記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月30日

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12月30日の太宰治

  1947年(昭和22年)12月30日。
 太宰治 38歳。

 十二月三十日に書かれた、山崎富栄の日記。

山崎富栄「女一人」

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)12月30日に書いた日記を紹介します。
 太宰と富栄が同年3月27日に初めて出逢って、約9ヶ月。太宰と富栄が玉川上水で心中するまで、約6ヶ月。富栄、最後の年の暮れに書いた日記です。

 十二月三十日

 キントンを、
「ええ、その位」と言って計ってもらったら七十円。オドロク。

 島木健作――女一人――
 小説家はつねに美しく真実なものに心惹かれ、そうしたものをあらゆる世界にたずね求めている。
 世には醜悪なものを底の底からあばいて見せることを仕事にしているかに見えるような作家もある。しかし彼等は、実は世の最も美しいものを強く生かしたいがためにそうであるに過ぎないのだ。

 哀れなもの、みじめなもの、悲しいもの、弱いものが、ただそうであるというそれだけの理由で、私の作家的欲望を刺激するわけでない。そういう哀れさや、みじめさのなかに見い出される美しさや真実が、私にはこよないものに思われるからだ。負けないでそこから伸びてゆく力を見ることはなんという感動であろう。

 女が一人で生きていかねばならぬということは、その生活様式のいかんにかかわらず、決して普通の意味で幸福といわれるべきものではない。物質的に恵まれ、はた眼には幸福であるようにみえても、その幸福は世間一般に言われるものとは異なった性質であり、ことにその本人自身の内面に立ち入ってみたならば、(およ)そ満ち足りた豊かな状態からは遠く、寒峻なものがあるだろう。
 社会は、この最も弱いものを同情するよりは、しばしば一種の白眼(はくがん)()ってみる。
 世間は決して素直に、ただ感心しようとはしない。
 ただなんとなくさげすんでみるだけである。
 しかしこの白眼やさげすみに傲然(ごうぜん)と対していられるのだったら、見るものの感じも違ってくる。
 自分でも女一人から脱け出そうとしていじらしいまでに焦燥(しょうそう)している姿に、そうしてまた女一人の生活の空虚さと戦っているうちに、彼女自身の人間が(そこな)われ、傷を負うていくところにいたましさはある。
 今日の社会は、このようないたましい存在を益々ふやしていくばかりである。

 女一人の生活者のなかには、周囲の力にジリジリと()されて、女一人を強いられているものばかりではなく、求めるものが強く正しくて、今日の社会での女の真の生活というものを強く求めて他と妥協できなくて、遂に女一人でいる人も少なくはない。
 性格のどこかにひずみができている。
 知的なもの、抽象的なものへの愛に酔うというようなことのできるものは少ない。

 女一人は、孤独な生活者は、愛の対象を手ぢかには持たぬ。いつでも欲するときにとらえて抱擁(ほうよう)し得る形あるものとしては持たぬ。しかし孤独なものは愛し得ないか。いや孤独なものこそ最も強く深く愛し得るだろう。ただ彼女等が孤独なままに深い愛の生活を営み得るためには、彼女等の愛の対象を求める領域は、普通のにぎやかな生活者のそれよりも高められ、広げられなければならぬ。女一人の生活のあるものは、それを目がけての不断の闘いなのである。

 昨日の生活は今日の生活のなかに生きており、明日の生活もまた今日の生活のなかに(はら)まれている。生活の基点はつねに今日にある。

 振り返ってみていつの日の生活をとってみても、それは今日の生活のためであったという自覚があり、無駄ではなかったと言い得るのでなければならないであろう。
「女一人」は女一人であることをいとおしみ、愛さねばならぬ。    十二月三十日

 

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■山崎富栄

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月29日

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12月29日の太宰治

  1936年(昭和11年)12月29日。
 太宰治 27歳。

 井伏鱒二佐藤春夫から「五十円拝借」。

熱海事件(付け馬事件)②

 今日は、「熱海事件」”付け馬事件”とも)について、前・後編の2回に分けて紹介する<後編>です。

 1936年(昭和11年)12月下旬。太宰は、親友・檀一雄を人質として、熱海・村上旅館に残し、檀君菊池寛の処に行ってくる」と言って、単身金策のために帰京しました。
 早速、太宰は永井龍男に会って、菊池寛への借金を申し込みましたが、永井は取り合わなかったそうです。

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永井龍男(1904~1990) 小説家、随筆家、編集者。菊池寛が創設した文藝春秋社に就職。1935年(昭和10年)1月に創設された芥川賞直木賞の常任理事として、3年間両賞の事務を取った。

 途方に暮れた太宰は、師匠・井伏鱒二のもとへ向かいました。太宰が熱海で滞在した先は、井伏の知り合いの小料理屋の紹介でしたが、小料理屋の主人は呑兵衛だったため、井伏は女将さんに手紙を書き、「決して親爺さんに太宰を引合せてくれるな」と頼んでいたそうです。
 この時の様子を、井伏の太宰 治に所収の『十年前頃』から引用します。

 十二月二十八日
 太宰、突如として来訪。きょう熱海から帰ったと云う。いっしょに将棋をさしているところへ、園君(著者注:檀一雄)、熱海の料理屋の主人を連れ、太宰の行方を求めて来る。園君、いきなり太宰を怒鳴りつける。太宰は園を熱海の宿に残し置き、すでに数日前に帰京していたとのことである。小生、(ようや)く事情に気がついた。(ただし)、園君は太宰の仮寓(かぐう)さきに太宰を訪ね行き、しばらく逗留(とうりゅう)しているうちに、置いてけぼりを喰わされたという次第である。太宰、大いに閉口頓首(とんしゅ)の様子、まことに気の毒とも何とも云いがたし。
 熱海の料理屋(大吉)の主人は、太宰への立替金百円内外を請求に来たのである。太宰は勿論のこと、小生にも持ちあわせなし。(すなわ)ち、小生の正月用の着物を質に入れ十円を得、初代さんの正月用の着物を質入、二十円を得、三十五円也を熱海の料亭主人に渡す。料亭主人、これでは足りないと云う。前もって(おかみさんに)、酒をすすめてくれるなと頼んだ甲斐もない。太宰をそそのかして遊びに連れ出したものに違いない。この料理屋の主人はおかみさんには頭があがらないが、外に出て酔うと全く始末が悪い。太宰のことは、おかみさんに紹介したのにかかわらず、亭主、嗅ぎつけたものに相違ない。勝手にしろと云いたいが、うっちゃっておけるものでもない。
 そこで園君と共に佐藤春夫氏を訪ね、園君は彼の宿料三十円を佐藤氏より拝借。小生は明日拝借できる約束を得る。深更三時ころ辞去。
 十二月二十九日
 佐藤氏より五十円拝借。
 (追記ーこの金は、三好達治が大阪の母堂から結婚のお祝に貰った金の一部だという。年末のこととて余儀なく佐藤さんが三好に事情を云って又貸しされたものである。)

 

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佐藤春夫

 

 十二月三十日
 園君と共に熱海に行き、太宰の宿の払いをすませ、料理屋の借りを払う。金すこし不足なり。主人、大いに不平を鳴らす。我慢しろとなだめるに、困った困ったと愚痴を云う。そこで小生すこし気を荒くして、しからばお前さんの細君をここに出せ、云ってきかせることがあると云う。おやじ(たちま)ち閉口して、それは私んちで家庭争議を起すだけのものであるから、勘弁して下さいと云う。
 この主人、太宰をそそのかして芸者を数多呼び集め、太宰の持ち金を消費させ、その上の太宰の借金とはこの遊興費にほかならぬ。それを追求すると、その通りだと云う。
 この主人、かつて女房を浅草の小屋ものに奪われたとき泣きついて来て、小生の知人と小生の口ききで元の枝におさまった。銀座裏に店を持つときにも小生の知人の世話で首尾をつけた。かれこれ云えぬ義理もある筈だ。「我慢しろ、我慢しろ」となだめるに、おやじ遂に折れて出た。太宰の出世払いということにして帰京する。

 

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井伏鱒二

 これが、井伏から見た「熱海事件」の顛末です。 

 一方、檀も小説 太宰治「熱海事件」の顛末を記しています。太宰の上京直後からの引用です。

 一日。二日。太宰は帰って来なかった。私は宿の下駄を借り、埋立の突堤の所を毎日歩いていた。そこまでが許された、行動半径のようである。宿屋のおやじの視線がはずれないのである。
 暗鬱な海だった。波がよろめき立っていた。廻し車の釣り糸を垂れた投釣の釣人が、大勢風の早い冬の海に釣っていた。
 大きいチヌが一匹釣れていた事を覚えている。たぐり上げたテグスの先に糸を張った黒鯛が、左右に泳ぎ狂いながら、少しずつ、少しずつ、遂に、釣人の手の中にひきしぼられていった事を覚えている。それが、手タブにすくい取られ、網の目の中にバタバタとくねっていた事も覚えている。
 三日目に、宿の部屋へ双葉が来た。太宰の思い遣りだろう。私は布団の中に引き入れると、妙にバタつく女を抱きしめていた。
 あくる日も来た。その翌日も来た。
 私はようやく、太宰が帰らないな、と気がついた。いや、帰れないのだと気がついた。すると、どうして現在の窮況を打開し得るのかと狂おしかった。もう突堤への散歩もできなくなっていた。宿の主人が顔を出すのである。それでも食事は二度だけは確実に運ばれた。双葉は時にやってきて、あきらめたように、床の中にもぐり込んだ。
 「先生、まあだ?」
 「ああ」と、私は女の肌を探り取った。脂肪層の柔らかく厚い女だった。五尺にも足りないか? あちらの家ではそうは思わなかったが、宿に来てみると矮小な見すぼらしい女だった。全体の筋肉が、平らな朝鮮飴のふうである。その朝鮮飴の全体に、情味が満遍なくふわりと、散らばっているようだった。
 私はもどかしかった。私は今、集中された愛と、献身と爆発が、欲しかった。打てば響くような心が欲しいと、もどかしいのである。そのもどかしい滑らかな皮膚を、なでさするだけだった。

 

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檀一雄

 

 幾日目だったろう。十日のように長かった気もするし、五日目位だったような気持もする。目玉の松がやって来た。
 「檀さん。このままじゃどうにもなりませんよ」
 そうだ、どうにもならない、と情なかった。
 「行ってみましょうや、太宰さんの処に」
 かりに太宰を見付け出したところで、どうなろう。益々、みじめになるばかりだとは思ったが、しかし、他に解決の法がない。ゆけば何かの窮策が生れるかも知れない、と私も思った。
 「ここは、いいの?」
 階下の宿のあるじの方を、私はちょっと指差した。
 「ああ、ようがすとも。見つけにゆくんだから、仕方がないでしょう」
 「じゃ、ゆこう」
 「すぐにゆきますか?」
 「すぐにゆく」
 「何処を見つけたらいいでしょうなあ」
 「井伏さんのとこさ」と、私は言下に答えた。あそこに太宰も一度は顔を出しているに違いない。いないにせよ、何かの手掛かりはあるだろう。
 みじめな旅だった。罪は太宰だけではない。私が悪いのだ。木乃伊(ミイラ)取りが、木乃伊になったどころではない。初代さんにも誰にも会わせる、顔がないではないかと、気が滅入った。
 思えば熱い海だった。そこに焼きつくされて、醜体の残骸を運んでゆく。おまけに、馬をまで連れて――。
 荻窪の駅を降り、清水町に出掛けていった。
 「御免下さい。太宰を、御存知ありませんでしょうか?」
 「ああ、見えてますよ」
 「います?」と自分でも厭な声だった。
 「檀さん、ですよ」と奥さんが座敷の方に声をかけられた。
 「ああ、檀君
 太宰の狼狽の声が聞えてくる。私は障子を開け放った。
 「何だ、君。あんまりじゃないか」と、私は激怒した。いや、激怒しなければならない、その場の打算が強くきた。
 太宰は井伏さんと、将棋をさしていた。そのまま、私の怒声に、パラパラと駒を盤上に崩してしまうのである。
 指先は細かに震えていた。血の気が失せてしまった顔だった。オロオロと声も何も出ないようである。
 「どうしたんだい? 檀君、怒鳴りこんで来たりして」
 と、井伏さんは怪訝な顔で私を見た。目玉の松が、得たりというふうに、今までの事情を早口に喋っている。井伏さんは、ようやく納得されたようであった。目玉の松をなだめたり、すかしたりした末に、
 「とにかく、明日は出来るだけの事をして、檀君と熱海にゆくから、ひとまず引き揚げてくれないか」
 目玉の松は、しぶしぶと引き揚げた。たしか総額で、三百円足らずの借金だったように覚えている。宿の払い、居酒屋の払い、それに遊女屋の立替金のようだった。目玉の松は井伏さんの手の中に、何十枚もの酒や、女の勘定書を預けていった。私は冷汗ものだった。
 やや、平静を取り戻した後だったろう。ちょうど井伏さんが立たれた留守を見て、太宰は私に低く言った。
 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」
 この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響を持っていたことを今でもはっきりと覚えている。

 

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 その日であったか、その翌日であったか忘れたが、私は井伏さんに伴われて、関口台町の佐藤春夫先生宅をお訪ねした。御夫妻とも在宅のようだった。事が事だけにあの時の私は、冷汗三斗、穴あらば這入りたい、すべての言葉よりも深刻だった。
 井伏さんの説明を聞きながら、佐藤先生は、不快な事だが、見逃しも出来ぬといったふうに、いちいち(うなず)かれたのである。
 井伏さんは時折、例の、女の勘定書きを膝の上にパラパラとめくりながら、先生と、私の顔を交互に見られた。
 もう生涯、あのような恥ずかしい目に会わずに済めば幸わせである。私は「丹下氏邸」を読み返すたびに、あの日の井伏さんの、膝の上に積まれていた、女の、(おびただ)しい勘定書を思い起すならわしだ。
 佐藤先生からは、私の宿代として三十円、太宰の分としてたしか六十円、残余は井伏さんが御自分の物や初代さんの衣類などを質入して、まかなって下さった。その足で、すぐに井伏さんと二人、熱海に急いでいった。
 寒い日だった。滅法情なかった。私はあの日に井伏さんが、履いておられた日和下駄を、今でもはっきりと覚えている。(まさ)の正しく通った、足の幅ときっちりの細い日和下駄だった。それを気ぜわしくカチカチと踏みながら、熱海のコンクリ道を海沿いに歩いてゆかれた。
 宿の払いを済ませ、目玉の松のところは、やや足りなかったが、井伏さんの折衝で、ようやく納得したようだった。
 ()として、井伏さんに伴われて這入った、大きな共同浴場の、丸いセメントの浴槽の事を覚えている。温泉の中に、ポッカリ浮んで、目をパチパチさせながら、しきりに首の廻りに、手拭を使っておられた、井伏さんの顔を思い出す。

 

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井伏鱒二


 「なーに、あの男は僕に大きな口をきけた義理じゃないんだよ」
 井伏さんはそう云って広い浴槽の中を浮び歩きながら、また首のところに。チャプチャプとタオルを、もってゆかれるようだった。
 私は後日、「走れメロス」という太宰の(すぐ)れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた。あれを読むたびに、文学に携わるはしくれの身の幸福を思うわけである。憤怒も、悔恨も、汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆するならわしだ。
 「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」
 と、太宰の声が、低く私の耳にいつまでも響いてくる。

  これが、檀から見た「熱海事件」の顛末です。この「熱海事件」は、別名「付け馬事件」とも呼ばれます。「付け馬」とは、遊興費が不足したり、払えなかったりした者について行き、その者の家まで代金を取りに行く人のことを言います。

 檀は回想の最後で「『走れメロス』という太宰の(すぐ)れた作品を読んで、おそらく私達の熱海行が、少くもその重要な心情の発端になっていはしないかと考えた」と、「熱海事件」が太宰の短篇走れメロスにインスピレーションを与えたのではないかと言及しています。
 走れメロスの末尾には、「古伝説とシルレルの詩から」と記されており、古代ギリシャの伝承とドイツの詩人であるフリードリヒ・フォン・シラーシルレル)の『人質』を基に創作されています。
 しかし、檀の言う通り、走れメロス執筆中の太宰の脳裏には、「熱海事件」の思い出が浮かんでいたかもしれません。走れメロスは、この事件の4年後、1940年(昭和15年)5月に「新潮」五月号に発表されました。

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■デイモンとピシアス 走れメロスの基になった伝承。西洋では「固い友情で結ばれた親友」を意味する慣用句として使われ、「メロスとセリヌンティウス」よりも、「デイモンとピシアス」という呼称の方が有名。

 【了】

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【参考文献】
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月28日

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12月28日の太宰治

  1936年(昭和11年)12月28日。
 太宰治 27歳。

 十二月下旬、檀一雄が、初代の依頼によって金を届けに訪れたが、支払いをせず、二人で遊び、金を使い果たして、借銭をした。

熱海事件(付け馬事件)①

 今日は、「熱海事件」”付け馬事件”とも)について、前・後編の2回に分けて紹介する<前編>です。

 1936年(昭和11年)。太宰は、11月25日から熱海温泉へ行き、馬場下の八百松八島館)に滞在し、「文藝春秋」に持ち込んであった二十世紀旗手の改稿に着手しました。
 4日後の11月29日、二十世紀旗手39枚を脱稿。掲載予定の改造社に送付しました。また同日、太宰は朱麟堂太宰の俳号)の署名で、義弟・小舘善四郎に宛てて、

かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思うよ。
 一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「傷心。」
 川沿いの路をのぼれば
  赤き橋、また ゆきゆけば
   人の家かな。

というHUMAN LOSTの一節を引用したハガキを投函しています。このハガキを受け取り、勘違いした小舘が起こした行動により、小舘と太宰の妻・小山初代の「秘め事」が露見することになりました。

 同年12月7日、太宰は熱海海岸通りの村上旅館に宿を移します。
 そして、同年12月下旬。太宰の友人・檀一雄の本郷の下宿へ、太宰の妻・小山初代が訪れます。この時の様子を、檀の小説 太宰治から引用します。

  井伏さんの覚え書きによると、昭和十一年の十二月という事になっている。本郷の私の下宿に思いがけぬ、女の来訪者がやってきた。
 誰かと思って、出てみると、初代さんだった。
 「ああ、奥さんか、津島君どうかしたんですか?」
 「いいえ、ちょっとお願いがあるのよ」
 と、初代さんは穏和にほお笑むようだから、
 「よかったら、どうぞ」
 「じゃ、ちょっと」
 と初代さんは素直に私の部屋に上ってきた。

 

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■小山初代

 

 「お願いって?」
 「あのね、津島が熱海に仕事をしにいっていますの。お金がないといって来ましたから、やっとこれだけ作ったのよ。檀さん、すみませんけど、持っていって下さらない?そうして早く連れて帰って来て下さいね」
 私は金を持っていなかった。
 「旅費がないけど」
 「ええ、この中から使っといて下さらない」
 「いいですか?」
 「ええ」と、初代さんは(うなず)いた。
  私は嬉しかった。久し振りに太宰に会えるばかりか、今夜は熱海に一泊だ。私は何処へゆくのにも、久留米絣(くるめがすり)の着流しで出掛けるならわしだったから、タオル一本手にすると、初代さんについて出た。
 「じゃ、行ってきます」
 「お願いしますね。さようなら」
 と、そのまま別れた。宿屋の所在だけをきいていた。

  檀は、同年8月から10月末まで満州旅行へ行っていたため、太宰との久し振りの再会に胸を躍らせながら、熱海へと向かいました。

 その小さい、太宰の宿は難なくわかった。
 女中に取り次ぐと、間もなく、太宰が如才なく降りて来た。嬉しいようだった。  
 「ああ、檀君
 何処かへ出掛けるところなかのか、ラクダの上等のモジリを着込んでいた。
 「奥さんから、金をことづかって来たんだよ」
 「そう、まあ、あがれよ」
 と、太宰は先に立って階段を上っていった。

 

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■旧村上旅館 現在は「村上たばこ店」。現在は海側に建物が建ち、海を見ることはできません。旅館の前に立つ松は昔のままで、「太宰の松」と呼ばれているそうです。


 海の見える部屋だった。海の反対側のところにもう一間あり、そこへ机を置き、その上に例の通り、朱線の原稿用紙の中央にきっちりと古びた万年筆がのせられていた。しかし、何も書かれている様子はない。それを太宰は急いで二つに折り、押入れの中に隠し込んだ。
 「ここ、書ける」
 「ああ」
 と、太宰は否定も肯定もしない曖昧な顔だった。船橋の頃に較べるといくらか太っているようだ。しかし、私のは安堵のゆかない、あの二重性格の両極が誇張されて交互に激しく交替した。例の通り急がしく煙草をパッパッとけぶしては、机の皿にひねりつぶしていたが、
 「ここはね、橘外男(たちばなそとお)がよく来るのだそうだ。叶わぬ。日に三十枚書きとばすんだそうだから、驚いたよ。何をそんなに書く事があるのかね、え」
 嘲笑のような声だった。しかし笑いながら素早く泣声の風情に変る。それが、捗らぬ自分の仕事への自虐の声のようにかすれてゆく。
 「お金、ほら。奥さんから預った。すぐ引き上げてきてくれって」
 と、ふところの中から状袋入りの七十何円を取り出した。
 「ああ、ありがとう」と、太宰はいつもの通りよそよそしくその状袋を手に取って、喜びとも、不安ともつかぬ顔をした。
 「行こうか?」
 「どこへ?」
 「すぐそこだ」
 私は論なく、太宰の後から続くのである。雨上がりの空模様だった。
 太宰は宿を出る時に、女持ちの蛇の目傘を携えた。
 「返すんでね」
 と、太宰は私の不審貌に答える風に呟いたが、その蛇の目の上には、「葉子」と女名前が白エナメルで記されてあった。私はこの葉子という文字を今でもはっきりと覚えている。その葉子が果して芸者であったか、それとも、後に書く居酒屋の女将であったかは、はっきりとしない。この傘の返し先を、私もきっとたしかめていたはずなのに、今どうしても思い起せないのは不思議である。
 私達は海ぎしをゆっくり歩き、橋を越えると小川に沿って、小道を上っていった。両岸の温泉の捨て湯が、川の中に白い湯気を上げているのは妙に旅情をそそる風物だ。川の上に小さいバラック作りの小料理屋が建っていた。見たところ軒並みに芸者屋か遊女屋が並んでいる真中のようである。
 「ちょっと寄ろうか」
 太宰はそう云って、その小料理屋の簾を開けた。
 「いらっしゃい、早いですね先生。お客様はどちらからで?」
 と、ひどい斜視の青年が私達を見上げた。
 「ああ、東京だ。おやじ、どうした?」
 「ちょっと帰ってます。呼びますか?」
 「ああ、呼んで来てくれない?」
 「じゃ、すぐ」と、青年は走り出した。
 太宰はいかにも来慣れた家のように二畳敷きの畳の方に腰をおろして、
 「飲まないか?」
 チロリの酒を私の前のコップに自分でついだ。
 「君は?」と、云うと、
 「いや、いいんだ。歯が痛くってねえ」
 と、太宰はサイダーを開けて飲んでいる。今考えると、この時までは少くとも太宰は無事に東京に帰りたく思っていたにちがいない。
 やがて、尾上松之助(おのえまつのすけ)によく似た男が這入ってきた。どうやら店の亭主のようである。目も眉も濃くて太く、身を持ち崩した男のふうだった。男は、ジロリと私を一瞥(いちべつ)した。

 

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尾上松之助(おのえまつのすけ)(1875~1926) 歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村鶴三(かくぞう)。日本映画草創期に活躍した時代劇スターで、日本初の映画スターといわれる。

 

 「東京の友人でね、檀という男だよ」
 「よろしくどうぞ」
 と男は私の方に挨拶をして、それから太宰の方に向き直ると、
 「届きましたかね?」
 男の下卑た口付きから考えると、金のことを云っているにちがいない。太宰は何とも答えなかった。ただ、ふところから『改造』の新年号をするりと出し、親爺の前に投げやった。
 「ああ、先生の。へえー。出ましたね」と、親爺はその『改造』をめくっていたが、私も実は未だ『改造』を見ていなかった。
 「出たの?」
 太宰は(うなず)いている。
 私は親爺達の「先生」と云う言葉がひどく気になった。少くも船橋にいた頃までは、どんな後輩から話しかけられても、「先生は、よせ」と、てれ臭さげに断っていたものだった。こんな居酒屋風情の親爺達からは、もちろん「先生」と呼ばれて差支えないものの、平常の太宰らしくなく、唐突な感じが、湧いた事を覚えている。
 「親爺。てんぷらを喰いにゆかないか?」
 「どこへだね、先生」
 「碧魚荘だ」
 「お供しましょう」
 「行かないか? 檀君
 「ああ」と、私は肯いた。
 「先生、〇ちゃん、随分待ってましたぜ」
 「ほんとかねえ。不思議だねえ」
 と、これは芸者か、遊女の事をでも云うようだった。
 それから太宰は、その話のつづきだろう、しきりに可笑しそうに亭主と、談笑しながら、三人は海岸の道を上っていった。トンネルを越えると例の「ちょっと待て」の木札が立っている、断崖の淵である。碧魚荘はその手前の海ぎしの上に建っていた。太宰は前に来たことでもあるのか、つかつかと這入り込んで、真下に海の見下ろせる、料理場の中に歩いていった。調理場は、ちょうどバーの風に囲われていて、即席のてんぷらが揚げられるようだった。高級の小料理屋風である。

 

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■緑風閣 「碧魚荘」と書いてあるのは「緑風閣」のこと。写真左のビルが、現在の緑風閣。

 

 「いいのかい?」
 と、椅子にかけた折に、私は不安になって、こう云うと、太宰は、
 「ああ」と(うなず)いた。倹約の忠義だてでもあるまいと思ったが、それでも私なぞついぞ這入り慣れないほどの高級料理屋で、何か、不安だった。
 「檀さん。ここのてんぷらはね、みんなたね(、、)は下の生簀(いけす)から抜いてくるんだからね」と、目玉の松が私に教えてくれた。
 油が煮立っている。煙があがって、シューンと次々とてんぷらが放り込まれていった。やがて油鍋のペンチレーターが旋回し始めた。
 「何です? あれ」
 「けむ抜きでさあ」
 アト・ホームの感じが全くしない。旅先では、よくキャメル等吸う、贅沢好みの太宰はよく知っているものの、しかし私と太宰と二人きりの時は、大抵浅草か玉の井辺りの、大工や日傭人足(ひやといにんそく)達がひっかける安食堂を、梯子して廻るのが常だった。

 

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 酒が出されている。飲む。太宰は「歯痛だ」といっていた癖に、いつも通りの豪酒降りを発揮しはじめている。最後に海苔がチリチリと上げられて、
 「いくら? お勘定」と、太宰が云うと、
 「へえ、有難うございます。二十八円七十銭」
 やっぱり、と私はさっと青ざめたが、さすがに太宰の血の気も失せてゆくようだった。しかし、一度断崖をすべり落ちてしまうと、太宰も私も、居直るたちだ。もう太宰のふところは、五十円未満しか残っていない。目玉の松の所の支払いや、それから道に話し合っていた模様から察すると、芸者屋か遊女屋の支払いも、かなり溜っているに相違ない。それに、宿泊料を合せると、到底太宰のふところでは、済まぬことだと観念した。
 遠いところは時雨(しぐれ)てでもいるのだろう。海上に暗い雲が密着して、波は白くめくれ立っていた。暮れてゆく。
 私達は坂道をどんどん下りて行った。太宰は手に握った蛇の目の傘をブラブラと大きくゆすっている。
 温泉の街の灯がとぼっていた。相変らず流れ湯の白煙がたてこめて、それが(もや)のふうに川面を一杯に()っていた。先程の目玉の松の家にあとがえった。時々、初代さんの遣瀬(やるせ)ないような目の色が浮んで来たが、もう私もやけくそだった。苦杯はあおるほどにがい。
 太宰の顔の中にも、あの尊大な自我没入の不貞腐れた麻痺の表情が見えてきた。
 『改造』を手に取って、盃をあおりながら、じっと目をこらす。
 「うん。やっぱり、俺のだ。一番いい。駄目だねえ、里見弴(さとみとん)なんか。全く感覚がなくなってしまったね。ひどいねえ、これは」

 

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■里見弴(1888~1983) 神奈川県横浜市生まれの小説家。本名、山内英夫。ペンネームは、電話帳をペラペラとめくり、指でトンと突いた所が里見姓だったことに由来。永く鎌倉に住み、鎌倉文士のはじまりとされることもある。主な作品に『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』『恋ごころ』などがある。

 

 私は、太宰の手から奪いとって、その『改造』を手にしたが、酔い呆けた目にはよく見えなかった。ただ「ナタリヤさんにキッスしませう」というゴヂの九ポが、その時見たままの活字の姿で、今も私の目の中に残っているだけだ。太宰はしきりに誤植を直していた。
 「ひどい誤植だ。センスないね」
 「そうかい」
 私は訂正された太宰の文字を眺めながらそう云った。
 太宰は上等の駱駝(らくだのモジリを着込んでいた。兄さんのお下がりか、それとも北さんの思いやりで届いた品だろう。それに、これは後にも先にも、たった一度みかけただけで、あるいは目玉の松からでも借り受けていたのかも知れないが、白い絹のマフラーを首に巻きつけていた。どう見ても、日頃、太宰の嫌う、芝屋もん風ではないか、その時の私の嫌悪感を忘れないから、ここのところは印象が極めて明瞭だ。
 酔がかなりすすんだ時だった。
 「檀君、鮎子さんに結婚を申し込んでくれないか?」
 「鮎子さん?」
 と、私は意外だった。谷崎鮎子さんの事だろうか。しかし、これは婚約者があることだと、私ですら聞いている。正気なのかどうかを疑った。しかしその表情は生真面目で、いつもの、自分をからかうような調子に移らないのである。
 「確信あるんだ。佐藤先生にお願いしてみてくれないか?」
 「ああ」
 と、私は曖昧に答えたが、納得出来なかった。
 太宰が鮎子さんに、ひそかな思慕を寄せていたとは思われない。もしあったとしても、それは軽い気分で、その軽い気分を無理に、自分に思い込ませようと努めていたに違いない。太宰にはこういう妄想の一面が、たしかにあった。この時は未だ発端で、決定的な進行を見せてはいなかった。発端は、いつも、たわむれであり、気分であり、希望であり、あるいは思いつきであっても、それが進行し、増大してゆくと、例の太宰的懊悩悲哀となり、ついに破局的な結果を招くのが常である。
 誰だって、妄想はある。そもそも人生というものは自分の妄想を抱いて、墓場に急ぐ道程の事だろう。しかし、太宰の場合は、殊に一方的に増大してゆく妄想が激しかった。成程、人生という奴は作ってゆく人生だ。しかし、この太宰の作られてゆく人生には全くといっていいほど天然の是正がない。死んでしまったから云うわけではないが、昔、太宰はひどく西瓜を喰べることを嫌っていた。私が好んで、この真夏の甘味をむさぼるのを見るたびに、
 「いやだねえ、ひどいねえ、不態(ぶざま)だよ、檀君。第一大きすぎる。赤すぎるよ」
 もちろん、随分とユーモラスにではあったが、こういうのが口癖のようだった。後年、清水崑の漫談を見て、太宰が半ズボンで西瓜を買いにゆく画が見えていたが、私は嬉しかった。太宰の心の持場が、自由な喜びに開いていったと、新しい文芸が信じられた。
 さて、その日の鮎子さんの一件を考えてみると、あるいは、目玉の松や、斜視の小僧達に対する示威ではなかったかという疑いも生じてくる。実際、聞こえよがしに言っていた。後で目玉の松と私と連れ立って上京した折も、この目玉の松から、鮎子さんの一件を聞き正された事がある。すると、自分の周囲の状況を華やかに修飾して、この債権者達の安堵を得たかったのかも解らない。いや、そう考えた方が自然ではないか。

 

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檀一雄

 

 その晩は、私達は案の定、裏の遊女の家に出掛けていった。
 「信じろよ、檀君。これはね、とってもいい子だよ。とっておきなんだがねえ、譲るよ」
 そう云って、一人の女を私の前に坐らせた。
 「あら、厭だ。よしてそんな事」と、女が言った事を覚えている。すると太宰が、その女の方に向き直って、
 「素直に、ハイ、と云いなさい。これが難しいんだよ。ハイ、と云いさえすればねえ」
 「じゃ、ハーイ」
 「驚いたね。見直したよ。一目惚れか? こりゃひでえ」
  と、太宰は大声に笑いながら、次の部屋に這入っていった。今でも目に浮かぶが、こういう太宰は実によかった。
 文学を忘れてしまって、虚栄を抜きにして、おのおのの悲しみだけを支えながら、遊蕩にふける時間が、私達の僅かな、安静な時間だったといえるだろう。太宰のいう、千人に通じた女は、もう処女だ。その名も知れぬ処女達の、肌の温もりにだけ、かすかな私達の憩いがあった。
 私が、女と連れだって、真夜中、浴場に立ってみると、太宰も女を連れて、浴槽の中に、かがみこんでいた。
 「洗えよ君。処女にも黴菌(ばいきん)はついてるからね」
 クックッと太宰は湯の中から顔を上げて笑っていた。流れ湯の落ち込む音が、夜通し、川の中に鳴っていた。

 翌朝も、そこから真直ぐ目玉の松の、居酒屋に帰るのである。
 「おやじ、ひどいね。檀と双葉と、もう昨夜、こうだ」
 太宰ははしゃぎながら、両手を合わせて空へ突き上る真似をする。
 「ウヘヘヘ」と、おやじと斜視は顔を見合わせあって喜んだ。二、三杯の酒をあおり、宿に引き揚げてきて床につくのである。
 金の事はもう太宰に云わなかった。わかっている。太宰も私にひとことも語らなかった。
 太宰の寝姿を時折確かめながら、醒めては眠り、醒めては眠る。一度、太宰と顔が合った。
 「クックッ」と、太宰が笑いだすのである。
 「心境が澄み切ってね――」
 何を云うのかと、その口許を見つめると、
 「もう眠る、ばかしさ」
 ウフフ――と、太宰が布団を被って、含み笑いに移っていった。
 やがて太宰が、むくっと起きて、
 「こうしちゃいられねえ」
 金かと私も起きあがって、悔恨がかすめるが、
 「ゆこう」と、また酒になり、女になる。三日目の朝だった。
 「檀君菊池寛の処に行ってくる」
 「大丈夫かい?」
 「ああ、大丈夫だ」と、太宰が云ったが、私は心細い限りだった。しかし、このままではどうにもならないことはわかっている。
 「明日、いや、あさっては帰ってくる。君、こここで待っていてくれないか?」
 かりに私が東京へ出たところで何の成算もないからには、待つのに限る。
 「ああ、いいよ」と、私は(うなず)いた。
 「留守中は、淋しい目にゃ、会わせないよ」
 太宰はそういい残して東京へ出ていった。

 

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<後編に続く>

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
********************

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【日めくり太宰治】12月27日

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12月27日の太宰治

  1939年(昭和14年)12月27日。
 太宰治 30歳。

 十二月十五日、十二月二十七日、十二月二十八日付で、高田英之助に葉書を書く。

高田英之助の祝報を聞いて

 1939年(昭和14年)、太宰が12月15日、27日、28日付で、高田英之助に宛てて書いたハガキを紹介します。

 高田英之助は、太宰が妻・津島美知子と結婚する際に尽力しました。
 高田は、太宰の師匠・井伏鱒二と同じ広島の出身で、高田の兄・高田類三(嘉助)が井伏と福山誠之館中学時代の同級生で、親友だったことから、井伏と親交がありました。
 1937年(昭和12年)に慶応大学文学部国文科を卒業した高田は、東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)の記者になり、甲府支局へ配属になった際、井伏を介して太宰と知り合います。太宰、伊馬春部と並んで、「井伏門の三羽烏(さんばがらす)と呼ばれていました。
 高田は甲府の交通網を担っている御嶽自動車の社長・斎藤文二郎の娘・斎藤須美子と婚約していたため、井伏はその伝手を頼って、高田に太宰の結婚相手探しを依頼したのでした。

 最初に紹介するのは、1939年(昭和14年)12月15日付で書かれたハガキです。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市世田谷区松原二ノ五七四
   ムサシアパート
    高田英之助宛

 拝啓 けさはうれしいおたよりをいただきました。おめでとうございます。今日までのおふたりの精神的の御苦闘も、これから神様のごほうびに依り、充分に報いられることを、信じます。
 どうか枝葉末節は気になさらず、強い御家庭を創って下さい、ほんとうに男児の仕事は三十歳以後です。充分の御自身を以て、ゆっくりと経営なさるよう。
  待ち待ちて ことし咲きけり 桃の花
  白と聞きつつ 花は紅なり
  不取敢(とりあえず) 衷心からの祝意
  奥さまには くれぐれもよろしく。
   春服の色 教えてよ 揚雲雀(

あげひばり)

 「うれしいおたより」とは、高田と須美子の同居の知らせのことです。
 高田は甲府連隊付きの記者だったため、昼夜問わずの激務で体を壊し、病気療養のために、単身で伊豆大島に渡り、療養生活を送っていました。太宰は高田夫妻を心配し、励まし、2人で生活するよう説得する書簡を数多く送っています。
 別居生活が続いた高田夫妻ですが、ようやく同居生活をはじめることができるようになり、太宰も心から「おめでとうございます。」と、祝意を表したハガキを送りました。

 

 続いて紹介するのは、先ほどのハガキから2週間弱が経ってから書かれた、同年12月27日付のハガキです。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市世田谷区松原二ノ五七四
   ムサシアパート
    高田英之助宛

 英之助君
 御心境如何(いかが)です。もう、落ち着きましたか。おひまの折、ぶらりとこちらへも、おいでなさいませんか。一夕、語りましょう。僕のほうから、押しかけて行ってもいいのですが、御新居を驚かすようで、気がひけるのです。拙宅は、吉祥寺駅南口(公園側)に下車して、そこから、緑のバスなんでもかまわず乗って、ムサシノ幼稚園前で降りて、そこから同じ様な小さい新築の家が九軒あります。その西南端であります。お逢いしたし。すみ子様に、くれぐれもよろしく。

 「もう、落ち着きましたか。」と様子を伺いながら、久々の面会を乞う内容です。太宰は、高田の三鷹来訪を望んでいます。

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■太宰自筆、自宅への案内図 1945年(昭和20年)2月13日付で、「文藝」の編集兼発行者だった野田宇太郎に宛てて書かれたもの。

 

 最後に紹介するのは、同年12月28日付に書かれたハガキ。なんと、2日続けてのハガキ投函です。

  東京府三鷹下連雀一一三より
  東京市世田谷区松原二ノ五七四
   ムサシアパート
    高田英之助宛

 前略 ただいま、井伏さんから、おハガキがまいり、元日おひるごろから井伏さんのお宅で、みんな会うようにしたら、ということでしたので、なるべくそういたしませぬか?
 元日に、みち子がそちらへ参りたいなど申して居りますが、御都合は、どうでしょうか。アパートへ到る略図も、ちょっと書いて下されたら幸いと存じます。
 こちらへおいで下されても、もちろん大歓迎であります。御都合お知らせ下さい。     不一。

 前日は三鷹への来訪を望んでいた太宰ですが、元日の井伏宅での再会や、高田のアパートへ出向くことの提案もはじめました。
 太宰からの度重なる誘いですが、2人は会うことが出来たのでしょうか。

 翌1940年2月3日付、高田宛のハガキで、太宰は「先日は、ほんとうによくおいで下さいました。」と書いているので、最終的には、高田が三鷹の太宰宅を訪問したようです。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月26日

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12月26日の太宰治

  1941年(昭和16年)12月26日。
 太宰治 32歳。

 十二月中旬、東京駅で太田静子と落ち合い、新宿の「LILAS」という地下レストランで対談した。

「僕の生命を園子にあずける」

 1941年(昭和16年)9月上旬頃に太宰と太田静子が出逢ってから、約4ヶ月後。太宰から静子へ、不意に電報が届きました。この時の様子について、静子の著書『あはれわが歌』から引用します。
 『あはれわが歌』は、静子が生活を太宰からの仕送りに頼っていた中、太宰の死後に瞬く間にお金が無くなり、幼い娘を抱えて生活が成り立たなくなっている状況下で、太宰の友人・檀一雄の尽力で刊行されました。

 太平洋戦争がはじまったのは、この(とし)の、冬のはじめだった。戦争がはじまって、十日ほど経った雨の日に、不意に、治から電報が来た。
 『ニジ トウキョウエキ ダ ザイ』という簡単な電報だった。母は田舎へ行っていて留守だった。美子が来ていて、シューマンの「クライスレリアナ」を弾いていた。時計を見ると、一時十分だった。園子(著者注:太田静子のこと)は大急ぎで紫のしぼりの着物に着更(きが)え、天鵞絨(ビロード)のコートを着て家を出た。彼女は電報を見た時、治はきっと和服にちがいないと思ったのだった。
 東京駅の階段を降りた時、向うの花屋の前に、二重廻しを着て立っている治を見つけた。彼は動かずに、近づいて来る園子を待っていた。園子が前へ行くと、園子の手をとって、
「神さまが逢わせて下さったのだね。一時間以上も、此処に立っていたんだ」と言った。
「あの一番上の、淡紫の花の名を知っている?」治は、花屋の一番高いところにある花をさして、園子に尋ねた。ライラックだった。ライラックにちがいなかったけれど、園子はだまっていた。

 

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「丸ビルへ原稿を届けに来て、電報を打って、それからずっと此処に立って、神さまにお祈りしていたんだ。…………此処に立って、あの花を見ていたら、しまいに泣きたくなって、よっぽど店のひとに、あの花の名を尋ねようと思ったのだけれど、でも、あの花の名を知ってしまったら、君が永久に来ないような気がして、それでじっと辛抱して待っていたんだ。」
 黒い二重廻しがよく似合った。マントを着ていると、猫背がほとんど分らなくて、ただ首を少しちぢめているだけに見えた。そうして三鷹の家ではじめて逢った時の現実的な感じが全然消えていて、子供のように柔かく白い顔をして、微笑していた。地下室へ行き、紅茶とケーキを注文したが、彼は紅茶をほんの少し飲んだだけで、眼を伏せて、だまり込んでしまった。

 

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 外へ出ると、また雨が降っていた。治は駅の正面にたたずんで、雨に煙る丸ビルのあたりを、じっと見ていた。
 新宿へ行き、武蔵野館でシモーヌ・シモンの「乙女の湖」という映画を観た。外へ出て、雨の上った道を行くと、街角にチェーホフ全集の広告が出ていた。ふとアリー・シェールと別れた時のことを思い出し、立ちどまってチェーホフの写真を見て、治を見あげると、
チェーホフはいい顔をしているよ。贅沢だ。君は贅沢だ」と言った。

 

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アントン・チェーホフ ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。代表作に『かもめ』『三人姉妹』『桜の園などがある。太宰は「日本の『桜の園』を書きます」と宣言し、斜陽を執筆した。

 

 とある店の前で治は立ちどまった。白ワニスに淡紫の縁をとった標札にLILASと書いてあった。階段を降りて地下室のドアを押すと、四、五組の客がひっそり食事をしていた。
 治は二重廻しを着たまま、だまってウイスキイを飲んでいた。園子も少し飲んだけれど、喉が焼けるようだった。
「乙女の湖って、綺麗な映画だね。山上の湖が、実にうつくしい。僕は今日で三度目だ。あの女優は君に似ているよ」
「私も、三度、観ましたわ」
「君は誰と観たの?」
「三條さんと、それから小秋さんと、」
「三條さんというのは、三條篤さん(著者注:モダニズムの画家で、詩歌も作った六條篤)のことなの?」
「お友達でしたの?」
 治は首を振り
「絵を見たことがあるんだよ。桃色や白の貝殻や虹が描いていた。澄んだ、きれいな色だった。だけど、三條さんの絵は美し過ぎるよ。」
「…………」
「あの三條さんと、どうしたんだい? 満里子ちゃんのお父さんは、小秋さんだろう?…………君のノートのSというのは三條さんのことだったんだね? そんなに三條さんを好きだったのかい?」
「…………」
「三條さんとは、ほんとうに何でもなかったの? 日記に書いてある通りなの?」
「ええ。…………。結婚するつもりで、おつきあいしていただけですの。」
「ほんとう?」
「…………一度だけ、ベエゼしようとなさったので、逃げましたの。松林のなかを、どんどん逃げて、そうしてその日の帰りに結婚したいと仰っしゃったのだけれど、三條さんは画描きさんで、十五も齢がちがうでしょう? それで、周囲(まわり)で心配していたところへ、小秋さんが出ていらして、」
「いまでも、三條さんを思っているの?」
「いいえ」
「ほんとうかい?」
「どうしてあんなに忘れられなかったのか、不思議なの。小秋さんと別れて、告白の作品を書いているうちに、或る日、すっと消えてしまったの」
「とにかく三條さんの絵は、きれい過ぎるよ。三條さんは詩も書くんだろう?」
「ええ。私のシモーヌ・シモンよ、という詩を書いて下さったことがあるわ」

 

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シモーヌ・シモン(1910〜2005) フランス マルセイユ出身の女優。1931年からフランスで映画女優として活動をはじめ、短期間で名声を打ち立てた。『乙女の湖』(1933年)を契機に、アメリカでも活動した。

 

「その詩を教えて、」治はそう言って、革の手帖を出して、園子の前に置いた。
「その詩を、此処へ書いてごらん。」
 園子は鉛筆を受けとって、「指紋」という詩を、思い出しながら、書いた。
 『これは牛乳で育った花
  水曜日の饗宴のゆるやかな流れに
  影をおとして

  多くの会話がそれに集る

  私のシモーヌ・シモン
  そなたの指に花葩(はなびら)がふれる
  さようなら花が散る
  黄昏の指紋が残る』
 手帖を受けとって、治はだまって読んだ。治の顔が、あかかった。園子の頬も火照って来た。やがて治が大きい声で言った。
「園子は今日から、ひとりじゃあないんだ。僕の生命を園子にあずける。いい? 分った? 園子は責任が重くなるんだよ」「分ったのかい? なんだか心細いなあ。四、五日したら、園子の都合のいい時と場所を知らせて欲しい。僕はきっと、逢いに行くよ」
 外へ出ると、街にはすでに灯がともり、木枯が吹いていた。園子は予期せぬ驚きと歓びに胸の(ふる)えるのを感じながら、少し遅れて歩いた。夜店のアセチリンがチリチリ燃えていた。園子は早くひとりになって、よく考えてみたいと思った、ひどく空しいような気もした。
駅の改札口のところで立ちどまって、治は、
「じゃあ、手紙を忘れないで」と言った。
「さようなら」
「向うをむいたままで行くんだよ。こちらを向いてはいけないよ。さようなら」

 

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 園子は改札口を出て、うしろに心を魅かれながら、真直に歩いて、地下道へはいってから振りかえった。しかしもう其処からは、改札口は見えなかった。
 大森の家へ帰って来ると洋間の窓に灯がともっていた。そっと上にあがって、廊下を歩いてゆくと、ドアの隙間から灯りが廊下に洩れていた。
 部屋のなかでは透と美子がトランプをしていた。
「姉さんの帰りがあんまり遅いので、美子ちゃんが占っていたんだ」
 美子はトランプをテーブルの上に並べた。
「武蔵野館で、乙女の湖を観て、それからリラでお夕飯をいただいたの」
「リラはいいところだろう?」
 椅子に腰をおろすと、急に孤独と疲れをおぼえた。透の(しろ)い歯と、美子の胸のサファイヤがキラキラと輝いていた。
 透が美子を送って行くと、園子は顔を洗い、居間にはいり、倒れるようにベッドに横になった。急にかなしくなって泣けて来た。どうして泣けて来るのか、自分でもよく分らなかった。彼女は、太宰治を恋している自分を承認したくなかった。恋愛は結婚に通ずる一本道の上だけで承認されるものだったのだ。
「あの方は本気だったのかしら? 奥さまやお子供さまがいらっしゃるのに、どうしてあんなことを仰ったのかしら…………」胸の上に両手を置いて、ぼんやり宙を見つめていた。何時までも眠れなかった。

 

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■太田静子

 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太田治子『明るい方へ』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月25日

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12月25日の太宰治

  1946年(昭和21年)12月25日。
 太宰治 37歳。

 一九四七年(昭和二十二年)一月一日付発行の「中央公論」新年号に「メリイクリスマス」を発表。

『ぼくのクリスマスプレゼント』

 太宰は、1947年(昭和22年)1月1日付発行の「中央公論」新年号に短篇メリイクリスマスを発表しました。

  東京は、かなしい活気を呈していた、とさいしょの書き出しの一行いちぎょうに書きしるすというような事になるのではあるまいか、と思って東京に舞い戻って来たのに、私の眼には、何の事も無い相変らずの「東京生活」のごとくに映った。
 私はそれまで一年三箇月間、津軽の生家で暮し、ことしの十一月の中旬に妻子を引き連れてまた東京に移住して来たのであるが、来て見ると、ほとんどまるで二三週間の小旅行から帰って来たみたいの気持がした。

 太宰自身を思わせる「私」の語りからはじまるメリイクリスマス。実際に、太宰が故郷・津軽での疎開生活を終え、家族と共に東京・三鷹に移住してきたのは、1946年(昭和21年)11月14日でした。

 メリイクリスマスに登場するシズエ子とそののモデルは、林聖子と母・秋田富子「シズエ子」という名前は、少し不思議な感じですが、画家・林倭衛(はやししずえ)の娘だったことから、このように命名されたのだと思われます。
 太宰と秋田富子林聖子がはじめて出会ったのは、1941年(昭和16年)の夏。この時のエピソードについては、4月8日の記事で紹介しています。

 メリイクリスマスの中に、

 私は本屋にはいって、或る有名なユダヤ人の戯曲集を一冊買い、それをふところに入れて、ふと入口のほうを見ると、若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。
 吉か凶か。
 昔、追いまわした事があるが、今では少しもそのひとを好きでない、そんな女のひととうのは最大の凶である。そうして私には、そんな女がたくさんあるのだ。いや、そんな女ばかりと言ってよい。
 新宿の、あれ、……あれは困る、しかし、あれかな?
「笠井さん。」女のひとはつぶやくように私の名を言い、かかとをおろしてかすかなお辞儀をした。
 緑色の帽子をかぶり、帽子のひもあごで結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、三の少女になり、私の思い出の中の或る影像とぴったり重って来た。
「シズエ子ちゃん。」
 吉だ。
「出よう、出よう。それとも何か、買いたい雑誌でもあるの?」
「いいえ。アリエルというご本を買いに来たのだけれども、もう、いいわ。」
 私たちは、師走ちかい東京の街に出た。
「大きくなったね。わからなかった。」
 やっぱり東京だ。こんな事もある。

と書かれているのは、シズエ子と語り手「笠井」の再会シーンですが、このシーンは、実際に帰京直後の太宰と林聖子の場面を元に書かれています。
 この時のことを、林聖子は著書風紋五十年所収の『いとぐるま』で、次のように回想しています。

 二十一年十一月初めの日曜日、私は駅前の三鷹書店を覗いた。有島生馬さんが父のことを書いたという「ロゴス」を買おうと思ったのです。夕方の店内は、活字に飢えた人たちで一杯だった。店の人に「ロゴス」の所在を聞くため、一歩踏み出そうとしたとき、レジを離れようとしている男の人と向き合う形となった。私は魔法をかけられたようになった。「太宰さんの小父(おじ)さん」といいかけて、「小父(おじ)さん」の言葉を呑み込んだ。太宰さんには、もう三年余りも会っていない、多分、私のことなどもう覚えておられないだろう。「小父(おじ)さん」などという親し気な呼び方は、今の私には、もう許されない。ふとそう感じたのである。それに、今の私は、決して昔のような子供ではない。
 しかし、太宰さんは、やはり昔のままの太宰さんだった。「聖子ちゃん?」「やはり聖子ちゃんかあー」といいながら、近寄って来られた太宰さんは、温かい手をソッと私の肩に置いて、「無事だったのか、よかった、よかった」というように私の顔をのぞき込んだ。
 決して夢でも、人違いでもなかった。しかし、太宰さんをわが家にご案内する間も、やはり、私は、夢の中にいるような気がした。上京して初めて味わうような幸せな気持だった。その夜、私たち母娘は、改めて再会の喜びを分ち合った。
 それから半月ほどして、着物姿の太宰さんがわが家に来られた。そして、懐から「中央公論」新年号を取り出し、ひどく真面目な顔をして、「これは、ぼくのクリスマスプレゼント」といった。
 母と私は、早速、雑誌を開いた。そして、頬を寄せながら、太宰さんの「メリイクリスマス」を読んだ。「ロゴス」が「アリエル」となっていることと私が広島の原爆孤児になっていること以外は、半月前の再会のときの模様が、そっくりそのまま、というより、より洗練された形で、そこに定着されていた。
 私は、「メリイクリスマス」を手にするたびに、なんの苦もなく、四十年前の自分に還ることができる。母と太宰さんのおかげである。

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 秋田富子林聖子については、太宰の妻・津島美知子も、著書回想の太宰治で次のように回想しています。

  太宰は書簡を保存する習慣を持たない。にもかかわらず、この引き出しの一つには、数人の女性からの手紙が入っていた。没後、整理したら、T子さんからの来信が一番多かった。太宰の「メリイクリスマス」は、T子さんとその娘S子さんのイメージから書いた小説だが、「メリイクリスマス」を書いた頃、T子さんは病床に存った。

 秋田富子は、若い時から体を壊し、腎臓結核脊椎カリエスも患っており、耳が不自由で、肺浸潤にも侵されていました。太宰が心中した半年後、1948年(昭和23年)12月23日、結核性腹膜炎で亡くなっています。

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■幼少の頃の林聖子秋田富子

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・林聖子『風紋五十年』(パブリック・ブレイン、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月24日

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12月24日の太宰治

  1946年(昭和21年)12月24日。
 太宰治 37歳。

 十二月二十四日付で、前田出版の真尾倍弘(ましおますひろ)に手紙を書く。

太宰の年越し準備

 太宰は、1946年(昭和21年)12月24日付で、前田出版の真尾倍弘(ましおますひろ)に次のような手紙を書き、「知合いの川久保君」に託しました。太宰がこの手紙を書いたのは、同年11月14日に、疎開していた故郷の金木町から東京に戻り、1ヶ月と少しが経った頃でした。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都麹町区代官町一 前田出版社内
   真尾倍弘宛

 拝啓 先日は失礼いたしました。「津軽」はどうかよろしく御願いいたします。きょうは一つ御願いがございますのですが、日頃の放漫政策がたたって、年末に相成りますと甚だ窮し、「津軽」の約束のしるしという名目(名目はどうでもいいんですけど)とにかく、印税の内から二千円ほど所謂(いわゆる)越年資金として、いただく事が出来たら、この急場を切り抜けられるようなんです。何だかこちらへ来て、家の手入れなどしているうちに案外なほどお金がかかり、御無理を承知で、汗顔ながら御助勢のほど、たのみいります。もちろん、これは所謂(いわゆる)越年資金で、これ一回だけの御願いで、あとは本の出来上るまで絶対にこんな厚かましい事は御願い致しませぬゆえ、どうか、このたびだけ御聞きとどけ下さいまし。
 この学生さんは、知合いの川久保君という人で、少しも心配のない人ですから、御信頼の上、御手交下さいまし。私が参上してお願い申すべきですが、お金を持って帰宅の途中に於いて、酒の店などにちょっと立寄りせっかくの越年資金もなんにもならなくなるおそれもございますので、知合いの学生さんに行ってもらう事にいたしました。
 事情御了承の上、何卒よろしく御配慮ねがい上げます。
          敬具。
   昭和二十一年十二月二十四日
        太 宰 治
  真 尾 様

 太宰は、出版が確定した津軽』改訂版の印税のうち、「越年資金として」「二千円」を前払いしてくれるよう、真尾に依頼をします。「二千円」は、現在の貨幣価値に換算すると、約80,000円~215,000円に相当します。
 この手紙と同じ頃、太宰は一番弟子・堤重久にも、引越し資金や、空襲で壊れた自宅の修復資金に充てるため、正義と微笑』再版の印税のうち、「三千円くらい新円で、出版の約束のしるしに前払い」してくれるよう、交渉を依頼しています。

 今回、太宰が印税の一部の前払いを依頼した真尾は詩人で、1946年(昭和21年)に文筆家の妻・真尾悦子と結婚し、1948年(昭和23年)に茨城県土浦市を経て、同年3月に福島県平市(現在の福島県いわき市)に引越しました。
 転居後の同年4月、いわき民報社に職を得ると、間もなく、現代詩研究会を発足し、詩誌「氾濫」の準備号を作ります。しかし、真尾は持病の喘息が悪化し、いわき民報社を1年ほどで退職。大町、六人町、平窪と転々と住居を変え、最終的には、胡摩沢に落ち着き、出版社・氾濫社を立ち上げ、詩誌「氾濫」第1号を発行しました。悦子が1959年(昭和34年)に刊行した小説『たった2人の工場から』は、この頃の出来事を題材にしており、1961年(昭和36年)にNHK総合テレビの「テレビ指定席」でドラマ化されました。

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■手動式印刷機と文選棚の前で作業中の真尾倍弘・悦子

 

 太宰は、翌1947年(昭和22年)1月9日付で、再び真尾に宛てて手紙を書いています。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都麹町区代官町一 前田出版社内
   真尾倍弘宛

 あけましておめでとうございます。
 毎日御多忙の事と存じます。
 わざわざ三鷹へおいでねがうのも恐縮ですし、きょう川久保君にたのみました。れいのもの、おたのみ申し上げます。よろしく。
 いずれまたゆっくり。
   一月九日     太 宰 治
  真 尾 様

 「越年資金」として依頼していた「二千円」ですが、この時点では、まだ太宰の手元には届いていなかったようです。

 

 太宰はこの10日後、1月19日付で、真尾に宛てた次のような手紙を書きました。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  東京都麹町区代官町一 前田出版社内
   真尾倍弘宛

 拝啓 このたび御めいわくを御かけ致しました。何せ上京直後に大みそか正月が襲って来て、まごつき、また久し振りの人とたくさん逢って飲まねばならず、家の修理やら何やら、御賢察ねがいます。もうたいてい落ちつきましたから、もう御めいわくは御かけ致しません。
 御気軽に、遊びにいらして下さい。   不一。

 津軽』改訂版は、1947年(昭和22年)4月10日付で、前田出版社から刊行されました。

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■『津軽』改訂版(前田出版社刊)

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
・HP「真尾倍弘・悦子夫妻のこと - いわき鹿島の極楽蜻蛉庵
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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