12月28日の太宰治。
1936年(昭和11年)12月28日。
太宰治 27歳。
十二月下旬、檀一雄が、初代の依頼によって金を届けに訪れたが、支払いをせず、二人で遊び、金を使い果たして、借銭をした。
熱海事件(付け馬事件)①
今日は、「熱海事件」(”付け馬事件”とも)について、前・後編の2回に分けて紹介する<前編>です。
1936年(昭和11年)。太宰は、11月25日から熱海温泉へ行き、馬場下の八百松(八島館)に滞在し、「文藝春秋」に持ち込んであった『二十世紀旗手』の改稿に着手しました。
4日後の11月29日、『二十世紀旗手』39枚を脱稿。掲載予定の改造社に送付しました。また同日、太宰は朱麟堂(太宰の俳号)の署名で、義弟・小舘善四郎に宛てて、
かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思うよ。
一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「傷心。」
川沿いの路をのぼれば
赤き橋、また ゆきゆけば
人の家かな。
という『HUMAN LOST』の一節を引用したハガキを投函しています。このハガキを受け取り、勘違いした小舘が起こした行動により、小舘と太宰の妻・小山初代の「秘め事」が露見することになりました。
同年12月7日、太宰は熱海海岸通りの村上旅館に宿を移します。
そして、同年12月下旬。太宰の友人・檀一雄の本郷の下宿へ、太宰の妻・小山初代が訪れます。この時の様子を、檀の『小説 太宰治』から引用します。
井伏さんの覚え書きによると、昭和十一年の十二月という事になっている。本郷の私の下宿に思いがけぬ、女の来訪者がやってきた。
誰かと思って、出てみると、初代さんだった。
「ああ、奥さんか、津島君どうかしたんですか?」
「いいえ、ちょっとお願いがあるのよ」
と、初代さんは穏和にほお笑むようだから、
「よかったら、どうぞ」
「じゃ、ちょっと」
と初代さんは素直に私の部屋に上ってきた。
■小山初代
「お願いって?」
「あのね、津島が熱海に仕事をしにいっていますの。お金がないといって来ましたから、やっとこれだけ作ったのよ。檀さん、すみませんけど、持っていって下さらない?そうして早く連れて帰って来て下さいね」
私は金を持っていなかった。
「旅費がないけど」
「ええ、この中から使っといて下さらない」
「いいですか?」
「ええ」と、初代さんは肯 いた。
私は嬉しかった。久し振りに太宰に会えるばかりか、今夜は熱海に一泊だ。私は何処へゆくのにも、久留米絣 の着流しで出掛けるならわしだったから、タオル一本手にすると、初代さんについて出た。
「じゃ、行ってきます」
「お願いしますね。さようなら」
と、そのまま別れた。宿屋の所在だけをきいていた。
檀は、同年8月から10月末まで満州旅行へ行っていたため、太宰との久し振りの再会に胸を躍らせながら、熱海へと向かいました。
その小さい、太宰の宿は難なくわかった。
女中に取り次ぐと、間もなく、太宰が如才なく降りて来た。嬉しいようだった。
「ああ、檀君」
何処かへ出掛けるところなかのか、ラクダの上等のモジリを着込んでいた。
「奥さんから、金をことづかって来たんだよ」
「そう、まあ、あがれよ」
と、太宰は先に立って階段を上っていった。
■旧村上旅館 現在は「村上たばこ店」。現在は海側に建物が建ち、海を見ることはできません。旅館の前に立つ松は昔のままで、「太宰の松」と呼ばれているそうです。
海の見える部屋だった。海の反対側のところにもう一間あり、そこへ机を置き、その上に例の通り、朱線の原稿用紙の中央にきっちりと古びた万年筆がのせられていた。しかし、何も書かれている様子はない。それを太宰は急いで二つに折り、押入れの中に隠し込んだ。
「ここ、書ける」
「ああ」
と、太宰は否定も肯定もしない曖昧な顔だった。船橋の頃に較べるといくらか太っているようだ。しかし、私のは安堵のゆかない、あの二重性格の両極が誇張されて交互に激しく交替した。例の通り急がしく煙草をパッパッとけぶしては、机の皿にひねりつぶしていたが、
「ここはね、橘外男 がよく来るのだそうだ。叶わぬ。日に三十枚書きとばすんだそうだから、驚いたよ。何をそんなに書く事があるのかね、え」
嘲笑のような声だった。しかし笑いながら素早く泣声の風情に変る。それが、捗らぬ自分の仕事への自虐の声のようにかすれてゆく。
「お金、ほら。奥さんから預った。すぐ引き上げてきてくれって」
と、ふところの中から状袋入りの七十何円を取り出した。
「ああ、ありがとう」と、太宰はいつもの通りよそよそしくその状袋を手に取って、喜びとも、不安ともつかぬ顔をした。
「行こうか?」
「どこへ?」
「すぐそこだ」
私は論なく、太宰の後から続くのである。雨上がりの空模様だった。
太宰は宿を出る時に、女持ちの蛇の目傘を携えた。
「返すんでね」
と、太宰は私の不審貌に答える風に呟いたが、その蛇の目の上には、「葉子」と女名前が白エナメルで記されてあった。私はこの葉子という文字を今でもはっきりと覚えている。その葉子が果して芸者であったか、それとも、後に書く居酒屋の女将であったかは、はっきりとしない。この傘の返し先を、私もきっとたしかめていたはずなのに、今どうしても思い起せないのは不思議である。
私達は海ぎしをゆっくり歩き、橋を越えると小川に沿って、小道を上っていった。両岸の温泉の捨て湯が、川の中に白い湯気を上げているのは妙に旅情をそそる風物だ。川の上に小さいバラック作りの小料理屋が建っていた。見たところ軒並みに芸者屋か遊女屋が並んでいる真中のようである。
「ちょっと寄ろうか」
太宰はそう云って、その小料理屋の簾を開けた。
「いらっしゃい、早いですね先生。お客様はどちらからで?」
と、ひどい斜視の青年が私達を見上げた。
「ああ、東京だ。おやじ、どうした?」
「ちょっと帰ってます。呼びますか?」
「ああ、呼んで来てくれない?」
「じゃ、すぐ」と、青年は走り出した。
太宰はいかにも来慣れた家のように二畳敷きの畳の方に腰をおろして、
「飲まないか?」
チロリの酒を私の前のコップに自分でついだ。
「君は?」と、云うと、
「いや、いいんだ。歯が痛くってねえ」
と、太宰はサイダーを開けて飲んでいる。今考えると、この時までは少くとも太宰は無事に東京に帰りたく思っていたにちがいない。
やがて、尾上松之助 によく似た男が這入ってきた。どうやら店の亭主のようである。目も眉も濃くて太く、身を持ち崩した男のふうだった。男は、ジロリと私を一瞥 した。
■尾上松之助 (1875~1926) 歌舞伎役者、映画俳優、映画監督。本名は中村鶴三 。日本映画草創期に活躍した時代劇スターで、日本初の映画スターといわれる。
「東京の友人でね、檀という男だよ」
「よろしくどうぞ」
と男は私の方に挨拶をして、それから太宰の方に向き直ると、
「届きましたかね?」
男の下卑た口付きから考えると、金のことを云っているにちがいない。太宰は何とも答えなかった。ただ、ふところから『改造』の新年号をするりと出し、親爺の前に投げやった。
「ああ、先生の。へえー。出ましたね」と、親爺はその『改造』をめくっていたが、私も実は未だ『改造』を見ていなかった。
「出たの?」
太宰は肯 いている。
私は親爺達の「先生」と云う言葉がひどく気になった。少くも船橋にいた頃までは、どんな後輩から話しかけられても、「先生は、よせ」と、てれ臭さげに断っていたものだった。こんな居酒屋風情の親爺達からは、もちろん「先生」と呼ばれて差支えないものの、平常の太宰らしくなく、唐突な感じが、湧いた事を覚えている。
「親爺。てんぷらを喰いにゆかないか?」
「どこへだね、先生」
「碧魚荘だ」
「お供しましょう」
「行かないか? 檀君」
「ああ」と、私は肯いた。
「先生、〇ちゃん、随分待ってましたぜ」
「ほんとかねえ。不思議だねえ」
と、これは芸者か、遊女の事をでも云うようだった。
それから太宰は、その話のつづきだろう、しきりに可笑しそうに亭主と、談笑しながら、三人は海岸の道を上っていった。トンネルを越えると例の「ちょっと待て」の木札が立っている、断崖の淵である。碧魚荘はその手前の海ぎしの上に建っていた。太宰は前に来たことでもあるのか、つかつかと這入り込んで、真下に海の見下ろせる、料理場の中に歩いていった。調理場は、ちょうどバーの風に囲われていて、即席のてんぷらが揚げられるようだった。高級の小料理屋風である。
■緑風閣 「碧魚荘」と書いてあるのは「緑風閣」のこと。写真左のビルが、現在の緑風閣。
「いいのかい?」
と、椅子にかけた折に、私は不安になって、こう云うと、太宰は、
「ああ」と肯 いた。倹約の忠義だてでもあるまいと思ったが、それでも私なぞついぞ這入り慣れないほどの高級料理屋で、何か、不安だった。
「檀さん。ここのてんぷらはね、みんなたね は下の生簀 から抜いてくるんだからね」と、目玉の松が私に教えてくれた。
油が煮立っている。煙があがって、シューンと次々とてんぷらが放り込まれていった。やがて油鍋のペンチレーターが旋回し始めた。
「何です? あれ」
「けむ抜きでさあ」
アト・ホームの感じが全くしない。旅先では、よくキャメル等吸う、贅沢好みの太宰はよく知っているものの、しかし私と太宰と二人きりの時は、大抵浅草か玉の井辺りの、大工や日傭人足 達がひっかける安食堂を、梯子して廻るのが常だった。
酒が出されている。飲む。太宰は「歯痛だ」といっていた癖に、いつも通りの豪酒降りを発揮しはじめている。最後に海苔がチリチリと上げられて、
「いくら? お勘定」と、太宰が云うと、
「へえ、有難うございます。二十八円七十銭」
やっぱり、と私はさっと青ざめたが、さすがに太宰の血の気も失せてゆくようだった。しかし、一度断崖をすべり落ちてしまうと、太宰も私も、居直るたちだ。もう太宰のふところは、五十円未満しか残っていない。目玉の松の所の支払いや、それから道に話し合っていた模様から察すると、芸者屋か遊女屋の支払いも、かなり溜っているに相違ない。それに、宿泊料を合せると、到底太宰のふところでは、済まぬことだと観念した。
遠いところは時雨 てでもいるのだろう。海上に暗い雲が密着して、波は白くめくれ立っていた。暮れてゆく。
私達は坂道をどんどん下りて行った。太宰は手に握った蛇の目の傘をブラブラと大きくゆすっている。
温泉の街の灯がとぼっていた。相変らず流れ湯の白煙がたてこめて、それが靄 のふうに川面を一杯に匐 っていた。先程の目玉の松の家にあとがえった。時々、初代さんの遣瀬 ないような目の色が浮んで来たが、もう私もやけくそだった。苦杯はあおるほどにがい。
太宰の顔の中にも、あの尊大な自我没入の不貞腐れた麻痺の表情が見えてきた。
『改造』を手に取って、盃をあおりながら、じっと目をこらす。
「うん。やっぱり、俺のだ。一番いい。駄目だねえ、里見弴 なんか。全く感覚がなくなってしまったね。ひどいねえ、これは」
■里見弴(1888~1983) 神奈川県横浜市生まれの小説家。本名、山内英夫。ペンネームは、電話帳をペラペラとめくり、指でトンと突いた所が里見姓だったことに由来。永く鎌倉に住み、鎌倉文士のはじまりとされることもある。主な作品に『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』『恋ごころ』などがある。
私は、太宰の手から奪いとって、その『改造』を手にしたが、酔い呆けた目にはよく見えなかった。ただ「ナタリヤさんにキッスしませう」というゴヂの九ポが、その時見たままの活字の姿で、今も私の目の中に残っているだけだ。太宰はしきりに誤植を直していた。
「ひどい誤植だ。センスないね」
「そうかい」
私は訂正された太宰の文字を眺めながらそう云った。
太宰は上等の駱駝 のモジリを着込んでいた。兄さんのお下がりか、それとも北さんの思いやりで届いた品だろう。それに、これは後にも先にも、たった一度みかけただけで、あるいは目玉の松からでも借り受けていたのかも知れないが、白い絹のマフラーを首に巻きつけていた。どう見ても、日頃、太宰の嫌う、芝屋もん風ではないか、その時の私の嫌悪感を忘れないから、ここのところは印象が極めて明瞭だ。
酔がかなりすすんだ時だった。
「檀君、鮎子さんに結婚を申し込んでくれないか?」
「鮎子さん?」
と、私は意外だった。谷崎鮎子さんの事だろうか。しかし、これは婚約者があることだと、私ですら聞いている。正気なのかどうかを疑った。しかしその表情は生真面目で、いつもの、自分をからかうような調子に移らないのである。
「確信あるんだ。佐藤先生にお願いしてみてくれないか?」
「ああ」
と、私は曖昧に答えたが、納得出来なかった。
太宰が鮎子さんに、ひそかな思慕を寄せていたとは思われない。もしあったとしても、それは軽い気分で、その軽い気分を無理に、自分に思い込ませようと努めていたに違いない。太宰にはこういう妄想の一面が、たしかにあった。この時は未だ発端で、決定的な進行を見せてはいなかった。発端は、いつも、たわむれであり、気分であり、希望であり、あるいは思いつきであっても、それが進行し、増大してゆくと、例の太宰的懊悩悲哀となり、ついに破局的な結果を招くのが常である。
誰だって、妄想はある。そもそも人生というものは自分の妄想を抱いて、墓場に急ぐ道程の事だろう。しかし、太宰の場合は、殊に一方的に増大してゆく妄想が激しかった。成程、人生という奴は作ってゆく人生だ。しかし、この太宰の作られてゆく人生には全くといっていいほど天然の是正がない。死んでしまったから云うわけではないが、昔、太宰はひどく西瓜を喰べることを嫌っていた。私が好んで、この真夏の甘味をむさぼるのを見るたびに、
「いやだねえ、ひどいねえ、不態 だよ、檀君。第一大きすぎる。赤すぎるよ」
もちろん、随分とユーモラスにではあったが、こういうのが口癖のようだった。後年、清水崑の漫談を見て、太宰が半ズボンで西瓜を買いにゆく画が見えていたが、私は嬉しかった。太宰の心の持場が、自由な喜びに開いていったと、新しい文芸が信じられた。
さて、その日の鮎子さんの一件を考えてみると、あるいは、目玉の松や、斜視の小僧達に対する示威ではなかったかという疑いも生じてくる。実際、聞こえよがしに言っていた。後で目玉の松と私と連れ立って上京した折も、この目玉の松から、鮎子さんの一件を聞き正された事がある。すると、自分の周囲の状況を華やかに修飾して、この債権者達の安堵を得たかったのかも解らない。いや、そう考えた方が自然ではないか。
■檀一雄
その晩は、私達は案の定、裏の遊女の家に出掛けていった。
「信じろよ、檀君。これはね、とってもいい子だよ。とっておきなんだがねえ、譲るよ」
そう云って、一人の女を私の前に坐らせた。
「あら、厭だ。よしてそんな事」と、女が言った事を覚えている。すると太宰が、その女の方に向き直って、
「素直に、ハイ、と云いなさい。これが難しいんだよ。ハイ、と云いさえすればねえ」
「じゃ、ハーイ」
「驚いたね。見直したよ。一目惚れか? こりゃひでえ」
と、太宰は大声に笑いながら、次の部屋に這入っていった。今でも目に浮かぶが、こういう太宰は実によかった。
文学を忘れてしまって、虚栄を抜きにして、おのおのの悲しみだけを支えながら、遊蕩にふける時間が、私達の僅かな、安静な時間だったといえるだろう。太宰のいう、千人に通じた女は、もう処女だ。その名も知れぬ処女達の、肌の温もりにだけ、かすかな私達の憩いがあった。
私が、女と連れだって、真夜中、浴場に立ってみると、太宰も女を連れて、浴槽の中に、かがみこんでいた。
「洗えよ君。処女にも黴菌 はついてるからね」
クックッと太宰は湯の中から顔を上げて笑っていた。流れ湯の落ち込む音が、夜通し、川の中に鳴っていた。
翌朝も、そこから真直ぐ目玉の松の、居酒屋に帰るのである。
「おやじ、ひどいね。檀と双葉と、もう昨夜、こうだ」
太宰ははしゃぎながら、両手を合わせて空へ突き上る真似をする。
「ウヘヘヘ」と、おやじと斜視は顔を見合わせあって喜んだ。二、三杯の酒をあおり、宿に引き揚げてきて床につくのである。
金の事はもう太宰に云わなかった。わかっている。太宰も私にひとことも語らなかった。
太宰の寝姿を時折確かめながら、醒めては眠り、醒めては眠る。一度、太宰と顔が合った。
「クックッ」と、太宰が笑いだすのである。
「心境が澄み切ってね――」
何を云うのかと、その口許を見つめると、
「もう眠る、ばかしさ」
ウフフ――と、太宰が布団を被って、含み笑いに移っていった。
やがて太宰が、むくっと起きて、
「こうしちゃいられねえ」
金かと私も起きあがって、悔恨がかすめるが、
「ゆこう」と、また酒になり、女になる。三日目の朝だった。
「檀君、菊池寛の処に行ってくる」
「大丈夫かい?」
「ああ、大丈夫だ」と、太宰が云ったが、私は心細い限りだった。しかし、このままではどうにもならないことはわかっている。
「明日、いや、あさっては帰ってくる。君、こここで待っていてくれないか?」
かりに私が東京へ出たところで何の成算もないからには、待つのに限る。
「ああ、いいよ」と、私は肯 いた。
「留守中は、淋しい目にゃ、会わせないよ」
太宰はそういい残して東京へ出ていった。
<後編に続く>
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【今日は何の日?
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