記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】7月1日

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7月1日の太宰治

  1933年(昭和10年)7月1日。
 太宰治 26歳。

 初代と転居先を探し求め、棟上式を終えたばかりの建築中の新居を見付けた。

「最も愛着が深かった」船橋

 1933年(昭和10年)。
 太宰は、4月4日に盲腸炎と腹膜炎を併発したため、杉並区阿佐ヶ谷にある篠原医院で手術をしました。入院中、太宰は、ほとんど毎日、医師からパビナール注射を受けていました。

 1週間程度経過した後、今度は血痰が出たため、翌月5月1日に、長兄・津島文治の友人・沢田が院長を務める、世田谷区経堂町の経堂病院に入院しました。経堂病院に入院している間も、「腹痛、不眠等ノ為、隔日ニ一回位宛、医師ヨリ麻薬注射ヲ受ケ」ていたといいます。病気になってからの太宰は、満足に食事をせず、バナナばかり食べていたそうです。

 同年6月30日に経堂病院を退院することになった太宰は、最初の妻・小山初代と一緒に、療養のために東京杉並区の住居からの引越しを検討します。
 ここで、太宰が7月1日付で親友・山岸外史に宛てて書いたハガキを引用します。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 病気全快して左記へ転居しました、とりあえず、お知らせ申上げます。
 千葉県船橋町五日市本宿一九二八

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■山岸外史

 太宰は、千葉県船橋市の、新築の借家に転居します。
 八畳、六畳、四畳半の三間と台所、玄関付きで、各部屋がかぎ状に曲がった1つの廊下で繋がっていて、40坪程度の庭があったそうです。家賃は、17円(現在の貨幣価値に換算すると、3万~3万5,000円程度)。
 門柱には「津島修治」の脇に小さく「太宰治」と書き加えた表札が掛けられていたといいます。

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船橋の借家

 借家は、船橋駅から歩いて10分程度のところにあり、海辺に近い町外れで、砂地の閑静な環境にあり、近くには海老川が流れていました。

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■自宅案内図入りのハガキ(神戸雄一宛)

 太宰が住んだ借家は、現在の住所では「船橋市宮本1丁目」。現在は、別の住宅が建っていますが、近くに太宰治旧居跡」の碑が建っています。
 転居後、終日、太宰は籐椅子(とういす)に寝そべり、本を読む日々が続きました。寒竹のステッキを振りながら散歩をし、京成電車の線路を渡り、海老川沿いに湊町の漁師町を突っ切って、海辺へ出ることが多かったそうです。

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太宰治旧居跡 2013年、著者撮影。

 太宰は、船橋の借家に住み始めて程なく、近所に住む人から夾竹桃(きょうちくとう)を譲り受け、庭に植えていました。

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■太宰の植えた夾竹桃 2013年、著者撮影。

  この夾竹桃は、1983年(昭和57年)12月に旧居跡が整備されることになった際、現在の中央公民館の広場に移植されたそうです。
 太宰は、小説めくら草紙で、この夾竹桃について、次のように書いています。

 私がこの土地に移り住んだのは昭和十年の七月一日である。八月の中ごろ、私はお隣の庭の、三本の夾竹桃にふらふら心をひかれた。欲しいと思った。私は家人に言いつけて、どれでもいいから一本、ゆずって下さるよう、お隣へたのみに行かせた。家人は着物を着かえながら、お金は失礼ゆえ、そのうち私が東京へ出て袋物かなにかのお品を、と言ったが、私は、お金のほうがいいのだ、と言って、二円、家人に渡した。

 太宰の住んだ借家近くを流れる海老川には、13の橋が架かっていますが、借家から1番近いところに架かっているのが、九重橋(ここのえばし)でした。

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九重橋(ここのえばし) 2013年、著者撮影。

 海老川に九重橋が架けられたのは、太宰が住む1年前の1932年(昭和9年)頃。現在の橋は、1988年(昭和63年)に架け替えられているそうなので、当時の橋ではありませんが、太宰もここを渡っていたかもしれません。

 船橋時代の太宰は、お稲荷さんの狐の石像を背景にした写真を撮影しており、処女短篇集晩年の口絵写真に使用しています。

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■『晩年』の口絵写真

 この写真が撮影された場所といわれているのが、船橋市本町4丁目にある御蔵(おくら)稲荷神社」です。

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御蔵(おくら)稲荷神社 2013年、著者撮影。

 御蔵(おくら)稲荷神社は江戸時代の創建。昔は狐像が6体あり、4体は順次撤去されましたが、左右2体が境内に残っていました。

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■神社境内にある狐の石像 2013年、著者撮影。

 しかし、2015年(平成27年)7月下旬、氏子が新しい狐像を奉納した際に、太宰ゆかりの狐像とは知らず、お祓いした後に粉砕処分してしまったそうです。

 太宰の借家から1番近いところにある風呂屋「海老の湯」です。
 実際に、太宰や初代が利用していたという記録は残っていませんが、風呂好きの太宰
は、ここに通っていたかもしれません。公衆浴場「海老の湯」は、2005年(平成17年)3月31日に閉店したそうです。

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■海老の湯跡 2013年、著者撮影。跡にはアパートが建てられ、コインランドリーの名前として残っていました。

 小説めくら草紙には、次のような場面が登場します。

 八月の末、よく観ると、いいのね、と皮膚のきたない芸者ふたりが私の噂をしていたと家人が銭湯で聞いて来て、(二十七八の芸者衆にきっと好かれる顔です。こんど、くにのお兄さまにお願いして、おめかけさんでもお置きになったら? ほんとうに)と鏡台の前に坐り、おしろいを、薄くつけながら言った。

 このめくら草紙は、太宰が船橋に住み始めた後の、1935年(昭和10年)10月27日頃に脱稿された作品です。家人(初代)が、自分(太宰)の噂を聞いたという「銭湯」は、この海老の湯だったのでしょうか。

 太宰は、この船橋で、初代とともに1年3ヶ月の時を過ごしました。
 船橋滞在中に、念願の処女短篇集晩年を出版するも、第1回、第2回の芥川龍之介賞選考落選を経験し、流行作家になること叶わないまま、パビナール中毒が深まり、井伏鱒二らの説得により、東京板橋の武蔵野病院に入院。最終的には、船橋の家を引き払うことになりました。
 太宰は、1946年(昭和21年)4月1日付発行の「文化展望」創刊号に発表した小説十五年間で、船橋時代を次のように回想しています。

 私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃も僕が植えたのだ、庭の青桐も僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない 。

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■太宰と初代

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「太宰治に愛されたまち、船橋|魅力発信サイト FUNABASHI Style
・HP「太宰治ゆかり、千葉・船橋の稲荷神社 消えた狐像にファン落胆 」(産経ニュース)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】6月30日

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6月30日の太宰治

  1941年(昭和16年)6月30日。
 太宰治 32歳。

 鶯谷の料亭「志保原」において、佐藤春夫夫妻の媒酌で、山岸外史と佐藤やすとの結婚披露宴があり、尽力した。

山岸外史の「再婚記」

 6月11日の記事で、太宰が親友・山岸外史に再婚をすすめていることを書きました。今日、紹介するのは、その顛末(てんまつ)です。

  1941年(昭和16年)6月30日。山岸は、3年ほど前から交際があった、仙台の教育者・佐藤栄蔵の次女・恭子(やすこ)との結婚披露宴を催し、太宰はこれに尽力します。
 媒酌は、佐藤春夫夫妻。会場は、鶯谷の料亭「志保原」でした。

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■山岸と恭子の結婚披露宴 前列左より、佐藤春夫井伏鱒二、山岸、恭子、井伏節代、太宰。後列左より、佐藤千代、2人おいて亀井勝一郎

 山岸の再婚成立の過程について、池内規行『人間山岸外史』から引用します。

 昭和十六年六月、太宰治の熱心なすすめと世話で、山岸外史は仙台の教育者佐藤栄蔵の次女やす(恭子(やすこ))と再婚した。明治三十九年十二月三十日生まれの恭子は、プロテスタントのミッションスクール宮城学院の英文科を出て、同地でインターンの教職を経験したのち上京して東京都庁に奉職、文京区内にアパート住まいをしており、三年ほどまえから外史と交際があった。昭和十四年一月に再婚し、六月七日に長女が生まれたばかりの太宰は、三鷹に順調な家庭生活を営んでおり、その彼が、ふたりの中途半端な関係や、三人の子供をかかえた外史の不安定な生活を心配して、しきりに再婚をすすめ、仲人の世話から式場の世話まで、東奔西走してすっかりお膳立てをこしらえてくれたものであった。

 

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 結婚式は六月三十日、鶯谷の志保原という料亭であげられた。媒酌人として佐藤春夫夫妻に井伏鱒二夫妻、友人総代で亀井勝一郎太宰治、それに親戚代表として外史の叔母ふたりが出席し、総勢十人というささやかな、けれども豪華な顔ぶれの式であった。

  「仲人の世話から式場の世話まで、東奔西走してすっかりお膳立て」された状態で催された、山岸の結婚披露宴。
 さて、続けて、当時の様子を山岸自身の回想『人間太宰治から引用します。

 考えてみると、太宰は、ずいぶんぼくのことを大切にしてくれたと思う。いまさらのようだが、それに感動することがある。どの友人に対しても親切な太宰ではあったが、ぼくに対しては、ことに、ひとかたならない友情をみせてくれたように思う。(てれないで、そう書くのがほんとだと思っている。そして、てれてはイケナイのである。)
 ぼくが再婚したときにも、太宰はなみなみでない友情をみせてくれた。奔走してくれたのである。野放図きわまるぼくではあったが、これにはほんとに感謝した。
  (中略)
 太宰は、太宰自身の仲人でもあった井伏鱒二夫妻を媒酌人の候補にあげた。太宰はすっかり計画をたてていたのである。おそらく、自分の鎌滝時代の生活から、御坂峠、甲府時代、お美知さんとの結婚という自分の過去の体験から割りだして、ぼくの生活の安定を文字どおりに心配してくれたのである。
「乾盃だ。ありがとう。山岸君。これで恩返しができる」
 太宰は、そんな妙なことまでいった。そして、太宰はその翌日から奔走しはじめてくれたのである。井伏さんが「山岸君じゃ重い。佐藤さんを動員する必要がある」といったということで、(すべて太宰の言葉である。)佐藤さん御夫妻まで動かしてくれたのである。
  (中略)
 井伏さんに宛てた太宰の手紙があるから、ここにそれも載せてみると、六月二十五日付で、

 拝啓 過日は、失礼申し上げました。またその折は、うなぎをどっさりいただき、頭もキモもみんなおいしくいただきました。本当におそれいりました。
 さて、山岸君の結婚に就いては、いろいろ御心配をおかけ致し、私からも心からの御礼申し上げます。昨日、山岸君の家へ行き相談いたしました。旅行も、山岸君がひとりならば大いによろこんで参加したいそうですが、どうも婚約者と一緒では、窮屈なやら、恥ずかしいやらで、とても、つらいのだそうです。(筆者註 これはたしかに太宰の脚色であって、太宰が色彩をつけすぎているところである。太宰が死んでから書簡集でこの手紙を発見して、ぼくは、太宰はこんな書き方をするのかと思ったくらいである。太宰も手腕家であった。不器用なぼくにはできない芸当だと思った。)それで、近々、山岸君が婚約者を連れて、清水町のお宅へ御挨拶にあがるということになりました。なかなかいい婚約者であるから、どうか、よくみてやって下さい。それで、なこうどは井伏様御夫妻に、ぜひともお願いしたいという事であります。(註 拘泥(こだ)わる訳ではないが、ぼくも太宰に任せた以上、太宰の設定した軌道に乗って動いたのである。)かならず生涯のよい道づれになって、うまく行くと信じられますので、先生も、その点は、一切御心配なく、どうか御快諾下さいまし。二十八日頃、山岸君がそのひとを連れて参上する筈でございますから、とにかく、その人をよく見てやって下さい。かならずや、御納得される事と存じます。としは三十一歳の由でございます。(註 家人ヤス子の説によると、今日の計算法ならば二十九歳になるそうである。)仙台の学校の先生の長女で、その先生は、最近なくなられ、なくなる以前に山岸君と逢って、「娘の事は、よろしくたのむ」という事になっていたのです。臨終の時も、山岸君が仙台まで、まいりました。ちょうど私たちが甲府の東洋館にいた頃の事でありました。あの時、山岸君が甲府に来ると言って、急に都合が出来て来られなくなりましたでしょう?(註 太宰の結婚式の日ではなかったかと思う。)あの時、お父さんがなくなったのです。母堂は、ずっと前になくなって、いまは、その婚約者は、みなし子であります。それで、山岸君が過日、仙台へまいりました時、仙台の親戚の人たちに、みんな披露はすんだのだそうです。それで結婚式の時には、仙台のほうの人は、参列せず、ただ、山岸君の叔父の銀行家夫妻だけ出席して、あとは、井伏様御夫妻と、亀井君と、佐藤さんと、私だけにして、会場も、いつか佐藤さんに御馳走になった上野の志保原あたりで、午後五時頃から、充分にくつろいで、酒を飲もうということになりました。

 なかなか長文の手紙で、まだあとがあるのだが、この辺で割愛する。

 

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 太宰は、とにかく懸命になって奔走してくれた。ぼくの知っているきわめて数のすくない先輩たちに丁重且つ巧妙、且つ誠実に動員をかけてくれた。あまり大仰になることを恐れたぼくであったが、「眼をつぶっていてくれ。眼をつぶっていてくれ」という太宰のいうとおりに、ぼくはその誘導に従った。いまさら結婚式でもあるまいと思っていたぼくだし、(三人も子供のある男なら誰でもそう考えると思うが、)そのうえ、野合・内縁関係の方に悦びのあったぼくだから、たしかに太宰のいうとおりに眼をつぶって歩いた気味がある。どこかには、カナシミもあったし、どこかにはサビシサもあったし、どこかには抑圧されるプライドも感じていたのだが、まあ、こんなことだろうという解釈もできて、一から十まで太宰のいうとおりになったのである。太宰もそういうぼくをよく知っていて、「任せたといった以上は、君、ぼくの面子(メンツ)もたててもらいます」とぼくを脅迫し、「よろしい」という気持で、ぼくもひと言も反駁しなかった。
「形が大切なんだ。形式とは形のことなんだ」
 と太宰はしきりにいった。形式ぎらいのぼくだっただけに、そこにかえって弱点もあったのかも知れない。太宰はそれをやはりてれ(、、)臭さだと考えていた。「てれるな。てれるな」太宰はそれも何回かいった。
 あとから考えてみると、この言葉のすべては、井伏さんが太宰の結婚のときにいった言葉で、その言葉をぼくに正直に伝えたのではないかと思われる節もあったが、ぼくは(まないた)のうえの鯉になっていた。むろん、後悔するものはなにもなかった。太宰はそれほどお熱心で誠実だった。ぼくは、太宰の愛情に敗北したといってもいいかも知れない。
 やがて、ぼくとヤス子とは井伏さんのお宅に顔みせに参上ということになった。二十九歳の花嫁と、三十八歳で三人の子持の花婿では、媒酌人の井伏さんにしたところで微笑ひとつ浮ばず、言葉に窮したのにちがいない。顔をあわせている以上、苦が笑いするわけにもゆかず、慰めるわけにも、今後を激励するわけにもゆかず、体験談でもまずいし、太宰もここには大きな誤算があったと思うのである。井伏さんは、そのせいか、庭ばかりみながらやたらに蜜柑の話ばかりしていたのである。正月のお供えと伊勢(えび)の関係についても熱中されたようである。

 

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■山岸と3人の子供

 

 それから四日目に、鶯谷というところの「志保原」という料亭で、それこそ文字どおりに形ばかりの結婚式が挙げられた。
  (中略)
 その日、媒酌人として佐藤さん御夫妻に、井伏さん御夫妻が出席して下さった。今日、考えてみると、太宰はたいへんな栄誉をぼくにさずけてくれたわけであった、ウヌボレ男のぼくは、今日ほどそれに気づいていない節もあった。太宰はたしかに誠実なだけではなく、ほんとにぼくの未来まで大切にしてくれたのである。(批評家のぼくは、極端な世間嫌いだったが、作家太宰は世間にも聡明だったのかも知れない。)
 友人総代で、亀井君と太宰。ぼくの親戚の代表として叔母二人が出席してくれた。ぼくと花嫁までいれて十人というささやかな式であったが、むろん、ぼくは大いに満足していた。太宰はその式のために、羽織と袴まで新調したそうであった。(ヤス子は女だけあってそれを知っていた。)太宰はその羽織袴でほんとに番頭になったように、階上階下をのぼり下りしてくれて、会計その他、万端の面倒をみてくれたのである。
「おれも手伝いたいね」
 ぼくが正面の座席からいうと、
「君は、今日は、花婿なのだからそこに坐っていてくれなければ困るのだ。動いては困ります」といわれ、ぼくは仕方なく坐っていることにした。その会話を小耳にはさんだひとりの叔母に、ぼくはかなりオッチョコチョイにみられたことを知っている。叔母はそういう眼つきをした。ぼくはしかし、誠意には誠意をもってすべきことを知っていただけなのである。それほど太宰はじつに謙虚に、誠心誠意、ほんとに懸命になって動きまわってくれたのである。太宰の動きをぼくは有難くみていた。「これで君に、恩がえしができる」太宰のこの言葉を、奇妙にとっていた僕の方が、かえって到っていなかったと書きたいのである。
 その夜、佐藤さんから「玲瓏タル美玉ソレ径寸ナルモノ夫妻之ヲ守レ」という一筆を頂戴した。批評家ぼくは、多少、勅諭のように思ったものだが、有難く頂いて、今日でもヤス子の財産のひとつになっている。それは画帖の二頁にわたっていた。太宰が準備してくれたいい画帖であった。佐藤さんはつづいて、鶴の絵を描いて下さった。井伏さんからは、おなじく洒脱なる鶴の絵。いいものだった。「大吉祥 鶴鳴九皐」と賛がはいった。太宰は、きわめて薄い色彩で笹を描いて、「春服の色教えてよ揚雲雀」と書いた。絵はさすがに未だしであったが、これも画帖にはいっていい記念になった。批評家亀井君は「唯信」と書き、これは公平にいって、ぼくと同等の無官の大夫であった。こういう場になると、批評家というものは口ほどもなく、まぎれもない馬脚をあらわすものなのである。ぼくもその体験はかさねていた。

 

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佐藤春夫亀井勝一郎井伏鱒二、太宰、山岸の書いた画帖

 

 ぼくは、いつも狼が羊の皮をかぶっているような男だったから、その純真な正体をあらわすことを怖れ、すでに司会者の太宰に囁いて、「今日は泥酔するつもりだが、それでもよかろうか」と訊いておいた。
「今日はいい。安心して飲んでくれ」
 と太宰に激励されたから、安心して、なんとか既成の日本的結婚式の形をやぶろうと努力した。てれ(、、)と窮屈さと野人性と自由欲とはおなじものなのだろうか。人間はいつでも解放されていていいものではないが、しかし、ぼくはソビエットやロシヤの農村の無礼講の結婚式など好きであった。泥酔だけはソビエット風だったのである。そのため日本式の叔母二人を顰蹙(ひんしゅく)させたはずだが、すくなくともこの泥酔は原始民の結婚式の古風に則った泥酔ではあったはずなのである。しかし、この程度にはその日のことを記憶しているくらい、ぼくはなにかの<意識>を捨てることができず、たぶんなにかのサビシサにやりきれなかったのである。

 太宰にさえ「大丈夫か。大丈夫か」と三回も耳打ちされたくらいである。あとになってアマリニヒドスギタと、花嫁に泣かれたくらいだが、女が美しいものを愛しているのに、ぼくは醜悪をきわめたと思う。まさしく「美女と野獣」であった。
 やがて、宴がはてると、仲人方にお帰りを願ったあとで「太宰。オーバー・ザ・リバーにゆこう」とまでいって、じつに愚かに野獣の正体をあらわし、太宰と亀井君から、絶叫された。
「今夜は駄目だ。今夜は駄目だ」
 ハイヤーに押しこまれたことまでよく憶えている。路上の格闘に似ていたが、しかし、そういわれると、案外、すなおに言うことを聞いて自動車に乗ったのである。どんなに泥酔していても意識はあった。その限界をこえなかったのは、太宰たちの友情のためだと思う。オーバー・ザ・リバーにいったらそのあとはいっそうサビシサの果てなん国を探したのにちがいなかった。この夜、ぼくがなにに悲劇を感じていたのか、複雑な極限の感情があったようである。
 尤も、この夜、佐藤さんから戴いた別の句に「丹頂ののどをやぶりて叫びけりとぞ」というのがあった。これはあとになってからだが、さすがに詩人は、なにもの(、、、、)かを洞察しているものだと思って感に堪えたものである。「丹頂が、あの国で、のどをやぶりながら」「叫んでいた」ことにはまちがいなかったようである。ことによると、志保原亭から遠くはなかった上野の森の動物園の檻のなかで、夜の丹頂鶴が天空にむかって、声たかく叫んでいたのかも知れない。人間は時々刻々、ハカナイものであった。

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 【了】

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【参考文献】
・『写真集太宰治の生涯』(毎日新聞社、1968年)
・山岸外史『人間太宰治』(ちくま文庫、1989年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・池内規行『人間山岸外史』(水声社、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】6月29日

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6月29日の太宰治

  1936年(昭和11年)6月29日。
 太宰治 27歳。

 佐藤春夫川端康成から手紙を受け取る。

佐藤春夫川端康成からの手紙

 1936年(昭和11年)6月29日は、4日前の6月25日に、処女短篇集『晩年』を刊行したばかりでした。

 太宰はこの日、文壇の大家である佐藤春夫川端康成の2人から、手紙を受け取っています。

 まず、太宰の師匠筋にあたる佐藤春夫(1892~1964)からは、狂言ノ神ハ東陽編集部ニテ(さいわい)ニ理解サレ好評ニテ九月十日発行の同誌十月号ニ採用ノ事ト決定」と書かれたハガキを受け取ります。太宰は、この佐藤からのハガキに、「待テバ海路ノ日和。千羽鶴。蓑着タ亀」などの文句のある、喜びの礼状を返信しました。

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佐藤春夫

 佐藤が触れている狂言の神は、同1936年(昭和11年)5月10日に42枚を脱稿し、文藝春秋に掲載して欲しいと送付した小説です。送付した4日後の5月14日、芳しくない返信が届いたため、太宰は、5月18日付で佐藤に「中央公論」か「文藝春秋」へ発表できるよう中立ちして欲しい旨を書いた封書を投函します。
 太宰はその後、2、3度、文藝春秋社へ採否の返事を聞きに行きましたが、結局、6月上旬、原稿を突き返されたため、その原稿を抱えて、佐藤宅に相談に行きました。
 狂言の神の掲載が決まる前の6月20日、太宰は佐藤に宛てて、狂言の神の稿料として、「三十円ほどお貸与おねがい申します」という依頼状も出しています。
 太宰念願の狂言の神掲載は、同年10月1日付発行の「東陽」10月号で果たされましたが、「東陽」は、原稿料の貰えない雑誌だったそうです。

 

 同日、太宰は川端康成(1899~1972)から、処女短篇集『晩年』寄贈に対する礼状を受け取ります。

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川端康成

 太宰は、川端の礼状に対し、次のように返信しました。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  神奈川県鎌倉浄明寺宅間ヶ谷
   川端康成

 謹啓
 厳粛の御手簡に接し、わが一片の誠実、いま余分に報いられた 心地にて 鬼千匹の世の中には仏千体もおわすのだと生きて在ることの尊さ 今宵しみじみ教えられました 「晩年」一冊、第二回の芥川賞くるしからず 生れてはじめての賞金 わが半年分の旅費 あわてずあせらず 充分の精進 静養もはじめて可能
 労作 生涯いちど 報いられてよしと 客観数学的なる正確さ 一点うたがい申しませぬ 何卒 私に与えて下さい 一点の駆引ございませぬ
 深き敬意と秘めたる血族感とが 右の懇願の言葉を発せしむる様でございます
 困難の一年で ございました
 死なずに生きとおして来たことだけでも ほめて下さい
 最近やや貧窮、書きにくき手紙のみを多く したためて居ります よろめいて居ります 私に希望を与えて下さい 老母愚妻をいちど限り喜ばせて下さい 私に名誉を与えて下さい 「文學会」賞 ちっとも気にかけて居りませぬ あれは もう二、三度 はじめから 書き 直さぬことには、いかなる賞にも あたいしませぬ けれども「晩年」一冊のみは 恥かしからぬものと 存じます 早く、早く、私を見殺しにしないで下さい きっとよい仕事できます
 経済的に救われたなら 私 明朗の蝶蝶。きっと 無二なる旅の とも。微笑もてきょうのこの手紙のこと 谷川の紅葉 ながめつつ 語り合いたく その日のみをひそかなる たのしみにして、あと二、三ヶ月、くるしくとも生きて居ります
 ちゅう心よりの 謝意と、誠実 明朗 一点やましからざる 堂々のお願い すべての運を おまかせ申しあげます
 (いちぶの誇張もございませぬ。すべて言いたらぬこと のみ。)
              治 拝
 川端康成
  六月二十九日

 太宰がこの手紙を書いたのと同日、内縁の妻・小山初代は、青森に住む太宰のお目付け役・中畑慶吉に宛てて、太宰のパビナール中毒治療についての苦しい心の内を記した封書を投函していました。

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■太宰と初代

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年¥)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】6月28日

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6月28日の太宰治

    1932年(昭和7年)6月28日。
 太宰治 23歳。

 六月下旬、留守中に刑事が二人訪れ、帰宅後すぐ引越しの話となり、翌日、小山誠一も手伝って転居した。

太宰の逃避行とその終焉

 太宰は、内縁の妻・小山初代との生活を送りながら、共産党のシンパ活動(左翼運動)に参加していました。太宰が左翼運動をはじめることになったキッカケや、この頃の様子については、1月9日、2月8日の記事で詳しく紹介しています。

 さて、1932年(昭和7年)6月下旬の少し前、5月17日の出来事から紹介します。

 築地小劇場で照明係をしていた中村貞次郎が中野署に、平岡敏男が淀橋署に、それぞれ取り調べのために呼び出されました。中村は、太宰の小説津軽「N君」として登場する人物です。

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■『津軽』の「N君」こと中村貞次郎

 中村は、「左翼劇場関係でにらまれ」て、5月20日までの4日間、留置所に入れられました。平岡によれば、青森署から照会があったと言われ、津島修治(太宰の本名)のことを聞かれたそうです。

 6月上旬になると、金木の生家にも連日のように特別高等警察(略称:特高警察、特高)が訪問するようになりました。

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 執拗な尋問を受け、太宰が生活費の一部を共産党活動に資金援助しているらしいこと、労働組合全国協議会と青森一般労働組合との連絡係を務めていること、西神田署に留置されたことなどが、長兄・津島文治の耳に入りました。怒った文治は、太宰と初代の結婚を認める代わりに結んだ「覚」の禁止項目「社会主義運動ニ参加シ或ハ社会主義者又ハ社会主義運動ヘ金銭或ハ其ノ他物質的援助ヲナシタルトキ」に該当すると判断し、即刻送金を停止しました。この「覚」については、1月27日の記事で詳しく紹介しています。

 そして、6月下旬。太宰の留守中に刑事2人が訪れたため、帰宅後すぐに引越しの話になり、翌日、小山誠一も手伝って引越しをしました。誠一は、初代の弟です。暗くなってからトラックを頼んできて、夜逃げ同様の引越しだったそうです。
 太宰は、小説東京八景に、「またもや警察に呼ばれそうになって、私は逃げたのである。こんどのは、少し複雑な問題であった」と書いています。

 誠一は、「八丁堀」に引越したと回想していますが、初代の叔父・吉沢祐(本名・吉沢祐五郎)は、「世を忍び、一時、夫婦で私のところに同居した。持ち込んだ世帯道具が屋上の洗濯場を(ふさ)ぎ、管理人から渋い顔をされて八丁堀へ引越した」と回想しています。
 吉沢の回想の通り、一度、家財道具を京橋区新富町3丁目 相馬アパートの吉沢方に運んで同居し、その後、「家財道具を、あちこちの友人に少しづゝ分けて預かってもらい、身のまわりの物だけを持って」、新富町から八丁堀に引越したのだと思われます。
 ちなみに、新富町と八丁堀は、「電車で二停留場位」の距離にありました。

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■初代の叔父・吉沢祐

 この頃の太宰は、共産党からの指示を受けて引越しすることもありましたが、今回の引越しは、太宰自身の意志での引越しだと思われます。
 八丁堀の部屋を借りる際、特高警察の追及を逃れるため、「北海道生まれの落合一雄」という偽名を使っていたといいます。
 太宰が八丁堀で借りた部屋は、材木屋の2階(一説に、芝区湊町2丁目の弘前出身の大工方。また一説には、京橋区内の鉄砲洲に近いAさんの2階)で、「国華ダンスホールのあった盛り場を少し離れて淋しい川岸の通り」にあったといいます。
 通りから長尺の角材等を立て掛けてある路地を曲がって、階下全部が木材置き場になっている薄暗い梯子(はしご)段を登ったところにある、ひどく天井の低い八畳間がそこだったと、小舘善四郎は回想しています。

 この頃は、訪問客も無く、初代や吉沢と、よく鉄砲洲の縁日をぶらついていたそうです。

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■太宰と初代

 太宰が、いきなり特高警察の監視網から姿を消したあと、行方が分からなくなったため、特高警察は金木の生家に協力を要請。長兄・文治は、太宰に厳しく運動離脱の誓約を迫り、「内密に青森に赴き、警察署に出頭して左翼運動からの離脱を誓約すれば、大学卒業まで送金を継続する」という条件を伝えました。

 7月中旬、太宰は単身青森へ向かい、極秘裏に青森市・豊田家の2階の一室で、母・夕子(たね)と長兄・文治と会談。文治は烈しく太宰を叱責し、夕子は涙ながらに哀願したといいます。
 その翌日、文治に伴われ、太宰は青森警察署の特高課に出頭。2日間の取り調べを受け、共産党活動との絶縁を誓約して釈放され、帰京しました。取り調べの結果、起訴され書類送検とされていますが、一応の形式上の手続きに過ぎなかったといわれています。

 これをきっかけに、文治からの生活費の仕送りは、月額120円から月額90円に減額されました。現在の貨幣価値に換算すると、120円は約25~26万円、90円は約19~19万4,000円に相当し、大学生への仕送りの額としては、十分過ぎる金額といえます。

 一方、共産党の側でも、「修治の住居も危くて使えなく」なったという噂が広まり、また、太宰のもとに出入りしていた人達も次々と検挙され、太宰と共産党との繋がりは、自然に絶えることになったそうです。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】6月27日

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6月27日の太宰治

  1947年(昭和22年)6月27日。
 太宰治 38歳。

 山崎富栄、六月二十七日の日記。

「太宰さんと旅をする」

 今日は、1947年(昭和22年)6月27日付の山崎富栄の日記を引用して紹介します。

六月二十七日

 太宰さんと旅をする。
 九時三十分の待ち合わせ。奇妙に表に出るとパッタリお逢いする。あなたが、あまり愛しすぎるので、昨日の朝から私はM。黒いスカートに白のブラウスで、御出立(いでたち)颯爽(さっそう)と東京へ。車中で加納さんにお逢いする。太宰さんのお顔が一瞬赤くなる。丸ビル内の喫茶店で三人談話。駅の前から別れ。京橋でコンテさんに逢い、一時半頃家に帰る。
 髪をまとめていると、太宰さんも帰られ、千草へいく。
 伏目勝ちのお顔。ポカンとした様なときの美しい横顔。好き!
 ポリゴン社からの”お土産があるよ”と(いただ)く。嬉しい一日。

 「加納さん」とは、小山書店の編集部員・加納正吉。1944年(昭和19年)、太宰に津軽を執筆するための津軽旅行を勧めた人物です。

 「コンテさん」とは、富栄の友達・宮崎晴子のニックネームでした。晴子は、富栄の「遺書」にも、その名前が登場します。

 「ポリゴン社からの”お土産があるよ”と戴く」とは、1947年(昭和22年)6月10日付、日記が書かれた17日前にポリゴン書房から刊行された短篇集姥捨(おばすて)のことです。

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 この短篇集姥捨(おばすて)には、列車I can speak姥捨東京八景みみずく通信佐渡たずねびと千代女、『あとがき』を収載。たずねびとが短篇集に収録されるのは、この姥捨(おばすて)が初めてでした。
 太宰は、この姥捨(おばすて)の『あとがき』に、次のように記しています。

姥捨(おばすて)』あとがき

 この短篇集を通読なさったら、私の過去の生活が、どんなものであったか、だいたい御推察できるような、そのような意図を以て編んでみた。ひどい生活であったが、しかし、いまの生活だってひどいのである。そうして、これから、さらにひどい事になりそうな予感さえあるのである。
 巻末の「千代女」は、私の生活を書いたものではないが、いまの「文化流行」の奇現象に触れている

ようにも思われるので、附け加えて置いた。
  昭和二十二年早春

  太宰から「ポリゴン社からのお土産」を貰った富栄は、太宰と出逢う前の「過去の生活」に想いを馳せながら、この短篇集に目を通したのでしょうか。

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 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】6月26日

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6月26日の太宰治

  1945年(昭和20年)6月26日。
 太宰治 36歳。

 「お伽草紙」は、もう二、三十枚で完成となった。

太宰と弟子・菊田義孝(きくたよしたか)

 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲と呼ばれる、アメリカ空軍機B29約150機の、焼夷弾による大爆撃が東京を襲った頃。太宰は、お伽草紙の「前書き」を書き終え、「瘤取り」を2、3枚書き始めていました。

 そして、同年6月26日。太宰は、甲府疎開しながらお伽草紙の稿を継ぎ、残り2、30枚というところまで書き進めていました。
 この日に、太宰が書いたハガキがあります。まずは、引用して紹介します。

  甲府水門町二九 石原方より
  宮城県名取郡生出村南赤石
   菊田義孝(きくたよしたか)

 拝復 御手紙をありがとう。とうとうお百姓になる御覚悟きめた由、大賛成です。私もいま気がかりの仕事を片づけてしまったら、毎日畑仕事に精進するつもり。自分で作らなければ食えない世の中になった。またお逢い出来るかどうか、とにかく奥さんも田舎で安心してお産できるだろうし、それだけでも幸福と思わなければならぬでしょう。
 れいのロジンの「惜別」は朝日新聞社から出版のようにきまりました。同時に支那訳も。「お伽草紙」は、もう二、三十枚で完成、もう一つ中篇を書いて、七月中旬上京の予定也。

  お伽草紙は、6月末に、全4篇200枚が完成されました。

 太宰がハガキを書いた菊田義孝(きくたよしたか)(1916~2002)は、小説家・詩人。宮城県仙台市生まれで、太宰の弟子でした。

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菊田義孝(きくたよしたか)

 菊田は、1937年(昭和12年)明治大学専門部文芸科を卒業。高山書院で雑誌図書の編集に従事していました。
 太宰の弟子・田中英光オリンポスの果実を高山書院で出版したのがきっかけで、太宰に師事することを決意しました。太宰に絶対信従の姿勢で、1941年(昭和16年)8月3日、三鷹の太宰を初訪問します。その後、頻繁に太宰のもとを訪れるようになりますが、菊田は無教会主義的信仰を持ったキリスト者であったため、太宰との会話は、聖書について話すことが多かったそうです。
 太宰は、「キリストの気品に比べれば、ゲーテも土方人足のごとしさ」などと語り、手を変え品を変えユニークなキリスト像を展開したため、菊田に驚きと安堵とを与えました。菊田は当初、聖書を律法的に解釈していましたが、後に、太宰の影響で福音的な読み方もするようになっていきました。菊田は、太宰とキリスト教とのかかわりを記した太宰治と罪の問題』『私の太宰治太宰治弱さの気品』などの著書を出版しています。

 1944年(昭和19年)の大晦日、太宰は菊田夫妻に招かれ、中野の自宅を訪問しています。多くの弟子たちの来訪には快く応じる太宰ですが、自ら弟子の自宅へ赴くことは珍しいです。太宰は、惜別を執筆するための資料調査で、菊田の故郷である宮城県仙台市から帰京したばかりでした。
 太宰は、惜別の資料収集の際に心を捉えた聖諦(しょうたい)の語について菊田に語り、それが翌年に発表されたお伽草子収載の浦島さんに使われていることに、菊田は瞠目(どうもく)したそうです。

 現存する太宰から菊田への16通の書簡の中には、菊田の詩作を励まし、小説を丁寧に批評する、細やかで厳しい、太宰の姿勢を伺うことができます。書簡には、聖書からの引用(空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、…等)や、「私は塚本先生を陛下の教師にしたいと空想しています」の文言が見られます。「塚本先生」とは、塚本虎二のこと。塚本は、太宰が愛読した月刊誌「聖書知識」の主幹でした。

 菊田が所蔵していた太宰の自筆原稿メリイクリスマスは、太宰の妻・津島美知子が、太宰の弟子・小山清に贈呈したのを譲り受けたものでしたが、菊田の没後、青森近代文学館へ寄贈されました。原稿の装丁に使われた布は、太宰の着衣だそうです。

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■菊田が所蔵していた『メリイクリスマス』の自筆原稿

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後七十年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】6月25日

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6月25日の太宰治

  1936年(昭和11年)6月25日。
 太宰治 27歳。

 六月二十五日付で、『晩年』が砂子屋(すなごや)書房から刊行された。

処女短篇集『晩年』刊行

 1936年(昭和11年)6月25日付で、処女短篇集『晩年』が、砂子屋(すなごや)書房から刊行されました。
 『晩年』は、口絵写真一葉、初版500部、菊判フランス装、241ページ、定価2円でした。『晩年』に収録された短篇は、1篇1篇、後の太宰作品にも通ずる、様々な趣向が凝らされ、「短篇のデパート」と例えられることもあります。

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■『晩年』の口絵写真 船橋にて。

 太宰は、『晩年』刊行前に発表したエッセイ「『晩年』に就いて」で、「私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った」「私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く」「さもあればあれ、『晩年』一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ」と書いています。
 左翼運動への没頭、3度の自殺未遂、パビナール中毒と、凄まじい日々を送る中で、原稿に向き合い、「自らの遺書」として発表されたのが、処女短篇集『晩年』でした。エッセイ「『晩年』に就いて」の文章からは、太宰の『晩年』に対する、熱く強い想いが感じられます。「私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った」『晩年』出版の10年前というと、太宰が旧制弘前高等学校に入学した、1027年(昭和2年)のことです。

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■処女短篇集『晩年』 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 それでは、1936年(昭和11年)1月1日発行の「文芸雑誌」第1巻第1号に『もの思う(あし)の題で発表された中の一篇で、太宰が刊行前の処女短篇集『晩年』について熱く記したエッセイ「『晩年』に就いて」を全文引用して紹介します。

「晩年」に就いて

 私はこの短篇集一冊のために、十箇年を棒に振った。まる十箇年、市民と同じさわやかな朝めしを食わなかった。私は、この本一冊のために、身の置きどころを失い、たえず自尊心を傷つけられて世のなかの寒風に吹きまくられ、そうして、うろうろ歩きまわっていた。数万円の金銭を浪費した。長兄の苦労のほどに頭さがる。舌を焼き、胸を焦がし、わが身を、とうてい回復できぬまでにわざと損じた。百篇にあまる小説を、破り捨てた。原稿用紙五万枚。そうして残ったのは、辛うじて、これだけである。これだけ。原稿用紙六百枚にちかいのであるが、稿料、全部で六十数円である。
 けれども、私は、信じて居る。この短篇集、「晩年」は、年々歳々、いよいよ色濃く、君の眼に、きみの胸に浸透して行くにちがいないということを。私はこの本一冊を創るためにのみ生れた。きょうよりのちの私は全くの死骸である。私は余生を送って行く。そうして、私がこののち永く生きながらえ、再度、短篇集を出さなければならぬことがあるとしても、私はそれに「歌留多」と名づけてやろうと思って居る。歌留多、もとより遊戯である。しかも、金銭を賭ける遊戯である。滑稽にもそれからのち、さらにさらに生きながらえ、三度目の短篇集を出すことがあるならば、私はそれに、「審判」と名づけなければならないようだ。すべての遊戯にインポテンツになった私には、全く生気を欠いた自叙伝をぼそぼそ書いて行くよりほかに、路がないであろう。旅人よ、この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という灯台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨をからだに巻きつけて入水したいものだとさえ思っている。
 さもあらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ。――一瞬間。ひとは、その生涯に於いて、まことの幸福を味い得る時間は、これは百米十秒一どころか、もっと短いようである。声あり。「嘘だ!不幸なる出版なら、やめるがよい。」答えて曰く、「われは、いまの世に二つとなき美しきもの。メヂチのヴイナス像。いまの世のまことの美の実証を、この世に残さんための出版也。
 見よ!ヴイナス像の色に出づるほどの羞恥のさま。これ、わが不幸のはじめ。また、春夏秋冬つねに裸体にして、とわに無言、やや寒き貌こそ、(美人薄命、)天のこの冷酷極りなき嫉妬の鞭を、かの高雅なる眼もてきみにそと教えて居る。」

 6月22日の記事で、出来上がったばかりの『晩年』を 師匠・井伏鱒二に送付した際、『晩年』の帯の広告文に、井伏の太宰宛の手紙を無断で拝借したことを、手紙文中で謝罪したエピソードを紹介しましたが、帯の裏表紙側に広告文として使用されていたのは、太宰の師匠筋にあたる佐藤春夫が、太宰の親友・山岸外史に宛てて書いた親書でした。

 しかし、檀一雄浅見(ふかし)は、これを書いたのは太宰だと証言していて、『太宰治全集』の書簡集にも、該当の書簡は見当たりません。

佐藤春夫昭和十年初夏、著者と共通の友人、山岸外史に与えし親書。
 拝呈。
 過刻は失礼。「道化の華」早速一読、甚だおもしろく存じ候。無論及第点をつけ申し候。「なにひとつ真実を言わぬ。けれども、しばらく聞いているうちには思わぬ拾いものをすることがある。彼等の気取った言葉のなかに、ときどきびっくりするほどの素直なひびきの感ぜられることがある。」という篇中のキイノートをなす一節がそのままうつし以てこの一篇の評語とすることが出来ると思います。ほのかにあわれなる真実の栄光を発するを喜びます。恐らく真実というものはこういう風にしか語れないものでしょうからね。病床の作者の自愛を祈るあまり、慷齊主人、特に一書を呈す。何とぞおとりつぎ下さい。
(五月三十一日夜、否、六月一日朝。午前二時頃なるべし。)
           佐 藏 春 夫
  山 岸 外 史 様
          硯 北

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 ちなみに、帯の最後「佐藏春夫」「藏」「藤」の誤植ですが、初版本の雰囲気が伝わればと、そのまま引用しました。

  太宰は、『晩年』刊行前に発表したエッセイ「晩年」に就いてのほかにも、1938年(昭和13年)2月1日発行の「文筆」にエッセイ他人に語る(のちに「『晩年』に就いて」と改題。前述のエッセイとは、同名異作品)を発表したり、1941年(昭和16年)6月20日発行の「文筆」夏季版にエッセイ「晩年」と「女生徒」を発表したり、処女短篇集『晩年』について繰り返しエッセイを執筆したりと、後年になっても、太宰にとって思い入れのある作品集だったことが伺えます。

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■処女短篇集『晩年』 2019年、著者撮影。

 最近の本は、発行部数が多く、手間がかかるため「検印廃止」となっていますが、昔の本の奥付には、著者が発行部数を確認するために押した印「検印」がありました。もしかしたら、この本に押された印は、太宰が押したかもしれない…と想像すると、とても感慨深いです。

◆『晩年』収録作品については、過去記事で紹介しています!

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
川島幸希『対談資料「太宰治・著書と資料をめぐって」』(山梨県立文学館、2019年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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