【日めくり太宰治】11月12日
11月12日の太宰治。
1936年(昭和11年)11月12日。
太宰治 27歳。
午後一時ニ十分退院した。
太宰、東京武蔵野病院を退院
1936年(昭和11年)11月12日、太宰は、同年10月13日から1ヶ月間、パビナール中毒療養のために入院していた東京武蔵野病院を退院しました。入院中の太宰の様子については、10月19日と11月4日の記事で紹介しています。
今日は、太宰の師匠・井伏鱒二の回想録『太宰 治』に収録の『十年前頃』や、太宰の親友・伊馬春部のエッセイ『桜桃の記』に収録の『御坂峠以前』、太宰の担当医師・
【11月12日】
<井伏『十年前頃』>
朝、初代さん来て、拙宅家内とアパートをさがす。太宰の住居を見つけるためである。
十一時半、初代さんと共に太宰を病院に訪ねる。津島文治氏も来着。太宰夫妻は自動車にて荻窪拙宅に来る。小生、文治氏と共に電車にて荻窪に帰り、照山荘アパートに荷物を運ぶ。四時ごろ、荻窪駅を発つ文治氏を一同にて見送る。本日、上野駅発にて津軽に帰るとのこと。太宰夫妻はアパートに行く。
太宰は、朝食後に2時間院外を散歩。そのほか、廊下徘徊などをして落ち着かない様子でした。
この日の朝、太宰の妻・小山初代は、井伏宅を訪れ、井伏夫人・井伏節代と退院後に居住するアパート捜しに出かけています。
11時30分、井伏と初代が東京武蔵野病院を訪れ、昼食をとった後、太宰の長兄・津島文治も病院に到着し、13時20分に退院しました。
退院の際、太宰は即興の句などを書いて、自身の処女短篇集『晩年』の初版本を、担当医師・中野嘉一 に贈っています。
中野に贈られた『晩年』の扉には、
「君は私の直視の下では、いつも、おどおどして居られた。私をあざむいた故に非ずして、この人をあざむいているのではないかしら、という君自身の意識過乗 の弱さの故であろうか。。私たち、もっと、きっぱりした権威の表現に努めようね。」
「ひとりいて/ほたるこいこい/すなっぱら」
という献辞が書かれていました。
中野によれば、退院時の太宰は「中毒はすっかり治って退院したが、肺の方がまだ酷かった」といい、「病床日誌」(カルテ)に「全治退院 Psychopath」という診断名を記しています。「Psychopath」は、<精神病質者>という意味。中野は「パビナール中毒、モルヒネ中毒などの土台としての性格として」、この診断名をつけたといいます。
東京武蔵野病院を後にした太宰は、秋晴れの中を、初代と共に車で荻窪の井伏宅に向かい、杉並区天沼の白山神社裏手、光明院裏の照山荘アパートに荷物を運びました。
16時頃、太宰は、荻窪駅を発つ長兄・文治を見送ったあと、初代と一緒に照山荘アパートに帰ります。同日、井伏と共に、親友・伊馬鵜平(のちの伊馬春部)を訪れるも、不在。夕刻、井伏家に居ると、伊馬が訪ねて来ました。
<伊馬『御坂峠以前』>
「文芸」来たる。『駅長おどろく勿論れ』と『赤猿』(緑川貢)と。夕刻帰宅するに、津島君(註――太宰のことをなぜか改まってこう記している)、退院せしとて、井伏さんと二人して来たりと。即ち井伏家に伺いしに元気なる姿あり。病勢その後いかがなりたるや否やはっきりとは聞かざりしかど、やや未だ不安なり。
■太宰と小山初代
【11月13日】
<井伏『十年前頃』>
太宰、初代さんといっしょに来る。
太宰はアパートが気に入らないそうである。故に初代さん、拙宅家内といっしょに貸間さがしに行く。小生、太宰と将棋をさす。
【11月14日】
<井伏『十年前頃』>
天沼に八畳の貸間を見つける。
(追記――天沼の栄寿司と衛生病院の中間にある大工さんの家の二階であった。この家の棟梁夫妻は太宰の面倒をよく見てくれた。建前のお祝などのときには、太宰夫妻を上座に据えて大々的にもてなした。太宰は頻りに書を揮毫 した。これは初代さんの語ったことである。)
【11月15日】
<井伏『十年前頃』>
平野屋の厚意にて、照山荘アパートより太宰夫妻の荷物を貸間に運ぶ。太宰は平野屋に一任して自分の荷物を顧みない故、平野屋ひとりにて、あくせく荷物を二階に運ぶ。
夜、太宰と初代さんが来て、部屋が殺風景だから何か飾るものを貸してくれと云う。末広鉄腸の半折と、伊部の花瓶を床飾り用として貸す。太宰と将棋する。小生一勝。
(追記――末広鉄腸の軸は、私が田中貢太郎氏から戴いたもので、後に田中さんが亡くなられたので、遺品の転移で私から太宰への生き形見ということになってしまった。伊部焼の花壺は模造品ではなかったが、大したものではない。)
照山荘アパートが気に入らなかった太宰は、荷物を杉並区天沼一丁目238番地の碧雲荘 に運んで引越しました。碧雲荘 は、天沼衛生病院裏手の大工の棟梁が経営していた物件で、太宰が引越したのは、二階でした。
同夜、太宰は初代と井伏宅を訪れ、井伏と将棋を一番指して帰宅しました。
■碧雲荘 現在は杉並区天沼から大分県由布市湯布院町に移築、泊れるブックカフェ「ゆふいん文学の森」として営業中。2015年6月、著者撮影。
【11月22日】
11月22日付で、太宰のお目付け役・北芳四郎 が中畑慶吉 に宛てて書いた手紙には、本屋、酒屋、電気、仕立屋、薬屋、家主等への支払い敷金差引「三百円也」とあり、初代が「病院へ入院の事をヒドク悪く思て居られる様」と書かれています。
■北芳四郎 と中畑慶吉 写真左、北の手前に映っているのは井伏鱒二。
【11月24日】
11月15日からの10日間、太宰は「一面の焼野原」に彷徨 う思いで、『HUMAN LOST』を執筆し、「新潮」の1937年(昭和12年)新年号に発表の予定で、「新潮」編集部・楢崎勤宛で送付しました。
東京武蔵野病院の主治医・中野は、「太宰は、ただものではなかった。」「いま考えてみると、さめた目で入院生活を観察し、のちに「HUMAN LOST」に詳細に書いている。」と話しています。
【11月25日】
熱海温泉に赴き、馬場下の八百松に滞在し、「文藝春秋」に持ち込んであった『二十世紀旗手』の改稿に着手。
【11月29日】
「改造」に発表の『二十世紀旗手』39枚を脱稿、改造社に送付。
同日、太宰は義弟・小舘善四郎に宛てて、『HUMAN LOST』の一節を引用した次のようなハガキを認め、俳号・朱麟堂 の署名で投函しました。
静岡県熱海温泉馬場下
八百松より
青森県浅虫温泉 小舘別荘
小舘善四郎宛
寝間の窓から、羅馬 の燃上を凝視して、ネロは、黙した。一切の表情の放棄である。美妓の巧笑に接して、だまっていた。緑酒を捧持されて、ぼんやりしていた。かのアルプス山頂、旗焼くけむりの陰なる大敗将の沈黙の胸を思うよ。
一噛の歯には、一噛の歯を。一杯のミルクには、一杯のミルク。(誰のせいでもない。)
「傷心。」
川沿いの路をのぼれば
赤き橋、また ゆきゆけば
人の家かな
■太宰と小舘善四郎
太宰から、このハガキを受け取った小舘は、初代が「2人だけの秘密にしておこう」と約束したことを漏らしてしまったと錯覚し、「秘め事にしてほしいと哀願した初代の事が無性に腹立たしく思われ」たそうです。
【了】
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【参考文献】
・中野嘉一『太宰治ー主治医の記録』(宝文館叢書、1980年)
・伊馬春部『桜桃の記』(中公文庫、1981年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・井伏鱒二『太宰 治』(中公文庫、2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月11日
11月11日の太宰治。
1926年(大正15年)11月11日。
太宰治 17歳。
毎年慣例として開催されていた青森中学校弁論大会に出場した。
「ユーモアに就いて」熱弁を振る
1926年(大正15年)11月、青森県立青森中学校4年生の太宰は、毎年慣例として開催されていた弁論大会に出場しました。当時、上級生はいわゆる演説をし、下級生は教師の指名で、英語や漢文の名文を朗読したといいます。
■青森県立青森中学校
そんな中、太宰は12番目に「ユーモアに就いて」という演題で、数枚の名刺大の紙切れを片手に隠し、それを時々のぞきながら、対話をする時のような口調で、静かに語ったといいます。
今日は、太宰の同級生で、小説『津軽』に「N君」として登場する、
中学四年生の晩秋の或る日、その時私は青森県立病院に入院していたが、私の病室に笑顔をみせて入って来た。開口一番「今日学校で弁論大会があって『ユーモアに就いて』という題で雄弁を振った。当然メダルを貰えるものと思ったが、審査の先生は間違ったようだ」と云って、はにかみながら笑った。太宰は人の前で演説をするような人柄でもなかったし、雄弁に興味をもっていることなどきいたこともなかったので率直に聞きいれることが出来なかった。しかし「ユーモアに就いて」という演題は太宰には最もふさわしいものと思った。メダル云々は
何時 もの癖で話を面白くするためにしゃべったものと、甚だ失礼な想像をしたものである。翌日私より一年下の友人が私の病室を訪れたので、早速弁論大会のことを訊ねた。受持の先生が、中学生であれだけの内容のものを話したということはたいしたものだ、と大変ほめた、とその友人は語った。弁論大会は青森中学校の年中行事の一つだが、ヤジられたりして弁士はなかなか容易なものではなかった。よほどの自信と強心臓でないと出られないというのが常識であった。彼がヤジられるのを覚悟の上で自ら進んで一千名に近い中学生を前にして熱弁を振ったということは、ユーモアというものを人々に訴えたい強い何ものかがあったのだろうと解釈した。又太宰は四年生から弘前高等学校を受験することになっていたので、この四年生が中学生生活の最期の年でもあり、敢然として演壇に立ったものと考えたりしたが、どうも私は釈然とした気持になれなかった。彼の性格からいって、どうも演壇に立ったことが解せなかった。太宰の死後いろいろなことから、再びこのことが気にかかり、友人達に訊いてみた。その内容を要約すると――外国の作家の例をあげて話したり、ユーモアというものは何処にでもあるもので作るものだ、人が死んだりしたような悲しみの中にもユーモアがある、とか、女学生が道路で一斉に先生におじぎするのもユーモアがある、などと話したとか、そんな具合でその核心をつかむことが出来なかった。今から三、四年前の夏に中学時代の友人の訪問を受けた。その友人と十年振り位で逢った。その際彼から、太宰が弁論大会で「ユーモアに就いて」話した内容は、太宰が三年生の時生徒監督の先生からなぐられたことに対する抵抗である、ときかされた。
■中学時代 左から、太宰、太宰の弟・津島礼治、中村貞次郎
その日も秋も大分深くなって寒い日であった。昼休み時間に太宰や私達数名の級友が、体操場近くの廊下に坐って退屈な時間をもてあましていた。あまり退屈なので、私達の前を級友が通ると拍手したり、ヤジったりして、からかっていた。そのうちに級友の一人がこんどは誰が来ても、仮りに上級生が来ても拍手しよう、と提案した。それは面白い、というわけで皆賛成し、誰が通るだろうかと興味をもって待っていたら、こともあろうに生徒が一番恐れていた生徒監督の先生がやって来た。これにはさすがの腕白者達も
躊躇 した。ところが太宰一人勇敢に手をたたいた。先生は太宰を睨みつけ、いきなり両頬を殴りつけた。体操場へ逃げた者もあった。
「或る野分のあらい日に、私は学校で教師につよく両頬をなぐられた。それが偶然にも私の任侠的な行為からそんな処罰を受けたのだから、私の友人たちは怒った。その日の放課後、三年生全部が博物教室へ集って、その教師の追放について協議したのである。ストライキ、ストライキ、と声高くさけぶ生徒もあった。私は狼狽した。もし私一個人のためを思ってストライキをするのだったら、よして呉れ、私はあの教師を憎んでいない、事件は簡単なのだ、と生徒たちに頼みまわった。友人たちは私を卑怯だとか勝手だとか言った。私は息苦しくなって、その教室から出て了 った。温泉場の家へ帰って私はすぐ湯にはいった。」(思い出)――事実このようであった。後日太宰は、私達に「先生の剣幕があまりに激しかったので、みんな逃げたから自分も逃げようとしたら、先生は『抵抗する気かッ!』と怒鳴った。逃げようとした者に抵抗する気か、とは、ひどくないか」と憤慨して語ったことがある。そんなことなど思い出してその友人の話したことから今までの疑問がとけ、納得がいった。彼の語るところによると「日本人は昔頭にちょんまげをあげ、袴を着けて威儀をただし、礼をつくしても、見慣れない西洋人には、きわめて滑稽なことにうつるかも知れない。また、西洋人の間では、キッスや握手は普通のことであっても日本では誤解されやすい。又外国では好意や歓迎の意をあらわすために、拍手するのが習慣である。日本でも拍手をもって迎えるという事もある。然しそれが相手に理解されなければ、その善意も、かえって怒られたり、とんでもないひどい目にあうことになってしまう」といった意味のことや、中学校で休憩時間に教室にいれず、上靴をはかせず素足で歩かせていることなどもユーモアというジャンルの中にいれて、面白く中学校の教育方針を諷刺的に話したという。
「思い出」によると、このことは、彼の任侠的な行為であり、災難であって、自分が悪い事をしたという観念がないようだ。そんなことを考えると、彼の表現を借りれば、「私は散りかけた花弁であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんな些細なさげすみを受けても死なん哉と悶えた、たとい大人の侮りにでも容赦できなかった」という彼がこの事について一矢報いようと決心したことは当然であろう。内攻性的な彼の性格が、このような手段をとらせ、敢然と弁論大会の壇上に彼を立たせたものと私は考えた。この弁論大会に出場のため万全の準備を整え、完璧の練習を重ねて自信をもって望んだものと思われる。当時の弁士は悲憤慷慨や切歯扼腕という雄弁口調のものばかりであったが、彼は枚数のカードを手にして、そのメモをのぞきながら、全く対話の時の口調で、しずかに語った、と友人は云っている。「『ユーモアについて』と題し、中学時代のあなたの演説を、ぼくは、中学一の秀才というささやきと、それから、あなたの大人びたゼスチュア以外におもいだせないけれども、多くの人達は、太宰治をしらずに、青森中学校の先輩津島修治の噂をします」(虚構の春)。これでもわかるように弁論大会の結果は、太宰が予測したように満足なものであったようだ。
【了】
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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月10日
11月10日の太宰治。
1934年(昭和9年)11月10日。
太宰治 25歳。
銀座「山の小舎」での「青い花」同人会に出席。
太宰と中原中也②
1934年(昭和9年)11月10日、太宰は情熱を注いでいた文芸同人誌「青い花」の同人会に出席しました。
今日は、10月20日の記事に続き、「青い花」同人・中原中也と太宰の関係について、同じく同人だった親友・檀一雄の『小説 太宰治』から引用して紹介します。
第二回目に、中原と太宰と私で飲んだ時には、心平氏はいなかった。太宰は中原から、同じように
搦 まれ、同じように閉口して、中途から逃げて帰った。この時は、心平氏がいなかったせいか、中原はひどく激昂した。
「よせ、よせ」と、云うのに、どうしても太宰のところまで行く、と云ってきかなかった。
雪の夜だった。その雪の上を、中原は嘯 くように、
夜の湿気と風がさびしくいりまじり
松ややなぎの林はくらく
そらには暗い業の花びらがいっぱいで
と、宮沢賢治の詩を口遊んで歩いて行った。
■中原中也(1907~1937) 山口県吉敷郡下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)生まれの詩人、歌人、翻訳家。詩集『山羊の歌』に収録されている「汚れちまつた悲しみに」ではじまる詩は有名。結核のため、30歳で早逝。
飛島 氏の家を叩いた。太宰は出て来ない。初代さんが降りてきて、
「津島は、今眠っていますので」
「何だ、眠っている? 起せばいいじゃねえか」
勝手に初代さんの後を追い、二階に上り込むのである。
「関白がいけねえ。関白が」と、大声に喚 いて、中原は太宰の消灯した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。
あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。
「何だおめえもか」と、中原はその手を振りもごうとするようだったが、私は、そのまま雪の道に引き摺りおろした。
「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。
「わかったよ。おめえは強え」中原は雪を払いながら、恨めしそうに、そう云った。それから車を拾って、銀座に出た。銀座からまた、川崎大島に飛ばした事を覚えている。雪の夜の娼家で、三円を二円に値切り、二円をさらに一円五十銭に値切って、宿泊した。
明け方、女が、
「よんべ、ガス管の口を開いて、一緒に殺してやるつもりだったんだけど、ねえ」そう云って口を歪めたことを覚えている。
中原は一円五十銭を支払う段になって、また一円に値切り、開けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変らず嘯 くように、
汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払ってもらったのではなかったろうか。
河上さんは、二階で横になっていた。胃潰瘍だと云って、薄い上質のトーストに、珍しいハムやベーコンを添えて食べていた。そのハムを、私も食べてみたく思った記憶が僅かに残っているばかりで、一体、どうしたのか後のことは跡片もなく思い出が、消え果ててしまっている。
■檀一雄
私は何度も中原の花園アパートには出掛けていったが、太宰はたった一度だけ私について来た。太宰を階下に待たせ、私は外からめぐって上る非常用の鉄梯子を登っていった。けれども中原は留守だった。無意味な
擾乱 が起らずに済んだという、その時のホッとした気持の事を覚えている。
私達は例の通り新宿の「松風」で十三銭の酒をあおり、金がつきるとあてもなく夜店の通りを見て歩いた。そこへ積み上げられていた、露店の蟹を太宰が買った。たしか十銭だったろう。九州の海には全く見馴れない、北国の毛むくじゃらの蟹だった。太宰は薄暗い、歩道のところに立ち止って、蟹をむしりながら、やたら、ムシャムシャとたべていた。私に、馴染みのない蟹の姿だと、私は臆したが、食べてみると予想外に美味 かった。髪を振り被った狂暴の太宰の食べざまが、今でもはっきりと目に浮ぶ。
また、ヨーヨーの前で太宰が立呆けた。ちょうどヨーヨー売出しの頃だったろう。
「泣ける、ねえ」
何の傷心があばかれるのか、太宰は例の通りそう云いさしてから、
「檀君。こんな活動を見たことない? 海辺でね、チャップリンが、風に向って盗んだ皿を投げるだ。捨てたつもりで駈け出そうとすると、その同じ皿が、舞い戻ってくるんだよ。同じ手の中に。投げても投げても帰ってくるんだ。泣ける、ねえ」
【了】
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【参考文献】
・檀一雄『小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月9日
11月9日の太宰治。
1945年(昭和20年)11月9日。
太宰治 36歳。
「パンドラの匣」四十一回から六十四回までを村上辰雄宛送付。
「大へん疲れてしまいました」
1945年(昭和21年)7月31日から、三鷹、甲府を経て、故郷・金木町へ疎開していた太宰は、同年9月20日頃に、宮城県仙台市にある新聞社・
村上の訪問を受けた約1週間後の同年9月30日、太宰は「作者の言葉」とともに、『パンドラの匣』20回分、80枚近くを村上に宛てて送付します。
さらに、同年10月18日には、21回から40回分までを村上に宛てて送付するという、速いペースで『パンドラの匣』を書き進めていきます。
同年11月9日、太宰は、41回から64回分までの原稿を村上に宛てて送付しましたが、その際、添え書きに「大へん疲れてしまいました。この六十四回で完結させていたゞきました。あとは、どうしても続きません。新年から、また他のひとにはじめていただくと、順序がよろしくないでしょうか」とありました。
太宰の訴えに対し、64回での完結を了承した村上に、同年11月21日付で、太宰は感謝の意を伝えるとともに、苦しい感情を吐露する、次の手紙を書きました。
青森県金木町
津島文治方より
仙台市東三番町
河北新報社出版局 村上辰雄宛
拝復、おたより拝誦し、小説六十四回でおしまいにした事、御了承下さってありがとう存じます、どうしてもあれは、あれ以上つづかないのです。こんど、いつかお逢いした時に、私の苦心談なるものをお話いたしましょう、あれでもう精一ぱいのところでした。画伯には、あなたからどうかよろしく御鳳声ねがいます、「竹さんの顔」は、竹さんが本当は凄い美人なんだというのを少年が白状するあたり、あのへんで精一ぱい美しい顔をおかきになったら、効果があると思っていたのです、そのように御伝 下さいまし、
また、稿料もさっそく御手配下さってありがとうございました、たしかに全部受取りました、受領証を同封いたしましたから、御手数でおそれいりますが、会計課へお廻し下さいまし、
なお、出版の件、実は他からも申込みがあるのですが、ザックバランに申し上げますと、初版一万五千にしていただけないでしょうか、思い切ってやってごらんなさい、大丈夫、売切れます、長篇は短篇集より、ずっと売れるのが出版常識のようです、
ただ私の気がかりは、せっかく、売れるものを部数を少くしては何もならないというだけです、
再販などの準備もしていただいて、仙台の出版もたのもしいという印象を一般作家に与えるようにするといいと思いますが、如何でしょう、
まあ一つふんぱつ、するんですね、
御返事ねがいます、装丁その他は異存ございません、挿絵をいれる事など大賛成です、以上、要談、
以下、近況、
青森支局の人たちと大鰐 温泉で実にたのしく飲みました、すべて私が誘惑したのですから、あの人たちを叱らないで下さい、本社の門馬(?)さんとかが見えて、何だか支局の人たちがあわてていましたが、彼等は私の小説を激励の意味で一緒に飲んでいたのですから、そこはよろしくお取りなし願います、十二月にでもなったら、忘年会をしましょうか、村上さんおいでになったら愉快ですね、では部数の件、よろしく、敬具
村上学兄 太宰治
いま東京の出版社の部数ずいぶんたくさんなのです、
当初、太宰と村上との間で、「三百枚書下ろしだよ」「いや、二百枚というところかな」という会話が交わされていました。64回分の原稿は、原稿用紙200枚を少し超えますが、太宰はもう少し長く書くつもりでいたようです。
太宰は、村上に手紙を出した2日後の同年10月23日、師匠・井伏鱒二に宛てた手紙の中で、次のように書いています。
新聞小説はじめてみたら、思いのほか面白く無く、百二十回の約束でしたが、六十回でやめるつもりです。雑誌からの注文もいろいろありますが、とても応じ切れず、二つ三つ書いただけです。いつの世もジャーナリズムの軽薄さには呆れます。ドイツといえばドイツ、アメリカといえばアメリカ、何が何やら。
「百二十回の約束でしたが」というのは、太宰の誇張表現ですが、応じ切れない程、仕事の依頼も来るようになり、今の自分は仕事を選べる状況にあるということを、井伏に伝えたかったのでしょうか。
しかし、わずか1ヶ月半前の井伏宛の手紙に、「(新聞小説は)たのしみながら書いて行こうと思っています。どんな事を書いてもかまわないそうですから、気が楽です」と書いていた太宰が、師匠に対して苦しい報告をせざるを得ない状況になっていました。
太宰は、『パンドラの匣』で「終戦後の希望」を書きたいと意気込んだものの、やがて、人間、社会の本質が戦前と何も変わってはいないことを思い知らされ、軍国主義をそのまま裏返しただけの民主主義や、便乗思想が幅を利かせる「現実」への失望感を強めていったのでした。
【了】
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【参考文献】
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月8日
11月8日の太宰治。
1926年(大正15年)11月8日。
太宰治 17歳。
十一月八日付で「
『モナコ小景 』
今日は、太宰が青森県立青森中学校時代に発表した習作『モナコ
『モナコ
■『モナコ
『モナコ
小景 』
モナコの海は砂漠の蜃気楼で茶色の影にみちみちていたにちがいない。
マタホオンのとんがりは今にドロドロ崩れてしまうにちがいない。
とにかくモナコの熱い午後である。
――ホイと、そらどうだい――
――チェーッ――
世界的な賭博 である。
賭博開帳中
大きい張札である。
――あらら、おかしいな、どうもいけねえな、オメエ壱年も会わねえで居るうちに、ひでえ腕前を上げたもんじゃねえか…………今日あ、いけねえんだ。やめやめ。
賭博場は大きい。
そして蠅 の糞だらけの天井は低い。
黄色い倚子 は人の尻でジメジメして居る。
鼠色のワニスのテーブルには黒いチウインガムのかす がこびりついて居る。
窓は三つぎりだ。そして重い。
汚い土色の海はこの窓の下である。
浪 のうねりは貧弱だ、白い浪は決してたたぬ。
磯臭い香がこの室の気分である。
――今日あ、むやみに熱いじゃねえか、窓を開けろよ、海の風が入って来らあね。
フリッツは又どなった。
私はわざと、むっとしたように顔をふくらして見せた。
――開けろってことよ。
私はなお、だまりこくってやった。
――開けろったら、開けるんだよ。
……………………
――開けねえな。
……………………
――よおし。
フリッツは猛然と立ち上った。
私は始めてフリッツの顔を見上げた。
そら見ろ、フリッツは決して私には近よれないじゃないか。
彼は猛然と立ち上って…………そして…………猛然と重い窓を開けただけのことである。
フリッツは今実に馬鹿なことをしてるのだ、それはとてもとても恥かしいことなのである。
私はそれを知って居る。
フリッツは私にそれを見つけられたナと、うすうす感づいて居るらしい。
だからフリッツは決して私に手あらなことをしないじゃないか。
フリッツをいじめてやるのは今だ。
ところでフリッツはどんな男かと言いたい。
フリッツは肺結核の初期である。
次に私はどんな男か皆に紹介しなければなるまい。
私は栄養不良である。
フリッツと私とはモナコの青んぼ と言えばすぐわかる。
フリッツの顔もそうだが、実際私自身でさえも鏡をつくづく見てると私の血色の悪いのには、あいそが尽きる。
当然二人の間には、はげしい争闘が無言裡 に開始せねばなるまい。
私はどんなにこの戦争に苦しめられたことであろう。
私にとっては生命 がけの海水浴を始めたのも全くこの競争の為であった。
顔のマッサージをやり出したのもこのセイからであった。
しかし、不幸にもどれもこれも皆失敗だった。
その間私は敵手のフリッツの血色には常に綿密な注意を怠らなかったのである。
恐らくフリッツも同様であったにちがいない。
私は主人の命で約一年伊太利のカララの本店に出張を命ぜられたのだ。
二人は別れた、そしてこの時である――キット又会う日迄と暗に己の勝利を心に期して二人は別れた。
一年間の二人の悪戯は全くいじらしかった、真剣になっての苦闘は却 ってどことなくユーモアに富んで居るものだ。
さあ来い。
二人は勝利の確信を持って、今モナコの賭博場にたしかに血色のよくなかった顔を会したのである。
ほんとだ、自然は大きないたずら坊主だぜ。
この大事な場合にこの暑さは又どうだ。
私は先 ずフリッツの馬鹿なことをしているのを発見した。
あまりの彼の卑怯 さに腹が立って来た程であった。
フリッツはシ ッカリ狼狽 しちまったではないか、チョットでも私の視線からのがれようとしての必死の努力は私にとっては却 っておかしくってたまらないのであった。
汗が出て困るだろう。
窓を開けろと言うだろう。
予想は見ん事的中した。
私はあやうく吹き出しそうになった。
――おおい、皆見ろフリッツの汗は赤いぜ。
私は大きな声で叫んだ。
賭博場の五百人の男が一せいに立ち上がった。
――皆さん、フリッツの顔はいい血色ですネ、何せポタポタ汗と一緒に溶ける血色ですからナ。
――ワ ア ッ――
五百人の男は騒いだ。
フリッツは不思議な男である。
猛然と立ち上って、こんどはホントに私の頬をグワンとやったではないか。
からだが三角形になってスーッと上に泳ぎ上るような気がした。
それぎり分らない。
フト気がついたらフリッツは叫んで居た。
――皆さん、こいつの顔は私に劣らぬいい血色である、どんなに強くぶたれても決して紫色にはならない。
――ワ ア ッ――
五百人の男が騒いだ。
私は静かに起きてズボンのチリを払って、さて悠然とたばこを懐から出した。
マッチをすった。
スパと一口吸って、プフッと煙の輪を吐いた。
私は五百人の男の静まるのを待って、低く言った。
――でもネ、私はこのインキを頬につけて始めて私の顔が出来るんだ。
又プフッと煙の輪を吐いた、こんどの輪は非常に大きい。
――君等がネ、泥が一ぱい顔についた時、君等がその顔を他人からどんなに笑われたって決して腹が立たないだろう。
なぜなら君等はこれア私のホントの顔ではないんです、私のホントの顔はモットモットいいんですと思って居るからだよ、いいかネ、君等はその汚い泥を落すのを恥とするかネ、卑怯とするかネ、あたり前のことじゃないか、泥を落して始めて君等の顔が出来るんだ、インキをつけて始めて私の顔が出来るんだ、インキをつけてない時の顔は私のホントの顔でないんだ、泥を塗った時の顔と同じいんだ、私のは実に堂々たるものさ。
所がここに居るフリッツはやっぱり馬鹿なことをやってることになるネ、こいつは当り前だと思ってつけてないのだ、コッソリやってるんだ。
私はどんなに得意になって居たか。
だが私はここ迄言うと一寸 と言葉を休めなければならなかった。
ドアが開いたからである。
この家の娘のニイが入って来たからである。ニイも私達の競争仲間である。
青黒い皮膚は決して私に劣らぬ青んぼ の気分を有して居た。
私達は無意識と言ってよい程自然に彼女をもいつの頃からか競争仲間として居たのであった。
そのニイが入って来たからである。
ヤア少し見ぬ間に実によい血色になったもんだな。
ホントニよい血色である。
ほんものだ。
ほんものだ。
ニイはニコニコ笑った。
私にはニイの顔はまぶしかった。
フリッツのぼやけた、汗で赤くむらの出来た顔を見た、あまりおかしくもなかった。
ジートそれに眼をつけて居たらフリッツのそれと同じ恰好の男がポッカリ彼のわきにクッツイて現われて来たのである。
二人ならんだ恰好は実に滑稽 である。
又ニイに眼をくばった。
低い天井。
重い窓。
黄色い倚子 。
鼠色のテーブル。
土色の海。
磯臭い香。
私はとうとうメソメソ泣いてしまった。
■「蜃気楼」創刊一周年記念写真。後列右から平山四十三、太宰、中村貞次郎、葛原四津男。前列右から金沢成蔵、工藤亀久造、津島礼治、葛西信造、桜田雅美。
【了】
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【参考文献】
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・太宰治『地図 初期作品集』(新潮文庫、2009年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・日本近代文学館 編『太宰治 創作の舞台裏』(春陽堂書店、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月7日
11月7日の太宰治。
1929年(昭和4年)11月7日。
太宰治 20歳。
十一月頃、町の娘と郊外の原っぱで、カルモチン心中を図って未遂に終わったと伝えられる。
太宰、最初の心中未遂?
1929年(昭和4年)11月頃、太宰が官立弘前高等学校3年生の時。
太宰は、町の娘と郊外の原っぱで、睡眠剤カルモチン心中を図って未遂に終わったと伝えらえています。
■鎮静 催眠剤 カルモチン。当時の広告には、「連用によって胃障害を来さず、心臓薄弱者にも安易に応用せられ、無機性ブロム剤よりも優れたる鎮静剤として賞用せらる。」と書かれている。
太宰は、39年の生涯の中で、4度の自殺未遂を経て、5度目で愛人・山崎富栄との玉川上水で心中自殺を果たします。
【1回目】
1929年(昭和4年)12月10日。
太宰治 20歳。
下宿でカルモチンを嚥下 し、翌日夕方まで昏睡状態に。
【2回目】
1930年(昭和5年)11月28日。
太宰治 21歳。
銀座のバーホリウッドの女給・田部あつみと神奈川県鎌倉腰越町の小動崎 で心中未遂。あつみは亡くなり、太宰だけが生き残る。
最初の妻・小山初代との結婚に起因し、実家・津島家から分家除籍された直後だった。
【3回目】
1935年(昭和10年)3月16日。
太宰治 25歳。
鎌倉八幡宮の裏山で縊死未遂。
東京帝国大学を落第、都新聞社の採用試験を受け、失敗した直後だった。
【4回目】1937年(昭和12年)3月20日。
太宰治 27歳。
前年の1936年(昭和11年)10月、太宰がパビナール中毒療養のため、東京武蔵野病院に入院していた際、妻・初代が、太宰の義弟・小舘善四郎と過ちを犯してしまったことに起因。
群馬県谷川岳の山麓でカルモチンによる心中自殺を図るが、失敗。
【5回目】1948年(昭和23年)6月13日。
太宰治 38歳。
普段着の軽装で愛人・山崎富栄と家出、玉川上水に入水。
死亡時刻は、6月14日午前1時頃と推定されている。
しかし、1回目の自殺未遂の直前、太宰は、町の娘と郊外の原っぱで、睡眠剤カルモチンを使った心中を図って未遂に終わった、「最初の心中未遂」を起こしていたとも言われています。
この、「最初の心中未遂」について、太宰の弘前高等学校の級友・
年譜によればこの年の自殺未遂は十一月某日と十二月十日の二度にわたって行われたことになっているが、最初の「町のメッチェンとの心中未遂」の方は誰もその相手を見ておらず、あるいは太宰が、ある実在の女を心中の相手に想定して行った「独り芝居」ではなかったかとさえ想われるのである。
その女というのはおそらく、当時、土地の有力者による落籍問題の起っていたといわれる「玉家」のお抱え芸者の紅子で、のちの太宰夫人、小山初代であろう。紅子はにわかに持ち上ったこの問題について、彼に相談し、結婚を迫ったものと思われるが、当時の太宰の身分ではどうすることもできず、返答に窮したに違いない。
「メッチェン(Mädchen)」とは、ドイツ語で、少女、娘のこと。
太宰は、1927年(昭和2年)、弘前高等学校1年生の頃から、義太夫に凝っていました。同年7月に芥川龍之介が自殺しますが、それを知ったあたりから、芸者上がりの師匠について義太夫を習い、服装に凝りはじめたといいます。
太宰は、近松門左衛門の作品にも心酔していたようで、石上の言う通り、叶わぬ恋を成就させたいと、近松の代表作『
■太宰、弘前高等学校2年。新聞雑誌部の先輩送別会 前列右から2番目が太宰。後列右から2番目が石上玄一郎。弘前市の料亭「新若松」にて。
【了】
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【参考文献】
・石上玄一郎『太宰治と私ー激浪の青春』(集英社、1986年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月6日
11月6日の太宰治。
1938年(昭和13年)11月6日。
太宰治 29歳。
午後四時頃から、石原家で、井伏鱒二、斎藤文二郎、せいの立会いで、石原美知子の叔母二人を招き、結婚披露の宴が催された。
太宰と美知子の結婚披露宴
1938年(昭和13年)、天下茶屋に滞在中の太宰は、9月18日に師匠・井伏鱒二の付き添いで石原美知子とお見合いをし、10月24日には井伏に宛てて、「小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生というものを知りました。結婚というものの本義を知りました。結婚は、家庭は、努力であると思います。厳粛な、努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも、一生大事に努めます。ふたたび私が、破婚を繰りかえしたときには、私を、完全の狂人として、棄てて下さい。」と書いた「誓約書」を送付しました。
そして、同年10月31日。太宰は再び、井伏に宛てて、次のような手紙を書きました。
山梨県南都留郡河口村御坂峠上
天下茶屋より
東京市杉並区清水町二四
井伏鱒二宛
拝啓
昨日は、大急ぎで、粗末の走り書きのお礼状したため、非礼おゆるし下さい。いろいろご都合ございましょうから、少しでも早いほうが、と思い、日がきまって、すぐ斎藤様宅から飛び出し近所の郵便局に駆けつけ、速達したためたので、ございました。
十一月六日に、何卒、お願い申しあげます。かための式は、午後四時頃からとのことにて、井伏様まえもって甲府着のお時間お知らせ下さいましたら、私間違いなくお迎えにまいります。私は、六日には、朝から、斎藤様宅へ出むいて、何かと用事するつもりでございます。井伏様も、さきに一旦、斎藤様宅へおいで下され、それから石原氏宅へ、おいで下さいまし。
ほんとうに、こんどは、私も固い決意をもって居ります。必ずえらくなって、お情に立派におむくいできるよう、一生、努力いたします。
式に必要のお金は、私、準備して置きますゆえ、その点は、御心配下さいませぬよう。
ほんとうに、おかげさまでございました。井伏様からいただいたお嫁として、一生大事にいたします。きっと、よい夫婦になります。
六日には、お逢いして、これからの私たちの結婚の段取りについて、私たち考えていること、いろいろお耳にいれたく存じて居ります。
きょうは、不取敢 、山ほど謝意の、ほんの一端まで。
修 治 再拝
■井伏鱒二
そして、結婚披露宴の当日、11月6日。この時の様子について、太宰の妻・津島美知子は著書『回想の太宰治』で、次のように回想しています。
十一月六日、私の叔母ふたりを招き、ささやかな婚約披露の宴が私の実家で催された。東京からは井伏先生がわざわざ臨席してくださり、文学や画の好きな義兄Yが洋酒を持参して祝ってくれた。床の間に朱塗りの角樽が一対並んでいた。結納は太宰から二十円受けて半金返した。太宰はこれが結納の慣例ということを知らず、十円返してもらえることを知って大変喜んだ。
太宰と美知子の結婚式は、翌年1939年(昭和14年)1月8日、杉並区清水町24番地の井伏宅で挙行されました。
■太宰と津島美知子の結婚写真
【了】
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【参考文献】
『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
・日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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