【日めくり太宰治】12月3日
12月3日の太宰治。
1942年(昭和17年)12月3日。
太宰治 33歳。
井伏鱒二が徴用解除で帰国した。
井伏の徴用解除と母・夕子 の逝去
1942年(昭和17年)11月20日から11月30日までの間、太宰は、妻・津島美知子の実家である、甲府の石原家に滞在し、翌1943年(昭和18年)1月付で刊行される雑誌の新年号に掲載する3つの短篇『黄村先生言行録』『故郷』『禁酒の心』をここで執筆、脱稿しています。
太宰が甲府に滞在していたのと、ほぼ時同じくする同年11月22日、太宰の師匠・井伏鱒二が徴用解除で帰国しました。太宰は、甲府から帰京した同年11月30日以降、毎日のように井伏宅を訪問し、翌月の12月3、4日頃には、井伏と共に熱海に遊びにも行っています。
太宰は、高梨一男に宛て、同年12月4日付で、次のようなハガキを書いています。
東京府下三鷹町下連雀一一三より
東京市渋谷区幡ヶ谷原町八八八
高梨一男宛
拝啓 三十日に帰りました。そうして、すぐ井伏さんのとこへ行って、毎日あそんで、とうとう一緒に熱海へ行って来ました。ですから、ただいまちょっと疲れて居ります。十日すぎに、「実朝」の旅に出発しようと思っていますが、その頃になると貴兄もおいそがしくなるでしょうし、旅行は来年までのばしましょうか。貴兄の御都合次第で、いいのですけど。
とにかく。十日頃にでも、また逢いましょうか。お指図を下さい。 不一。
高梨との旅行の約束は、同年12月8日の夕刻、急遽実行に移されることになり、太宰は、一番弟子・堤重久も誘って熱海に赴きますが、旅館の玄関を登って座敷に入った途端、太宰の次兄・津島英治から知らせを受けて美知子が打った母・津島
電報を受け取った太宰は、すぐに東京に引き返し、急遽、単身帰郷します。

■太宰の母・津島
話は前後しますが、井伏の帰国を知り、連日のように訪問した太宰ですが、自らの抱える病気が原因で、ほかの文士たちと同様に徴用されず、1人残されたことに対するコンプレックスも、ずっと抱えていたかもしれません。
井伏は、肺湿潤の診断を受けたために、思いがけず徴用を逃れることになった太宰について、『太宰 治』に収録されている『戦争初期の頃』という文章で回想しているので、引用して紹介します。
昭和十六年十一月、私は陸軍の徴用令書を受取った。当時、徴用令書はほとんど旋盤工にされていた。だから私も、旋盤工にされるのだと思って、出頭を命じられた本郷区役所へ出かけると、武田麟太郎が私の先に門をはいって行った。控室にはいって行くと太宰君がいた。これを見て私は、陸軍も選りに選って資格の危い旋盤工を徴用したものだと思った。日頃の行状から見て、武田君が勤勉な職工になれそうにも思えない。太宰君は健康が悪く、また手先の仕事に自信がなくて、日頃から自分は熊の手のように無器用だと云っていた。
しかし徴用されたのは旋盤工になるためでなく、南方へ連れて行かれるためだとわかった。南方の瘴癘 の地へ行くのだから、不具の者または痼疾 のある者は、申し出よという云い渡しがあった。すると、これに応じる人が可成りいた。太宰君も申し出た。そのうちで、たいていの人はお国のために働ける体力があると診断を下されたが、軍医は太宰君の胸に聴診器を当てると、即座に、「これは駄目々々」と診断した。たぶん太宰君は、自分の痼疾 に対して複雑な気持を味わったことだろう。と云うよりも、このときくらい私は太宰君の痼疾 を羨んだことはない。
私はマレー派遣軍徴員として徴用され、昭和十七年の十二月までシンガポールにいた。したがって徴用一年間というものは、太宰君について何の知るところもない。ただ、軍事郵便が通じるようになってから、たまに来る太宰君の手紙で事情を察するだけであった。
月日は忘れたが、ロイドロードという坂町の宿舎に移って間もない頃、私は戦地で初めて太宰君からの手紙を受取った。その手紙に、田中英光という新人を見つけた喜びが書いてあった。まだ開花してはいないけれども真に新しい小説家を見つけたと云ってあった。その小説は「オリンポスの果実」という題で、「文学界」編輯当番の河上徹太郎に見てもらい、編輯同人の林房雄の賛成もあって、次の号の「文学界」に載ることになったので、是非とも読んで感想を知らせてくれと書いてあった。
その頃、輸送船は無事に航海を続けていた。「文学界」も毎月号が正確に届いていた。私は「オリンポスの果実」を読んだことは覚えているが、どんな感想を太宰君に書き送ったか覚えない。
■田中英光
矢張りその頃、太宰君のくれた手紙に、「自分は孤高でありたいが、こんなような時代にはそれが難しい」と云ってあった。私は陣中日記に「太宰君は孤高でありたいと手紙をよこした」と書きこんで、日本の雑誌か何かに発表した。すると太宰君から、「孤高でありたいと云ったのは事実だが、あんなことを発表されては困る。はずかしくてやりきれない。なんて気障な男だと人から思われる」という意味の抗議を云って来た。私の書きかたが無神経だとは云ってなかったが、煎じつめればそう云ってよこしたことになりかねない。
当時、太宰君は徴用を逃れたことを、何か後ろめたいことのように感じていたように思われる。何か身を小さくしている風で、私たちが東京駅を発つときにも姿を見せなかった。資産家に生れたということで、いつも後ろめたさを感じていた性根にも通ずるだろう。
もし、あのとき太宰君が徴用されて、派遣軍徴員になっていたらどうだろう。「惜別」も「ヴィヨンの妻」も「トカトントン」も、この世に出なかったろう。
井伏は「私たちが東京駅を発つときにも姿を見せなかった」と書いていますが、太宰はエッセイ『日記抄』に「皆様を見送りに東京駅に出掛け」たと書いていました。

■井伏宅で将棋を指す井伏と太宰
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月2日
12月2日の太宰治。
1930年(昭和5年)12月2日。
太宰治 21歳。
田部 あつみの葬儀と中畑の後始末
1930年(昭和5年)11月28日、東京帝国大学1年生の太宰と、銀座のカフェー「ホリウッド」の女給・
この事件は、「東大生と女給が心中」という見出しで、新聞でも報道されました。
同年11月30日、あつみの遺体は検死のあと、鎌倉の火葬場で
あつみの葬儀は、同年12月2日に行われました。

■高面順三(22歳)
葬儀が行われたのと同日、高面は、太宰の長兄・津島文治の命を受けて、事件の後始末のために上京していた

■太宰と中畑慶吉
私は警察署の宿直室で、偶然にも金木生れの刑事さんに立会人になってもらい、田部君(著者注:高面のこと)に「今後は一切、無関係」という意味のことがらを認めた念書を入れてもらいました。その代償として、預ってきた金から百円をやりました。
中畑は、鎌倉警察署の宿直室で、太宰と同郷の青森県金木町出身の警部補・村田義道の立ち会いのもと、高面に100円(現在の貨幣価値に換算すると、約190,000円~200,000円相当)を渡し、いっさいを解決しました。「山口県玖珂郡米川村大字西長野茅 高面順三」の署名と捺印のある「昭和五年拾弐月弐日」付の「中畑慶吉殿」宛の誓約書には、
一金壱百円也
右ハ今般自分の内縁の妻田部シメ子に関して御恵与下され候事確 に拝受仕り候
右事件に付き本籍地なる親元田部島吉に電信にて問合せ候処自分に一切任せるとの返電に依り後日該事件に対しては絶対自分責任を持ち苦情など申上る事無くて候
と書かれていました。

■中畑宛に書かれた高面の誓約書
津島家の人に相手にされず、修治との面会も許されなかった高面は、あつみの骨壺を胸に抱き、最後の別れに七里ヶ浜の砂浜で写真撮影をします。あつみの故郷・広島へ高面が遺骨と一緒に持ち帰ったその写真は、吹きさらしの浜辺で白布に包まれた骨箱を首から提げ、絣の着物の高面が1人、潮風に吹かれながら呆然として立ち尽くしている、見るも哀れなものだったそうです。
あつみの遺骨は、広島県草津にあるあつみの菩提寺・京専寺に埋葬されました。墓碑には、俗名も戒名も刻まれていないそうですが、菩提寺の過去帳には、「昭和五年十一月二十八日、釈妙晃信女、島吉ノ子、田部シメ子、十九歳」と書かれているそうです。「十九歳」というのは数え年で、あつみが亡くなったのは17歳で、あと5日後には18歳の誕生日を迎えるという時でした。

■田部あつみ(17歳)
高面はのちに、広島でも有数の小物問屋の令嬢・ハルエと結婚し、長女・康子、次女・陽子、長男・明紀の3人の子供にも恵まれます。しかし、1945年(昭和20年)8月6日の午前8時15分、広島に投下された原子爆弾によって、妻、長女、長男と共に爆死しました。次女は、学童疎開のため一緒には住んでいませんでした。
中畑と高面との間で誓約書が交わされた翌日の朝、中畑の宿を訪れた人物がいました。再び、『太宰治に出会った日』に収録されている中畑の回想『女と水で死ぬ運命を背負って』から引用します。
九時頃でしたか、田部某の友人と称する三人の男が宿を訪ねてきました。用件は、「この『講談倶楽部』にも出ているとおり、俺たちの友人の女房を殺した津島という男の実家は百万長者じゃないか。三万円寄越せ」なんです。
三人の風態はといえば、リボンのつぶれた中折帽をかぶったチンピラです。私はハッキリと言ってやりました。
「私は頼まれて来ただけなんだ。そういう交渉だったら、どうぞ国許のお兄さんと御自由におやり下さい」とね。
連中はずい分ねばり、午後三時頃までいました。結論は、「では、大分まで納骨に行く汽車代をくれ」「ようがす」ということになりました。で、汽車代はそんなにしないが百円渡してケリをつけました。昔の雑誌は、よく附録に”全国長者番付一覧”がのっていましたが、連中はそれにのっていた津島文治さんの名前を見てユスリに来たのでしょう。
ユスリに来たチンピラが受け取ったのは、高面が受け取った額と同じ「百円」でした。
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月1日
12月1日の太宰治。
1937年(昭和12年)12月1日。
太宰治 28歳。
十二月一日発行の「文藝」十二月号に「思案の敗北」を発表。
『思案の敗北』
今日は、太宰のエッセイ『思案の敗北』を紹介します。
『思案の敗北』は、1937年(昭和12年)10月27日頃までに脱稿。同年12月1日発行の「文藝」第五巻第十二号の「随筆」欄に発表されました。この号には、ほかに「夏草」(檀一雄)、「檀一雄の小説」(芳賀檀)、「檀一雄の出征を送る」(緑川貢)、「檀一雄への手紙」(高橋幸雄)が掲載されていました。
『思案の敗北』
ほんとうのことは、あの世で言え、という言葉がある。まことの愛の実証は、この世の、人と人との仲に於いては、ついに、それと指定できないものなのかもしれない。人は、人を愛することなど、とても、できない相談なのではないのか。神のみ、よく愛し得る。まことか?
みなよくわかる。君の、わびしさ、みなよくわかる。これも、私の傲慢の故であろうか? 何も言えない。
中谷孝雄氏の「春の絵巻」出版紀念宴会の席上で、井伏氏が低い声で祝辞を述べる。「質実な作家が、質実な作家として認められることは、これは、大変なことで、」語尾が震えていた。
たまに、すこし書くのであるから、充分、考えて考えて書かなければなるまい。ナンセンス。
カントは、私に考えることのナンセンスを教えて呉れた。謂わば、純粋ナンセンスを。
いま、ふと、ダンデズムという言葉を思い出し、そうしてこの言葉の語根は、ダンテというのではなかろうか、と多少のときめきを以て、机上の辞書を調べたが、私の貧しい英和中辞典は、なんにも教えて呉れなかった。ああ、ダンテのつよさを持ちたいものだ。否、持たなければならない。君も、私も。
ダンテは、地獄の様々の谷に在る数知れぬ亡者たちを、ただ、見て、とおった。
人は、人を救うことができない。まことか?
何を書こうか。こんな言葉は、どうだ。「愛は、この世に存在する。きっと、在る。見つからぬのは、愛の表現である。その作法である。」
泣き泣きX光線は申しました。「私には、あなたの胃袋や骨組だけが見えて、あなたの白い膚 が見えません。私は悲しいめくらです。」なぞと、これは、読者へのサーヴィス。作家たるもの、なかなか多忙である。
ルソオの懺悔録のいやらしさは、その懺悔録の相手の、(誰か、まえに書いたか?)神ではなくて、隣人である、というところに在る。世間が相手である。オーガスチンのそれと思い合わせるならば、ルソオの汚さは、一層明瞭である。けれども、人間の行い得る最高至純の懺悔の形式は、かのゲッセマネの園に於ける神の子の無言の拝跪 の姿である、とするならば、オーガスチンの懺悔録もまた、俗臭ふんぷんということになるであろう。みな、だめである。ここに言葉の運命がある。
安心するがいい。ルソオも、オーガスチンも、ともに、やさしい人である。人として、能 うかぎり、ぎりぎりの仕事を為した。
私は、いま、ごまかそうとしている。なぜ、ルソオの懺悔録が、オーガスチンのそれより世人に広く読まれているか、また読まれて当然であるか。
答えて曰く、言うだけ野暮さ。ほんとうだよ、君。
宿題ひとつ。「私小説と、懺悔。」
こう書きながら、私は、おかしくてならない。八百屋の小僧が、いま若旦那から聞いて来たばかりの、うろ覚えの新知識を、お得意さきのお鍋どんに、鹿爪らしく腕組して、こんこんと説き聞かせているふうの情景が、眼前に浮んで来たからである。けれども、とまた、考える。その情景、なかなかいいじゃないか。
どうも、ねえ。いちど笑うと、なかなか、真面目な顔に帰れないもので、ねえ、てのひらを二つならべて一掬 の水を貯え、その掌中の小池には、たくさんのおたまじゃくしが、ぴちゃぴちゃ泳いでいて、どうにも、くすぐったく、仁王立ちのまま、その感触にまいっている、そんな工合いの形である。
いままで書いて来たところを読みかえそうと思ったのであるが、それは、やめて、(もう笑ってはいない。)私の一友人が四五日まえに急に死亡したのであるが、そのことに就いて、ほんの少し書いてみる。私は、この友人を大事に、大事にしていた。気がひけて、これは言い難い言葉であるが、「風にもあてず」いたわって育てた。それが、私への一言の言葉もなく、急死した。私は、恥ずかしく思う。私の愛情の貧しさを恥ずかしく思うのである。おのれの愛への自惚れを恥ずかしく思うのである。その友人は、その御両親にさえ、一ことも、言わなかった。私でさえこんなに恥ずかしいのだから、御両親の恥ずかしさは、くるしさは、どんなであろう。
権威を以て命ずる。死ぬるばかり苦しき時には、汝の母に語れ。十たび語れ。千たび語れ。
千たび語りても、なお、母は巌 の如く不動ならば、――ばかばかしい、そんなことないよ、何をそんなに気張っているのだ、親子は仲良くしなくちゃいけない、あたりまえの話じゃないか。人の力の限度を知れ。おのれの力の限度を語れ。
私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。ああ、私の愛情は、私の盲目的な蟲けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。
路を歩けば、曰く、「惚れざるはなし。」みんなのやさしさ、みんなの苦しさ、みんなのわびしさ、ことごとく感取できて、私の辞書には、「他人」の文字がない有様。誰でも、よい。あなたとならば、いつでも死にます。ああ、この、だらしない恋情の氾濫。いったい、私は、何者だ。「センチメンタリスト。」おかしくもない。
ことしの春、妻とわかれて、私は、それから、いちど恋をした。その相手の女のひとは、私を拒否して、言うことは、「あなたは、私ひとりのものにするには、よすぎます。」私は、あわてて失恋の歌を書き綴った。以後、女は、よそうと思った。
何もない。失うべき、何もない。まことの出発は、ここから? (苦笑。)
笑い。これは、つよい。文化の果の、花火である。理智も、思索も、数学も、一切の教養の極致は、所詮、捧腹絶倒の大笑いに終る、としたなら、ああ、教養は、――なんて、やっぱりそれに、こだわっているのだから、大笑いである。
もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。
約束の枚数に達したので、ペンを置き、梨の皮をむきながら、にがり切って、思うことには、「こんなのじゃ、仕様がない。」

【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月30日
11月30日の太宰治。
1947年(昭和22年)11月30日。
太宰治 38歳。
十一月に書かれた、山崎富栄の日記。
太宰に付き添う富栄
今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)11月24日から11月30日までに書いた日記を紹介します。
今回紹介する日記の直前、同年11月17日から11月23日までに書いた日記については、11月19日の記事で紹介しています。
十一月二十四日
主なる汝の神を試むべからず。
わがために人汝らを罵 り、また責め、詐 りて各様の悪しきことを言うときは汝ら幸福なり。
義
悪しき者に抵抗 うな
汝らの仇を愛し
汝らを責むる者のために祈れ。
汝らもし人の過失を免 さば
汝らの天の父も汝らを免 し給わん。
隠れたるに在 ます汝らの父
隠れたるに見たまう汝の父
われに対 いて主よ主よという者
ことごとくは天国に入らず、ただ
天にいます我が父の御意 を
おこなう者のみ、これに入るべし。
雨降り漲 り、風ふきて其の
家をうてど倒れず
これ磐 の上に建てられたる故なり。
それは学者らの如くならず。
権威ある者の如く教え給える故なり。
11月24日付の日記に書かれているのは、『新約聖書』ー「マタイ福音書」第5章から第7章の中からの抜粋です。
太宰は、1936年(昭和11年)の東京武蔵野病院への入院体験をもとに書いた小説『HUMAN LOST』で、次のように記しています。
聖書一巻によりて、日本の文学史は、かつてなき程の鮮明さをもて、はっきりと二分されている。マタイ伝二十八章、読み終えるのに、三年かかった。マルコ、ルカ、ヨハネ、ああ、ヨハネ伝の翼を得るは、いつの日か。
太宰は、その作品の中で『新約聖書』をたびたび引用していますが、「マタイ福音書」からの引用が最も多く、その中でも特に第6章の引用回数が群を抜いています。「マタイ福音書」の第5章から第7章は、
同年3月27日、はじめて太宰と富栄が出逢ったとき、太宰は富栄に「聖書ではどんな言葉を覚えていらっしゃいますか」と尋ねたといいます。YМCA(キリスト教女子青年会。日本では1905年に始まった。初代会長は津田梅子)に通い、聖書や英会話にも通じていた富栄ですが、太宰から
十一月二十五日
いい反省になった。斜陽の検印(二万)を持って修治さんと御一緒に東京へ出掛ける。車中、吉祥寺で乗り換えて坐る。(修治さんの御体を思って、立ち通しではお疲れになるのもひどいのではないかしらと考えたので)
文芸春秋をお読みになっておられた。私は拝借した苦楽の隅田川についてのところをよむ。読み切らぬうちにお茶の水へつく。区役所前まで歩いて、本郷区役所に御一緒に入る。
私の戸籍(山崎入籍)の手続きが終わるまで待っていてくださる。私のような健康な者にも重く感じられるオーバーをお召しになっていられるので、心配なのだけれど、八雲まで歩くと仰言るので、ボツボツ出掛ける。
帝大前あたりから、奥様の御弟様がいられるので、万一のことがあるといけないからと、いつものように左側と、右側の歩道にお別れしていく。それこそ堂々とした歩きようではなく、少しうつむき加減にして、大学の方を眺め廻しながら、コツコツと軍靴を運んでいらっしゃる。
ニ、三間後ろの方から歩く心もちで、私は左側の舗道から修治さんをみつめていました。
肺病。不治の病だと信じ切っていらっしゃる。でも、あんなに事件が重なってあったのに、生きていられる。
神様があの方についていられるような気がしてしようがない。
水菓子屋さんの横を左に折れて、二又道を右に進み、二つ目の横丁を左に曲がると、すぐ八雲書店が見つかった。
亀島さんが二階から下りて来る。
「サッちゃんが表にいるよ」
「ああ、どうぞお入り下さい」
「先日は失礼いたしました。また御本を御心配下さいまして有難うございました」と”道鏡”を御送りくださった御礼を述べる。
社長室兼応接室のようなところに通されて、一ぷくなさる。
全集の御相談に時をすごしてから、編集部の皆さんと談話。
ここの編集部の方々のチームワークはとても静かで美しいバランスがあって、うれしかった。
一人ひとりの誠実なものが、私達の身に沁むような思いがした。
みなさん、いい人達だ。
三時に新潮と御約束があるので、急いで車を拾い、乗りつける。
小雨の中を、あのダラダラ坂を歩くのはお病身の修治さんには大敵々々。
野平さんが二階からおりてくる。社長さんだという若僧(悪いかな)とつまらないお話。
林さんもチラリチラリ用事を持って出入りなさる。少し太ったような感じ。
顔色の蒼い人だと思っていたけど、今日お目にかかったら、天然の頬紅が広くついているので、ガッカリした。太宰さんも私も、あまり赤ら顔の方ではないからかもしれないけど。すぐに席を千歳に移して飲みはじめる。ここのマダムは、はじめ十八、九位のひとかと思っていたら、どうも私位の年配の方らしい。何しろ断髪なのでね。
夜分、眼鏡をかけないので、あまり周囲の人に注意をはらわなかったら、西田さんに御挨拶されて、失礼してしまった。
修治さんがおきらいなので、よしているので時々これからも失礼することがあるのではないかしら。気をつけなければいけない。
ビールにジンをおのみになって、珍しく先にちょっと横におなりになる。
我が身に覚えのない病いを心配してはいるけれど、どうしたらよいやら分からない。
病気について、創作上の苦悩について、家庭について、血のつながりのことや、もちろん芸術のことについてではあるけれど、黙って悩んでいらっしゃる御様子を拝していると、サッちゃんには何故一つでもお役に立つことがないのかしらと、いらいらして、修治さんが可哀想になってくる。
修治さんは、わたしなどどんなに身も心もささげつくしておつかえしても、心の癒されることはないのでしょう。
よく「天才だよ」と仰言るけれど、人間としたら、一番神に近い苦悩を負って生きていられるおかただと思う。
母のように、乳母のように、妹のように、姉のように、子供のように、恋人のように、妻のように、愛して、愛して、愛していく。ほんの瞬間の憩いにでも、私がなることができれば、わたしはそれで、もういいの。
「貴女はお酒が強いですね」と言われながら、一行、新宿にいく。
三鷹まで野平さんが送ってきて下さる。お泊りになるものとばかり思っていたら、今日は帰りますと野平さんは、夜おそくお帰りになる。
蒼い顔をなさっていたし、平常よりも深く飲んでいられた様子だったし、御気分でも悪くなって来られたのでしょう。
注射をしてから、おやすみになる。

■三鷹の若松屋で 左から太宰、女将、新潮社の担当編集者、野原一夫と野平健一。撮影:伊馬春部。
十一月二十七日
お家へお帰りになっても、記者諸兄のために休養なされないからと、ずーっと横になったまま朝を迎える。
私のジャンバーを「丁度いいね」などと仰言り乍 ら、お召しになる。背広はあまり改まるし、第一、長時間着ていると、肩の凝ってくるものだ。
背広というものは、あれができたばかりの昔は、商人が着用するものだったとか、何かの本に書いてあったけど、私はМだし、陽気も急に冬めいて寒いので、「着物がいいだろう」と和服にする。
洋服だと、ガタビシ用事ができるけど、着物はあまり動くと、第一に衿もとが開いてきていやなものです。
三時ごろ野原さんを先頭に、井出さんと、お友達の方が約束通りおみえになる。
皆様御手持ちのお酒や、ハムや水菓子を広げて会は始まる。
随分お飲みになった。
いつも酒席の前には注射してから、
「お上手にお飲み下さいね」と申し上げるのだけれど、御気性の勝ったお方なので、御無理なされるのだ。
人のよろこびを我がものと思い、人の苦しみを身のものと感じとる。
汝を愛するが如く汝の隣人を愛せ。
神のみことばは悲しい。

■山崎富栄
十一月二十八日
昨夜、野原さんが、第一に腹痛。
実は私も痛んでいたのだけれど、黙っていた。
お薬のことで、あれこれ悲喜劇があってから、修治さんも痛いと言われて、とうとう本病人になってしまわれた。
アスピリン、健胃固腸剤、スパスモヒンをやたらに飲まされて、おふとんを被る。汗が体中にじっとりと出てくる。お熱も八度五分位はおありになったかもしれない。肺の方へ来ないかと、随分気をもむ。
野原さんがお帰りのあと、片付けも終わって、私も横になったけど、心配でたまらない。脈をとって、私のと合わせる。私のよりせいぜい数回多い位なので少し安心して、冷たいタオルを額におのせし、代わりをおいてやすむ。
カルモチンをお飲みになったせいか、お熱のせいか、ぐっすりと深く眠っていらっしゃる。

■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。
十一月二十九日
朝、すっかりお元気になって、お目覚めになってくださる。うれしいと思う。
早速おかゆに玉子を入れて召し上がる。
どうしてもお酒をお放しにならない。何かこれに頼って生きているお気持がおありになるのでしょう。
湯タンポを入れて、とっても長く、とっても深い眠りにはいられる。
じーっとお顔を眺めていると、私が修ちゃんのお母様かなんかのような気持ちがしてきて、「この子のために、この子のためには、どんな苦しみでも――」と胸の中があつくなってくる。
そんな気持ちでいるときに、突然お目ざめになって、「サッちゃん」などと言われると、「ううん?」なんて、まるで病気の甘えっ子に答えるような返事が出てしまって、心の中で赤面している。
御冗談ばかり、よく仰言られるので、ときおり、私も本気になってしまうと、寝ながら、掌の上で手紙の往復が始まる。
今日は少しも理解できない、ややこしいお話のようなので、紙とエンピツをお渡ししたら「シンジテ」と「バカ」と書かれた。二人で笑う。
「バカ」ということばは、最も嫌いなひとと、最も愛しいひとに使うことができるのだと思う。
夕方、寝ながら、私が再読している「斜陽」をとりあげて読んでいられたので、とりかえた湯タンポのお湯をもって、お洗濯にいく。
ねまきと、ワンピースを洗って、お部屋へ戻ってみると、ワイシャツを着ていらっしゃるので、「どうかなすったの、怖かったの?」というと、
「いや、斜陽を読んだら、いきり立ってきたんだ。こうしちゃいられない。もっといいものを書かなくては。後から来る人達のために、僕はもっといいものを書かなくてはならないんだ」
お召しになるお手伝いをしながら、
「本当におからださえ普通のひとのようであったなら、どれほど助かることか分からないのになあ、なんとかして快 くなっていただきたい」
⁂ ⁂ ⁂
上水の道を歩くお姿は、蒼白くて、軍靴が重そうで、オーバーも重そう。微風にさえも向かえないような、やるせない感じでした。可哀想で、情けなくて、男の友達のように、オイ君、大丈夫かい、と肩を叩いたら、泣き出してしまわれるような、心細い寂しさが私を掩 ってしまいました。
セハランチンの注射液がおありになるとかなので、太宰さんを愛している大勢の男のひとのために、大勢の女のひとのために、一日でも早く養生して、注射してみて下さるよう御願いする。
決定的に自分の体はもう駄目だと思っていられるけど、そんなこと分かりませんわ。自らを愛してこそ、ひとも愛せるものではないでしょうか。
滅私奉公なんて、第一自分がなくてはできませんもの。
頑張って下さい。修ちゃんの命は私が預かっているのですけど、私の命は、修ちゃんに預かっていただいているのですもの。

■太宰と知り合った頃の山崎富栄
十一月三十日
父から返事が来た。
⁂ ⁂ ⁂
修治様
私が狂気したら殺して下さい。
薬は、青いトランクの中にあります。
十一月三十日 富栄
「父から返事が来た。」とは、11月19日の記事で紹介した、富栄が11月20日付で両親に宛てて書いた手紙に対する返事のことです。太宰との愛人関係を認めて欲しいと両親に訴えた富栄ですが、父・山崎晴弘から届いた手紙には、富栄を戒める言葉が綴られていました。
11月30日付の日記は、「修治様 私が狂気したら殺して下さい。薬は、青いトランクの中にあります。」という言葉で締めくくられました。
【了】
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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・佐古純一郎 編『太宰治と聖書』(教文館、1983年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月29日
11月29日の太宰治。
1930年(昭和5年)11月29日。
太宰治 21歳。
午前八時頃、出漁しようとしていた
鎌倉腰越町小動崎 での情死事件
1930年(昭和5年)11月28日夜半、太宰と銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給・

■
まずは、太宰とあつみ失踪後について、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中』から、あつみと婚約し、同棲していた
同年11月25日の夜から、高面の元にあつみは戻っていませんでした。
高面順三があつみの帰宅をまちわびていた。(中略)翌日、順三はホリウッドへあつみを迎えに出掛けた。朋輩の女給たちが帰ってゆくのに、あつみはなかなか姿を見せなかった。折よく表に出てきたドア・ボーイに訊ねたら、「きょうはお休みしたらしい」という。それを聞いて順三は愕然とした。こんなことは今までに一度も無いことであった。
一睡もせず朝を迎えたが、とうとうあつみは帰って来ない。無断で外泊なんて考えられないことだったし、事故にでも遭ったのかと心配で、順三は居ても立ってもおられぬ思いであった。鈴村夫妻の思惑もあって、この日の午後になっても帰って来ないときは、やむを得ないから警察に家出人捜索願いを提出し、捜査を依頼することにした。二十七日、二十八日とも依然としてあつみの消息は掴めない。鈴村かよし子のどちらかが自宅に待機して警察からの連絡を待ち、順三は心当りの場所へ出向いて、それこそ必死であつみの行方を探しつづけた。

■高面順三(22歳)
同年11月29日の午前8時頃、畳岩の上にいた2人は、漁に出ようとしていた漁師に発見されます。
警察から連絡がはいったのは、二十九日の午後であった。鎌倉の腰越で心中があったが、それが田部あつみらしいので至急確認のため、鎌倉署まで来てほしい、という意味の通報であった。鈴村から話を聞いた順三は、全身の血潮が音をたてて一度に退いてゆくのを感じた。
鎌倉署へは、腰越の現場から遺留品が届けられていた。どうか他人の空似であってほしい、との順三の願いもむなしく、腕時計、櫛、財布など、あつみが日頃身につけていた持物に間違いなかった。帯だけは、鈴村の妻よし子から借りていたものなので、丁寧にたたんで風呂敷に包んであった。
その日の朝、腰越の畳岩で発見されたとき、女性のほうは、着物の裾の上から脚と足頸 のあたりを腰紐で結び、頭を崖下のほうに、足を海に向けて倒れていたが、両手を合掌するかたちに組み、まるで眠ってでもいるように安らかな死顔であったという。警察の係官から、あつみと心中を図った若い男は、帝大の学生で、七里ヶ浜の恵風園に収容されていて、まだ昏睡中だが、医師の診断では生命に別条ないことなどが告げられた。

■田部あつみ(17歳)
漁師に発見された太宰は昏睡状態、あつみは既に絶命していました。
太宰は1人、七里ヶ浜にある「恵風園療養所」東第一病棟第二号室に収容され、所長・中村義雄の手当てを受けます。

■「恵風園療養所」全景 1930年(昭和5年)秋頃に撮影。
太宰の実家・津島家では、この出来事を、鎌倉材木座に一軒家を借り、週1回、サナトリウム「額田保養院」に通って結核療養していた夫・小舘貞一を訪れて滞在中だった、貞一の妻で太宰の四姉・小舘きやうからの電話で知って驚き、同11月29日、太宰の次兄・津島英治が、午後1時30分の青森発の急行で、鎌倉に急行しました。
田部あつみの亡骸は、検死ののち、高面順三がひとり立ち会って
荼毘 に付された。それからの数日、順三は何度か恵風園へ足を運んだのだが、その都度、代理だという人が出て来て面会を拒絶された。
同年11月30日、英治が鎌倉に到着した時、あつみは、既に
英治が鎌倉に急行するのと多少前後して、津島家に出入りする呉服商で「津島家の彦左」といわれた

■太宰と中畑慶吉
昭和五年の十一月でしたか、私は文治さんに呼ばれました。
「修治の奴が、鎌倉で情死事件を起こした。中畑君、すまんがすぐに行って、君の好きなように処理をつけちゃくれないか」
私は文治さんから三千円(著者注:現在の貨幣価値で、約5,800,000円~5,900,000円)を預かると夜行に飛び乗り、鎌倉に急ぎました。当時、私は仕入れのため、毎月一度は東京に出ており、いつも夜行寝台を利用していましたから、どの汽車が早くて便利だかを熟知しておったのです。
鎌倉に着いてからすぐに、私はシメ子の内縁の夫田部某に会いました。この人は大分の在の男で、やせた小柄な人物でした。おまけに神経衰弱――今でいうところの強度のノイローゼだったのです。三十前のようでした。
この人と鎌倉警察の人と私と三人で、仮埋葬してあったシメ子の死体を確認いたしました。警察では当初、田部某が本当にシメ子の身内かどうか疑いをもっておったようですが、死体が鼻血を出したので、はじめて信用したようです。昔から”変死体は近親者と会うと鼻血を流す”といいますから。それはおびただしい量の血でした。大変な美人で、私は美人とはこういう女性のことをいうのかと思いました。当時、アリタドラッグとかいう店の商標に使われていた蝋人形の美女にそっくりでした。
丸裸の上に麻の葉の襦袢が掛けてありました。芝居では八百屋お七が着るやつです。
鎌倉では、日没になってからでないと火葬にできないということで、私は夕方になってから焼場に向いました。田部某氏は同道せず、私一人だけで行きました。
あつみの火葬の立ち会いに関して、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中』と異なる記述もありますが、続けて引用します。
私はひとまず宿の床の間に骨を安置しました。田部氏が正式にものごとの段取りを決めてから渡してやろうと考えておったのです。
しかし、本人は次の日やってきて、とにかく遺骨をくれと言う――警察では、いま遺骨を渡すと自殺のおそれもあるといっていたのですが――私は遺族のたっての希望だからと考え、渡してやったのです。
ところが、警察のいうとおり、さあ、大変、今度は田部君が行方不明になってしまったのです。すぐに消防団や青年団を動員して山狩りをしてもらいました……発見したのは夕方のことです。田部君は、自分の女が心中をした海辺の現場に行き、遺骨を抱いて写真におさまろうとしていた寸前に発見されたのです。私は内心、あきれてしまったことを思い出します。
また、中畑は、津島家に出入りする洋服仕立屋であり、東京における太宰のお目付役を担っていた

■井伏鱒二と北芳四郎 この事件以後、文治から太宰への仕送りは、北や井伏宛に送られることになったという。1939年(昭和14年)1月8日、太宰と美知子の結婚式の記念写真より。
私が太宰の後始末をつけるため、東京へ向う車中にあったとき、この北さんから電報がきました。当時共産党の活動を太宰がやっていて、その秘密書類が下宿――戸塚の常盤館だったと思います――に置いてあって、見つかるとまずいから処分してきてくれ、というのです。
私は上野から円タクを飛ばして下宿へ立ち寄り、小さな柳行李一杯くらいあった書類を焼いてくれるように女中頭さんにチップを渡して頼んでから鎌倉に向ったのです。太宰の年譜のほとんど全部が、私自身で秘密書類を焼き捨てたという記述をしているそうですがそれは誤りです。次の日、太宰の部屋に思想犯刑事が踏み込んだそうです。
太宰のこの情死事件を、太宰と婚約していた小山初代が青森で受けたのは、晴れて嫁ぐ準備に慌ただしい、上京予定の1週間前でした。
初代は、一緒に三味線を稽古していた、

■小山初代
同年11月30日付、「東京日日新聞」は、「東大生と女給が心中」の見出しで、また、「東奥日報」は、「津島県議の令弟修治氏鎌倉で心中を図る」の見出しで、写真を掲げて報道しました。

■1930年(昭和5年)11月30日付「東奥日報」
折しも、県議会開会中で、青森での定宿である塩谷旅館にいた文治のもとに、新聞記者が駆け付けました。
小田原チヨは、「今朝の新聞の大きな記事の人物」が、初代の「相手の人だとはじめて知らされ」た。その「人物」の「中学時代の下宿」は、チヨの生家・魚問屋に近く、チヨはその人物の「軟派ぶりもよく知って」いた。「泣きながら訴える初代」が哀れで「義憤を感じた」チヨは、「うらみを乞われるまま下書きなどして」津島修治宛に「手紙を書かせた」そうです。

■阿部合成と妻・阿部千代(のちの、阿部なを)
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1980年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機」
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月28日
11月28日の太宰治。
1930年(昭和5年)11月28日。
太宰治 21歳。
銀座裏のカフェー「ホリウッド」の女給通称
太宰、田部 あつみと小動崎 へ
1930年(昭和5年)11月下旬、太宰は、「ホリウッド」の女給・
カフェーとは、特殊喫茶や社交喫茶とも呼ばれ、女給は単なるウェイトレスというより、現在のバーやクラブのホステスのような存在でした。当時の女給は、客が支払うチップが収入源だったといいます。1933年(昭和8年)には、特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として、警察の管轄下に置かれることになりました。

■田部あつみ(17歳)
あつみは当初、広島の繁華街・新天地の喫茶店「平和ホーム」でアルバイトをしていました。「平和ホーム」のマダムが、その美貌で評判だったあつみに目をつけ、店の手伝いに来て欲しいと懇願し、両親を口説き落として、ウェイトレスとして雇うことに成功しました。あつみの容姿に魅かれ、平和ホームの客は倍増したそうです。あつみは小柄(身長152㎝、42㎏くらい)で、鼻の下(小鼻の脇)にホクロがあり、一度その容貌に接したら、決して忘れられないといわれるほど魅力的だったそうです。
東新天地の喫茶店「チロル」のマスター・
高面は、もともと演劇への関心が強く、将来は演劇方面で身を立てようという希望を抱いており、東京で働きながら新劇俳優の勉強をするため、1930年(昭和5年)春に、「チロル」をたたんで上京することを決意しました。

■高面順三(22歳)
東京に着いた2人は、知人・鈴村が借りている家の二階に落ち着くことになります。日比谷公園脇の内幸町で、高面が日比谷図書館に通って勉強するのにも都合が良かったそうです。しかし、上京して間もなく盗難に遭って所持金の大半を失ったり、不況が原因で、なかなか就職先が見つからない高面を見たあつみは、家計の一助にと、鈴村の妻・よし子の紹介で、「ホリウッド」で働くことになります。「ホリウッド」は、住まいから歩いて10分位の距離と、通勤には便利な距離で、着物や帯は、よし子から借りました。
あつみが店に出て最初の夜、あつみは学生をまじえたグループを受け持つことになります。長篠康一郎は、あつみが初めて店に出た時期を「八月中旬と推測されるが、正確な日時はさだかでない」としています。このグループの中にいたのが、東京帝国大学1年生の太宰でした。
この時の様子について、長篠康一郎『太宰治七里ケ浜心中』から引用します。
その夜、あつみがはじめて受け持ったテーブルは、学生をまじえたグループの客であった。なかでも眼鏡をかけた長身の若い男が、この仲間の親分格とみえて、「若様!」なんて呼ばれているのが、あつみには可笑しくてならなかった。いまどき「若様」なんてないもんだ。だいたいが気障なうえにひどい
訛 りのある方言で、お互い同志だとなにを話しているのか皆目ききとれない。チロルなら、こんな感じの悪い泥臭い客は一人もいなかった、と心のうちにあつみはそう思いつつビールをついだ。
閉店時になって、裏の出入口のところに順三が迎えに来ていた。銀座の表通りは軒並みネオンがまばゆく輝き、まるで不夜城の観を呈しているなかを、銀ぶらとしゃれて歩いて帰った。
太宰と一緒にいた義兄・小舘保は、あつみのことを「理知的で健康そうで。応答が妙にあざやかな、誰でも好感がもてるような明るい気質の女性であった」と回想しています。

■東京帝国大学仏文科1年生のとき 1930年(昭和5年)、左から中村貞次郎、太宰、葛西信造。
田部あつみが、新築地劇団の「ゴー・ストップ」を、津島修治と一緒に市村座へ観に行ったのは、ホリウッドに勤めに出てから約一ヵ月の後であった。修治と親しくなったきっかけは、彼が二度目に、ひとりでホリウッドへ現われたときである。初対面であったときのあつみは、取巻き連中の追従に、いい気になっている「田舎の
莫迦 若様」と心の裡 に思ったけれど、彼らの喋べる方言なんかには、さほど気にならなかった。なにしろ初めての客席にはべるのだから、緊張の連続でそれどころではなかったのだが、広島のチロルなら、こんな泥臭い客はいなかったと、ちょっと誇らしげに思ったことだけ覚えていた。それにあつみ自身が、広島弁の方言が出やしないかと、極度に警戒していたせいもある。「若様」が寡黙だったのは、それを気にしてのことだったらしいが、上京して日の浅い頃、どこかで手酷い目に遭ったことがあるようだ。
ホリウッドへ二度目に顔を出したとき、修治は初対面のあつみの印象と、そのちょっとした親切に心惹かれたからだ、とそんなことを言っていた。けれども、客と相対しての二人きりの席というのは、あつみにとってはやりきれないほど気づまりであった。口かずのすくない客なので、ビールを注ぐのと煙草の火をつけるだけ、話題らしいものはなにもない。もういい加減に腰をあげてくれないかなあ、などと思いあぐんでいたとき、となりのテーブルについていたよし子が、「ちょっとツネ子さん、あそこの壁にかかっている裸体の絵、あれ、誰の絵なの? お客さんが訊いてるから教えてよ!」と声をかけた。 ”ツネ子”という名は、以前に客に人気があった女給の源氏名を、あつみが入店した翌日から踏襲していたのである。
「どれなの? あれね。右のほうのはルノアールの『水浴』。もちろん複製よ。左のほうは、スーラの『ポーズする女たち』だと思うわ」
■「岩に座る浴女」(1892) 印象派を代表するフランスの画家、ピエール=オーギュスト・ルノワールの作品。ルノワールが生涯の中で数多く手掛けた≪水浴の裸婦≫の1つ。
その返事に、「田舎の若様」がオヤッというふうに、あらためてあつみの顔をまじまじと凝視した。ふたりの間に話題がほぐれたのは、それからである。「若様」は、東京帝国大学の学生で、津島修治だとはじめて名を明らかにした。おそらく夏休みに帰省していた修治が、帰京して間もなくの頃であったろう。
その後の修治は、三日にあげずホリウッドのあつみの客になっていた。東西の絵画はもとより文学、演劇と話題には事欠かなかった。ことに文学の話になると、修治は人が変ったように能弁になった。あつみにとってなにより嬉しく思えたのは、修治の話しかたが決して女給 を相手とする態度でなかったことだ。ひとりの人格を備えた女性として接してくれたことに、あつみが応じたのは、そうした事情があったからである。
あつみは次第に、太宰に心惹かれていきます。「田舎からの送金が遅れているのだ」という太宰のために、多額の立替もしました。
しかし太宰は、長兄・津島文治との仮証文の「覚書」に署名をし、同年11月24日には、文治の手引きで小山初代と結納を交わします。
修治の話を聴きながらあつみは泣いた。語る修治も何度か嗚咽していた。聴き終えて、こんどはあつみが順三との生活のことをはじめて話した。いつのまにか辺りはとっぷり暮れて、銀座の店に出るにはもはや時間が経ち過ぎていた。どう考えてもこれから先、とても一緒になれそうなふたりでない。暫く無言で暗い川面を眺めているうち、どちらともなく”死”とい言葉が、不意と口をついて出た。その夜ふたりは、初めて結ばれた。
ここからは、太宰とあつみの2人の足取りを、時系列で追っていきます。
【11月25日】
太宰は、小舘保を含む友人4人と「ホリウッド」で看板まで騒いで痛飲。冷たい雨の夜の帰途、田部あつみも交えてタクシーに乗り、太宰は、あつみと2人、本所で下車しました。
【11月26日】
本所から浅草に行って、見物しました。
【11月27日】
太宰は、あつみを伴って、築地小劇場で照明係をしていた中村貞次郎(『津軽』のN君)と会います。
その夜、神田区旅籠町1丁目10番地の「
「初代どの」宛の遺書には、次のように書かれていました。
お前の意地も立った筈だ。自由の身になったのだ。万時は葛西、
平岡 に相談せよ。遺作集は作らぬこと
また、あつみの身元を明らかにするため、同棲相手・高面の本籍「山口県玖珂郡米川村」を記したメモも添えられていました。

■「
【11月28日】
午後、太宰とあつみは、「

■
新婚の死出の旅路。行き先に鎌倉を選んだのは修治であった。クスリは東京を発つまえに整えた。(中略)すっかり覚悟を定めたものか、晴ればれとした様子のあつみに較べて、修治のほうにはまだ一抹の不安が残されているように感じられた。彼は、最後の最後まで、自分たちの運命の転換に苦慮し続けていたのかも知れない。
二十八日の夜、津島修治と田部あつみのふたりは、七里ヶ浜に連なる小動崎 畳岩の巖頭にあった。眼前に江の島が黒々と手が届くほど近くに見え、稲村ヶ崎の海の彼方に鎌倉の町の灯が漁火 と交錯してキラキラ輝いて、この世のものとは思われないほど綺麗で、素晴らしい夜景を醸し出していた。

■腰越町
【了】
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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治七里ヶ浜心中』(広論社、1981年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館 編『太宰 治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月27日
11月27日の太宰治。
1935年(昭和10年)11月27日。
太宰治 26歳。
随想「人物に就いて」で言及される、小舘保治郎没。
『人物に就いて』
1935年(昭和10年)11月27日、太宰のエッセイ『人物に就いて』の中に登場する小舘保治郎が亡くなりました。保治郎は、太宰の義弟・小舘善四郎の父。善四郎は、保治郎の三男です。
太宰と善四郎は、太宰の四姉・きやうが保治郎の長兄・小舘貞一に嫁いだことがきっかけで、次兄・小舘保とともに親交を深めました。太宰は、善四郎のことを、弟のように可愛がったそうです。

■太宰と小舘善四郎
太宰のエッセイ『人物に就いて』は、1935年(昭和10年)11月23日に脱稿され、翌1936(昭和11年)1月1日発行の「東奥日報」第一五五八七号の第二十二面に発表されました。
初出の際、文末尾に「(十一月二十三日しるす)」とあり、さらに「附言」として、「十一月二十五日小舘保治郎氏の訃報あり、この欄はその前にしるされたものである(編集者)」と記されています。
『人物に就いて』
ちかごろ、歴史的人物で興ふかきは、やはり、乃木大将である。私、さきごろまでは、大塩平八郎を読んでいた。かれが、ひとりの門弟と論争して、お膳のかながしらの頭をがりがり噛んで食べた、ことなど、かれの人となりを知るに最もよきエピソオドであろう。けれども、いままた、乃木将軍が、よみがえって来て居る。一望千里の満州の赤土の原、あかあかと夕焼にてらされ、ひとり馬で歩いて居る猫背の乃木将軍のすがたが、この眼に見えるのだ。がいせんの折、陛下の御前に立ち、「なんの! これが、がいせんでございましょうや。私は、万人の部下を殺した男でございます。御処刑をこそ、おねがい申します」と言い、男泣きに泣いた。泣いた片眼は義眼であった。かれは、それを、ひたかくしにかくしていた。つい、先日、それが、はじめて、新聞に出て、世人を一驚させたことである。かれの生前、二三の人が、それを知って居るのみであった。かれ、常日ごろ、わが家に禁断の一部屋を設け、そこには誰も、いれなかった。かれは、しばしばそこに閉じこもるのである。家人、さだめし、御勉強のことであろうと緊張した。いずくんぞ知らん。その部屋は、かれの昼寝の部屋であった。またいう、東郷大将とふたり外遊の折、乃木、かならずその国一のホテルに宿り、手袋、煙草、すべて一流のもののみを用いた。あれほどの倹約家がと部下ひとしく眼を見はったが、かれ、思えらく、おれは日本を代表する将軍である。おれの一挙手一投足に依り、外国人、かならず、日本の評価をこそするにちがいない、と。(その余は、他日また)
私の兄はこの県で県会議員をして居る。太宰という県会議員はない、と頬ふくらますひともあろうが、私は、いつわりを言わぬ。毎朝いただいて居る東奥日報に拠れば、私の兄は、いま県会に於いてたいへん割のわるい役をして居るようである、私、いま、兄上に叱咤されるのを覚悟のうえで申しているのであるが、勘平役者が黒衣にまわったようで気持がよくない。けれども、また、葉落ちる秋あれば花咲く春あり。菅公のむかしからきまって居る。話は飛ぶが私の兄は、この地方に於いて最も注目されてよい人物の一人かもしれぬ。ソロモン王の底知れぬ憂愁をうかがい知り得る唯ひとりの人である。百万円きずきあげるよりも、百万円守るのが、むずかしいのだ。守るちからは、はたからは、絶対に見えぬ。やくざな私を、無言のうちに叩きあげて下さるのも、すべて兄上のちからである。兄上の峻厳と竹内俊吉氏のなごやかさは、県会に於いて、よいコントラストをなしたであろうに。惜しいことをした。
■「私の兄」津島文治
青森三通。ひとりは小舘保治郎氏であり、ひとりは、寺町の豊田太左衛門氏であり、いまひとりは、書のたくみな齋藤常次郎氏であろう。
小舘氏は、孤芳と号し、俳句をつくられる。七八年前、相州鎌倉の御別宅にて、「正月や酒の肴もくにのもの」の一句を私に示された。まことに長者らしき、なごやかな、人柄そのままの自然の風ありて、われらの及ぶところでないと思った。
豊田太左衛門氏は、ゆいしょある老舗の主人にして、これまた、長者のふうあり、もののわかりのよきこと無類、三四年前、私と一緒に銀座うらを漫歩せしことありしが、私をしてまるで、鏡花、荷風などの老文士とともに在るが如き思いを懐かしめた。
■青森中学時代の太宰 前列左端が豊田太左衛門、右端が太宰、後列左が太宰の弟・津島礼治。太宰は青森中学時代、津島家の縁戚だった豊田家に下宿していた。
齋藤常次郎氏は、いま、たわむれに書画骨董をあきなって居られる由であるが、そのひとがら、その前半生、明治初年に没したる大通中の大通
細木香以 を思わせる態の洒脱 の趣があるのである。細木香以に就いては、森鷗外くわしくこれを述べて居る故、われら小倉袴のぶんを以てかれこれ言うべきではないが、通人とは、世人が考えて居られる如き、芸者末社をひきつれ、自らを何のや主人と称して長唄の稽古にいそしみ、その巷に於いて兄さん兄さんと呼ばれて居る様の、そんなふざけたものではないようである。そこに人間の本然のすがたを見せ、はたまた厳酷なるダンディズムを感じさせるものをのみ指して言うのであろう。その点では、天下の大野暮乃木将軍も亦、ものの見事に通人の資格あらん乎。さもあればあれ、御三人、ちかごろの寒さにつけても、おからだお大切のこと、第一におねがいいたします。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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