記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】9月5日

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9月5日の太宰治

  1942年(昭和17年)9月5日。
 太宰治 33歳。

 九月五日付発行の「みつこし」九月号に「天狗(てんぐ)」を発表。

天狗(てんぐ)

 今日は、太宰のエッセイ天狗(てんぐ)を紹介します。
 天狗(てんぐ)は、1942年(昭和17年)9月5日発行の「みつこし」に発表されました。この号には、ほかに『雨のたより』(丸山薫)が掲載されていました。

天狗(てんぐ)

 暑い時に、ふいと思い出すのは猿蓑(さるみの)の中にある「夏の月」である。
   市中は物のにほひや夏の月   (ぼん) (ちょう)
 いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮かべたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。

 

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野沢凡兆(のざわぼんちょう)(?~1714) 江戸時代前期から中期の俳諧師加賀国金沢の人。京に出て医を業とした。松尾芭蕉に師事した。

 

 猿蓑(さるみの)は、凡兆(ぼんちょう)のひとり舞台だなんていう人さえあるくらいだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿蓑(さるみの)に於いては凡兆(ぼんちょう)の佳句が二つ三つ在るという事だけは、たしかなようである。「市中は物のにほひや夏の月」これくらいの佳句を一生のうちに三つも作ったら、それだけで、その人は俳諧の名人として、歴史に残るかも知れない。佳句というものは少い。こころみに夏の月の巻をしらべてみても、へんな句が、ずいぶん多い。
   市中は物のにほひや夏の月
 芭蕉がそれにつづけて、
    あつしあつしと門々の声
 これが既に、へんである。所謂(いわゆる)、つき過ぎている。前句の説明に堕していて、くどい。蛇足的な説明である。たちえば、こんなものだ。
   古池や(かわず)とびこむ水の音
    音の聞えてなほ静かなり
 これ程ひどくないけれども、とにかく蛇足的注釈に過ぎないという点では同罪である。御師匠も、まずい附けかたをしたものだ。つき過ぎてもいかん、ただ面影にして附くべし、なんていつも弟子たちに教えている癖に御師匠自身も時には、こんな大失敗をやらかす。附きも附いたり、べた附きだ。凡兆(ぼんちょう)の名句に、師匠が歴然と敗北している。手も足も出ないという状況だ。あつしあつしと門々の声。前句で既に、わかり切っている事だ。芸の無い事、おびただしい。それにつづけて、
   二番草取りも果さず穂に(いで)
 去来だ。苦笑を禁じ得ない。さぞや苦労をして作り出した句であろう。去来は真面目な人である。しゃれた人ではない。けれども、野暮な人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。器用、奇知にあこがれるのである。野暮な人は、野暮のままの句を作るべきだ。その時には、器用、奇知などの輩のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。

 

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向井去来(むかいきょらい)(1951~1704) 江戸時代前期の俳諧師。焦門十哲の一人。肥前国の人。武芸に優れていたが、若くして武士の身分を捨て、京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)に住んだ。野沢凡兆と共に、蕉風の代表句集猿蓑(さるみの)を編纂した。

 

   湖の水まさりけり五月雨(さつきあめ)
 去来の傑作である。このように真面目に、おっとりと作ると実にいいのだが、器用ぶったりなんかして妙な工夫なんかすると、目もあてられぬ。さんたんたるものである。去来は、その悲惨に気がつかず、かえってしたり顔などをしているのだから、いよいよ手がつけられなくなる。ただ、ただ、可愛いというより他は無い。芭蕉も、あきらめて、去来を一ばん愛した。二番草取りも果さず穂に(いで)て。面白くない句だ。なんという事もない。これでもずいぶん工夫した句にちがいない。二番草取りも果さず穂に(いで)て。どうも面白くない。二番草、ここが苦労したところだ。どうです。ちょっとした趣向でしょう? 取りも果さず、この言い廻しには苦労しました。微妙なところですからね。でも、まあ、これで、どうやら、ナンテ。ただ、ただ、苦笑の他は無い。何度も読んでいるうちに、なんだか、恥ずかしくなって来る。去来さん、どうかその「趣向」だけは、やめて下さい。
    灰打たたくうるめ一枚
 凡兆(ぼんちょう)が、それに続ける。わるくない。農夫の姿が眼前に浮ぶ。けれども、少し気取りすぎて、きざなところがある。ハイカラすぎる。芭蕉が続けて、
   此筋は銀も見知らず不自由さよ
 少し濁っている。ごまかしている。私はこの句を、農夫の愚痴の呟きと解している。普通は、この句を、「田舎の人たちは銀も見知らずさぞ不自由な暮しであろう」という工合いによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののように解しているようだが、それだったら、実に、つまらない句だ。「此筋」も、いやみったらしいし、「お金が無いから不自由だろう」という感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意味に近い。「此筋」という言葉使いには、多少、方言が加味されているような気がする。お百姓の言葉だ。うるめの灰を打たたきながら「此筋は銀も見知らず不自由さよ」と、ちょっと自嘲を含めた愚痴をもらしてみたところではなかろうか。「此筋」というのは、「此道筋と云わんが如し」と幸田博士も言って居られたようであるが、それならば、「此筋」は「おらのほう」というような地理的な言葉になるが、私には、それよりも「おらたち」あるいは、「この程」「当節」というような漠然たる軽い言葉のように思われてならない。いずれにもせよ、いい句ではない。主観客観の別が、あきらかでない。「雨がザアザアやかましく降っていたが私には気がつかなかった」というような馬鹿な文章に似ているところがある。はっきり客観の句だとすると、あまりにもあたりまえ過ぎて呆れるばかりだし、村人の呟きとすると、少し生彩も出て来るけれど、するとまた前句に附き過ぎる。このへん芭蕉も、凡兆(ぼんちょう)にやられて、ちょっと厭気がさして来たのか、どうも気乗りがしないようだ。芭蕉連句に於いて、わがままをする事がしばしばある。まるで、投げてしまう事がある。浮かぬ気持になるのであろう。それも知らずに、ただもう面白がって下手な趣向をこらしているのは去来である。去来、それにつづけて、
    ただどひやうしに長き脇指
 見事なものだ。滅茶苦茶だ。去来は、しすましたり、と内心ひとり、ほくほくだろうが、他の人は驚いたろう。まさに奇想天外、暗闇から牛である。仕末に困る。芭蕉凡兆(ぼんちょう)も、あとをつづけるのが、もう、いやになったろう。それとも知らず、去来ひとりは得意である。草取りから一転して、長き脇指があらわれた。着想の妙、仰天するばかりだ。ぶちこわしである。破天荒である。この一句があらわれたばかりに、あと、ダメになった。つづけ様が無いのである。去来ひとりは意気天をつかんばかりの勢いである。これは、師の芭蕉の罪でもある。あいまいに、思わせぶりの句を作るので、それに続ける去来も、いきおい、こんな事になってしまうのだ。芭蕉には、少し意地悪いところもあるような気がして来る。去来を、いぢめている。からかっているようにさえ見える。此筋は銀も見知らず不自由さよ。この句を渡されて、去来先生、大いにまごつき、けれども、うむと真面目にうなずき、ただどひやうしに長き脇指。その間の両者の心理、目に見えるような気がする。とにかく、この長脇指が出たので滅茶苦茶になった。凡兆(ぼんちょう)は笑いを噛み殺しながら、
   草むらに蛙こはがる夕まぐれ
 と附けた。あきらかに駄句である。猿蓑(さるみの)凡兆(ぼんちょう)の句には一つの駄句もない、すべて佳句である、と言っている人もあるが、そんな事は無い。やっぱり、駄句のほうが多い。佳句が、そんなに多かったら、芭蕉凡兆(ぼんちょう)の弟子になったであろう。芭蕉だって、名句が十あるかどうか、あやしいものだ。俳句は、楽焼や墨流しに似ているところがあって、人意のままにならぬところがあるものだ。失敗作が百あって、やっと一つの成功作が出来る。出来たら、それもいいほうで、一つも出来ぬほうが多いと思う。なにせ、十七文字なのだから。草むらに蛙こはがる夕まぐれ。下品ではないが安直すぎた。ほんのおつき合い。間に合せだ。
    蕗の芽とりに行燈(あんどん)ゆりけす
 芭蕉がそれに続けた。これも、ほんのおつき合い。長き脇指に、そっぽを向いて勝手に作っている。こうでもしなければ、作り様が無かったろう。とにかく、長き脇指には驚愕した。「行燈ゆりけす(、、、、)」という描写は流石である。長き脇指を静かに消してしまった。まず、どうにか長き脇指の仕末がついて、ほっとした途端に、去来先生、またまた第三の巨弾を放った。曰く、
   道心のおこりは花のつぼむ時
 立派なものだ。もっともな句である。しかし、ちっとも面白くない。先日、或る中年のまじめな男が、私に自作の俳句を見せて、その中に「月清し、いたづら者の鏡かな」というのがあって、それには「法の心を」という前書が附いていた。実に、どうにも名句である。私は一語の感想をも、さしはさむ事が出来なかった。立派な句には、ただ、恐れ入るばかりである。凡兆(ぼんちょう)も流石に不機嫌になった。冷酷な表情になって、
    能登の七尾の冬は住憂き
 と附けた。まったく去来を相手にせず、ぴしゃりと心の扉を閉ざしてしまった。多少怒っている。カチンと堅い句だ。石ころみたいな句である。旋律なく修辞のみ。
   魚の骨しはぶるまでの老を見て
 芭蕉がそれに続ける。いよいよ黒っぽくなった。一座の空気が陰鬱にさえなった。芭蕉も不機嫌、理屈っぽくさえなって来た。どうも気持がはずまない。あきらかに去来の「道心のおこりは」の罪である。去来も、つまらない事をしたものだ。

 

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松尾芭蕉(まつおばしょう)(?~1694)と弟子・河合曾良(かわいそら)(1649~1710) 芭蕉伊賀国俳諧師。滑稽や諧謔を主としていた俳諧を、蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風として確立し、「俳聖」として世界的に知られる。弟子・曾良を伴い、江戸を発ち、東北、北陸を巡り、岐阜の大垣まで旅をした紀行文『おくのほそ道』が特に有名。

 

  さてそれから、二十五句ほど続いて「夏の月の巻」が終るのだが、佳句は少い。
 ちょうど約束の枚数に達したから、後の句に就いては書かないが、考えてみると私も、ずいぶん思いあがった乱暴な事を書いたものである。芭蕉凡兆(ぼんちょう)、去来、すべて俳句の名人として歴史に残っている人たちではないか。それを、夏の一夜の気まぐれに、何かと失礼に、からかったりして、その罪は軽くない。急におじけづいて、この一文に題して曰く、「天狗(てんぐ)」。
 夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になっているのだ。ゆるし給え。

  太宰が蕉風の代表句集猿蓑(さるみの)について熱く語るエッセイ天狗(てんぐ)を紹介しましたが、太宰と俳句については、4月15日の記事でも紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月4日

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9月4日の太宰治

  1930年(昭和5年)9月4日。
 太宰治 21歳。

 九月の夏休み明けから、津島修治は、ほとんど学校に出なくなったという。

”一人の若い左翼運動者”津島修治

 1930年(昭和5年)、東京帝国大学仏文科1年生の太宰(津島修治は、太宰の本名)は、9月の夏休み明けから、ほとんど学校に通わなくなったそうです。太宰が慕い、良き理解者でもあった三兄・津島圭治も、同年6月21日に早世したばかりでした。

 圭治と同級生の友人で、後に4年間の同居生活を送り、親交を深める飛島定城(とびしまていじょう)は、同年9月から11月にかけての2か月間は、「純粋な政治家」として、社会主義運動に「没入した期間だった」のだろうと回想しています。
 太宰は、「妻のある大学生」として、グループの中で有名で、東大の反帝国主義学生連盟のグループと、郷里・青森県出身の在京学生を左翼化する仕事をしていたそうです。
 飛島は、「後年彼が文学に全生命を打ち込んだ以外、彼の生涯を顧みて最も多くの熱情を注いだのはこの左翼運動に没入した期間だったろう」。「健康なロマンチストであると共に熱烈なマルキストで、よくその方面の本を読んでいたし、東大の反帝国主義学生連盟の活動を真剣にやっていた」、「相棒に平岡敏男氏がいた。平岡氏は反帝国主義同盟の東大キャップ。そのことを言うと嫌がったが間違いない」といいます。

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飛島定城(とびしまていじょう)と妻・多摩 新婚の頃。飛島は、東京帝国大学を卒業した後、東京日日新聞(現在の毎日新聞社)へ入社して、社会部の記者に。同じ五所川原出身の佐々木多摩と結婚しました。1931年(昭和6年)撮影。

 青森中学校時代の先輩・渡辺惣助も、「彼は学内の反帝同盟の一員だったこと」もあり、「学内の反戦同盟か無産者救援会などの仕事を手伝っていたらしい」と回想しています。

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東京帝国大学仏文科1年生のとき 左より津軽の「N君」こと中村貞次郎、太宰、葛西信造。1930年(昭和5年)撮影。

 日本反帝同盟は、「反帝国主義民族独立支持同盟」の日本支部として、1929年(昭和4年)11月7日に組織を確立しました。
 また、「無産者救援会」は、旧称「解放運動犠牲者救援会」で、1930年(昭和5年)8月上旬「日本赤色救援会」(略称:モープル)と改称した組織のことだと思われます。

 飛島は、「当時の太宰は非常に情熱的で、”一人の若い左翼運動者”という印象を受けた、そしてそれは彼の物の考え方や行動のうちに、一見あのおとなしさの中にどうしてこういうような不敵な考えや行動が出て来るかと思わせるようなものであった」と述べています。

 また、太宰と同い年の友人の平岡敏男も、「私は東大二年のとき、そのころの風潮にまきこまれて反帝同盟東大班のキャップをやらされた。本郷小石川地区の打ち合わせがあった。東大と東洋大学東京美術学校がその地区の学校である。そこで、ひょっこりと顔を合わせたのが美校のキャップ葛西であった」と回想しています。
 「美校のキャップ葛西」とは、青森中学校の同級生・葛西信造のことで、東京美術学校(現在の、東京芸術大学)漆工科に進学していました。

 飛島は、「彼の友人彼の周囲には一見マルキスト風の学生が多かった」と、当時の太宰周辺の様子について回想しています。

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■太宰と平岡敏男 弘前高等学校3年のとき。弘前の喫茶店「みみづく」の前で。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 臨時増刊』(審美社、1963年)
・『新潮日本文学アルバム 19 太宰治』(新潮社、1983年)
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月3日

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9月3日の太宰治

  1940年(昭和15年)9月3日。
 太宰治 31歳。

 九月一日付発行の「月刊文章」九月号に「『女の決闘』その他」(のち「自作を語る」と改題)を発表した。

『自作を語る』

 今日は、太宰のエッセイ『自作を語る』を紹介します。
 『自作を語る』は、1940年(昭和15年)9月1日発行の「月刊文章」第六巻第九号欄に「『女の決闘』その他」の題で発表されました。発表後、太宰のエッセイ集信天翁(あほうどり)(昭南書房版)に『自作を語る』と改題して収録されました。

『自作を語る』

 私は今日まで、自作に就いて語った事が一度も無い。いやなのである。読者が、読んでわからなかったら、それまでの話だ。創作集に序文を附ける事さえ、いやである。

 自作を説明するという事は、既に作者の敗北であると思っている。不愉快千万の事である。私がAという作品を創る。読者が読む。読者は、Aを面白くないという。いやな作品だという。それまでの話だ。いや、面白い筈だが、という抗弁は成り立つわけは無い。作者は、いよいよ惨めになるばかりである。

 いやなら、よしな、である。ずいぶん皆にわかってもらいたくて出来るだけ、ていねいに書いた筈である。それでも、わからないならば、黙って引き下るばかりである。

 私の友人は、ほんの数えるくらいしか無い。私は、その少数の友人にも、自作の注釈をした事は無い。発表しても、黙っている。あそこの所には苦心をしました、など一度も言った事が無い。興覚めなのである。そんな、苦心談でもって人を圧倒して迄、お義理の喝采を得ようとは思わない。芸術は、そんなに、人に強いるものではないと思う。

 一日に三十枚は平気で書ける作家もいるという。私は一日五枚書くと大威張りだ。描写が下手だから苦労するのである。語彙が貧弱だから、ペンが渋るのである。遅筆は、作家の恥辱である。一枚書くのに、ニ、三度は、辞林を調べている。嘘字か、どうか不安なのである。

 自作を語れ、と言われると、どうして私は、こんなに怒るのだろう。私は、自分の作品をあまり認めていないし、また、よその人の作品もそんなに認めていない。私が、いま考えている事を、そのまま率直に述べたら、人は、たちまち私を狂人あつかいにするだろう。狂人あつかいは、いやだ。やはり私は、沈黙していなければならぬ。もう少しの我慢である。

 ああ早く、一枚三円以上の小説ばかりを書きたい。こんな事では、作家は、衰弱するばかりである。私が、はじめて「文藝」に創作を売ってから、もう七年になる。

 流行は、したくない。また、流行するわけも無い。流行の虚無も知っている。一年一冊の創作集を出し、三千部くらいは売れてくれ。私の今までの十冊ちかい創作集のうちで、二千五百部の出版が最高である。

 私の作品は、どう考えたって、映画化も劇化もされる余地が無い。だから優れた作品なのだ、というわけでは無い。「罪と罰」でも、「田園交響楽」でも、「阿部一族」でも、ちゃんと映画になっている様子だ。
女の決闘」の映画などは、在り得ない。

 どうも自作を語るのは、いやだ。自己嫌悪で一ぱいだ。「わが子を語れ」と言われたら、志賀直哉ほどの達人でも、ちょっと躊躇するにちがいない。出来のいい子は、出来のいい子で可愛いし、出来の悪い子は、いっそう又かなしく可愛い。その間の機微を、あやまたず人に言い伝えるのは、至難である。それをまた、無理に語らせようとするのも酷ではないか。

 私は、私の作品と共に生きている。私は、いつでも、言いたい事は、作品の中で言っている。他に言いたい事は無い。だから、その作品が拒否せられたら、それっきりだ。一言も無い。

 私は、私の作品を、ほめてくれた人の前では極度に矮小になる。その人を、だましているような気がするのだ。反対に、私の作品に、悪罵を投げる人を、例外なく軽蔑する。何を言ってやがると思う。

 こんど河出書房から、近作だけを集めた「女の決闘」という創作集が出版せられた。女の決闘は、この雑誌(文章)に半箇年間、連載せられ、いたずらに読者を退屈がらせた様子である。こんど、まとめて一本にしたのを機会に、感想をお書きなさい、その他の作品にも、ふれて書いてくれたら結構に思います、というのが編集者、辻森さんの言いつけである。辻森さんには、これまで、わがままを通してもらった。断り切れないのである。

 私には、今更、感想は何も無い。このごろは、次の製作に夢中である。友人、山岸外史君から手紙をもらった。(「走れメロス」再読三読いよいよ、よし。傑作である。)

 友人は、ありがたいものである。一巻の創作集の中から、作者の意図を、あやまたず摘出してくれる。山岸君も、亀井君も、お座なりを言うような軽薄な人物では無い。この二人に、わかってもらったら、もうそれでよい。

 自作を語るなんてことは、老大家になってからする事だ。

  太宰は、女の決闘の冒頭にも、

めくらめっぽう読んで行っても、みんなそれぞれ面白いのです。みんな、書き出しが、うまい、書き出しの巧いというのは、その作者の「親切」であります。(中略)すらすら読みいいように書いて在ります。ずいぶん読者に親切で、愛情持っていた人だと思います。

と書いています。
 これは、太宰が森鴎外について書いた部分ですが、鴎外について書きながら、遠回しに自分の作品についても語っている感じがあります。太宰が苦悩しながら綴る「すらすら読みいい」文章は、読者への「サーヴィス」だったのでしょう。

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■太宰と亀井勝一郎 亀井は、太宰の三鷹の住居から15分くらいの、北多摩郡武蔵野町吉祥寺2761番地に住んでおり、親交を深めた。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月2日

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9月2日の太宰治

  1947年(昭和22年)9月2日。
 太宰治 38歳。

 九月に書かれた、山崎富栄の日記。

富栄、太宰に会えぬ日々

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)9月に書いた、3日分の日記を紹介します。

 同年8月下旬、太宰は体調が悪化し、自宅に引き籠っていました。8月28日付の富栄の日記には、太宰に「九月十二日までのお別れ」と言われたと書かれています。この頃の様子については、8月30日の記事で、富栄の日記を引用して紹介しました。

 まずは、9月1日の日記です。

九月一日

 剛ちゃんに逢う。今朝太宰さんのところへいって、いま帰るところだとか。随分血色もいいし、御元気でしたよ。もう一週間もすれば伺うんじゃないですか、とのお答。とてもうれしかった。私は確かに胸のあたりが少し悪くなってきている。決行するまでは元気でいたい。
「さえら」「ダンボウ」に寄る。
「奥名さんの御主人亡くなられたんですって?」
 太宰さんが御話なさった由。苦笑する。死にたいって言ってましたよ、とも。青酸カリは三分位で死んでしまうらしい。

 8月30日の記事で紹介した日記でも、「独りで死ぬ」「先に逝きます」などと、死ぬことをほのめかすような記述が何度も見られました。
 8月24日付の日記では、「誰か、いい人見つけて、幸せにおなり」と富栄に話しかける場面も描かれていたため、太宰は「剛ちゃん」に富栄の夫・奥名修一が戦死したことを伝えたのでしょうか。
 奥名は、三井物産の社員。富栄と結婚した12日後の1944年(昭和19年)12月21日に羽田を出発し三井物産マニラ支店に着任。間もなく現地召集となり、1945年(昭和20年)1月17日、バギオ南方20キロの地点で戦死しました。富栄に戦死の公報が届いたのは、その2年半後、1947年(昭和22年)7月7日のことでした。
 「青酸カリは三分位で死んでしまうらしい」とありますが、青酸カリは、戦争末期、米軍の本土上陸に備え、自決用として配布されていたそうです。この話を聞いた富栄は、何を想像していたのでしょうか。

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■山崎富栄 1937年(昭和12年)、富栄が18歳のとき、美容学校の日本髪モデルとして撮影された。

 最後に、9月2日と9月3日の日記を続けて紹介します。

九月二日

 お約束をした時間が間近くなって来るということは、本当に楽しみなものね。お目にかかれるような気がして。階下の時計が十時を打つ。太宰さん、お休みなさい。間をおいて、お隣りの時計が十時を打った。
 太宰さん、おやすみなさい。幾度でも十時が来るなんて、うれしいなあ。

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■山崎富栄 1941年(昭和16年)、映画撮影所にて専属美容師として働く富栄。

九月三日

 朝寝のまま、喜びを迎える。

 9月に書かれた日記は、今日紹介した9月1日から9月3日までの3日分で終わっています。富栄は約束通り、元気になった太宰と9月12日に会うことができたのでしょうか。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】9月1日

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9月1日の太宰治

  1939年(昭和14年)9月1日。
 太宰治 30歳。

 甲府を引き払い、やっと完成した、東京府北多摩郡三鷹下連雀百十三番地の借家に移転した。

念願の、甲府から三鷹への引越し

 太宰は、1939年(昭和14年)5月上旬頃から、甲府から東京近郊への転居を計画します。多くの出版社が東京にあり、そこから少し離れた甲府での執筆作業は不便だというのが、その理由でした。
 この甲府から東京近郊への転居については、5月26日6月4日7月15日8月9日の記事で、4回にわたって紹介してきましたが、今回いよいよ引越しとなります。

 1939年(昭和14年)9月1日。
 急いで歩いて、国電吉祥寺駅から25分、三鷹駅から15分、三鷹駅近くの町並みを出て、広い畑を越えて行くと、新築の小さな家が固まっており、その和式の借家の一番奥、西南端に位置する借家へ引越しました。

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三鷹の家の玄関

 引越し当日の様子について、太宰の妻・津島美知子の著書回想の太宰治から引用します。

 昭和十四年九月一日から太宰は東京府北多摩郡三鷹下連雀の住民となった。
 六畳四畳三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた十二坪半ほどの小さな借家ではあるが、新築なのと、日当たりのよいことが取柄であった。太宰は菓子折の蓋を利用して、戸籍名と筆名とを毛筆で並べて書いて標札にして玄関の左の柱にうちつけた。門柱ぎわの百日紅(さるすべり)が枝さきにクレープペーパーで造ったような花をつけていた。

 

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■「門柱ぎわの百日紅(さるすべり)」 現在は、三鷹市の和風文化施設「みたか井心亭(せいしんてい)」の庭に移植されています。 2017年、著者撮影。

 

 南側は庭につづいて遥か向こうの大家さんの家を囲む木立まで畑で、赤い唐辛子や、風にゆれる芋の葉が印象的だった。西側も畠で夕陽は地平線すれすれに落ちるまで、三畳の茶の間とお勝手に容赦なく射し込んだ。

 

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三鷹の家の庭

 

 引越しの当日太宰は荻窪に荷物のひきとりに行った。昨秋御坂に出発するとき、下宿にあった物を井伏家に預かっていただいて一年も経っていたし、丸屋質店の倉庫に入っているものもあった。持ち帰った行李(こうり)には毛布、ひとえもの二、三枚、卓上灯、硯箱(すずりばこ)などが入っていた。
 三鷹に移ってからはもう御崎町時代のように酔って義太夫をうなることもなくなり、緊張度が高まったように思う。

  太宰はここ三鷹で、戦時中に甲府・金木に疎開した時期を除き、7年半を過ごします。12坪半ほどの借家で、六畳間を書斎にして午後3時前後まで、1日5枚を限度に執筆しました。
 太宰は7年半三鷹での生活の中で、全小説作品155作品のうち、走れメロス』『正義と微笑』『右大臣実朝』『斜陽』『人間失格など、代表作の大部分である約90作品を執筆しました。

 2008年(平成20年)3月1日、太宰が通った「伊勢元酒店」の跡地で開館し、太宰に関する情報を発信し続けている太宰治文学サロンでは、三鷹の自宅模型」が展示されています。

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太宰治文学サロン 三鷹駅南口から徒歩4分。開館時間:午前10時~午後5時30分。入館無料。月曜、年末年始は休館。

 この模型は当初、2018年(平成30年)6月16日~7月16日まで、三鷹市美術ギャラリーで開催された特別展「太宰治 三鷹とともに -太宰治没後70年-」で展示されました。残された資料写真や回想などを元に、不明確な点は、同時代の三鷹の住宅を調査した報告書や専門書を元に、もくきんど工芸さんが作製したそうです。

 太宰は、三鷹陋屋(ろうおく)を、作品の中に度々登場させました。三鷹の自宅模型」を撮影した写真を、作品の引用と一緒に紹介します。(「三鷹の自宅模型」は、2019年訪問時に撮影。商業目的での使用をしないことを条件に、ブログ掲載許可を頂いています。)

 

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私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」ー東京八景

 

東京市外の三鷹町に、六畳、四畳半、三畳の家を借り、神妙に小説を書いて、二年後には女の子が生まれた。-帰去来

 

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「井戸は、玄関のわきでしたね。一緒に洗いましょう。」
と私を誘う。
私はいまいましい気持で、彼のうしろについて外へ出て井戸端に行き、かわるがわる無言でポンプを押して手を洗い合った。-女神

 

たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。私はお勝手で夕食の後始末をしながら、すっとその気配を背中に感じ、お皿を取落すほど淋しく、(中略)
うちで寝る時は、夫は、八時頃にもう、六畳間にご自分の蒲団とマサ子の蒲団を敷いて蚊帳を吊り、(中略)
私は隣の四畳半に長男と次女を寝かせ、それから十一時頃まで針仕事をして、それから蚊帳を吊って長男と次女の間に「川」の字ではなく「小」の字になってやすみます。(中略)
玄関前の百日紅は、ことしは花が咲きませんでした。-おさん

 

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夏、家族全部三畳間に集り、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに顔の汗を拭き、(後略)ー桜桃

 

わが陋屋(ろうおく)には、六坪ほどの庭があるのだ。-失敗園

 

(前略)庭にトマトの苗を植えた事など、ながながと小説に書いて、ちかごろは、それもすっかり、いやになって、なんとかしなければならぬと、ただやきもきして新聞ばかり読んでいます。(中略)
きょうはこれから庭の手入れをしようと思っています。トーモロコシが昨夜の豪雨で、みんな倒れてしまいました。-風の便り

 

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私の家は三鷹の奥の、ずっと奥の、畑の中に在るのであるが、ほとんど一日がかりで私の陋屋(ろうおく)を捜しまわり、やあ、ずいぶん遠いのですね、と汗を拭きながら訪ねて来る。-

 

翌る日、起きて、ふたりで顔を洗いに井戸端へ出て、そこでもう芸術論がはじまり、(中略)朝ごはんを食べて、家のちかくの井の頭公園へ散歩に出かけ、行く途々も、議論であります。(中略)
私の家の小さい庭は日当たりのよいせいか、毎日いろんな犬が集まって来てたのみもせぬのに、きゃんきゃんごうごう、色んな形の格闘の稽古をして見せるので実に閉口しています。-『このごろ』

 

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(前略)いったい私は、自分をなんだと思っているのか。之はてんで人間の生活じゃない。私には、家庭さえ無い。三鷹の此の小さい家は、私の仕事場である。ここに暫くとじこもって一つの仕事が出来上がると私は、そそくさと三鷹を引き上げる。逃げ出すのである。旅に出る。(中略)あちこちうろついて、そうしていつも三鷹の事ばかり考えている。三鷹に帰ると、またすぐ旅の空をあこがれる。ー

 

今年、私は二人の友人と別れた。早春に三井君が死んだ。それから五月に三田君が、北方の孤島で玉砕した。三井君も、三田君も、まだ二十六、七歳くらいであった筈である。
三井君は、小説を書いていた。ひとつ書き上げる度事に、それを持って、勢い込んで私のところへやって来る。がらがらっと、玄関の戸をひどく音高くあけてはいって来る。(中略)作品を携帯していない時には、玄関をそっとあけてはいって来る。だから、三井君が私の家の玄関の戸を、がらがらっと音高くあげてはいって来た時には、ああ三井君が、また一つ小説を書きあげたな、とすぐにわかるのである。-散華

 

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 太宰治文学サロン三鷹の自宅模型」では、1948年(昭和23年)4月に撮影された、微笑ましいシーンも再現されています。

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■長女・園子、次女・里子と、三鷹の自宅にて。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「太宰が生きたまち・三鷹」(三鷹市
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月31日

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8月31日の太宰治

  1935年(昭和10年)8月31日。
 太宰治 26歳。

 八月三十一日付で、今官一(こんかんいち)に手紙を送る。

「僕は君を愛している」

 今日は、太宰が、1935年(昭和10年)8月31日付で、親友・今官一(こんかんいち)(1909~1983)に宛てて書いた手紙を紹介します。

 今は、太宰と同い年で、青森県津軽地方生まれの同郷作家で、桜桃忌の名付け親でもあります。
 太宰は金木町で生まれ、今は弘前市で生まれ、2人の初対面は、1927年(昭和2年)。2人が18歳の時でした。今は、太宰の文才を早くから見抜いた1人で、太宰の作家デビューの折、古谷綱武らの同人誌「海豹」に魚服記を推薦するなど、一貫して太宰のよき理解者でした。太宰と今のエピソードについては、1月19日の記事で詳しく紹介しています。

 それでは、太宰が今に宛てて書いた手紙を紹介します。

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今官一 太宰の小説十二月八日で、「今さんも、ステッキを振りながらおいで下さった」という描写を彷彿させる、三鷹時代の今。

  千葉県船橋町五日市本宿一九二八より
  東京市世田谷区北澤三ノ九三五
   今官一

 拝啓
 佐藤春夫氏からぼくへ、ぼくの作品に就いて、こんせつな手紙を下され、また、こんどの芥川賞のことでも、たいへん力こぶをいれて下された由、今月二十一日、先方からまねきもあり、知遇を深謝するつもりで上京した。
 半年ぶりで東京のまちを歩いた。佐藤氏はやはり堂々としていた。さかんにぼくも放言して、ごはんなどごちそうになってかえったが、かえったら、やはり工合いがよくないのだ。
 肺のほうは、もうすっかりいいのだが、酒をやめ、たばこをやめ、一日一杯ひとりで籐椅子に寝ていては、君、ヒステリイになるのがあたりまえではないか。ねえ。
 長篇小説を出す由。時期が大切ではないかしら。ぼくも、それとなく宣伝して置くのは勿論であるけれども、そのまえに「作品」かどこかへ問題作を掲載し、それから、ときをうつさず長篇発刊と行くのがいいのぢゃないか。君が僕を策士と言っていると、佐藤佐(さとうたすく)という青年が言いふらして、ならびに僕の悪口をもこきまぜて言ってまわっている由、聞いたけれども、()し、君がそれを言ったところで、僕は君の胸中を信じている。君が僕に愛情を感じているように。
 だんだんとしとともに古い友人を大事にしたい気持ちが一杯だ。君、策士云々は気にしないように。そんなことで、お互いの芸術が傷つかない。そんな安っぽい芸術ではなかった筈だ。佐藤佐(僕とはまだよく話合ったことはないんだ)に逢ったら、君からよく叱って置くように。(紙がなくなったのであわてている。)別な紙を使うが、ゆるしたまえ。
 来月、十月号には「文藝春秋」「文藝」「文藝通信」と三つに書いた。「文藝通信」のは、「川端康成へ」という題で、「下手な嘘はお互いにつかないことにしよう」などと相当やったから、或いは返却されるかも知れない。私は、ただ川端康成の不正を正しただけなのだが、ひょっとしたら没書ものかも知れない。
 「文藝」のは、君、まえに読んだことのある原稿だが、「文藝春秋」のは、新しく書いたものだ。四十枚といって来たのに六十枚送ってやった。「ダス・ゲマイネ」(卑俗について)という題であるが、これは、ぜひ読んで呉れ。
 僕が先に出て、先にくたばる。覚悟している。
 船橋のまちは、面白くない。ぼくの自意識過剰もこのごろ凝然と冷えかたまり、そろそろ厳粛という形態はそのうち「間抜け」の形態に変じた。僕はいまそこに暫時、定着している。
 医者は僕を脳梅毒ぢゃないかと言って、僕に「ばかやろう」とどなられた。僕はたしかだ。ときたま、強いヒステリイにおそわれるだけだから、安心せよ。それもだんだん涼しくなるとともに落ちついて来た。このあいだ古谷が来たときには、僕、少しあばれて失礼した。
 格言
一、僕たちは、男と男とのあいだの愛情の告白を堂々となさなければいけない。
一、ヴイナスを追うことを暫時やめろ。僕はヴイナスだ。メヂチのヴイナス像のような豊満な肉体と端正な横顔とを持っている。けれども、私の肉体を、ちらとでものぞいた者があったら、鹿にしてやる!

 

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メディチ家のヴィーナス

 

一、ブルウタス、汝もまた!
一、クレオパトラになりたい。シーザーになるのは、いやだ。
 もっと面白い手紙を書くつもりだったが、頭工合いあしく、失礼する。怒らないで呉れ。この、ニセ気ちがいの手紙に返事を呉れないように。このあいだ、山岸外史が僕の手紙を批評したりなんかして、二人ともひどい目に逢った。僕をそっとして置いて呉れ。そっと人知れず愛撫して呉れたら、もっと、ありがとう。
 このごろ、よく泣く。
 僕はいま、文章を書いているのではない。しゃべっているのだ。口角に白い泡を浮べ、ぺちゃぺちゃ、ひとりでしゃべり通しだ。
 千言のうちに、君、一つの写真を捜しあてて呉れたら、死ぬほどうれしい。僕は君を愛している。君も、僕に負けずに僕を愛して呉れ。
 必要なものは、叡智でもなかった。思索でもなかった。学究でもなかった。ポオズでもなかった。愛情だ。蒼空よりも深い愛情だ。
 これで失礼する。返事は必ず必ず要りません。僕をそっとして置いて呉れ!
          治 拝
  今 官 一 様
 大事なことを忘れた。「日本浪漫派」五月号と七八号、手許にあるのだけ送りました。あとは発行所のほうに言って置きます。僕はまだ同人会にいちども出たことはなし、同人、よく知らん。

 

 ちなみに、「文藝」十月号に書いたという小説は、処女短篇集晩年にも収録されている陰火ですが、この作品はその後、「文藝」から取り返し、翌1936年(昭和11年)、「文藝雑誌」四月号に掲載されました。

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■太宰と今 1947年(昭和22年)、撮影:伊馬春部

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】8月30日

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8月30日の太宰治

  1947年(昭和22年)8月30日。
 太宰治 38歳。

 八月に書かれた、山崎富栄の日記。

「僕の内臓の一部のような気がする」

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)8月に書いた、6日分の日記を紹介します。

 まずは、8月22日の日記からです。この前に書かれた日記の日付は、7月30日の記事で紹介した、7月23日なので、富栄は約1ヶ月間、日記を書いていなかったようです。

八月二十二日

 宮崎さん、北山さん、別所さんお見えになる。二十日ひる。石井さんを御案内して、御一緒に西山方へ伺ってから泊り、二十一日も、”泊ろうよ””ええ、泊りましょう”と居つづけたら、夕方野原さんがみえた。その前に、”野原が今ここへきても僕は驚かないね”などとお話ししていたやさきのこととて。三人で泊る。
「サッちゃんて言わなかったね、野原は」
「泊るなら飲みますなんて言ったね、あいつ」
――あまりお体の御様子が快くはいらっしゃらないけど、私にはどうしようもないんですもの。
「君が悪いんだよ。いなかったんだもの。やけくそだったんだ。吉祥寺でウィスキーを一本飲んじゃってね」
 だからいないと心配なの。あのときは仕方がなかったんですもの。それにちゃんと日を決めてお話して差し上げたのに、それでなくてさえ御丈夫なお体でもないのでしょうに、ひどい。宮崎さんには前にも一度お目にかかっていたので、それにあのとき太宰さんと御一緒だということが、とても楽しそうにみえましたので、お休みになりますなららと、ちょっとお上げする。千草からビールと焼酎を持参する。失礼だなあと感じたところもあったけど、まあまあと。
「先生は近ごろあまり書きすぎますね。自殺するんじゃないかと思うんだ」
 と北山さん。胸をつかれる。毎日が死との闘争。一字一句が死との闘い。太宰さんを、一面ずつ知っていくことは悲しいけれど、近づいていく喜びもある。
「貴女このごろ、顔の色がよくありませんね」と野原氏。
 よくありませんとも。死んでしまうまで、誰にも、なんにも知られたくない。そしてまた誰も、なんにも知らないでいる深い理由を。死んでしまって、誰にも分からないことだらけ。二人だけで沢山だ。

 「西山方」とは、三鷹上連雀808番地にあった西山家のことで、ここの八畳間を借り、この頃、仕事部屋として頻繁に使用していました。三鷹における太宰の仕事部屋については、2月3日の記事で詳しく紹介しています。

 小料理屋千草は、富栄の部屋から道路を挟んで向かいにあり、歩幅にして約10歩程度の距離しかありませんでした。

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■富栄の部屋と小料理屋「千草 「永塚葬儀社」の看板がある2階の建物が富栄の下宿先。道路を挟んで向かいが「千草」。道の突き当りが、玉川上水。1948年(昭和23年)撮影。

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■ほぼ同じ地点から撮影した現在の写真 2020年、著者撮影。

 続いて、8月24日の日記です。

八月二十四日

 おひる近く、コンテと帰ってくる。朝、太宰さんがおみえになられた由。買物籠を下げてみえました、といつにない小母さんの顔。やっぱりお見えになったと、泊ってきたことを残念に思う。出張先から帰ったら、コンテさんが千草に来ていらっしゃるという。
 和服姿の良人を改めて二階へお通しする。三人で飲む。宮崎、北山、別所さん達のことをお話ししたら叱られてしまった。
「君の気持ちはは分かるよ、でも、断わんなさいよ。第一失敬だよ。かりに僕の妻じゃないか。僕は不愉快だな」
 ごめん、ごめん、ごめんなさい。コンテさんも太宰さんと一緒になって、”貴女、駄目ね”なんて言うんで、苦笑する。
「遊んでやって下さいよ。この人の良いところは、人の悪口を言わないことね。僕は随分言うけど。この人の言うのはまだ一度もきいたことがないよ。君は

いい友達をもっている。幸せだよ。僕にはない」
 いやいや、悲しいお言葉ばかり、帰るコンテさんを送って御一緒に吉祥寺までいき、西山へ泊る。
 さっきは、珍しく遊んでやって下さいと、度重ねて仰言ったお言葉が少し気になっていたけれど、その意味が分かった。独りで死ぬと仰言るの。
「駄目だよサッちゃん。十月まで()たないよ。憔悴しちゃったよ。寝なきゃあならないんだ」
「誰か、いい人を見つけて、幸せにおなり」
「いい人なんて、結婚する相手なんて、あなたより他にいやしないのに」
 泣いて、泣いて、泣いてしまう。
「ごめんね。僕はつらいんだよ。別れている間が――。どうして君と一緒にいると、安心なんだろうなあ。不思議だなあ」「……」
「ね、色恋なんていうんじゃなくて、何か、同じもので結ばれているというところがあるね。僕の内臓の一部のような気がするんだ。だから、いつでもそばにいてくれないと苦しいんだよ」
「ウン、同じ血が流れているような気がするの。妹でもいいから、津島家へ生まれてきたかったなあ」
「君の、そのウン、ていうの大好き。あばたもえくぼだ」
「サッちゃんに惚れちゃった」「いやいや、また始まる……」
 太宰さんを待って、嫁がずにいられる女の方のお話も再度耳にした。女の方が御気の毒で涙が出る。二人で随分泣いてしまう。私達二人とも、いままで人の前なぞ、泣顔みせたこともないのに。そして自分達の苦しみごとなども。
 何故こう私達は悲しいのだろう。泣いた。泣いた。
「私、別にお知らせ致しませんけど、先に逝きます」
「駄目よ駄目よそんな」
 しっかり抱き合って、あなたが死ぬなら私も死ぬ。わなたのいない世の中なんて、なんの楽しみがあるものか。
「御一緒に連れていって下さい」
「ごめんね、サッちゃんを頂きますよ」
「うん、頂くなんて。お願いします。お供させて下さいね」

 「コンテさん」とは、富栄の友達・宮崎晴子のニックネームで、富栄の日記にも度々名前が登場します。

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玉川上水沿いに佇む太宰 1948年(昭和23年)2月23日、撮影:田村茂。

 次は、8月28日の日記です。

八月二十八日

 今日でもう三日目。二十六日のひるま、西山方を出た道端で太宰さん吐く。お酒のカクテルをしたためでしょうか。御体が本当に弱られたのだな、と責任もある私の体。痛ましい気持ちがして、ごめんなさいと心で詫びる。
「少し我儘なさって。養生なさって下さいね」
「有難う」と九月十二日までのお別れ。
病気したら承知しねえぞ、なんて仰言りながら、御自分が先に倒れてしまわれるなんて、御伺いできないじゃありませんか。私いつでも御一緒に逝きます。
 昨夜九時半ごろ裏へ伺ったら、もう雨戸が下りていて皆様お休み。
「ね、思ってね。来てね。ときどきあそこへ来てね」って。垣根の近くまで寄って行ったらまるで新派のセットのような感じの家。お庭先が美しく掃かれていて、心地よい感じ。四畳半。三畳。六畳。お休みなさい太宰さん。鼻血なんぞお出しにならないで。今日、二時ごろお近くまでいく。一つ手前の通りを入って、畑の手前から眺める。お庭へ出てでもいられたら、きっと分かるのに、何故、時間と場所を御約束しておかなかったのだろうと悔まれる。
 昨日も思い出して涙が流れ、本を開いては愛しまれる。
 お別れしてから、急に背中がだるいような気持ち。血を吐きたい。思って下さる? 思って下さるの? 御体大丈夫? 御大事にネ。

   ⁂ ⁂ ⁂

「野原と野平は可愛いよ。ね」
「しかし、ああした雑誌社の空気は人間に悪いね」
「二人ともやめたいって言ってましたわ」
「それがいいね」
 野原さん達は太宰さんの御言葉を、一体どういう心で聞いているのかしら。真面目に、素直に、きいているのかしら、死んでしまう人ですのに。そして、この世で最もいい方でしょうに。駄目よ、しっかりしてよ。卑しい人にならないで下さいね。
 夜半にめざめたら、あなたが夢を見て笑った顔を思い出しました。

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■野原一夫(左)と野平健一(右) 斜陽などを担当した新潮社の編集者。1946年(昭和21年)8月26日、新潮社で700名中2名を採用したのが、野原と野平の2人だった。

 続けて、8月29日の日記です。

八月二十九日

 ちょうどおひる頃、近くまで行ってみました。今日は一つ、奥様に見つかってもいいから、と勇んでお庭の見えるあの横丁に入って、立ってみましたけれど、しーんとしているばかりでした。お昼食時ですから、お話声の一つもおききできるのではないかと存じたのですけど。あまり残念なので、表の方からも入ってみましたの。一寸、体がふるえました。窓も、お玄関も閉まっていました。万一悪化でもなさって御入院なさってしまったのかとも考え、それにしても、そのときには誰かを通じてお知らせくらいのことはあろうからと、考え直し、店へ参りました。
 黄村先生言行録を、また読み返しています。四月、太宰さんの本を初めて求めたころは、御向いにいらっしゃることなどが頭に入っていて、いま読み返してみると随分素通りして読んでしまったと思いました。
 十二日までの永い間、一冊ずつ深くみていきます。本当に十二日にはおいで下さいますね。お体が悪化していらっしゃっても、用意してお待ちいたしております。
 シゲ女が店を開きました。このごろは誰を見ても厭、いや、あなたが悪いのよ。お逢いできないんですもの。
「元から頬が削げていたのが一層削げて、顴骨(かんこつ)ばかり尖り、ゲッソリ陥込む眼窩の底に勢いも力もない充血した眼球が曇りと濁った光を含めて何処か淋しそうな笑みを浮かべて……」
 八時ごろ、野原さんが見える。
”誰も二階へ上げるなよ”
”ええ、お留守中は誰も上げません”
 そう申したのですけど、きっと、太宰さんからの帰り道に違いないと思われたのでお上げする。四迷の書き抜きを、なんの気なしに書いたけれども、その通りの御様子らしい。涙が出そうで困った。臥せっきりらしいと、お食事も余り通らないらしいと。
”もう十日も経てば起きられるよ”と仰言ったとか。十二日のことを言われるのですね。すみません。荷物も大部分整理いたしました。野原さんが、”先生、死ぬなんて仰言ったことありますか”なんて、さりげなく。
 いろいろと御交際ねがった方々に、大変お世話になり、御迷惑をおかけしっぱなしで、私一人だけ幸せを奪っていってしまうようで、すみません。
 はじめは、太宰さんも私も、死ぬという各自の決心が一致しただけでしたけど、この頃は、太宰さんが仰言るように、お互いがお互いの内臓の一部分でもあるかのような一致です。それとなく野原さんに、私の最後を飾ってくれるかもしれない私の写真をおみせしました。奥様のお赦しさえあれば、御一緒に写真だけでも入れて欲しいのです。
 私がいつか、”お友達に骨の一部分でもいいから御一緒に埋めて欲しいッて言ったら、大丈夫、私がお約束しておそばへ埋めてきてあげるわッて言ってくれましたわ”と申し上げたら、”大丈夫ですよ、みんながやってくれますよ、塚でも立ててくれるかも分かりませんよ”と仰言ってらした。あの世の夢を楽しみに逝きますわ。太宰さんと御一緒なら、何処へいっても、少しも怖ろしくなどありません。
 そう、いつだったか、御一緒に横になったとき、あの世のお話をしていて、
”亡くなった兄達が喜ぶでしょうね、私がいったら。そして太宰さんの御両親に御挨拶するときには、まず大きな鯛の御料理をして、皆様に挨拶するわ”
”そうそう、そうするとね、祖母が、ああ、私が料理する、なんていうよ。祖母って、そうなんだ”
”驚きになるでしょうね”
”おや、人が変ってるねッていうだろう”
”サッちゃん、ご免ね、君をもらいますよ”
 いま持っている買物籠、吉祥寺で御一緒に太宰さんに買って頂いたもの。毎日お逢いしていた思い出はつきない。
”十年前に逢いたかったなあ。先輩は、なぜ君を紹介してくれなかったんだろう。同じ本郷に住んでいたのにね”
”だって、それは太宰さんが悪いのよ。自動車なんかで学校に通っていらっしゃったんですもの。もし歩いていらしたら、きっと屋上から帽子の上へ唾が落ちたかも分からないのに――”
 物産の加藤郁子さんには大変々々お世話になりました。失礼でしょうけど、遺品を何か記念に差し上げたいのです。
 宮崎晴子さんにも今度ばかりは御迷惑をおかけしました。御礼の心で記念品を差し上げて下さいませ。
 ほとんど整理品は整理し、洗濯も致してあるつもりですが、汚れた品が残してありましたら、何卒御許し下さいませ。
 太宰さんは私には過ぎたる良人。そして私にはなくてはならない良人でした。
”僕の妻じゃないか”と仰言って下さったお心、忘れません。
”君と一緒になりたかったよ。君をもらった人は幸せだよ”私も十年前にお逢いしとうございました。
 九月四日頃、お訪ねする御約束を野原さんとする。

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三鷹の自宅の庭 撮影:大竹新助。

 最後に、8月30日と8月31日の日記を続けて紹介します。

八月三十日

”私が先生の妹にでも生まれてきていたら”
”ときどき、兄のような気がするのよ”
”そして愛人でしょう”

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■山崎富栄

八月三十一日

 早川さんのお話と、野原さんのお話しに一喜一憂していたところ、今朝八時半頃「奥名さん」の声に飛びおきる。太宰さんだ。蒼い顔して、疲れた御様子で。奥様方が御留守になったので、やめようかと思ったけど、やっぱり呼びにきたよ、と仰言る。
「じゃ、直ぐね」とそこそこにお帰り。早速仕度をして御訪ねさせて頂く。はじめてみるお家の中。お互いに一寸も悲しそうな顔もせず、相変わらずの、サッちゃんと太宰さん。正樹さんが、よちよちと玩具を持って入ってみえる。ヴィヨンの妻の中にある作家の悩みを思い起こさせるようなお子様。失礼かと思ったけど、太宰さんのお子さんを抱えてみたい心が湧いて「抱かせて下さいませんか」と申し上げたら、「いや、これは孤独を楽しんでいる子なんですよ」との御返事。親心としてどんなに悲しいことだろう、と思ったら涙が湧いてきてしまった。
 九時頃から二時まで御話する。午前十時と午後一時には、お互いの心が一致するような気がして、お互いがお互いを思っている以上に恋い合うよう致しましょうと御約束する。おにぎりを作って下さったり、果物を出して下さったり、御本を頂いたり、御写真を拝見したり。まるで今日は夢のような日だった。
「しっかりしなきゃあ、駄目よ。しっかりしてね」「しっかりするよ」「早くいけよ」
――ああ私達にしか通じない言葉。十二日を楽しみに、病人くさい臭いなどなくなってますように、十月には御一緒に旅をしましょう。本当に――。

 【了】

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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