記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】8月29日

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8月29日の太宰治

  1929年(昭和4年)8月29日。
 太宰治 20歳。

 「猟騎兵」第六号が発売され、「虎徹宵話(こてつしょうわ)」を小菅銀吉の署名で発表。

虎徹宵話(こてつしょうわ)

 今日は、太宰が官立弘前高等学校時代に発表した虎徹宵話(こてつしょうわ)を紹介します。
 虎徹宵話(こてつしょうわ)は、1929年(昭和4年)、青森の同人誌「猟騎兵」第六号に、「小菅銀吉」というペンネームで発表されました。今回紹介するのは、弘前高等学校で年二回発行していた「校友会雑誌」に再掲載された、改訂稿です。

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■「いい男だろ/小菅銀吉」と署名のある写真

虎徹宵話(こてつしょうわ)

 なによりも先ず、鼻がずんと高うて――、ぎゅっと結び、端のぴんと()ねた大きな唇、一重瞼(ひとえまぶた)できりきり目尻が上がって居る……色は浅黒く、成る程渋い男前である。胸元から紺の刺縫(さしぬい)した稽古着をちらほら見せ、色の()めかかった鼠小倉の紋付羽織をいかつい(、、、、)肩にひっ掛けて、丸窓を背に懐手のまま……じいっと考え込んで居る。
「おすましねえ」
 男の容姿(さま)を長火鉢越しにうっとりと眺めながら(ものう)げにこちらから声をかける。……男はやっぱり黙って居る。女は別段其れを気にも止めず、ふいと銅壺(どうこ)からお銚子を引き抜き、小さな指の腹でつるッと其のお銚子の底を撫で廻した。ぎりぎり詰めた櫛巻(くしまき)も季節には外れて居るが、この女の小作りな顔には結構映えて居た。地味な細格子の袷に黒襦子(くろじゅす)の帯……年よりは幾分老けて見えた。
「お燗がついたよ」
 呟いて、居汚く坐ったまま、のんびりとお銚子を持ち直した。
 ――変な男、冗談じゃないよ、ほら、げんざい死神が傍に坐ってるじゃないか。誰かに附け狙われてるに違いないのさ。仇持(かたきもち)……
 おせいは、そんな事をうつらうつら考えて居た。
「むむ」
 男は重く頷き、大きい手を懐から出す。大髻(おおたぶさ)のほつれをぐい(、、)と搔き上げてから、長火鉢の猪口を取り上げる。ちぇっと半分呑みかけて置いて、ずっと腕をのばし、女のぽっと開いて居る唇に猪口をひやりと押しつける。女は心得て、くだらない(、、、、、)とゆうような顔をしながらも平然と、首だけ差し出してペチャペチャ猫のように呑みほす。それをうっそり見下ろして居て、
「雨だな」
 ぽつんと言った。
 いかにも、シトシトと湿す春の小糠雨(こぬかあめ)の気配が感ぜらる。女は男の言葉が聞こえなかったらしく唇をちろちろ下でなめずり廻しながら、
「?」
 目色で尋ねたが男はそれに答えもせず、女の注いで呉れた猪口を一息にのんで(しも)うてから、又もぞりと言い出した。
「おせい、いよいよ別れる時が……」
「ホホホ」
 おせいは男の言葉が終らぬさきから笑い出した。
「……おかしいか」
「だって……」
 まだ笑いながら、
「だって、お前と会ってから、コレ、十日にもならないじゃないか。それに、それにいよいよ(、、、、)だなんて」
「ふん」
 男も大きな黒ずんだ唇をヒクヒクさせて苦笑いした。
「それに、あたしアまだ、お前がどちら(、、、)どなたさま(、、、、、)かとんと知ってやしないし……」
「だから言ってるじゃないか。新選組という馬の骨だって」
 鋭く言い放ったので女も流石に黙り込んだ。白けた場打(ばうて)に男は果無(はかな)い顔をして、つと振り向き背の丸窓をすーいとあけた。
 細い雨が夕靄(ゆうもや)とそうて向島小梅の里をいぶして居るのがこの茶屋の座敷からは錦絵のように見えた。もう春も半故(なかばゆえ)田甫(たんぼ)には青々と早苗(さなえ)(あぜ)にはしょんぼりと柳、ぼつんぽつんと真黒な人影、一切が小さくゆらりゆらり(かす)んで居た。遠くの森には(やしろ)でもあるのであろう、赤いのは鳥居、白っぽくうなだれて居るのは(のぼり)である。其の辺一帯ぼうっと和やかな春光が映って居るように見えるのは、――あれは名高い小梅が里の菜の花盛り。……
「俺は殺される」
 男は泣き空を見上げて、溜息をついた。
「……いや、それが当り前だ。……おい、おい、おせい」
 女の方に又真向(まむき)に身を捻戻して、
「俺が死んでもお前はなんともないか」
「……?」
「お前は俺に惚れて居る」
 ばっさり言い切っては見たが、おせいは落ちついて、ただこっくり(、、、、)と頷いた。
「むむ、俺もお前に惚れて居る。別れとうは無い。俺は今迄、これ程一筋に女に打ち込んだ事がなかった。……お前のまえだが、たかが田舎の茶屋の女将……」
「たかが新選組の馬の脚……」
 女はすかさず口真似した。
「馬の脚?……むう、そうか、近藤勇立役(たちやく)で土方がさしずめ女形(たておやま)という所か、そして俺が下廻りの馬の脚と。……ふふん」

 

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土方歳三(1835~1869) 新選組副長。1868年(明治元年)、撮影:田本研造。

 

 ちらと皮肉な笑を浮べたが、直ぐ又むっつりと成り、
「だが、新選組一座も洛中ではほとんど時化(しけ)を食ってしもうた。……なあ、お前はなぜに新選組が江戸に舞い戻って来たと思う……」
「それアお前、あちらで用が無くなれア……」
「そうじゃない。いかにも新選組は将軍家護衛の為に入洛致した。而して今、慶喜公が江戸表へお帰りになられた故新選組もお伴をして帰った……だが、それだけじゃない…………それだけじゃアないのだ」
 男は暗い顔をして猪口をふくんだ。
「……そうだ、逃げたのだ。……眼に見えぬ御難をくって、新選組一座は、多くの仕事を――、いや多くの借金を、残した(まま)洛中から夜逃げをしたのだ。……お前には何も判らない。それに江戸が恋しくも成って来たし……(しか)しなあ、江戸で蓋をあけた芝居も、あんまりぞっとした景気を見せぬ。この江戸に居てさえ、この大江戸に居てさえ御難に会うのだ。眼に見えぬ時化(しけ)……」
 羽を濡らした(つばくろ)が、丸窓を斜につーいと飛んで行った。男は、女がきょとんとして、別のあらぬ事を考えて居る風情にふと気がついた。
「ふふん、お前をつかまえて愚痴を並べた所で始まらぬ、が、今日は不思議な位俺は気が滅入って居る。……俺の一世一代の泣き言だ。なあ、おい、明日にも殺される命だ、笑わず聞いて呉れよ……」
 ――ぜんたい何をこのひとが言っているのかな、泣き言? 一世一代の泣き言?なんだい、お前らしくもない。お前程の男でも、やっぱりふさぎのむし(、、、、、、)に取り附かれるのかい。お前程の男…………
 おせいは、けげんそうにまじまじと男の顔を見つめた。
「………成る程新選組も洛中では随分華々しい事をやった。池田屋に乗り込んで、勤王の同志の一網打尽を試みた。又つい近頃では、同志の先鋒坂本龍馬を、彼の宿所にて暗殺した。当時はそれで大得意だった。………だが、今に成って、何の為にそんな事をしたのか判らなく成ったのだ」
「なぜッてお前、それが殿様の御言いつけじゃないかい」
 女はしたり顔にそう極めつけて、独酌でぐいとやった。男はそれを氷のような冷い眼眸(まなざし)で眺めながら静かに女の猪口を又なみなみと満してやった。
会津公の御命令………それもある。だが今でこそ言うが会津公がなんだ。いかにも新選組会津公のお蔭でああして遊んで居てめし(、、)が食えたのだろう。(しか)し、それだからと言うて、あんなに盲従する必要はなかったのだ。そうだ、会津公はなんだ。あいつ等の世の中は一昔前には確かにあった。だが今じゃ! 今じゃ会津公にあるものはただあのお城一つだ。そして今に会津公はあのお城を枕の哀れな討死をするに定って居るのだ!」

 

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■「会津公」こと、松平容保(まつだいらかたもり)(1836~1893) 会津藩9代藩主。京の治安を維持する、京都守護職の任に就く。近藤勇新選組を「会津藩お預かり」とし、面倒を見た。

 

 ――と、とんでもない。お前は気でも狂うたか。事もあろうに会津の殿様の悪口…………
 おせいは、身も魂も仰天した。きょときょと四辺(あたり)を見廻したのは、立ち聞きして居る人も無いかと確かめる可憐な心構えであった。
「お前、あの、もちっと低く言われないかい………」
 おどおどしながら、兎に角懸命にたしなめた。男はそれも上の空、(ようや)く興奮しかけて来た両眼をぎょろり動かしただけで、
「あいつ等は時の流れというものを知らない。()つては俺もそれを知らなかった。だが俺は多くの事実を見た、しかも正しい眼(、、、、)でだ! そして、そして知ったのだ、つまり昨日の善は今日の悪であり得るという事をだ。だから世の中も其れに従って土台から建て直さなければウソだ。いいか、おい、今に見ろ、あいつ等の夢想だもしなかった、素晴らしいどんでん返し(、、、、、、)があいつ等の悠々閑々たる足下から、むっくり起るぞ!」
 おせいは長火鉢から煙管(きせる)を取り出し、すぱすぱ吸い始めたが、ともすると、何とも判らぬひどい威圧に煙管を唇に持って行きかけたまま、手がぷるぷると震えてしかたがなかった。
「それを知りつつ、会津公の手先になって居た俺は、………まず犬だ。会津公に飼われた犬だ。………犬か………それにしても………あああ、馬鹿な事をしたものだ。なんの方針(あて)もない。主義もない。ただ、勤王の同志に逆うだけが唯一の方針(あて)だった。主義でもあった」
 男は泣いてでも居るように、無暗に鼻をすすり上げて居た。おせいはただもう悲しかった。薄紙が一枚一枚剝がれて行くように男の心が判って来たからだった。
 ――判るよ。お前の気苦労、せつなさ………
 そう心の中で呟いて居たら、不覚にも、ぐぐっと嗚咽が。それを、じいっと堪えた。まだ腑に落ちない事があったからだ。
「それでお前は、……今も会津の殿様からお世話になっているのかい」
 男も、おせいの声をわななかし息せき切って言いだしたこの言葉には、ぎくりとしたらしかった。よほどためらって居たが、
「うむ、そうだ。いやだらし(、、、)がなくて話にならぬ。そう覚えながらも、あいつ等の世話を受けて居るのは死ぬ程つらい。……そんなに苦しんで居ながら、いつ迄もぐずぐず逡巡して居る奴は、なんと言ってもつまりは意気地がないのさ。卑怯者さ。他人事ではない! 新選組……いや、俺の事を言うて居るのだ。有り余る金、要らざる義理立て、浅果(あさはか)な見得、そんな絆につながれて、又それだけ(、、、、)の絆につながれて、身動きが出来ぬとは、可愛そうなものじゃないか」
 おせいは急に気抜けがした。男の心はこれで良く良くのみ込めたのだけれど、変に満たされぬものがあった。たまらなく歯痒(はがゆ)い所があったのだ。
 男は、おせいにぷうっ(、、、)と鋭く煙を吐きかけられて、ごほごほ苦しそうに(むせ)かえった。
「俺達は今に身動きが出来なくなるだろう。どんでん返しには妥協がない。俺達が殺されるか、奴等同志が殺されるかだ。殺されるのは無論俺達さ。きまって居る。……………みじめなものだ。新選組が何処に行っても人気のないのは当り前の事さ。えらい奴は皆どしどし新選組から脱けて行く。……残って居る奴はどれもこれも仕様のない阿呆。……時勢だな……俺にして見た所で、時の流れというものは、こんなに速く流れて居るとは思いも及ばなかった。今更この流れが恐ろしい。……」
 ――恐ろしい? なんだい、しっかりおしよ。なんだかんだと言ってるけれど、つまる所は、思い切りが悪いのさ。新選組がいやなら、よす迄の事さ。なんだね、くよくよと。
 おせいは、無性にじれったかった。
「……恐ろしい。うむ、そうだ。おれは意気地がない。いや俺ばかりではない、新選組の奴等は皆そうだ。近藤勇……あの近藤にして見た所で、この時勢が恐ろしくてたまらないのだ。……だから、狂人(きちがい)みたいに成って盲目(めくら)滅法、(にせ)虎徹(こてつ)をふり廻して居る」
(にせ)?」
 女はかちんと長火鉢の銅の(おとし)で吸殻をはたきつけた。
「そうさ、あれは立派な贋物よ。しかも……近藤は其れを贋物だと承知しながら、振りかざして居るのだから、凄いのだ。……お前は知るまいが、贋物の刀で立ち廻る時には、気が臆するか、それとも……やるせない捨て鉢気味に成るか、どちらかなのだ。近藤は捨て鉢、どうにでも成れと突きかかって行く。……これでは手がつけられん。ふふん、贋の……贋のと承知の虎徹を振りかざして、狂い廻る奴は後々の世にも必ず現れることであろう」

 

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近藤勇佩刀「長曽祢虎徹興政」押型

 

 ……もう黄昏(たそがれ)。ひたひたと薄闇が襲うて来る。……夕餉(ゆうげ)()く煙が、森の蔭から幾筋も幾筋も昇って居た。小梅の里は春雨の暮れるのか、引舟川からは夕靄(ゆうもや)がひきも切らずにもくもく起る。
「俺は今こそ薩長の同志に負けたと思うて居るぞ。奴等には強味がある。……奴等の思想は、奴等の方針は、統一されて居る、その強味が……。いかにも未来は、奴等の同志のものだ。俺達は、俺達は殺されるのを待って居る(ばか)りだ。……殺されるのを待っている……」
 おせいは、心からさげすむような眼で(まじろ)ぎもせず男をぐっと(にら)みつけて居た。
 男は興奮の為に行燈(あんどん)もともさぬ暗闇の中で、きりきりと白い歯をかみ鳴らした。
「おせい! お前もよく考えて見ろ!! お前には、どぶんどぶんと不断の恐ろしい力で俺に押し寄せて来ているあのもの凄い時勢という海嘯(つなみ)の音が聞えないのか?」
 ――へへん、何を言うてるのさ。あたし(、、、)よりはお前に聞かせたい文句だね。なんだって、今迄大人しく黙って聞いて居れば、男らしくもない、勝手な愚痴を並べて居るよ。もう、もう、男の泣き言なんか真平、真平。あたし(、、、)アお前を見損った……
 あんなに迄惚れて居た男だけに、おせいは余計腹が立って腹が立って、はらわた(、、、、)が煮えくりかえる思いだった。
「ああ、もう暗う成った……おせい、行くぞ」
 のっそり刀を杖に立ち上り、
「お前とはこれきり会われないかも知れぬ。……だが今俺の言うた事は、ようく(、、、)覚えて置け」
 ――お互い様さ。
 喉迄出かかったその言葉をぐっと抑えて、男のがっちりした背姿(うしろすがた)にそっと目をやった。……小倉の袴がちんちん皺だらけで、素足の(こむら)のあたり迄めくれ上っているのも、湿っぽい此のくらがりを通しては、うそ寒く見えるのだった。流石に女である。名残おしかった。猛然と鎌首をもたげた男恋しさに、おせいは深刻な身悶えをした。……
 土間に降りて男は、さっと振り向き、
「おせい、さらば」
 言うや早く、ピチャピチャピチャ春雨の小梅堤を源森堀に走り出した。……その時おせいは、――もともと男嫌いで名のあるおせいは、くんくん泣きじゃくりながら、唇へお銚子を直にねじ込んで、ことことことと、暴呑(あらの)みしていた。……
 所へ、――頼もしい迄に機敏そうな覆面の男が、其の小柄さにも似合わぬ長い見事な抜身をひっさげ、濡れ鼠の恰好でちょろッと土間に忍び込み、闇をすかして座敷の方をと見こう見(、、、、、)して居たが、
「おい、おい」
 聞くからに凛々たる若者の声であった。
「えッ」
 ギョッとしたけれど、
「は、はい。いらっしゃいまし」
 おせいはもう、泣いてなんか居なかった。
「今ここを出た客人は誰だ」
「えッ」
 二度びっくりした。
新選組の者だろう」
 年若き武士は暗がりの(うち)にも其れと判る切れの長い澄んだ眼に笑さえ浮べて、おだやかに尋ねた。
「ええ」
 つい答えて(しま)った。
「うむ、まさしく近藤勇!」
「ホホホ……」
 堪えかねておせいは吹き出した。この男のいかにも真顔で、いかにもとんでもない間違いをやらかしたのが、おかしくって、おかしくって、……息が苦しく成程笑いこけた。
「な、なにが可笑しいのじゃ」
 此の初心(うぶ)な同志は覆面の中で呆気にとられて居た。
「ホホホ、違いますよ。違いますよ。あの人は同じ新選組でも馬の脚よ。今だって……」
 ちょいと真面目な顔をして、
新選組の方は皆阿呆だ、近藤勇狂人(きちがい)だ、なんて言って居たのよ。あの人はあたし(、、、)に、この事は忘れずによく覚えておけと、おっしゃったんだから、あたし(、、、)ゃ、決して忘れないんだよ」
 土間の方に、ずるずるにじり寄りつつこう言うてのけたら、かっと頬が熱く成った。酔がまわって来たからなのかも知れないが、なんだか恥しい事を言うたような気がしたからでもあった。
 ――こいつはあの人を殺しに来たんだな。
 そう思うた故、恥しさのてれ隠し、とっぷり暮れた春の雨夜に、酒の気も手伝って、可愛いや悲痛な見得を切った。
「だけど、だけど(ばら)しておしまいよ、あんな……」
 ぐいと片膝立てて、
「あんな、意気地なし!」

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近藤勇(1834~1868) 新選組局長。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・汐海珠里・権東品『新選組史再考と両雄刀剣談』(風狂童子、2020年)
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月28日

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8月28日の太宰治

  1945年(昭和20年)8月28日。
 太宰治 36歳。

 疎開先の故郷金木から手紙を送る。

疎開先から弟子と師匠に送る手紙

 今日は、太宰が疎開先の故郷・金木町から3人に送った書簡を紹介します。

 太宰は、1945年(昭和20年)7月31日に金木町へ疎開。翌1946年(昭和21年)11月12日まで、約1年3ヶ月半滞在しました。
 太宰が、金木町に疎開した15日後の、8月15日正午。戦争終結の詔が放送(玉音放送)され、第二次世界大戦(1939~1945)は終戦を迎えました。今日紹介するのは、そんな時期に書かれた書簡です。

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疎開中の太宰が仕事部屋として使用した部屋 2018年、著者撮影。


 1通目は、1945年(昭和20年)8月28日付で、弟子・菊田義孝に宛てて書かれたハガキです。

  青森県金木町 津島文治方より
  宮城県遠田郡涌谷小塚
   菊田義孝宛

 拝復 御元気で農耕の御様子、何よりです。私も今月はじめにこちらへ来て、午前読書、午後農耕というのんきな生活をしています。これから世の中はどうなるかなどあまり思いつめず、とにかく農耕、それから昔の名文にしたしむ事、それだけ心がけていると必ず偉人になれると思います。もう死ぬ事はないのだから、気永になさい。     不乙。

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■菊田義孝


 2通目は、同日付で、弟子・小山清に宛てて書かれたハガキです。
 この時、小山は、三鷹の太宰宅で、太宰の留守を守っていました。そのため、ハガキの宛先は、三鷹の自宅の住所になっています。

  青森県金木町 津島文治方より
  東京都下三鷹下連雀一一三 津島方
   小山清

 拝啓 その後どうしていますか。こちらは、たいしてかわりはありません。
 徴用もとけて、これからどんな仕事を、と思いあまったら、筑摩の古田さんに相談してごらん。この葉書を持って行ってもよい。小山の人物は私が保証するのだから。
 筑摩はいいところですから、きっと、働き甲斐があると思います。でも、むりにはすすめません。思いあまった時には、です。御自愛をいのる。     不尽。

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小山清


 3通目、最後の手紙は、 師匠・井伏鱒二に宛てて書かれたものです。
 この手紙が出された日付は不詳ですが、その内容から、先に紹介した2通とほぼ同時期に書かれたものと思われます。

  青森県金木町 津島文治方より
  広島県深安郡加茂村
   井伏鱒二

 謹啓 けさ畑で草むしりをしていたら、姪が「井伏先生から」と言って絵葉書を持って来ました。畑で拝読して、すぐ鍬をかついで家へ帰り、ゲエトルをつけたままでこの手紙を書いています。このごろは、一日に二、三時間、畑に出て働いているようなふりをして、神妙な帰農者みたいにしているのです。御教訓にしたがい、努めて沈黙し、人の話をただにこにこして拝聴しています。心境澄むも濁るも、てんで、そんな心境なんてものは無い、という現状でございます。まあ一年くらい、ぼんやりしていようと思っています。親戚の印刷屋に原稿用紙をたのんで置きましたが、それが出来て来たら、長編小説をゆっくり書いてみるつもりです。でもまあ、故郷があってよかったと思っています。東京でまごついていたら、イヤな、末代までの不名誉の仕事など引受けなければならないかも知れませんから。
 福山もヤラレタ様子を新聞で知り、御案じ申して居りましたが、御一家御無事の由なによりでございます。御子供様の御丈夫だけが、幸福です。
 お酒、タバコ、そちらは如何ですか。こちらは、日本酒一升五十円、ウイスキイ、サントリイ級一本百円ならば、どうにか手にはいるようです。タバコも、まあ、どうやらというところです。この一箇月間、毎晩兄の晩酌の相手をしています。兄も少し老いました。
 私がこちらへまいりました当座は、青森がヤラレ、それに艦載機が金木へもバクダンを四、五発落して、焼けた家もあり死傷者も出て、たいへんな騒ぎでした。私の家の屋根が目標になったのだと、うらんでいた人もあったそうです。先日、中村貞次郎君の蟹田の家へあそびに行きましたが、ここもバクダンのお見舞いで、中村君の家の戸障子はほとんど全部こわされてひどい有様でした。金木でも蟹田でも、みんな野原や山に小屋を作って、そこに避難という事になったのですが、こんどはその小屋の後始末に一苦労というわけです。丸山定夫氏が広島で、れいの原子バクダンの犠牲になったようですね。本当に私どもの身がわりになってくれたようなものです。原子バクダン出現の一週間ほど前に私によこした手紙が、つい先日金木につきましたが。蟲の知らせというものでしょうか。妙に遺書みたいなお手紙でした。縞の単衣があるから、あれをお前にやる、などと書いていました。惜しい友人を失いました。
 申しおくれましたが、甲府罹災の折には、かずかずのお品を奥様からいただき、女房が感激して居りました。どうか奥様によろしく山々御伝言おねがい申し上げます。またその折には、白ズボンまでいただき、私はあれをはいて蟹田の中村君を訪問いたしました。
 申し上げたい事がたくさんあったような気がいたします。でも、もう、死ぬ事も当分ないようですし、あわてず、ゆっくり次々とおたより申し上げる事に致します。
 終りに一つ、当地方の実話を御紹介いたします。
「いくさにも負けたし、バイショウ金などもたくさんとられるだろうし。」
「イヤ、そんな事は何も心配ない。無条件降伏ではないか。よくもしかし、無条件というところまでこぎつけたものだ。」
 大まじめに答えたというその人は、隣村の農業会長とか何とか立派な身分のお方だそうです。神州不滅なり矣。
 これから秋になりますと、お互い田舎は、ゆたかになって来るのではないでしょうか。津軽は凶作の危機を、この十日間ばかりの上天気でどうやら切り抜け平年作の見とおしがついたようです。
 それではどうかくれぐれもお大事に、またおたより致します。

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■太宰と井伏鱒二

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月27日

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8月27日の太宰治

  1944年(昭和19年)8月27日。
 太宰治 35歳。

 この年六月二十七日に同年齢の三十六歳で逝去した津村信夫を悼んで秋に出版の計画であった私家版『津村信夫追悼録』のために、「郷愁」を執筆したが、この追悼録は未刊に終わった「郷愁」は、「毛呂文藝」第十号(昭和二十五年八月付発行)で「(未発表遺稿)」として、新井尚「『郷愁』に就いて」と共に初めて公表され、近代文庫版『太宰治全集第十六巻』(創藝社、昭和二十七年七月一日付発行)で初めて著書に収録されている。

津村信夫と『郷愁』

 津村信夫(1909~1944)は、兵庫県神戸市生まれの詩人。太宰とは、同年齢です。
 津村は、神戸一中を卒業後、慶応大学経済学部予科に入学しますが、肋膜炎を患って休学。その間に文学に親しむとともに、詩作への取り組みも本格的なものとなり、白鳥省吾が主催する「地上楽園」に詩を発表したり、「アララギ」に短歌を発表したりするようになりました。1934年(昭和9年)には、第二次「四季」の創刊に参画。以後、毎号に詩を発表し、編者の1人である丸山薫と親交を結びました。
 太宰と津村の出会いも、同じく1934年(昭和9年)。太宰や檀一雄らの同人誌「(ばん)」第二輯に詩「肘をついて」「小歌」を発表。同年、太宰から、同人誌「青い花」に誘われ、津村は、同年10月6日に銀座「山の小舎」で開かれた「青い花」同人の初顔合わせ会に出席しました。同年11月に刊行された「青い花」創刊号には、詩「千曲川」「往生寺」「長野」「林檎園」を発表。津村の「千曲川」を気に入った太宰は、この年の暮れに、山岸外史の案内で津村の家を訪れています。
 津村は、1935年(昭和10年)に、慶応大学経済学部を卒業すると、東京海上火災保険株式会社に入社。同年11月に第一詩集『愛する神々の歌』(四季社)を刊行。以後も、1940年(昭和15年)10月に小説集(散文集)『戸隠の絵本』(ぐろりあ・そさえて)、1942年(昭和17年)11月に第二詩集『父のゐる庭』(臼井書房)を刊行。これらの著書を、津村は太宰に献本しています。
 また、太宰と津村の書簡によると、太宰は津村だけでなく、津村の兄・津村秀夫からも借金をしていたようです。ちなみに、津村信夫は、『朝日新聞』学芸記者、『アサヒカメラ』編集長を務めながら、映画評論家としても活躍し、多くの著作を残しています。

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津村信夫 妻・昌子さんと善光寺の階段下にて。

  津村は、1943年(昭和18年)、アディスン氏病と診断され、同年12月には東京築地の聖路加病院に入院。翌1944年(昭和19年)2月に第三詩集『或る遍歴から』(湯川弘文館)を刊行しますが、同年6月27日に永眠。享年36歳でした。

 今日は、太宰が津村の追悼文として記したエッセイ『郷愁』を紹介します。

『郷愁』

 私は野暮な田舎者なので、詩人のベレエ帽や、ビロオドのズボンなど見ると、どうにも落ちつかず、またその作品というものを拝見しても、散文をただやたらに行をかえて書いて読みにくくして、意味ありげに見せかけているとしか思われず、もとから詩人と自称する人たちを、いけ好かなく思っていた。黒眼鏡をかけたスパイは、スパイとして使いものにならないのと同様に、所謂「詩人らしい」虚栄のヒステリズムは、文学の不潔な(しらみ)だとさえ思っていた。「詩人らしい」という言葉にさえぞっとした。けれども、津村信夫の仲間の詩人たちは、そんな気障なものではなかった。たいてい普通の風貌をしていた。田舎者の私には、それが何よりも頼もしく思われた。
 わけても津村信夫は、私と同じくらいの年配でもあり、その他にも理由はあったが、とにかく私には非常な近親性を感じさせた。津村信夫と知合ってから、十年にもなるが、いつ逢っても笑っていた。けれども私は津村を陽気な人だとは思わなかった。ハムレットはいつも笑っている。そうしてドンキホーテは、自分を「憂い顔の騎士」と呼んでくれと従者に頼む。津村の家庭は、俗にいう「いい家」のようである。けれども、いい家にはまた、いい家のいやな憂鬱があるものであろう。殊に「いい家」に生れて詩を書く事には、妙な難儀があるものではなかろうか。私は津村の笑顔を見ると、いつもそれこそ憂鬱の水底から湧いた寂光みたいなものを感じた。可哀想だと思った。よくこらえていると感心した。私ならば、やけくそを起してしまうのに、津村はおとなしく笑っている。
 私は津村の生きかたを、私の手本にしようと思った事さえある。
 私が津村を思っているほど津村が私を思ってくれていたかどうか、それについては私は自惚れたくない。私は津村には、ずいぶん迷惑をかけた。あの頃は共に大学生であったが、私が本郷のおそばやなどでお酒を飲んで、お勘定のほうが心許なく思われて来ると、津村のところへ電話をかけた。おそばやの帳場の人たちに実状をさとられたくないので、「ヘルプ! ヘルプ!」とだけ云うのだ。それでも津村にはちゃんとわかるのだ。にこにこ笑いながらやって来る。
 私はそのようにして二、三度たすけられた。忘れた事がない。それは、はっきり悪い事であるから、いつかきっと、おわびしなければならぬと思っているうちに、信夫逝去の速達を津村の兄からもらった。その時にはまた、私の家では妻の出産で一家が甲府へ行っていたので、速達を見たのが数日後で、私は告別式にも、また仲間の追悼会にも出席できなかった。運が悪かった。いつか、ひとりで、お墓へおわびに行こうかと思っている。
 津村は天国へ行ったに決まっているし、私は死んでも他のところへ行くのだから、もう永遠に津村の顔を見る事が出来まい。地獄の底から、「ヘルプ! ヘルプ!」と叫んでも、もう津村も来てくれまい。
 もう、わかれてしまったのである。私は中原中也立原道造も格別好きでなかったが、津村だけは好きであった。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月26日

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8月26日の太宰治

  1944年(昭和19年)8月26日。
 太宰治 35歳。

 八月下旬の頃、別所直樹(べっしょなおき)が初めて三鷹の家を訪れた。

太宰と別所直樹(べっしょなおき)との出逢い

 今日は、太宰の弟子・別所直樹(べっしょなおき)(1921~1992)が、初めて太宰の三鷹の家を訪れた時のことについて紹介します。
 別所は、1921年(大正10年)、シンガポール生まれの詩人、評論家。原籍地は宮城県上智大学経済学科を卒業したあと、雑誌編集、新聞記者等を経て、文筆生活に入りました。

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■別所直樹 三鷹禅林寺の太宰の墓に詣でている。

 それでは、別所の著書『郷愁の太宰治から、初めて三鷹の太宰宅を訪れた日のエピソードを引用します。

 「拝啓 ただいまは御芳著を私へも御恵送下されありがとう存じます。ゆっくり拝誦のつもりであります。困難の秋にも詩情枯らす事なくご精進のほどお祈り申上げます。不乙。」
 太宰さんからの、初めての便りであった。昭和十八年八月三十一日の消印である。ぼくはその以前に、太宰さんとお逢いしたことはない。太宰さんはぼくにとって遥かな人であった。
 ぼくは詩を書いていた、何処にも発表する宛もなく、ノートに書きためていた。戦争は暗く重くぼくらを押しつぶそうとしていた。ぼくは仙台の第二師団で三ヵ月の教育召集を終えて家に帰っていた。その召集中に、友人が詩集を編んでくれたのである。朝比奈栄次と共著のささやかな詩集「笛と映える泉」を、ぼくは敬愛する太宰さんに献じたのだ。
 当時、ぼくは太宰さんの小説を枕頭から離さなかった。荒涼とした侘しい生活を慰めてくれるのは、太宰さんの小説だけだったと言ってよい。太宰さんの文学は、人に生きる力を与える文学だ、と思っている。
 ぼくは太宰さんの便りを毎日眺めてくらした。颯爽とした字だった。その字の中に優しさがこもっていた。それでもぼくは太宰さん訪問の決心がつかなかった。母が見かねて、ぼくを追い立てるようにした。そして遂に太宰さんを訪ねることにしたのである。昭和十八年の秋だった。

 

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万助橋 2020年、著者撮影。

 

 吉祥寺で電車を下り、井之頭公園の森を抜け、万助橋を渡った。流れに沿って山本有三氏の門がある。黒い塀が続いている。幾つかの露路をくぐり、くぐり、やっと太宰さんの表札を見つけだした時の嬉しさをぼくは今でも覚えている。
 太宰さんは、ぼくの思っていた通りの人だった。清く、優しい人だった。光りの言葉を投げる人だった。太宰さんは紺のズボンに、紺のジャンパーを着て、丁度仕事の最中だった。津村信夫の追悼文を書きかけておられた。(註・昭和十九年八月刊「津村信夫追悼録・郷愁)」
 ロイド眼鏡をかけて、長髪、如何にも詩人でござい、といった詩人を軽蔑する。津村はそんな詩人じゃない。といった意味の文章だった。
 ――どうですか」
 太宰さんは無雑作にその原稿をぼくに渡した。太宰さんは、ぼくの詩集を覚えていらしたのか、年少のぼくを詩人として遇して下さったようである。
 ――同感です」
 とぼくは答えた。当時ぼくは眼鏡をかけていなかったし、髪には油をつけていたから内心ほっとしたのである。間もなく二人は連れ立って家を出た。それから井之頭公園に向った。池の廻りの杉の木は切り倒され、にわか作りの製材小屋も建って、戦争の匂いはここにも立ちこめている。昔、ぼくは父に連れられて公園に来たことがあったが、その頃は、子供の手に届くところで蝉が啼いていたものだ。

 

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■井之頭公園

 

 池の廻りを一周した。
 ――四時ごろですかね」
 ――はあ、そんなものだと思いますが」
 二人とも腕時計をはめていなかった。公園を出て、埃っぽい道を駅に向う。その途中に、古びた小さな酒場があった。”コスモス”という看板が出ていた。
 ――小母さん、いる?」
 少年は首を振った。
 ――じゃあ、ちょっと待たして貰おう」
 スタンドの椅子に腰かけて、ぼくらは二時間もいたであろうか。
 ――おそいなあ。日曜だから街にでも出掛けたんだろうけれど」
 太宰さんは気にして、二度も三度もつぶやいた。
 結局、その日は小母さんが戻らず、ぼくらはやむなく別れた。
 それ以来、ぼくは実に屢々(しばしば)太宰さんをお訪ねした。その時から太宰さんが亡くなる年の正月まで、あしかけ六年に亘る、その時々の太宰さんの言葉を、ぼくは別にノートにとったわけではない。忘れることの方が多かったかも知れない。しかし、ぼくの胸に、いまだに生き残っている言葉の数々を、ぼくは残しておかねばならぬと思う。
 太宰さんが亡くなってからも、もう十年以上の歳月が流れている。しかし、太宰さんの文学は亡びない。ぼくの胸に残った太宰さんの言葉は、ぼくが書き残さねば、ぼくの肉体と共に亡びてしまう。
 ――ぼくの数々の失敗を、全て君に語ろう」
  太宰さんは、微笑しながら言った。
 ――二十歳の時は、三十歳のつもりで生きるんだ。三十のときには四十のつもりで生きることだ」
 太宰さんの優しい言葉に、ぼくは一瞬、呆心の態だった。
 ――嘘でもいいから、優しい言葉が聞きたい。襖の向うで、べろを出していたっていいのだ。見えなければいいんだ。嘘でもいい。優しい言葉が欲しいんだ」
 愛とは表現だ、とぼくは思った。
 心の中で思っている、なんていうのは嘘っぱちだ……というのが太宰さんの持論だった。
(中略)太宰さんとぼくとの出逢いは、昭和十八年、太宰さんが三十四才、ぼくが二十二才のときであった。二人とも酉年の生れである。

  別所は、「太宰さんとぼくとの出逢いは、昭和十八年」と書いていますが、津村信夫の追悼文を書きかけておられた」というのが事実だとすると、詩人・津村信夫が亡くなったのは、1944年(昭和19年)6月27日なので、別所が書いているよりも1年後ということになります。

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 【了】

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【参考文献】
・別所直樹『郷愁の太宰治』(審美社、1964年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月25日

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8月25日の太宰治

  1936年(昭和11年)8月25日。
 太宰治 27歳。

 八月二十五日付で、浅見淵(あさみふかし)に葉書を送る。

川久保屋旅館滞在中の手紙

 太宰は、1935年(昭和11年)8月7日から8月27日頃まで、パビナール中毒と肺病の療養のため、単身で群馬県水上村谷川温泉を訪れ、川久保旅館に宿泊していました。この滞在については、8月14日の記事で紹介しました。

 太宰は、この滞在中に第三回芥川賞の落選を知ります。当時の芥川賞には、「前回候補に挙がった作家は候補としない」という条件があり、「太宰と芥川賞」に関する一連のエピソードは、この第三回芥川賞を以って、幕を閉じました。

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■谷川橋際の元川久保屋旅館の建物

 今日は、太宰が、この川久保屋旅館滞在中に2人に宛てて書いた、2通の手紙を紹介します。

 まず、1通目は、太宰が義弟・小舘善四郎に宛てて書いた、8月22日付の手紙です。

  群馬県水上村谷川温泉 川久保方より
  青森市浪打六二〇
   小舘善四郎宛

 この地には、私、ひとり、「作品」と「文藝汎論」二年越しの約束の小品、五、六枚、二つ書いています。
 月末ちかくまでいます。すぐ、遊びに来たまえ。一日でも早いほどよし上越線水上駅下車、それからバスで、谷川温泉。すぐだ。
 君、来るなら、電報で、知らせ、たのむ。この温泉から、日光へ、すぐ抜けられるから、一緒に滝と東照宮拝し、飛島定城一泊は如何?
 芥川賞菊池寛の反対らしい。とうとう極点まで掘って掘って、突き当たった感じ、もちろん、以後、菊池寛研究三昧。
 婦人画報社の「奥の奥」なるものより、おかしな注文来た。どんなものかね? へんだね。
 大日本雄辯会講談社から、私の身元調査に来た。身長、本籍、学歴、その他一切、作品の果まで。おかしな奴だね。
 十月号(九月十日発行)若草「喝采」新潮「創世記」東陽「狂言の神
 ついに、中央公論執筆。しかも二本だて、とか。一本だて。百枚以上。
 十月一ぱいで仕上げの約束。「浪漫歌留多」という題、如何?
 別紙の絵ハガキの画を、よく、ごらん下さい。どこが致命的の愚劣であるか、ご存じですか? 感受性も豊か、画品も高く、それに何よりも懐かしいリリシズムございます。けれども、さっぱり手ごたえなく、列車窓外の風景ほどにも、押して来ないのは、この作家、対象を甘く見ています、ナメています、おそらくは、よい育ちのゆたかのお金持ちにちがいございません。「自然」は、きびしいものです。対象とルウズの馴合、あぶない、あぶない。口笛吹きながら、頭を軽快に左右に振りながらリズムに乗り、たのしく、まず、きょうは、ここまで、など、ひとりたのしければ、よし、との心境ならば、われら又なにをか言おう、粛然たる賛意表します。けれども欲の深造、後年のこり巨匠たる栄誉は、その心境の新人には、あげられぬ。口笛の態度は、私も君も、ともに祈念理想の境地なれども、こは、七十歳のシヤヴアンヌにして、はじめて許されるものと知り玉え。

 冒頭で触れられている「「作品」と「文藝汎論」二年越しの約束の小品、五、六枚、二つ書いています」の2作品は、 雑誌に掲載されることはありませんでした。
 また、前回の記事で紹介した、小舘宛のハガキでも「第三回芥川賞」落選についても触れられていましたが、今回も芥川賞菊池寛の反対らしい」と書いており、やはり素直に諦めることはできなかったようです。
 飛島定城(とびしまていじょう)は、この時、東京日日新聞(現在の毎日新聞社)宇都宮支局長。飛島は、早世した太宰の三兄・津島圭治の同級生で、親友でした。太宰と飛島の出会いについては、8月18日の記事で紹介しました。

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■太宰と小舘

 続いて、2通目は、太宰の処女短篇集晩年を出版した砂小屋書房を 、書房主・山崎剛平と共に創立した浅見淵(あさみふかし)に宛てて書かれた、8月25日付の絵ハガキです。

  群馬県水上村谷川温泉 川久保方より
  東京市下谷区上野桜木町二七 山崎剛平
   浅見淵

 浅見さん。もう、かれこれ一月、山にいます。秋が、たいへん早く来てしまってたまらない気持ちで、行く春をなんとかの浦で追いつきけりという故人のうたそのままに夏、追いかけて、できることなら追いつきたいものと思慕輾轉、身体こがして居ります。酷烈の山の気迫、朝、夕、霧の洪水、むらむら渦巻いてしぶいてゆきます。蜻蛉一匹もいなくなりました。
 きびしき一日、にがい一日。

 川久保屋旅館で、「きびしき一日、にがい一日。」を送っていた太宰。

 このハガキを書いた2日後には、船橋の自宅へ戻っています。

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太宰治記念碑前にて 檀一雄(左)と浅見淵(右)。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「稀覯本の世界
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月24日

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8月24日の太宰治

  1943年(昭和18年)8月24日。
 太宰治 34歳。

 井伏鱒二(いぶせますじ)宅を訪問し将棋を指す。

戦後の太宰と師匠・井伏鱒二

 1943年(昭和18年)8月24日、太宰は師匠・井伏鱒二(いぶせますじ)宅を訪問し、将棋を指しました。太宰と将棋にまつわるエピソードについては、3月15日の記事で紹介しました。

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■井伏と将棋を指す太宰 1940年(昭和15年)、井伏宅にて。

 太宰は、1923年(大正12年)、青森県立中学校1年生の時に、初めて井伏の作品に触れて、「埋もれたる無名不遇の天才を発見した」と大変感銘を受け、7年後の1930年(昭和5年)5月中旬、念願の井伏との初対面を果たしました。初対面の様子については、5月19日の記事で紹介しています。

 井伏と太宰は初対面以降、師匠と弟子として親交を深め、20年近く交遊してきました。しかし、太宰は、1948年(昭和23年)6月14日に、愛人・山崎富栄玉川上水で心中自殺した際、その遺書「井伏さんは悪人です」と記しました。

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 戦後、太宰と疎遠になったという井伏。2人の間にどんな変化があったのか。
 井伏のエッセイ『太宰君の仕事部屋』を引用して紹介します。

 戦後、私は太宰君とあまりつきあいがなかった。今でも覚えているが、私が東京に転入してから太宰君に逢ったのは三回だけである。
 当時、太宰君は私に対して旧知の煩わしさを感じていた。おそらくそうであったろうと思っている。結局、私の方からもなるべく太宰君を避けていた。概して気の弱い人は、新しく恋人が出来たり女で苦労したりしているときには、古い友人を避ける傾向がある。しかし当時の私は、太宰君が女で苦労しているとは知らなかった。ただ何ということもなく、可成りの程度に私を避けていると思っていた。
 以前、私が疎開するよりも前に、太宰君が私に、「僕は恋愛してもいいですか」と云ったことがある。ちょっと様子が改まっていた。しかし恋愛しては悪いと云う意気は私には無い。「そんなことは君の判断次第じゃないか」と答えると、「やっとそれで安心した」と云った。その恋愛の相手は、私のうちの近所に住んでいる某出版社編輯部の某才媛だとわかっていた。後に太宰君が亡くなってからの話だが、その某才媛に太宰君のことを打ちあけると、「もしわたくしでしたら、太宰さんを殺さなかったでしょうよ」と冗談のように云った。

 人の組合せというものは不思議な結果を生む。善良な男と善良な女との組合せでも、お互に善良な故に悲しい結果を見ることがある。太宰君の場合、太宰君を死地に導いた女は善良な性質であったかも知れないが、どうも私たち思い出すだに情けない結果になってしまった。ここで仮にその女性を善意ある人間であったとすると、何か当時の雰囲気に引きずられたのではなかったかと思う。意地ずくと云っては当人は不承知だろう。ものの弾みと云ったらどうだろう。青山二郎作詞の都々逸に、「弾みで野暮が粋になり、何とか何とかで、弾みで粋が野暮になり」というのがある。しかし太宰を死なした女性に、この青山二郎の作った歌を当てはめるのは、正直に云って腹立たしいような気持もする。

 

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■山崎富栄

 

 初めて太宰君は、その女性を私に紹介するとき、「この部屋は、この女の借りている部屋です。僕は仕事部屋に借りているんです」と云った。戦後、久しぶりに初めて太宰君に逢ったときのことである。その席には古田晁筑摩書房の石井君がいたが、太宰君は私たちをこの仕事部屋に迎えるのに煩わしい工作をした。先ず石井君が私のうちに来て、「今日は、太宰さんに逢って下さい。行くさきは三鷹の某所です」と云って、私を三鷹の若松屋という屋台店に連れて行った。すると若松屋の主人が「お待ちしておりました。今日は太宰先生が張りきってる日です。慎重に御案内します。暫くお待ち下さい」と云って自転車でどこかへ駆けだして行き、四十分の上も五十分の上も待たしてから、私たちを近所の長屋の二階に案内した。その部屋に太宰君がいて、小がらの女が壁際の畳の上に(まないた)を置いて野菜か何か刻んでいた。室内の様子と庖丁の使いかたとで、この女は世帯くずしだろうと私は見た。

 

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■太宰と「若松屋」初代主人・小川隆

 

 間もなく、若松屋の主人がそこへ古田晁を連れて来て、やがて臼井吉見を連れて来た。なぜ太宰君がそんな煩わしい手数を取らせるのか、理由がわからない。若松屋の主人は一心太助だと自ら云い、実によく自転車でまめまめしく行ったり来たりするのだが、太宰君がこんなに商人をうまく手なずけているとは意外であった。私は腑に落ちないままにビールの御馳走になりながら用談を片づけて、その後からまた酔いつぶれるほどビールを飲んだ。
 用談というのは、筑摩書房から出す私の選集編纂の打ちあわせであった。私はその席で初めて気がついたが、私が東京に転入する前に太宰君は私のために古田晁に交渉して、私の選集九巻を出すことにしていたのであった。転入に立ちおくれて田舎にいた私のために、ずいぶん気をきかせてくれたのである。太宰君の心づくしであった。しかし、どうしてあんな滑稽なほど煩わしい訪ねかたをさせたのか合点が行かぬ。いろんなことに気をつかい、ユーモアを出すつもりであったかもわからない。

 

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■太宰と井伏 杉並区清水町にて、「小説新潮」のグラビア撮影に臨む。1948年(昭和23年)、撮影:北野邦雄。

  疎開していた師匠・井伏が東京へ戻って来るのに合わせ、太宰は筑摩書房井伏鱒二選集』全9巻の刊行を打診。太宰は選集全ての巻末に「後記」を執筆する予定でしたが、第4巻の「後記」を執筆した時点で亡くなってしまったため、第5巻以降の「後記」は、太宰も参加していた「阿佐ヶ谷会」のメンバーでもある上林暁(かんばやしあかつき)が執筆しました。
 井伏鱒二選集 第三巻 後記』について、4月7日の記事で紹介しています。

 「東京に転入してから太宰君に逢ったのは三回だけ」という井伏。井伏の何が、太宰に「井伏さんは悪人です」と言わしめたのでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【"井伏さんは悪人です"の真相に迫る!】

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【日めくり太宰治】8月23日

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8月23日の太宰治

  1935年(昭和10年)8月23日。
 太宰治 26歳。

 八月下旬、鰭崎潤(ひれざきじゅん)が、小舘善四郎に誘われて船橋に訪れた。
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鰭崎潤(ひれざきじゅん)と「聖書知識」

 1935年(昭和10年)8月下旬頃、鰭崎潤(ひれざきじゅん)が、太宰の義弟・小舘善四郎に誘われて、船橋の太宰宅を訪れました。鰭崎は、小舘、久富邦夫などと、帝国美術学校(現在の、武蔵野美術大学)西洋画科に1932年(昭和7年)4月入学した同期で、太宰も親しかった青森出身の版画家・根市良三文化学園美術部在籍)とも親しく交際していました。
 また、太宰との交流は長く続き、1939年(昭和14年)に、三鷹での新居捜しをしたのも鰭崎でした。

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船橋の太宰宅

 鰭崎は、1930年(昭和5年)4月頃から、キリスト教無教会主義の伝道者で、新約聖書研究科の塚本虎二が主催する、無教会派の丸の内会場ビルでの日曜集会に参加していて、太宰宅を訪問した頃には、キリスト教信仰を受け入れていたそうです。
 船橋の住居には二度訪れ、初訪問時には檀一雄、2度目の時には山岸外史に会っています。

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■太宰、山岸、檀 3人は「三馬鹿」と呼ばれていた。

 船橋時代から、キリスト教についてよく話題にしていたそうですが、このとき鰭崎は、無教会的聖書研究誌「聖書知識」(塚本虎二主宰。1930年(昭和5年)1月創刊、1963年(昭和38年)6月終刊。毎月一回、1日付発行)を持参していました。
 この「聖書知識」について、太宰の妻・津島美知子が『回想の太宰治で触れているので、引用して紹介します。

 太宰が進んで代金を支払って定期購読者になった雑誌は、無教会派の月刊誌「聖書知識」だけである。これは鰭崎潤氏の影響に依ったのであろう。
 鰭崎さんは小舘善四郎氏(太宰の姉の嫁した青森の小舘家の四弟)の美術学校時代の友人で、小舘さんに誘われて太宰の船橋の家を訪れたこともあったが、太宰が三鷹に住むようになってからは小金井在住の鰭崎さんと大変近くなったので、始終来訪されるようになり、昭和十四、五年頃にはわが家への最も頻繁な来客であった。もう一人鰭崎さんほど頻繁ではなかったが、同じ仲間の西荻窪の久富さんとも往来があった。「リイズ」は久富さんのご家庭の印象からヒントを得ている。この方々の共通点は富裕な家庭の子弟で、まだ気楽な部屋住みの身の上であることで年齢は太宰より四、五歳年下であった。
 鰭崎さんはいつも大きな貴重な画集を携えてきて見せてくださり話題にされた。といっても鰭崎さんが、ほとんど一方的に熱っぽく講義口調で何時間でも論じられるのであって、太宰はもっぱら聞き役に廻っていた。元来しらふのときは口少なの人であった。むさし野の陽が傾きかけると連れ立って家を出て、井之頭公園を散策して、池畔の茶店に憩うてビールが入ると、話し手、聞き手の役割は逆転したことだろう。
 鰭崎さんは堅い信仰を持つ方で、月刊の「聖書知識」が発行されると持参してくださり、太宰はその話を聞き、借りて読んでいるうちに、購読者になることを決めた。「聖書知識」が届き始めたのは、昭和十五年からではないかと思う。そしてまた些細なことにこだわって購読を中止した。

 

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 それは何時のことかはっきりしないが(同誌の巻頭言で、無教会派の主宰者塚本虎二氏が、山本五十六元帥の戦死に言及しておられるのを読んだ記憶があるから、私のその記憶が正しければ、昭和十八年春より後になる)、同誌編集子から印刷した往復はがきで、「購読者名簿整理の必要上、各自、各項目に記入して返信するよう」にとの照会があった。
 何年前からの愛読者であるか。
 自分が購読者として、上、中、下、どの中に入ると思うか。
 自ら評価して記入せよというような内容であった。
 その問い合わせが癇に障って、向かっ腹を立てた太宰は、「十年来の読者なり。最低の読者なり。以後購読の意志無し」と書き入れて返信し、それきり絶縁してしまった。
 この返信はがきは太宰の歿後、塚本先生から、太宰に師事していたクリスチャン佐々木宏彰氏に送り与えられた由で、私はそのはがきを見せていただくことを佐々木氏にお願いしたが、見当たらないとのことで叶えられなかった。太宰治でなく戸籍名で津島修治の署名がしてあったらしいが、その返信を確認しての上ではないから、上記の項目など、事実そのままではないかもしれない。
 佐々木氏の回想によると、塚本先生は太宰の返信はがきに「このはがきで見ると、几帳面な人らしい」と朱筆で添え書きし、同封の手紙に「『聖書知識』を続けて購読していたら、太宰さんも終りはあんな事にならなかったろうに、惜しかった」と書かれていた由である。
 太宰がまだ「聖書知識」を購読していたころ、対座している佐々木氏に、太宰は時折同誌のある箇所に爪で印をつけて渡し、そこのところに特に注意を促した。また佐々木氏は私費で自作を印刷物にして知友に配っていたが、その印刷物を貰うと太宰は――ひきかえにこれをあげよう――と言って「聖書知識」を渡した。
 佐々木氏は、富士見町教会に籍があったが、ある日曜日、丸ノ内の郵船ビルディングのホールで催される無教会派の集会に出席して、塚本先生の風貌に接し、「ロマ書」の講解を聴いた。それはいわば太宰に慫慂(しょうよう)されて、一足先に出かけたようなものであった。太宰に早速その模様が伝えられたことは言うまでもない。太宰は内村鑑三の高弟、塚本虎二という方に心を動かされていながら、ついにお会いすることもなく終った。
 あるとき私は乳のみ子に乳を含ませて寝かしつけながら、「聖書知識」を読んでいた。枕もとの縁側を(かわや)に行く太宰と視線が合った。わるいところを見られたと悔んだことが忘れられない。


女の決闘」のしめくくりに「牧師さん」が登場する。牧師さんといえば、いつも黒っぽいスーツを着てまじめで、苺の苗を持ってきて植えてくださった鰭崎さんの姿が浮かぶけれども、鰭崎さんは「牧師」ではない。
 鰭崎氏、佐々木氏のほか三鷹時代の彼の周囲にはクリスチャンが大勢いたが、教会や牧師とは全く無関係であった。

  鰭崎や、太宰と聖書については、2月16日の記事でも紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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