記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】12月21日

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12月21日の太宰治

  1944年(昭和19年)12月21日。
 太宰治 35歳。

 十二月二十日夜、魯迅が仙台医学専門学校に在籍した当時のことを調査するために、仙台に向かって、十二月二十一日朝、仙台に着いて青木ホテル(?)に滞在。河北新報社編輯部を訪れ、「河北新報」の綴じ込みによって、主として明治三十七年頃の主要報道や仙台について調査した。

惜別』執筆準備のため、仙台へ

 太宰は、1944年(昭和19年)12月20日の夜行列車で東京を出発し、翌12月21日の午前、仙台に到着しました。この仙台行きは、同年2月上旬に脱稿した『惜別』の意図に基づき、惜別執筆を進めるためでした。仙台には4日間滞在しました。

 仙台に到着した12月20日は、東北帝国大学広浜嘉雄文学部教授を訪ねるなどして、翌12月22日から仙台の出版社・河北新報社を訪れます。

「僕は太宰です。こんど、仙台医専に在籍していた魯迅先生の伝記を頼まれて、いろいろ調べたいことがあって来たのです。予告もなしに来てしまって申し訳ありませんが、明治三十年ごろの古い河北新報を見せていただきたいのです」

 河北新報社を初めて訪れた太宰は、編集室の入口で、対応にあたった社員の吉邨(よしむら)ペンネーム)に用件を伝えました。吉邨は、この時の太宰は「ひどくもじもじした」態度だったと回想しています。太宰は、黒いラシャの詰め襟の服を着て、少し短めのズボンに薄緑色のゲートルを巻いていました。

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■『津軽』取材旅行に出発した時の太宰を連想させるような出で立ち 小泊の「小説津軽の像記念館」にて。2010年、著者撮影。

 太宰は取材を始める前に、どうすれば仕事を手際よく片付けられるか、河北新報の社員と相談し、まず、魯迅が仙台を訪れた1904年(明治37年)頃の新聞の綴じ込みを探しました。太宰は、12冊ぐらいずつ机の上に積み上げると、丹念にメモを取り始め、夕方まで、ほとんど休むことなく作業を続けます。あまりの熱心さに、誰もが驚いたといいます。太宰は、メモを取りながら、市井の雑事や、仙台市東北学院で学んだ明治の文人岩野泡鳴等、仙台ゆかりの人々について質問しました。仕事に熱中する姿を見た吉邨は、「気負い立っている」ように感じたそうです。
 また、青森県三戸町出身の出版部員・川井昌平は、「出版部の片隅で、寒そうに肩をすくめ、指先をかじかませながら、河北新報の古いとじ込みを調べて」おり、「意地の悪い友だちにさんざんいじめられた子供のように、(中略)壁の方へ向いて、誰ともほとんど口を利かず、妙にいじけた姿であった」と回想し、「好感が持たれ、やせとがった肩先に、(中略)後ろからそっと自分の外套を羽織らせてやりたいような、愛情を感じさせられた」そうです。
 河北新報社での初日の仕事は、太宰の「またあしたお願いします」という言葉で終わりました。

 初日の仕事を終えた太宰は、川井や河北新報社の出版部長・村上辰雄、作家・日比野士郎とともに、自身が滞在しているホテルに行き、一緒に酒を飲みました。日比野は、1934年(昭和9年)に河北新報社に入社、間もなく出身の東京に帰ったものの、応召などを経て1938年(昭和13年)に復職し、1940年(昭和15年)まで勤めました。再び東京へ帰った後、1944年(昭和19年)5月から、妻の縁故先である宮城県涌谷町に疎開していました。この頃、河北新報社にしばしば出入りしており、1945年(昭和20年)から1947年(昭和22年)には、同社の特務嘱託を務めていました。
 川井は当夜の様子を、次のように回想しています。

(太宰は)持参のウイスキーの瓶を二本出し、杯をあげたが、その途端に、といってもいいほど、それまでとはうって変わった楽しそうな顔になり、特徴のある、いかにも酒のみらしい、板についた手つきで、グビグビのみだした。

やがて、それまでしぶっていた舌がほぐれだし、何やらおかしそうに、軽い皮肉をまじえながら、文壇のこと、作家の噂話など、あれこれはじめた。

  川井と知り合ったばかりだったこともあってか、太宰は持ち前の毒舌をふるうことはありませんでしたが、無邪気に見えるほど、子供っぽく、楽しそうだったといいます。

 その後、外へ飲みに出ることになりますが、酔いが回った太宰は、当時仙台に疎開中で、終戦直後に河北新報社論説委員を務めることになる哲学者・船山信一山形県川西町出身)や、1939年(昭和14年)に東北地方で初めて直木賞を受賞した作家・大池唯雄の自宅に、連絡もせず押し掛けたりしたそうです。
 翌日か翌々日の夜には、川井の自宅で日本酒の一升瓶を空け、管を巻きました。話が作家論に及ぶと、太宰は「明治以降、日本の作家で文学史に残るやつは、鷗外、と指を屈すると、もうあとはおれしかいない」と言い出します。川井が聞き流していると、「あんた、みとめないのか! おれのほかにだれがある、鷗外とおれのほかに、作家らしい作家なんて、一人もいないじゃないか!」とまくしたてました。
 川井は、新しい作家は誰も読まないことを告げ、若手作家を評価できない理由を述べると、「そりゃそうだけど、おれのものだけは読むべきなんだ。読む義務があるんだよ。読んでください」と迫りました。太宰は川井に、「東京に帰ったら、これまで自分が書いた本を集めて送るから、読んでほしい」と申し出たそうですが、この約束は果されることはありませんでした。

 

 太宰は初日と合わせて3日間、午前も午後も同じ調子で、熱心にメモを取り続けます。
 少し早めに終わると、東北帝国大学の医学部に出掛け、前身の仙台医学専門学校について、加藤豊次郎教授に話を聞いたり、村上の案内で、魯迅と同級生だったという医師を訪問したりしました。

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■日本で留学中の魯迅(周樹人)

  また、太宰は、40年前に仙台に滞在した魯迅の足跡を求めて、市内を歩き回りました。最初の下宿先だった宮城監獄署(仙台分監)の向かいの仕出し屋弁当「佐藤屋」や、ロシア人の捕虜たちが収容されていた広瀬川河畔なども訪れています。歳月を経て、街の様子は魯迅滞在の頃とずいぶん変わっていましたが、魯迅が見たはずの風景を確かめようとしました。
 村上辰雄の次男・村上佑二は、仙台市米ケ袋の自宅を訪れた太宰を広瀬川に案内した時の様子を、次のように回想しました。国民学校1年生の時だったそうです。

広瀬川を見たいということになって。私が案内役になって太宰の肩車で中坂を下りて県立工業中学校(現在の宮城県工業高)の脇を通り、広瀬川霊屋(おたまや)橋の近くに行きました。その間、太宰はほとんど沈黙していて、川岸を歩きながら時折フンフンと頷くだけだったと記憶しています。私は対処するすべを失って、どうも間合いの悪い思いをしてしまいました。それから再び太宰の肩に乗って帰宅したのですが、体は痩せていたのに肩幅が広く、ゴツゴツと骨張っていたという印象が強く残っています。

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魯迅が最初に下宿した「佐藤屋」跡 現在は更地になっている。

 

 仙台での4日間の滞在を終えた太宰は、12月25日の朝に仙台を出発し、夜に帰宅しました。
 太宰が惜別執筆の参考資料としたもので、「『惜別』メモ」が残されています。「『惜別』メモ」は、200字詰め原稿用紙14枚と、原稿用紙を綴る厚紙1枚にぎっしり書きこまれています。さらに、河北新報社の便箋2枚に仙台市の地図と、魯迅の下宿跡など、ゆかりの建物、場所などが描かれています

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■「『惜別』メモ」

 太宰が惜別237枚を脱稿するのは、1945年(昭和20年)2月20日頃。三鷹の自宅で執筆していた頃の様子を、太宰の妻・津島美知子は、回想の太宰治で次のように回想します。

空襲警報におびえて、壕を出たり入ったり、日々の糧にも、酒、煙草にも不自由し、小さなこたつで、凍える指先をあたためながらの労作であった。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月20日

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12月20日の太宰治

  1926年(大正15年)12月20日。
 太宰治 17歳。

 十二月二十日付で「蜃気楼」十一月十二月合併号を発行。「怪談」を津島修治の署名で発表した。

『怪談』

 今日は、太宰が県立青森中学校4年生の時に、「蜃気楼」十一月十二月合併号へ、津島修治の名前で発表した習作『怪談』を紹介します。

『怪談』

 私は小さい時から怪談が好きであった、色んな人から色んな怪談を聞いた、色んな書籍から色んな怪談を知った、一千の怪談を覚えて居るといっても()えて過言ではなかろう、世に怪談程、神秘的なものはあるまい、そして同時にこれ位厳粛なものもないであろう、青い蚊帳(かや)の外に灰色の女の幻影が表われた時、ほの暗い行燈(あんどん)の陰にやせこけたアンマが背中を円くして、チョコンと座って居た時、私はそれによって神の存在を知り得た位である。
 私の小さな時分にはよく怪談を知らせて()れた人は祖母であった、ボオーと燃えて居るラムプの光(まで)が神々しく見える時はこの怪談を聞いている時であった、コタツに入りながら、又或る時は祖母のヒザにだっこされながら夢を見て居るようにウットリして祖母の怪談を聞いて居たあの時分の私がうらやましい、心持ち(まゆ)をひそめ、声を低めてヒソヒソ怪談を語る祖母の顔の神々しさは私は今でもごく厳粛な気持で思い出すことが出来る。

 

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■太宰の祖母・津島イシ 「金木の淀君」と呼ばれた太宰の祖母は、1946年(昭和21年)10月16日 に、90歳で長寿を全うした。

 

 今でもそうだが私は全くあの頃は怪談に(おぼ)れて居た、それで私は怪談を作ることを愛する、少し不思議なこと(いやむしろ平凡過ぎることかもしれぬ)でもすぐそれを怪談にしてしまう癖があるのである、私はそれをいい癖だと思って居る、あの神秘的な怪談に対して礼だと心得て居るからである、現在の科学者達は怪談か? と言って、ただそれを一笑に附してしまうのは少くとも怪談に対して礼を失していると思う。
 だから私は色々な怪談を知って居ると共に又色々な怪談に遭遇したのも事実である。
 ()ず私はごく最近私が経験した怪談「マントが化けた話」から物語ろうと思う。

  一夜のうちに老いぼれてしまったマントの話

 それは野分のひどい寒い日でした。
 ――ブルブル、うわっ寒い――
 ――ハッハッハックション、風邪をひいたよ、うわっ寒い――
 ――鳥肌が出てるヨ、家じゃ風呂を沸かしていればいいが、うわっ寒い――
 私達は皆ワイワイわめきながら玄関に突進です、放課は楽しいもの。
 ――わうっ――
 妙な悲鳴を上げたのは私でした。
 ――マントがないよオッ――
 私は鼻声でした。
 ――オレが知ってるよ――
 ――何? 知ってる? おしえて呉れよ――
 ――オレが質屋に預けて来たんだ――
 ――なあんだい――
 ――いや、ほんとだよ――
 ――うるさいナ――
 ――まあ、ゆっくり捜してやれよ――
 ――心配御無用――
 ――質屋に行って見たまえ、泰然と質屋の倉に陣を占めてるから――
 ――うるさいよ、なぐるぜ――
 ――おやおや怒ったネ、お気の毒ですネ――
 ――早く帰れよ、ろくな口をききあしない――
 ――お寒いことでしょうネ――
 ――まだ、君はそこに居たのかい? 早く帰れよ「早く帰らないとお母さんは心配します」(朗読口調で)――
 ――まあ、ゆっくり捜し給えナ、アバヨ――
 ――チェッ、なあんだい、あれア、いらないことばっかし――
 ――ところでマントだ、どこをまごまごしてるんだろう――
 私はこれ位、(しゃく)にさわったことはありませんでした、私はてっきり誰かが隠したのだと思ったのです、いたずらにも事を変えてマントを隠したりして、妙なことをする奴もあればあるものだ、しかもこんなひどい日に。
 非常に寒い日だったのです。
 おまけに風が強かったのです。
 まず、黒板のかげを、捜しました。
 ――ない――
 次にストーヴの中。
 ――ない――
 机の中。
 ――ない――
 最後に教室の壁をぐるりと見廻しました。
 ――いよいよない――
 私はほとんど泣きそうになりました、隠したのではない、して見ると誰かまちが((ママ))たのだナ、ウーンと(クラス)敢粗忽者(そこつもの)は誰だろう、アイツ――アイツだ、アイツだ、あんな粗忽者はない、火星と月とを間違う程の粗忽者なんだからな、まあ、なんて失敬な奴だろう。
 明日学校に来て見ろ、首と胴とは離れ離れだ、憎い奴はアイツだ。
 私はプンプン怒って外に飛び出しました。
 ――寒い――
 ――なあに、クソッ――
 私は散弾のようなすばしこさで、走り出しました。
 ――オイ、なぜマントを間違((ママ))たりなんかしたんだい――
 ――ななななワワワワ……………
 ――なんとか言えよ――
 ――なにを言ってんだい――
 ――マントだよ、マント――
 ――マントがどうした――
 ――どうしたも、ないもんだよ――
 ――さっぱりわからん――
 そこで私はアイツにそれを言ったら、アイツは迷わくそうな顔をして、いいや私ではないと言ったのです、そして、アイツのマントをワザワザ私のところに持って来て長い説明をして呉れました。
 ――あいあいわかったよ、君ではなかったんだよ、失敬したネエ――
 ――いや、一向かまわんよ、でも困ったね、アア君、先生に頼んで見ろよ、僕もネ、こないだ兵隊靴をなくした時先生に言ったらさっそく捜して呉れたよ――
 ――して見つかったかい――
 ――いいや――
 ――なアーんだい――
 ――でも、先生が親切に一生懸命に捜して呉れるので有難くってネ、つい感激しちまって兵隊靴なんかどうでもいいとさえ思うようになるよ――
 ――そうかネ、じゃ僕も先生に言って見よう、感激して見たいんだ――
 放課後に私は先生にお願いしました。
 ――困ったもんだナ――
 先生は今お宅へお帰りになろうとして居らっしゃった所だったんですが、私の話に驚いて、持って居た風呂敷包をテーブルに置きなおして、
 ――誰か間違((ママ))たナ――
 ――エエ、私もそうだと思うんですが――
 ――よし、捜してやろう――
 ――ハア――
 ――ついておいで――
 ――ハア――
 先生は体操の先生です。
 歩くのにも歩調がそろって居るのです。
 そう、そう、勇往邁進(まいしん)です。
 手の指をすっかり、のばして五本そろえてオイチニオイチニです。
 今日は昨日にまさる寒さです。私は丸い背を一層まるくして震えながら先生の後にくっついて歩き出しました。
 学校には誰ものこって居ませんでした。
 明日から試験ですから。
 ガランドウの学校にはフンゾリ返った体操の先生と丸くなった私と、それから無味無臭の空気がウヨウヨうごめいて居るばかりでした。
 ――オイチニ、オイチニ、君はいつなくしたのかネーー
 ――エートきのうです――
 ――困ったネ――
 ――ハア――
 オイチニ、オイチニ。
 オイチニ、オイチニ。
 ――君は何んと言うんだい――
 ――名ですか――
 ――ウン――
 ――津島………――
 ――アア津島………修治か………そうだネ――
 ――エエ――
 オイチニ、オイチニ。
 オイチニ、オイチニ。
 ――アアあれが君のじゃないのかネ――
 ――イイエ(冗談じゃない、私のはもっと長いんですよ、あれは二尺もありますまい、一年生のチッチャイのが忘れて行ったのでしょう)――
 ――ソウかネ――
 オイチニ、オイチニ。
 オイチニ、オイチニ。
 ――アア、あれだ、あれだ、これだろう、君のは――
 ――イイエ(冗談じゃない、私のはあんなボロボロじゃありませんよ、キット小使が忘れて行ったんですよ、私のは二十八円)――
 ――ソウかネ――
 オイチニ、オイチニ。
 オイチニ、オイチニ。
 二人は長い廊下を歩いて居るのです。
 廊下の突きあたりは二階への階段です、先生はヒョイと機械のような正確さで足を階段に載せました。
 ――君のマント掛けは二階だったネ――
 ――エエ――
 ――じゃあ二階に行こうネ――
 秋の暮れ(やす)い日はもう、空気を鼠色(ねずみいろ)に染めなして居ました。
 暗くそして、静かです、コトリともしないのです、息づまるようだったのです。
 オイチニ、オイチニ。
 オイチニ、オイチニ。
 ――あそこだったネ、君等のマント掛けは――
 ――エエ――
 オイチニ、オイチニ。
 オイチニ、オイチニ。
 ――アッ、先生あります、御覧ネ、ちあんと私の所に………――
 私はバタバタ走り出しました、有ったぞ、有ったぞ、私は((ママ))頂天になってマントを手に取りました。
 ――アッ、古物だ、そして短い、これここがこんなにボロボロになって――
 確かに私の所にかけてあるのでした、だが私のとはちがって居るのです、薄暗い光に照して見ればそのヨウカン色がマザマザ分るようにふるいのだったのです。
 私はその時ゾッとした感にうたれたのです、私のマントが一夜のうちに老いぼれてしまったのだと思ったからです。
 ――サテ、サテ、お前、随分老いぼれたネ、縮んじまったジャないか――
 私はそう思いながら、なつかしいような、恐ろしいような、変な気持でジートもう一ぺん老いぼれてしまった私のマントを見つめました。

  魔 の 池

 秋の空は高かったのです。
 私は秋の道をブラリブラリ散歩して居ます。
 え? 学校に行く途中です、いいえやっぱり散歩してるのです。
 山は赤い、稲田は切り株の碁石だらけです、大坊主小坊主のイナニオがのどかです、カラリと晴れた空はホントにスガスガしいのです、(四方の景色、秋めき(そうろう)ところ)私は故郷の母にやる手紙の文句を考えて見たりしました。
 天はいよいよ高いのです。
 はてしがないのです。
 ハイヤーハイヤー
 私はこんなことをつぶやいた時です。
 バチャーン――
 ウワッ――
 全く私は驚いてしましました。こわごわ後をふり返って見たら、可愛そうにも私のべんとう箱がチイチャナ水溜(みずたま)りに落っこちたのでした。

 昼になりました。
 べんとう。
 べんとう。
 ――アッ、そうそう私のべんとうは、いけないんだ――
 私はホントに悲観してしまいました、そして私はこう考えて見ました。
 (1)、なぜ落ちた、べんとう箱は私のものであったのだろう、他の人のだって一向さしつかえは、ないじゃないか。
 (2)、なぜ私の進路に水溜りがあったのだろう、あんな広い街道だ、いちいち私の歩いて来る所にある必要は認められないじゃないか。
 (3)、なぜ水溜りに弁当が落っこちたのだろう、弁当箱は小さいものだ、水たまりだって小さいものだ、その小さいものと、小さいものが合致したものだ、弁当箱はなぜあの水溜りに落ちねばならなかったのだろう、他の場所にだって落ちる所がたくさんあるじゃないか。
 私はこの三ケ条を、考えてからゾッとしました。

 私は何もかも忘れて又ブラリブラリ散歩しながら学校から帰って来ました。
 やはり空は高かったのです。
 そして青かったのです。
 秋の日和(ひより)は、ポカポカして居ます。
 山はいよいよハッキリです。
(どうです、ことしは「きのこ」はたくさんとれましたかい)私は田舎の兄にやる手紙の文句を考えたりして見ました。
 パチャン――
 ウワッ――
 全く私は驚いてしまいました。
 ごらんなさい。私は水溜りに落っこちてしまったんです。
 ――ヒャーッ。
 これは、この水溜りは、弁当の落っこちた水溜りと少しも(ちが)わない………いや同じです。
 グルッ、グルッ、グルッ、私の頭で(うずま)いたのは、さっきの三ケ条よりも、もっともっと凄い三ケ条であったのでした。
 ――恐ろしいことだ、魔の池だ――
 私は真蒼(まっさお)になって、こわごわその小さな水溜りをのぞき込みました。
 水溜りには秋の青い空がうつって、最限なく深い深い暗青色を呈して居ました。
 ――ヌシが住んでるかもしれない――
 私はそう思いました。

 

 『怪談』の初出時、末尾には「(以下次回)」と書かれていました。次回掲載予定だった『怪談』の続稿は「蜃気楼」に掲載されることはありませんでしたが、この原稿は、1929年(昭和4年)5月13日付発行の「弘高新聞」第六号に発表され、処女短篇集晩年に収録のにも流用された哀蚊(あわれが)ではないかと思われます。

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■「蜃気楼」創刊一周年記念写真 後列右から平山四十三、太宰、中村貞次郎、葛原四津男。前列右から金沢成蔵、工藤亀久造、津島礼治、葛西信造、桜田雅美。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
三島由紀夫『大陽と鉄・私の遍歴時代』(中公文庫、2020年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月19日

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12月19日の太宰治

  1935年(昭和10年)12月19日。
 太宰治 26歳。

 次姉トシの長男逸郎(二十三歳、東京医学専門学校在籍)とともに、懐中五十円、「
()
碧眼托鉢(へきがんたくはつ)」の旅に出て、湯河原温泉の翠明館、箱根等に遊び、風邪気味で下山した。

太宰、「碧眼托鉢(へきがんたくはつ)」の旅へ

 1935年(昭和10年)12月19日から22日まで、太宰は、次姉・トシの長男・津島逸郎とともに、「『
()
碧眼托鉢(へきがんたくはつ)』の旅」
と称した旅に出ます。
 今日は、太宰がこの旅の前後に、友人知人に書いたハガキを引用しながら、太宰の「『
()
碧眼托鉢(へきがんたくはつ)』の旅」
を辿ってみます。

 太宰は旅に出る直前、2通のハガキを書いています。
 1通目は、1935年(昭和10年)12月16日、友人・鰭崎潤に宛てて書いたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京府下小金井村新田四六四
   鰭崎潤宛

 拝啓
 小説を読んでくださって居る由。力づよく思いました。私、十九、二十、二十一、二十二、四日間くらい旅行してまいります。碧眼(へきがん)托鉢(たくはつ)僧のつもりです。みすぼらしい旅ですが、旅にでも出なければ、やりきれなくなりました。二十三日からは、毎日、在宅。いつでもいらっしゃい。まずは。

 碧眼(へきがん)の托鉢僧のつもり」「みすぼらしい旅」に出ると鰭崎に告げる太宰。
 碧眼(へきがん)とは、青い色をした目のことで、西洋人の目、転じて西洋人のことを意味します。
 また、托鉢(たくはつ)とは、仏教やジャイナ教を含む古代インド宗教の出家者の修業形態の1つで、信者の家々を巡り、生活に必要な最低限の食糧などを乞う(門付け)、街を歩きながら(連行)、または街の辻に立つ(辻立ち)により、信者に功徳を積ませる修業です。乞食行(こつじきぎょう)頭陀行(ずだぎょう)行乞(ぎょうこつ)ともいいます。

 旅に出る前に書いたもう1通は、同年12月17日に書いた、義弟・小舘善四郎に宛てたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区荻窪三ノ二〇二 慶山房アパート
   小舘善四郎宛

 先ず、肉親のあくことを知らぬドンランなるエゴを知れ! 逸郎に手をひかれ、懐中五十円、碧眼の僧、托鉢の旅に出ます。みすぼらしい旅です。おそくとも二十三日には、かえります。(お金がないから。)僕は、だんだん、眼をひらく。「君、自身を愛したまえ。」問題は、それから。
 千人のうち、九百九十九人の一致したる言を信ぜず、あとの、みすぼらしい、ひとりの男を信ずる。
 初代が飛島のうちに居なかったら、私、在宅と知れ。

 「懐中五十円」は、現在の貨幣価値に換算すると、約88,000~100,000円に相当します。

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■太宰と小舘善四郎


 続いて、太宰が旅の途中に書いたのが、同年12月20日付、山岸外史に宛てた絵ハガキです。

  神奈川県吉浜局発信
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

 碧眼托鉢。
 ここまで来た。
 君は、「からす組三人」の中にはいらず。君は、すやすや眠っていた男であった。君は幸福だよ。

 「からす三人組」とは、山岸外史檀一雄小舘善四郎の3人のことです。
 太宰が山岸に送った絵ハガキは、「湯河原温泉 翠明館(すいめいかん)」で購入したものでしたが、太宰は、同じ年の9月26日に山岸、檀、小舘と一緒に、太宰の「はじめての原稿料」で湯河原旅行に来た際、翠明館(すいめいかん)に宿泊していました。

 太宰、山岸、檀、小舘の4人のうち、山岸、檀、小舘の3人が夜中に旅館を抜け出して近所の娼家に行き、太宰は眠っていて旅館に残っていたのですが、再度翠明館(すいめいかん)に宿泊した際、その時に旅館に残っていたのは山岸だと宿の人に思われていた、ということを聞いたと、山岸に伝えています。

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■1935年(昭和10年)12月20付、山岸外史宛絵ハガキ


 次は、帰宅後、同年12月23日付で、師匠・井伏鱒二に宛てて書いたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市杉並区清水町二四
   井伏鱒二

 井伏さん
 ゆうべ、かえりました。追いたてられるようにして歩きまわりました。湯本で風邪をひいてしまいました。旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる、旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる、旅に病んでは夢は枯野をかけめぐる、たゞ、この言葉ばかり口ずさんでいました。心も、からだも、めちゃくちゃです。けさ、ひどく悪いユメを見て、床の中で泣いて、家人に笑われました。お正月にも、ゆかれなくなりました。おゆるし下さい。諸種の事情がありますので。寝正月です。
 私は、いま、牢へはいるのを知りつつ、厳粛な或る三十枚位の小説を書こうとしています。

 太宰は「厳粛な或る三十枚位の小説を書こうとしています」と書いていますが、このハガキの2日後、太宰は佐藤春夫から、「努メテ厳粛ナル三十枚ヲ完成サレヨ。金五百円ハヤガテ君ガモノタルベシトゾ。」という一節が記されたハガキを受け取っています。この一節によって、太宰は芥川賞受賞に期待を抱くことになりました。

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井伏鱒二


 最後は、井伏宛のはがきと同日、12月23日付で山岸に宛てて書かれたハガキです。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市本郷区駒込千駄木町五〇
   山岸外史宛

(年賀の礼を欠く)
 ゆうべ旅からかえった。君のはがき見た。「書きます。そのために、きっと僕は牢へはいるだろう。そうして、君をも、僕より重い(○○○○○)刑罰(ハレンチザイ)に附し、牢にぶちこみます。」以上はほんとうのことのです。湯河原、箱根を漂白四日間、風邪の気味で下山。「旅に病んで夢は枯野を駈けめぐる。」五臓六腑にしみた。

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■山岸外史

 旅を終えた翌年、太宰はエッセイ
()
碧眼托鉢(へきがんたくはつ)
を発表します。
 1936年(昭和11年)1月1日発行の「日本浪漫派」第二巻第一号から、同年3月1日発行の同誌第二巻第三号まで、3回に分けて連載されました。

 【了】

********************
【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
近畿大学日本文化研究所 編『太宰治 はがき抄 山岸外史にあてて』(翰林書房、2006年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月18日

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12月18日の太宰治

  1934年(昭和9年)12月18日。
 太宰治 25歳。

 文藝同人誌「青い花」が発行された。創刊号が出来たのは、十二月十八日頃であったと推定される。

文藝同人誌「青い花」創刊

 1934年(昭和9年)12月1日付で、太宰をはじめに、岩田九一伊馬鵜平(のちの伊馬春部)、斧稜小野正文ペンネーム)、檀一雄津村信夫中原中也太田克己久保隆一郎山岸外史安原喜弘小山祐士今官一北村謙次郎木山捷平雪山俊之宮川義逸森敦の18人を同人とする、文藝同人誌青い花創刊号が発行され、太宰はロマネスクを発表しました。

 実際に青い花創刊号が出来たのは、同年12月18日頃だったと推定されます。創刊号が完成した日の夜9時頃、太宰は出来上がったばかりの青い花を持って、檀とともに淀橋区下落合4丁目2069番地の尾崎一雄宅を訪ねました。

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青い花」創刊号

 青い花に対する太宰の意気込みは凄く、同人に誘った久保隆一郎に宛てた、1934年(昭和9年)9月13日付の手紙には、

この秋から、歴史的な文学運動をしたいと思っているのですが、貴兄にもぜひ参加していただきたく、大至急御帰京下さい。まだ秘密にしているのです。雑誌の名は「青い花」。ぜひとも文学史に残る運動をします。のるかそるかやってみるつもりであります。地平、今官ともに大熱狂です。くわしくは御面談。下手なことはしないつもり。一日も早く御帰京の日を待つ。

と書いています。

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■久保隆一郎

 また、自伝的小説東京八景の中でも、

そのころ、或る学友から、同人雑誌を出さぬかという相談を受けた。私は、半ばは、いい加減であった。「青い花」という名前だったら、やってもいいと答えた。冗談から駒が出た。諸方から同志が名乗って出たのである。その中の二人と、私は急激に親しくなった。私は謂わば青春の最後の情熱を、そこで燃やした。死ぬる前夜の乱舞である。

 と書いています。「その中の二人」とは、「三馬鹿」と言われた、山岸外史檀一雄です。
 『東京八景では、半ばいい加減な気持ちで、友人からの誘いに乗って青い花の同人に加わったように書かれていますが、中村地平から話を聞き、同人に参加するために太宰を訪ねた山岸も、この表現は違うと回想しています。

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■山岸外史

 青い花は、太宰自身が発刊を企画し、雑誌名も自分で選び、友人知己に積極的に勧誘を行い、事務的な仕事も引き受けながら「青春の最後の情熱を、そこで燃やした」同人誌でした。

 檀も、小説 太宰治の中で、

 太宰は「青い花」には大変な熱の入れ方で、連日私の処に泊まりこみ何処で見つけてきたのか石鹸の包み紙を大切にもってきたりして、『奥附は、これがいいんだ。随分洒落たもんだろう。』などとすこぶる得意顔だった。

と、当時の太宰について回想しています。

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檀一雄

 創刊号を出した後、太宰が木山捷平に宛てた、同年12月18日付の手紙には、

どんなことがあっても、「青い花」をつづけていく覚悟であります。二号の〆切は、十二月三十一日であります。ケッサクを書いて送って下さい。どんなに長くてもかまわないのです。

と書かれており、太宰が続刊を熱望していたことが分かります。

 しかし、青い花は、太宰の意気込みと続刊の熱望にもかかわらず、「原稿も同人費の集まりも悪」かったため、創刊号を出しただけで休刊になり、第二号が発行されることはなく、ついにそのまま終わってしまいました。

 その後、木山捷平中谷孝雄らの勧誘によって、青い花同人のうち、太宰、山岸、檀など8名が、神保光太郎亀井勝一郎保田與重郎中島栄次郎中谷孝雄緒方隆によって創刊された「日本浪漫派」(1935年(昭和10年)3月1日発刊)に合流しました。

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青い花」創刊号に発表された『ロマネスク

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月17日

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12月17日の太宰治

  1922年(大正11年)12月17日。
 太宰治 13歳。

 十二月十二日、父源右衛門(げんえもん )が、貴族院議員となることが決定した。

源右衛門、貴族院議員に

 1922年(大正11年)。太宰が13歳で金木第一尋常小学校を卒業し、学力補充のために明治高等小学校に入学した年に、太宰の父・津島源右衛門げんえもん は、青森県多額納税議員の定員一名の補欠選挙で、納税額8,568円(現在の貨幣価値に換算すると、約12百万~14百万円)、貴族院議員有資格者中の第六位にいて、貴族院議員の「候補者」となりました。

 当時の貴族院多額納税議員は、県内の大地主15人の互選でした。
 話し合いによって、7年間の任期を2年・2年・3年と分割し、一期を3人でたらい回しにするのが慣習になっていたそうです。源右衛門は、前任者である宮川久一郎の「病気辞職」の後任でしたが、その任期は、1925年(大正14年)の任期いっぱいまで。最も長い3年勤務が約束されていました。

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■太宰の父、津島源右衛門

 同年12月12日の午前11時から、青森県庁で、選挙長・尾崎知事や関係官吏の立会いのもと投票が行われました。
 当時の「東奥日報」の報道によると、開票の結果は「予定の如く」15票中14票を獲得。次点の1票は「津島氏の投じたことは勿論」で、「満点の得点を以て当選」と見られ、貴族院議員となることが決定したといいます。
 選挙終了後の午後1時20分から、青森市の料亭金森楼(かなもりろう )で政友会青森県支部主催の当選祝賀会が開催されました。80余名が出席し、午後3時に散会となりました。

 当選決定の5日後、同年12月17日には、金木の津島家でも祝宴会が行われました。

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 源右衛門は、この数日後、同年12月20日頃に上京し、同年12月25日の帝国議会開院式に出席しています。しかし、流行性感冒にかかり、日増しに病状が悪化したため入院。感冒が全治した後も、発熱は衰えませんでした。
 翌1923年(大正12年)3月4日、東京市神田区小川町33番地の佐野病院に入院していた源右衛門の容態が急変し、午後4時に不帰の客となります。享年53歳。貴族院議員在任わずか4ヶ月目の出来事でした。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月16日

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12月16日の太宰治

  1946年(昭和21年)12月16日。
 太宰治 37歳。

 十一月二十四日、十二月九日、十二月十六日付で、堤重久(つつみしげひさ)に葉書を送る。

太宰「校正お世話になります」

 今日は、1946年(昭和21年)11月24日、12月9日、12月16日付で、太宰が、一番弟子の堤重久(つつみしげひさ)に宛てて書いた3通のハガキを紹介します。
 堤は、戦中戦後を問わず太宰が一番愛した弟子と言われます。終戦後、太宰は疎開中だった故郷・金木からの次の居住予定地の1つに京都を挙げましたが、それは堤の存在あってのことかもしれません。
 堤は、1944年(昭和19年)6月以降、妻・堤貴美子と共に東京を離れ、京都に疎開しましたが、太宰は金木に疎開中も、頻繁に堤と書簡のやり取りをしています。堤が太宰と再会を果たすために上京するのは、1947年(昭和22年)12月のことでした。

 1通目は、1946年(昭和21年)11月24日付のハガキです。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  京都市左京区聖護院東町一五
   堤重久宛

 拝復 十四日にこちらへ移住しました。それから客と酒と客と酒、あすから雲がくれして仕事をはじめるつもりです。
 印税は、再版のものですから一割でいいでしょう。それから印税の内、三千円くらい新円で、出版の約束のしるしに前払いするのが、東京の出版社の常識になっていますから、そのようにかけ合ってみて下さい。
 引越し貧乏というが、移住には実に金がかかる、家財道具もまた新しく買わなければならないし、少々困っていますから、早いほどよい。あとの印税はもちろん出版後でいいのです。「冬の花火」は十二月東劇でやるようです。     不一。

 このハガキが書かれたのは、太宰が故郷・金木町での1年3ヶ月半の疎開生活を終えて三鷹に戻り、ちょうど10日が経った頃でした。

 堤は、太宰の口利きもあり、同年7月頃から、京都市東山区新門前梅本町「東西」編集所の貴司山治の下で編集手伝いをすることになります。その関係で、太宰に創作集発行の打診があり、太宰は、1942年(昭和17年)6月10日に「新日本文芸」叢書の1冊として錦城出版社から刊行した書下ろし中篇小説正義と微笑の再版を提案します。
 正義と微笑は、前進座の俳優だった堤の弟・堤康久の日記を素材にして書いた小説でした。

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■太宰と堤重久

 

 2通目は、1946年(昭和21年)12月9日付のハガキです。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  京都市左京区聖護院東町一五
   堤重久宛 

 校正お世話になります、よろしくたのみます。字母の無いのは、いたしかたありませんから、ひらがなにして下さい。反芻(にれはむ)は、反芻(にれはむ)でよろしゅうございます。きょうから家のバクダンでこわされたところを直しに大工が来ています。お金がかかってやりきれないんだ、印税の件はどうか一日も早くたのみます。雲がくれとは、近くに別に一部屋を借りて、べんとうを持って通勤するのです。でも寒くて欠勤つづきであります。この頃そくたつも普通で出します。

 金木から帰京した太宰のところには「客と酒と客と酒」と、太宰の帰京を待ちわびた来訪客が後を絶たなかったようです。新潮社の編集者・野原一夫斜陽執筆依頼のために訪問したのも、ちょうどこの頃です。

 太宰は、執筆に集中するため「近くに別に一部屋を借りて、べんとうを持って通勤する」、いわゆる「雲がくれ」をすると書いています。太宰は、三鷹に戻ってから玉川上水で心中するまでの1年7ヶ月の間に、6ヶ所の仕事場を転々としながら執筆活動を行いました。
 太宰がここで堤に話しているのは、同年11月25日から約3ヶ月間「雲がくれ」していた中鉢家のことです。太宰は、辞書や弁当を黒い風呂敷に包んで、朝の9時頃から3時くらいまで仕事をすると、近くのうなぎ屋・若松屋に行ってお酒を飲むのが日課でした。この中鉢家では、メリイクリスマス』『ヴィヨンの妻』『などが執筆されました。

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■太宰の三鷹の住居

 

 3通目は、1週間後に書かれた、1946年(昭和21年)12月16日付のハガキです。

  東京都下三鷹下連雀一一三より
  京都市左京区聖護院東町一五
   堤重久宛 

 拝復 校正を一生懸命でやってくれているようで深謝しています。実は、あの句読点その他誤植表を金木にいた時に書いて、君に送ったのですが、君からその正誤表に就いては何も言って来ないので、気になっていたのです。途中で紛失ですね。それから「鷗」の到着ならびに感想もすぐ書いて送ったのですが、それも不着とは、何者のワザか知らないが、実にクサリますね。忍の一字かね。句読点は、全部ツケて下さい。兇もそうして下さい。君の勘で全部やってごらんなさい。「鷗」は、わるくないが、発表はむずかしい事情があります。いずれゆっくり申します。印税是非タノム。     不一。

 太宰は、再三にわたって堤へ印税を催促する理由として、新しく揃える「家財道具」や「バクダンでこわされた」家の修理費を挙げていますが、太宰と共に金木から帰京した妻・津島美知子は、著書回想の太宰治で次のように回想しています。

 下連雀の爆撃以後、太宰はこの家のことを「半壊だ」と言う。今まで気にかかるので何度も念を押して聞いたが「半壊だ」としか言わない。ところがいま眼前のわが家は、そして入って見廻したところは、大した変わりもないように見える。私はなんのことやらわからなくなって「これで半壊ですか」と言った。太宰は知らぬふりをし、小山さんはうす笑いを浮かべて、その表情で――だまされていればいいのですよ、と私に語っていた。

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■太宰と妻・津島美知子

 【了】

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【参考文献】
・堤重久『太宰治との七年間』(筑摩書房、1969年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
三島由紀夫『大陽と鉄・私の遍歴時代』(中公文庫、2020年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】12月15日

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12月15日の太宰治

  1928年(昭和3年)12月15日。
 太宰治 19歳。

 十二月十五日付で、弘前高等学校「校友会雑誌」第十三号が発行され、「()夫婦(ふうふ)」を津島修治の署名で発表した。

()夫婦(ふうふ)

 今日は、太宰が弘前高等学校2年生の時に、「校友会雑誌」第十三号へ、本名の津島修治の署名で発表した習作『()夫婦(ふうふ)を紹介します。

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()夫婦(ふうふ)

 ほこり(、、、)と弟、腰を浮せる機会(しお)先刻(さっき)から待ってたかのように立ち上がり、ふいと窓の外に眼をやって、――とみるみる太い眉を晴れ晴れと、おし開き、
「ほうら、来た」
 まあ、どちらかと言えば下戸(げこ)の弟、それを相手に、自分で(ばか)りちびちびやって居た光一郎、とろん(、、、)ともう――いい加減すわって来だした大きな(まなこ)に流石ほっ(、、)とした色も見せて、窓際へ膝行寄(いざりよ)りざま、
「どれどれ」
 ほんの今しがた、激しい驟雨(しゅうう)があがったばかりで、犬ころ一匹出て居らぬ、でも真昼の裏通り。空気も何もあるものか、ただもうからり(、、、)として、街路はしっとり(、、、、)と重たげだった。黒々と湿った土と、きっちり並んでつやつや光って居る家々のトタン屋根とが、とても嬉しい映り合い。其処に持ってきて点々と街路樹が、――塵一つ残さず洗い清められた深緑の葉からぽとぽと雫を滴らせながら、姣麗(こうれい)公達(きんだち)の如く立って居た。
 すぼめた蛇目の水を、片手でしゅっしゅっと切りながら、水溜(みずたまり)ひょいひょい(、、、、、、)飛び越えて歩いて来る妻の小さな姿が、はるか向うの街路樹の蔭からぽっかり浮んだ。洗いざらしの市松のゆかた、その元気な(つま)さばきで、ちろちろ踊る白い素足は又莫迦(ばか)に可愛かった。
「あれで、とても澄まして歩いているんだよ」
 光一郎は心から幸福そうに、囁いた。
「ふん」
 弟の龍二も思う事一つ無いようにうっとり(、、、、)と微笑んだ。
「まだ、こっちに気が附かないんだよ。呼んでやろう。おおーい」
 と間の抜けた呼び声を掛けながら早速のお道化、(たもと)から探り出した手巾(ハンケチ)を、右手(めて)高く揚げ、(たちま)ちさっさっと振り始めた。いかに酒の気を借りて、とは言え、可成り恥しいには違いなかった。顔を真赤にほてらして、てれ隠しにくっくっくっ(、、、、、、)と笑いこけ、――それでもなんでも手巾(ハンケチ)振る手だけは下さなかった。龍二も嫌な顔せず愉快そうに笑うて呉れた。
 妻は、もうすぐ其処に来て居る。これもやっぱり、顔をぽっと染めて、
 ――馬鹿ねえ。
 と言わんばかりに口をちょいと(とん)がらし、いやいやを二三回して見せた。だけど眼尻は、眼尻は楽しく笑って居るのだった。何とも言わずに、ちょこちょこ表の玄関に廻って行く。…………
 男だけに成って(しま)うと二人の気持は、急に白け出した。兄はクルリと部屋の方を向いた、とたん、窓縁(まどべり)に腰を掛けて居る弟と、がっちり視線が合うた。ばつ(、、)が悪そうにクスッと笑って、手にしてた手巾(ハンケチ)を、そそくさと(たもと)につっ込みながら壁に背中をどしんと()たせ、ふっ(、、)と考え始めた。弟も、じいっと外を眺め、口をきゅっ(、、、)と引きしめて何やら物思う風情であった。
 だちだちだちと、雨滴(あまだ)れの音がしっきり無しに聞える。…………
 なんぼなんでも、女房には聞かせ()くない話だったので、何とかして場を外して貰おうと、一人でやきもきした挙句、思い出したのが先日の妻の言葉。
「フィルムが無くなったから、写真師も当分休業」
 そこで光一郎は、弟とも、もうお別れだし一緒に記念の写真をとって呉れと懸命に真剣を装いながら妻に申し出る。フィルムが無いの、と妻が心から気の毒そうに言う。じゃ買っといで、と難なく妻を追い出して、
「さて」
 と、改って弟と膝をつき合わせたのだった。
 流石に二人はぎくしゃく(、、、、、)して居た。龍二にとっても、これが彼の学生として帰省した最後の夏でもあったからには、兄のこれから自分に話そうとして居る事に就いて、荒々見当の附かぬ筈は無かった。
「発車は四時だったねえ」
「あれあ、東北本線でしょう?」
 別に一々その返事を待つでもなく、光一郎は其んなことを呟き呟き、台所に立って行って、暫くとことこ(、、、、)棚を捜す音などをさせウイスキーの大瓶に、アスパラガスの缶詰を添えて、持って来た。ぺたんと座って二つのお茶飲にウイスキーをちょろちょろ零し、弟にも勧め、自分もちぇっ(、、、)と吸いながら、
「いいえね、あんたも来年は卒業でしょう。だから、まあ、今のうちに、言うべき事は言うて置かないと…………」
 龍二は白ズボンのがっちり(、、、、)した両膝頭に眼を落し、神妙(、、)にかしこまって兄の話を承って居るのだった。光一郎は、弟の其んな生真面目さを憎んで見たりしながらも、言い(にく)そうに口を歪めてぽつりぽつり語り出したのだ。
 つまり、――自分はけち(、、)な売文業者で、御覧の通り何一つ財産らしいものが無い。あんたにも立派に分家させたいとは思うて居るけれど、これではどうにも仕様がない。何もまあ、こんな兄貴を持ったのを因果と諦め、兄貴なんかを頼りと((ママ))ず、学校出たら、あんたの腕一つでもって好きな事をやって呉れ。こっちも出来る限りは手助けしよう。それに不満があるか、あったらどしどし言うて呉れ。僕に出来るだけの事なら、何でもしてやろう。――と言うたのだ。なんとか不服を(とな)えるだろうとは覚悟して居たが、弟がふうむ(、、、)と考え出したのを見て居ると、(あんま)りいい気もしなかった。だが、そんな気持はおくび(、、、)にも出さず、ニコニコしながら、どうだ、あるだろうねえ、それあ。と軽く先手を打って、やんわり返答を迫って見た。だが(しか)し弟は、意外にも、いや結構です、不服は無い、と、きっぱり言うのだ。驚いて、へーえ、本当かい、嘘じゃないだろうね、と思わず奇妙な駄目を押した程だった。所が弟のいよいよ四角ばっちまい、
「僕、僕、学校を()えさして貰うだけでも兄さんに感謝((ママ))ねばならないんで……」
 なんぞと、(ども)り吃り述べるのを聞いて、光一郎の胸には突然こう、興ざめがしたって感じがはらはら起って来た。一口に言えば、弟の寧ろ気障な位の律儀がいやらしかったのだ。
「いやいや、そう言われれば、こちとらは、尚更面目ございませんが……」
 と弟に、思わず言いかぶせる彼自身の幇間(ほうかん)じみた挨拶にも、光一郎はぞくぞくする程の嫌悪を覚えるのだった。ひょいと浅間しいって感じが頭を(もた)げ、――次に「妻を売った」という意識が思いも掛けずむくむく起って、こいつは又ピリリと実に烈しく彼の心を刺して(しま)ったのだ。
 ――ふうむ、妻と分家と取っかえっこか。
 昨夜のことをまざまざ脳裡に(えが)き出しながら、ごくんごくんと二三杯、息もつかせずウイスキーを喉に押し込んだものだ。ただもう堪らなくいや(、、だった。
 ――あああ、()()だ。
 と心の中で泣きながら、
「ねえ、まあ、そうと話がきまれば、もうお互いにこれ以上べんべん言い合ってるのも気が利かないし、此の話は、これで切り上げましょうね」
 と言い終ったら、酔が一時にぐいと来た。彼の癖で酔えば無性に人が懐しかった。
 ――それにしても、妻はもう帰って来ていい頃だ。第一これから弟と二人でまじまじと鼻をつき合せて、何をするっていうのだ。これあ、とても堪らない。
 そこで今迄の切なさを酔でどうやら紛らわし、人なつこく弟を相手に、これは又とんでも無い長談義。
「それあもう僕は、あんたが()う考えてるか知れないけれど、大した偉い男でもなし、又これ以上出世の出来る男でもござんせぬ。どうせ、ちゅう(、、、)ぶらりの――早い話が、まあず芸人でさあ。だが僕という男はね、今迄三十有余年の生活を振り返って見て、――ですね…………」
 油気の無い長い髪を、ばさっばさっとゆさぶりゆさぶり、くどくどと喋り(まく)って行くのを聞けば、要するに彼は彼の半生に於いて、自分の思う通り、勝手な振舞いをして来た、と言うのだ。――故郷(ふるさと)の或る若い芸者に惚れ、世帯を持つの持たぬのと言っては、父をかんかんに怒らせた。翌年父のぽっくり死んだを幸い――何という不孝な文章だ――大学当時もう東京で其の女と一緒に家を持ち、大学を出ると、母が涙ながらの強意見(こわいけん)もなぐさみに、へへんと、鼻であしらって聞き流し、母の殊に、わけも無くいやがる売文の仕事にのめのめと取り掛かったのだった。東京も()きたを楯に数十里北の故郷へ立ち退き、散々母をつらがらせて夫婦両人(ふたり)気儘(きまま)な生活。それから三年経ち、母も親爺の跡を追い、残った子等は先代からの借財に、とうとう古巣を捨てて、今の小さな家に住居(すまい)((ママ))ねばならなく成ったのだ。
 元来この家は、さる物持の納屋であったのを光一郎が進んで買い受け、色々と造作し直して、どうにか八畳の部屋一間、それに続く一坪位の台所と、ぞっとする程粗雑な便所とをしつらえる事が出来たのだ。それも、玄関の式台に上ると障子一枚で()ぐ八畳の部屋につっかかるのだから、不用意にも其の障子を開けて置くと、部屋の中は格子戸(こうしど)越しに往来からまる見えであった。床間(とこのま)こそ無いが、部屋は割に小((ママ))んまりとした普請(ふしん)だった。けれども何さま、この他に部屋と名の附くものは無し、というのだから、随分ゴタゴタたて込んで居た。おかしく凝った洋風の開き窓の下には光一郎の大きな蒼然たる机、それから彼の本箱、妻の箪笥、鏡台。さては衣桁(いこう)、茶箪笥等で、とんと劇場の楽屋であった。窓から西日が入るので畳は思いなしか、早く焼けるようだったし、其の上、何と無くまだ納屋臭くじめじめして、その(せい)かどうか判らぬが、妻は毎春きまって脚気(かっけ)をやって居た。
 そんな生活はして居ても弟だけはどうやら大学迄しこめたが、かく言う彼自身は文字通りの雑文豪。現に二三の怪しげな雑誌に、卑猥な、うそ寒い連載ものを書いては、お恥かしい程の稿料を稼いで居るのだった。
 だがそれでも兄は、一向構わぬと言うのだ。もうもう浮世には疲れちゃったし此の上生活意識をどうのこうのも(すさま)じい。けち(、、)な野郎さ。と淋しく笑いながら兄は、まだしゃん(、、、)と座って膝一つ崩さぬ弟をじろり眺め、
「でも僕は、そんな生活をして来たのを、ちっとも悔んでは居りませぬ。あんたにはとても(、、、)無茶な、愚かしい事とも思われましょうが、それとて僕は僕なみの確固たる――確固たる信念を以てして来た事なんで……」
 例の信念論に危く及ぼうとしたが、ふいと気を変え、今度は思いなしか語勢を強め、
「一体、世間態なんてものを気にしてたら……」
 と、やり出した。これは実の所、兄がそれと無く弟に当て附けて言うて居るのだった。弟の誠に個性のぼんやりした、そして所謂悪堅いのに、兄は何時(いつ)も苛立たしさを感じて居た。何一つ道楽があるわけでも無し、毎日毎日兵士のように素晴らしい几帳面な生活をしているにも不拘(かかわらず)、試験下手な(せい)か、他の友達よりは二年遅れて大学に入ったので、汗を拭き懸命に友達の後を追い駈けて居るのだ。あんまりいじらしい(、、、、、)もんで、
「学校なんか、どうだっていいさ。ちっとは遊んでも見ろよ」
 と酔うた紛れに、こっそり良くない事を勧めたりした時も実は再三ならずあったのだ。だが其んな場合には、弟は耳迄真赤に染めながら――僕、兄さんと違って頭が悪いから、そんな事は出来ぬ。少しでも立派な肩書とって、それでめし(、、)を食うより他に、しようが無いのだ。だから、なんでもかでも、学校を出来るだけいい成績で出て、――と(きま)ってこう言うのだ。そう言われると兄にもやっぱり何だかぐっ(、、)と来た。そうか、と一応は合点合点して見せて、さて、それから愈々(いよいよ)彼の得意な奇論に入るのだ。(なか)ば弟を慰めたい心意気、(なか)ば彼自身の立場を弁護したい下心。つまり、こうだというのだ。
 一口に自分を芸術家と呼んで、頭のいい奴、凡人には出来ぬ技と、きめて(しま)って居るのが(しゃく)でたまらぬ。自分はこれでもまずまず芸術家の端くれだろうが、別に其れを以て内心傲色(ごうしょく)のある訳じゃ決してない。自分に()し大工の能力があれば、喜んで大工もしよう。今の自分のこんな商売に比べて、どんなに幸福なものか判らない。だが悲惨にも自分には大工は愚か、あんな大臣の職業にただ堪え得る能力がないのだ。文章を売るという能以外には全然低能さ。しかたが無いから、これに後生大事と(すが)り附いて居るのだ。恐らくは現代の多くの芸術家もそうでは無いだろうかな。別に彼等の書くものが、世界にまだ無い逸品である訳もなく、一千年以前にもう誰かがちゃんと十倍も立派にものしてあるし、万々一、東西古今に(わた)って未だ(かつて試みられぬ或るものが不思議にもあったとしたならば、其の時には自分が書く迄もなく、他の誰かが必ずそれをやりのけるだろう。ダ・ヴィンチが生れなかったらルイニあたりがダ・ヴィンチの為した仕事を其の(まま)やり遂げたかも知れぬ。ダ・ヴィンチがよし一つの作品を()かなかったとしても、我々はだから少しも迷惑を感じないんだぞ。――
 なあんて所迄窮論すれば、もう聞き手は皆げらげら(、、、、)笑って(しま)い、仕方が無いから彼もげらげら(、、、、し始めて、此の熱弁もどうやら無事に(けり)が附いちゃうのだった。
 だが今の此の場合に限って、不仕合せにも様子が少し違って居た。それは、弟が、兄の世間態攻撃の真最中に、首を傾げながら慎ましやかに口を出したのである。
「でも、自分の都合(ばか)りも考えられない場合がございますからねえ」

「なに」
 と思わず気負って大袈裟に、一膝乗り出したら、――折も折、沛然(はいぜん)と夕立が。
 怖ろしくも四面水に囲まれた薄暗い部屋の中に、二人は其のまんまの姿勢でもって、深く何やら案じ始めた。――五分も続いたかしら、忘れたように雨があがった。
 ――やはり、あの事を言っているのだ。弟はあれを考えて居るんだ。
 そう思ったら、腹立たしいよりも寧ろ弱気な淋しさが、さらさらと彼の身を包んだ。もう一刻も此の部屋の空気に我慢出来なかった。
 ――誰でもいい。早く、早く、この部屋に入って来て……。
 其の時だ。何という歓喜! 妻がばかに澄まし込んでぽっかり現れて呉れたのだ。
 両人とも涙のにじみ出る程嬉しかったに違いない。其れでこそ兄はとうとう手巾(ハンケチ)迄振ったりして……。
 玄関の格子戸をカランと音させたかと思うと直ぐ部屋に駈け込んで、まだ頬に血を上せながら、
「お()しなさいよ、あんな事。とし甲斐もない」
 と立った(まま)
「やああ――」
 訳の判らぬ受け答えをして置いて、楣間(びかん)なる自筆の横額、「巧笑倩兮(せんけい)、美目盼兮(はんけい)」に眼を()りながら、うらうらとなごやかな気分に浸って居た。………………
「フィルム買って?」
「ええ、アグファ、こないだのと同じいの」
「じゃ撮って貰いましょうか」
 まさか、先刻のはお前を追っ払い()(ばか)りの出鱈目さ、とも言えず、弟にも目くばせしてのっそり(、、、、)立ち上った。
 色々なポオズで一時(ひととき)に八枚もとられちまった。その間も、しょっちゅう三人がきゃっきゃっと子供見たいに巫山戯(ふざけちらして居るのである。妻は妻で、こんな事を言っては兄弟を笑いこけさせる。
(ついで)だから印刷紙も買おうと思って、値段を聞いたの。たら、五十銭だって。随分安いでしょう。まあ安いのねえ、ほんとうに安いわ、なあんてやたらに誉めながら、おあし払おうとしたらおあしが無かった」
 光一郎は又、両眼をとろり(、、、)と嫌らしく据え、
「そうだ、いい表情だろう。記念写真、女房も惚れ手の数に入り、っと」
 妻も早速まじめくさり、
「記念写真、ここにも不憫(ふびん)な男()り」
 と低く呟いて、おくれ毛をうるさそうに搔き上げ搔き上げ、慣れた手つきで仔細(しさい)らしくピントを合せながら、
「あなた見たいな顔、それこそ上野の動物園なんかで、ざらに見受けられるわ」
「ああ、あそこじゃよく、俳優なんかが散歩してるようだね」
 こう言えば、
「ええ、だけど、………駱駝(らくだ)も居るわ」
 もともと少し抜けて居る所が気に入って、愛し始めた女ではあったが、なんと言っても以前の商売が商売だけに、へらず(、、、)(ばか)りは光一郎に劣らず叩いて居た。写真がもって生れた道楽で、商売してた時から、もうとっくにやり出して居た。今じゃ口の(さがな)い光一郎に迄、「うまい、うまい」なんて、薄気味わるくもほめられるような傑作を、時々はものするように成って居たのだ。

 

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■太宰の最初の妻、小山初代

 

 ほんとうに黙って居れば、よかったものを――光一郎の要らぬおせっかい(、、、、、)から、折角いい按排(あんばい)に盛り上げられた陽気を再びぺちゃんこに崩しちゃった。
 全体光一郎は、若い時から、どうかして自分の気に食わぬ時は、喧嘩して迄それと争うても見たけれど、そうで無い限りは出来るだけ人を楽しがらせたい、という変な趣味(、、)を持って居た。別にこうという野心もないのに、人の気嫌を伺ったり、人を慰めたりするには実にそつ(、、)が無かった。友達から洗練された男だのなんのと言い(はや)されて、「そう言えば――」なんて本気に自惚(うぬぼ)れて見た事も確かにあった。時々は我と(わが)身中に介在する幇間的分子にうんざりして甚だ参って(しま)う事もあったが、とにかく此の趣味の依って来る所は、自分の人一倍強い勝気の裏側に、いつもこびり附いて離れないうら(、、)悲しき弱気であるとは、十も合点百も承知だった。現在血を分けた弟をさえ、「あんた」なんぞと呼びつけてるし、いつかも女房を彼の鳥渡(ちょっと)した悪ふざけからぷんぷん怒らせ、成程(とが)こち(、、)に有ると思うた(ゆえ)、二日続けて亭主が御飯をたいて差し上げた思いですら持って居た。
 そんあな奴らだったから、今も今とて又いらざるさし出口。
「まだ時間があるから、龍二さんに現像して見せたげろよ」
 ちょいと聞けあ、なんでもない話。
「ええ、じゃ――あなた、お酔いんなすってらっしゃるから駄目だし、……龍二さんに手伝って貰うわ」
 (もっと)もな答である。
「うむ、どうでもいい」
 光一郎も何の気なしにそう言う。
龍二さん、助手」
 妻は、世の中のいやしくも先生と名の附く先生が皆よくも忘れずに持って居るあのどうも滑稽な横柄さでこう命じ、何となく渋る弟のお尻を気軽におしながら、これは又ごたいそうな暗室――ごみごみした押し入れの中に(もぐ)り込んで行った。
 それだとて兄は平気であった。
 まことに彼の妻は、俗に言う色気の乏しい、がさつ(、、、)な女だったのだ。あれはいつだったかしら、妻が銭湯で、昔の友なる芸者連から、夫の情事を聞いて来たと言い、他人事(よそごと)のように酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)しながら真顔で、
「あなたは割にもててるのねえ」
 なんかん抜かす女であった。変ってる所と言えば、それと、――どこと無くぼんやりしてて、妬心(としん)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)なんぞと気の利いたものは芥子粒(けしつぶ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)程も持ち合わせがなかったのと、それからまあ、言うてみれば、玄人(くろうと)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)上りらしい仕草のいやみ(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)がこれぼっちも見えない点、もう一つ、女にしてはユウモアがよく判るのと、まずそれだけだった。あとはもう、そんじょそこらの山の神とつまる所は同じ事、此の男と一緒に成ったから一緒に居る、とりわけ好きでもないが、又万更(まんざら)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)嫌でもなく、喧嘩もすれば接吻もする、かてて加えて世故(せこ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)にたけた恐ろしい現実主義者で、
「便所はもう、()酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)まなきゃ駄目ね」
 と、結婚してまだ数ヶ月経つか経たぬかの頃、顔も赤らめずにぽんぽん言いのけた程の女。だけど彼女のあのユウモラス・ネエチュアが時折偉大なナンセンスを発見して来ては、彼を抱腹絶倒さして呉れるので、どうせ腐れ縁にはちがい無かろうが、たまには、縁は異なもの、という感じも味えたし、彼は又彼で、もう大概自分に愛憎づかしをして居るのであって、こんな男とも一生涯連れそうて呉れるのか、と内々(ないない)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)妻をいじらしがったりして居たし、とにかく今迄の所では、まあ大したこんぐらかり(、、、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)も無く暮して来たのに…………。
「ちょいと、あなた、此の襖の隙から光線が入って駄目だわ。どうにかして下さいな」
「へえ、へえ」
 剽軽(ひょうきん)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)(かしこ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)まって、即座に自分の兵児帯(へこおび)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)をぱらり(ほど)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)き、押し入れの其の個処(かしょ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)にずんと差し込んだ。
「これで、ようございますか。先生」
「よろしい」
 思いも設けぬ弟の声であった。こんな巫山戯(ふざけ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)は決して言わぬ弟だったから、兄の胸には異様にピンと響いて(しま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)った。
 そいつがきっかけ(、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)で、仕合せと今迄忘れかけて居た先刻のあのもの(、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)悲しさが、又ひたひたと襲うて来たのだった。
 ――自分の都合ばかり考えられぬ。そう言うたな。弟の奴、世が世なら――よしんば相手が兄貴の女房であっても、好いた同志だ、一緒に逃げちゃうんだに。とでも考えて居るんだろ。――だが女房の素振を見ると、…………
 ――あいも変らず、サバサバして居る。第一、弟と仮にもそんな事があったもんなら、まさか又、二人して、現在亭主の前でのめのめ押し入れの中に入るのも馬鹿げて居る。「その手代(てだい)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)、その下女昼は物言わず」で、意地にも、そっけ(、、、
)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)
無くして居らねばならぬ筈ではないか。……………
 そんな風に否定すればする程、皮肉にも彼の眼前には昨夜の惨めな場面が、チラホラ次から次へと映って来るのであった。…………

 ………………そうだ、あれは何と言ったって、赤城の手紙が良く無かったのだ。
 光一郎達は、その夜が弟と一緒に夕餐(ゆうさん)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)を戴く最後でもあったし、(つづま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)やまながら、二皿三皿の時節の肴物に、(あつもの)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)なんかの馳走もあり、久し振りで家庭的の潤いの中に浸って居ると、妻が夫の御飯をお附けしながら、何時(いつ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)もに似合わぬまずい事を言い出した。
「あのねえ、お向いの小母(おば)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)さんね、娘さんと月々のよごれ(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)の日がいつもちゃあんと同じなんですって」
 弟は努めて無関心を装いながら、黙って居たが光一郎は怒って(しま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)った。
「いやだ。畜生道じゃないか」
 余りに其の語調が激しかったから、妻も鳥渡(ちょっと)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)呆気(あっけ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)にとられたという型であった。それから三人はよほどの間じっ(、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)として居たのだった。…………
 ――まざまざ見たるウ畜生塚ア――
 なぜか其んなひとくさり(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)(おも)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)い出され、暗澹(あんたん)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)たる気持がしてならなかった。今に何か不吉な事が起るぞ、という様な前兆らしくも思われた。そこに来たのが赤城の手紙だった。
 自体、光一郎の所に来る手紙には(ろく)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)なものがなかった。(こと)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)にも友達からの手紙は、必ず何かの手段で彼を不快がらせた。今度なにがしの社に入りました、とか、今日はこれこれの雑誌に原稿を頼まれました、とか言うて彼を羨ましがらせるものはまだ我慢のしようも有るが、金を貸せの、もっと(すさま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)じく成ると、彼の生活態度を非難したりするものさえ、ちょいちょいある程だった。ただもう、浮世の刺戟(しげき)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)を避け避け暮して居る彼にとっては、どっち道甚だ有難からぬ代物(なしろもの)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)ばかりだった。とりわけ赤城からの手紙は今が始めてだったが、その男は世に言う唯物論者で、此頃実際的の運動にも参加して居るとは光一郎も薄々聞いて居た。――要するに現在の彼にとっては最も疎ましい種類の男であった。光一郎とて大学時代は、一端(いっぱし)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)社会主義者を気取って、赤城なんかとも行動を共にして居たし、再三学校を追い出されようとした事も有るにはあったのだ。所が、其の頃つまらぬ事で或る中年の職工と口論をした揚句、
「てめえは、どうせプチ・ブルよ。へん、人道主義にぽさんぽさんと毛が生えた奴さ。まあ、俺達の運動の邪魔だて(ばか)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)りでも、しっこ無しさ」
 とか、なんとか言われて此の(かた)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)
「うーむ」
 と、すっかり考え込んじまった。で、ふらふらして居たら、恋愛の問題が起って、とど結婚しちゃった。
 こんな事を言ってたのはスチブンソンで、なかったかしら。
「独身時代には殺人罪をも()酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)えて辞さない見上げた男であったが、結婚しちゃったら、一ペニイの金さえ出し(おし)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)みするように成ったじゃないか」
 まさに其の通りであった。女房と二人で、一千金の金があったら、私は又東京に行きたいわ、いや俺は貯金(ため)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)る、なあんて言い合うように成れば、唯物論者的弁証法もなにも、あちらからさっさ(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)とお尻をからげて退却して(しま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)った。けっく幸いと、又々さし障りの無い人道主義に逆転し、時たま、妻の態度に不満があったりすると、
「まあ、お前もよく自己清算をして見るんだな」
 なんて言う事に依り辛うじて、以前執った杵柄(きねづか)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)片鱗(へんりん)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)を示して居た。今じゃ、生きて居るから生きて居る。これはこうゆうもの、あれはああゆうもの主義で、死んでもいいが、自殺の陳腐さがいやだなんぞと、それで芸術家らしい(なま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)言うお蔭で、ぐずりぐずりと病死を待って居らねばならぬ破目に在った。お向いの子供から毎月或る少年雑誌を借りて読んで居たら、其の雑誌社から愛読者に成れっていう手紙が来た。例の「愛読者になりそうなお友達を本社にお知らせ下されば特製()酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)はがき」に釣られて、其のお向いの子供が麗々、小山光一郎(、、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と書いてやったのだろう。これは今に至る迄、妻の笑い草で、とんだ恥を掻いちゃったものだ。
 そんな生活に赤城の手紙は、可成り迷惑なものであったに違いない。少なからず躊躇(ちゅうちょ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)したが、思い切って読んで見た。
 果して。
 主に、――先月だか、先々月の終り頃だかに、赤城の紹介状を持って来て、光一郎に宿を()酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)うた高田とかう赤城の同志を、彼が(にべ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)なく追い払ったことに対して、譟譟(そうそう)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と非を鳴らして居た。だけど、あれは第一、お宿(とめ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)するにも其んな部屋が無かったし、妻が顔色を変えて反対するし、にっちもさっちも仕様が無かったのだ。しかじか、かようと、よく其の高田なる尾行つき(、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)の男に含めてやった筈なのに、と思えばむかむか腹が立った。
 君は無意志の生活をして居る。犬はよく無意志の生活をする。とも書いてあった。
「へへん」
 彼も不貞腐(ふてくさ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)って、皆迄読まずに引き破ろうとしたが、余りにも明らかなその種の虚勢に気がさして、其の(まま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)ぽんと机の方に投げてやった。…………
 それから三時間も経ったかしら、光一郎はさる料亭の部屋の隅っこで二人の若い芸者と一塊(ひとかたまり)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)に成り、正体も無くわっしょいわっしょいと押し合いをして居た。………………
 ………………酔がしんしんと醒めて来れば、――それは此頃に成って大変に目立ってきた事だが、世帯じみた帰心が矢竹に(はや)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)り、匆匆(そうそう)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と妻の(もと)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)に駈けつけた。流石にばつ(、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)が悪そうに、こっそり部屋に足を踏み入れたら、ぎょっとした。何やら狼狽(あわてふためいた様子で、怪しく動揺して居る部屋の空気を感じたからだ。…………青蚊帳(あおがや)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)ごしにすうーっ(、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と弟の顔を覗いて見た。……………………
 かつてこれ程の不安を感じた瞬間があったろうか。…………
 他に部屋が無いので、弟のたまに帰省する時には、彼のいやがるのも無理に、同じ部屋に寝かせ、彼が必ず夫婦の方にくるりと脊中を向けて寝るのを、
「変に気をきかせなくてもいいんですよ」
 と夫婦の方から、ずばりずばり弟をやり込めたりなんかして居たものなのに、今宵(こよい)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)に限っての此の恐怖は、――一体どこから起ったものか。…………
 ………………弟は眠って居るようだった。ほっとしながら、さらさら着物を脱いで蚊帳の中に入った時、まだ眠って居たかったのか妻が、
放蕩児(ほうとう)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)
 甘ったるく一口浴びせかけた。時が時だけにギクッと来た。妻のそう言った心持ちは、どうせ彼女の事だから、普通男友達同志が、
「よう、(うま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)くやってらあ」
 なんぞ、他意なく言うのと、ちっとも変っては居なかったのだろう。だが光一郎は、運悪くも其れをひねくれて取って(しま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)った。
「私にも浮気する権利はあるわよ。あなただって、そんなに放蕩してるんだもの」
 いつもなら、飲みに行って帰ると必ず枕元に、お冷や(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と、洗面器――彼は大抵吐いた――とを妻が揃えて置くのだが、どうしたものか今夜は、それが無いのも光一郎には言い知れぬ程淋しかった。わざと、妻の方には眼もくれず、黙ったままの蚊帳の中から手を出して、近くにある深い菓子皿を洗面器の代りに枕元へ引き寄せといて、さて、妻と弟の真中にある彼の純白な敷布の上に脚を延べたら、――全身がサアーッと凍った。どどどどどどと跳ね出す心臓を、おし静めおし静め、
 ――誰か、この床に寝たなッ!
 とみる(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と確かに敷布が乱れて居る。むっくり頭をもたげたら、
「ガアーッ」
 と菓子皿に吐いて(しま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)った。精も根も疲れ果てたように、俯伏(うつぶし)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)になって、枕に頬をあてたまま眼だけをギョロギョロ動かして居たが、五分も経たぬうちに、くらくらとまどろみ込んだ様子。……………

 ――よしんば関係があってもいい。
 帯を取られたので、妻の萌葱(もえぎ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)扱帯(しごき)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)をぐるぐる巻きにして、ほこほこ(、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と押し入れの前を行ったり来たりしながら彼は、その真夜中についで起った或る不思議な光景の夢のような記憶に仕合せと気がついたりした(せい)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)か、とうとうそう心にきめた。

 ……………それは午前二時頃であったらしい。ふっと眼が覚めたのだ。同時に、――(ほとん)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)ど同時に、妻も睫毛(まつげ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)の長い両眼をぱっちり開いた。或いは草木も眠って居るだろう。森羅万象ことごとくが死んだようにじ――(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と鳴りをひそめて居るまっただ中で、今や二人の男女が、青蚊帳を透して来るほの暗い燈火(とうか)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)のもとに、つくづくとお互いの顔を見まもり合って居るのだ。胸中に一物すらも思うこと無く、いささかの表情も交えず、ただつくづくと、まじまじと……………。
 そして、二人は又いつとは無く眠りに落ちて行くのであった。……………

 ――関係があってもいいのだ。妻は僕にシンから頼って居る。そうだ、なぜ今迄僕は昨夜の妻の瞳を思い出さなかったのであろう。浮気は浮気、亭主は亭主、それでいい。
 彼は部屋の片隅にぶら下って居る蚊帳の吊り紐の端を結んでは、ほどき、結んでは、ほどきしながら、もう晴れやかに頬を輝かして居た。
 ――自分では、もっとさばけた(、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)男だった積りだが。
 と苦笑しいしい、
 ――妻が僕の一人しかない味方なんだもの、別れるのは、つらい、つらあい。
 又々押し入れの前をうろうろしながら、不覚にも震え声で押し入れに話し掛けた。
「まだかい」
 返事がない。で、またぞろ不安に成り出した。
 ――要するに僕は老いたのだな。疲れちゃったのだ。世間を知り過ぎたのかな。怒って見せる力もない。……………
 押し入れの中で、しのびやかにカタリと音がした。
 ――()酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)し、なんだったら僕が二人に哀願してもいい。どうか僕を捨てないで呉れ、とな。僕にそうさせるものは女房や弟に対する愛のみではないのだ。今の僕は何よりも孤独を恐れて居るのだ。枯れ木も山のにぎわい、で誰でも構わないから僕の傍に居て呉れれば、それでいいんだが。こんな男の傍に居て呉れるような気紛れやが、現在の妻の他には此の世に一人も無いとしたなら、僕は妻にどこまでも武者振りついて居なけれあならん。例え、妻と弟が、現の亭主とかすがいの、子種がないのも辛いと、連れそうても、僕を傍に置いてさえ呉れると、こちらにはまあ、文句がないなあ。
 いずれにもせよ、聞くに絶えない女々しい話であった。……………
 押し入れの襖がカタゴト鳴ったかと思うと、さあっ(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と弟が飛び出た。まぶしそうに笑いながら、
「出来ましたよ」
 続いて妻が、まだ水がぽたぽた(したた)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)って居る生々しいフィルムを片手にさげて、ひょいと現れ、
「随分急いだのよ。だから余り巧くは出来なかったわ」
 と無邪気にはにかんで。……………
 ――

僕は何という馬鹿だろう。この弟とこの妻が……………。つまらぬ事を疑って居たものだ。そうだ、僕は別にこれというなに(、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)を見た訳でもなし、……………馬鹿な男お――。
 と心の中で歓喜の声を挙げながら、
「どれどれ、美男拝見と」
 妻の差し出す青いフィルムには、彼等兄弟の所謂(いわゆる)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)見事な顔が、ものうつくしく幾つも幾つも、奇々怪々に並んで居た。
「綺麗に出来ましたねえ」
 と弟。
「おやっ、この僕の頭が半分しか写ってないぞ」
 と兄。
 どっと三人で笑い出す。
「ね、ね、上から三番目のあんたの顔、駱駝(らくだ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)そっくりでしょう」
「うむ」
 思わず頷いて、再びわっと笑声が揚る。
 妻の手で窓の中央部に下げられ、窓外の涼しき風景をくっきりと二つに区切って居る長々しいフィルムからは、水蒸気が見る人の心も軽げにちろちろちろと昇って居た。
 又も暫くは写真の事で、皆わいわい騒ぎ合って居たら、突然開き直って弟が、もう汽車の時間です、と言い出した御蔭(おかげ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)(にわ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)かにバタバタと色めき、
「じゃ、まあ何か不自由な事があったら遠慮なく言って寄こしてね」
「はあ」
「あちらの下宿の方々にもよろしく」
「はあ」
「雨は降ってないだろう」
 と妻に聞く。
「ええ」
 力無く答えて居た。
「じゃあお前、停車場迄、お送りして………」
 だが弟はそれを、どうした理由(わけ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)か、蒼く成って拒んだのだった。……………
 ……………弟が玄関で靴を穿()酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)いている間、光一郎は妻と並んで、ちょこなんと式台にしゃがみ、妻が弟にぺちゃくちゃ喋って居るのを聞きながら、意外にも或る不可解な、底知れぬ(わび)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)しさに悶えて居た。荷車が彼の家全体を、ゆらゆらと動かしながら(やかま)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)しく通って行く。
 ――さて、さて、此の憂鬱は何者だ。どこからやって来たのだろう。すべては無事に終ったのに。
「さようなら」
 学生らしく朴直な挨拶を述べて、ぴょこん(、、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)と頭を下げた。
「ああ、身体(からだ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)に気を附けてね」
「冬休みには必ず又お遊びに……」
 そして二人は残された。……………
 堪らなく成って、よっぽど恥しかったが、やはり妻の両手をむずと(つか)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)んだ。妻は指先をぷるんぷるんと震わせて居た。そして当惑そうに、誰も居ぬのは判り切った事ながら、そっとあたりを見廻した。
「こないだのフィルムも(ついで)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)に現像しちゃえよ。こんどは僕が助手さ」
 (うつろ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)の声をぜいぜいさせ、息せき切って言い出したものだ。
「えっ」
 妻も顔色をさっと変える。
「ね、さあ」
 妻を暴々(あらあら)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)しく、ぐいぐい引きずり、押し入れの中にぽこん投げ入れた。……………
 (ああ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)、此の暗室の中で、此の悲惨な夫婦が一体何をしようと言うのだろう。
 世にも凄絶(せいぜつ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)したるけはい(、、、)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)が、この暗黒の内に(うごめ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)いて居る。
 これは単なる情慾(じょうよく)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)か。
 これは単なる情慾(じょうよく)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)か。
 彼はがくんがくんと身体(からだ)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)を震わしながら、じわじわ妻を押しつけて行った。
 妻とて手にした二つの薬品皿が互に触れあって、コツコツコツと鳴り出す程、震えて居ながらも、流石に女、見え透いた附け元気で、
「暑いのねえ」
 と(つぶや)酒唖(しゃあ)酒唖(しゃあ)いては見たが、いたいたしや、そうゆう声迄。……………

 

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■太宰と小山初代

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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