らず、口を濁してしまいました。
 それ以降、富栄さん含め、太宰にゆかりのあった女性についての文献も漁りはじめました。太宰について書かれた本は多数出版されているのに、取り巻く女性については、ほとんど書かれていない、というのが印象でした。
 特に、富栄さんは、太宰の死後、主に文壇から口撃され、"太宰を(たぶら)かした女性"というレッテルを貼られてしまいました。文中でも触れましたが、そのことによって遺族が受けた精神的苦痛は、想像できません。

 今回の記事は、多少は理解を深め、あの時答えられなかった質問への、自分なりの1つの答えを提示できたのではないか、と考えています。
 また、今回の記事が、故人の名誉回復の一助となれば、幸いです。

 

心中前後について、詳しく知りたい方へ

1948年(昭和23年)6月6日。妻の美知子へ、「行ってくるよ」と言って家を出た太宰。これ以降、太宰が自宅に帰ることはありませんでした。あまり知られていない貴重な証言も紹介しています。

1948年(昭和23年)6月12日。太宰が、愛人・山崎富栄と心中する前日のこと。本記事では紹介しなかった、大宮を訪問したエピソードを紹介しています。

1948年(昭和23年)6月13日。直前まで太宰と飲んでいたという人の証言も引用しながら、新たな切り口で、太宰と富栄が入水した日に迫ります。

1948年(昭和23年)6月14日。太宰の命日。富栄の部屋には、2人の遺書が残されていました。

1948年(昭和23年)6月15日、太宰と富栄の失踪が明らかになった翌日の初報から、6月20日、遺体発見までの朝日新聞報道で、当時の様子を追っていきます。

  【了】

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【参考および引用文献】

長篠康一郎『太宰治武蔵野心中』(広論社、1982年)
長篠康一郎『太宰治文学アルバム-女性篇-』(広論社、1982年)
山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
山崎富栄『太宰治との愛と死のノート』(女性文庫、1995年)
檀一雄小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
梶原悌子『玉川上水情死行』(作品社、2002年)
津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫2008年)
松本侑子恋の蛍―山崎富栄と太宰治』(光文社文庫、2012年
太田治子明るい方へ』(朝日文庫、2012年)
山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
朝日新聞朝日新聞が報じた太宰治』(朝日新聞デジタルSELECT、2017年)
井伏鱒二太宰治』(中公文庫、2018年)
公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団『太宰治 三鷹とともに -太宰治没後70年-』(2018年)
森まゆみ聖子ー新宿のBAR「風紋」の女主人』(亜紀書房、2021年)
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