記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月25日

 

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11月25日の太宰治

  1928年(昭和3年)11月25日。
 太宰治 19歳。

 青森に行き、平岡敏男(ひらおかとしお)とカフェー「太陽」で痛飲。

太宰、平岡敏男と痛飲

 1928年(昭和3年)11月25日、官立弘前高等学校2年生の太宰は、青森市に行き、友人・平岡敏男ひらおかとしお とカフェー「太陽」で痛飲しました。 
 平岡は、北海道旭川の出身。弘前高等学校で新聞部に所属し、一期下の太宰と親交があり、「弘高新聞」への参加を誘っています。
 今回は、この日の太宰と平岡について、太宰治に出会った日に収録されている平岡の『若き日の太宰治からの引用で紹介します。引用中に登場する「校友会雑誌」は、年2回発行されていた雑誌です。

  昭和三年、校友会新聞雑誌部が発行する校友会雑誌第十三号の奥付をみると私は編集兼印刷人になっている。十二月十五日発行である。印刷所は青森印刷株式会社。なぜ私が印刷人にもなっていたかよくわからない。その校友会雑誌の印刷用件で青森へいく汽車のなかで太宰といっしょになったのである。私が彼と知りあったのは三年生になってからである。彼に新聞雑誌部の委員になってもらうつもりで、学校の近くにある彼の下宿へいったら、委員の件については、あまりはきはきした応答をせずに「これがぼくのいまの気持です」といって読みだしたのが「此の夫婦」という小説であった。
 第十三号の「編集室」というあとがきは、私といま一人三年生理科の広瀬が書いており、そのあとに部長堀内先生、委員平岡敏男、広瀬英雄、南部農夫治、津久井信也上田重彦という名が出ている。しかし太宰すなわち津島修治の名は出ていないところをみると、委員の方はうやむやになったのであろう。しかし私は「此の夫婦」を校友会雑誌第十三号に掲載した。この小説は七十ページの雑誌の二十三ページを占めてる。短いものではない。もちろん全集にも収録されている。こんどまた読んでみた。彼がこれを書いたときは、いまの満年令でいえば二十一才になったかならなかったかのころである。文学的評価はさまざまであろうが、はっきりいえることは、おとなの小説であるということだ。太宰がいかに早熟であったかがわかる。そしてまた「此の夫婦」は、太宰が本名で発表した唯一の小説であるといっていいくらいだ。

 

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弘前市の喫茶店「みみづく」の前で 太宰と平岡敏男。

 

 日記にもどろう。青森印刷で要件をすませた私は、そこの支配人である藤田金一氏とランデンというカフェーで会ってカレーライスでもごちそうになったのかもしれない。汽車のなかでそういう約束ができたのかと思うが、そのあと太宰にあっているのだ、太宰は青森にも寄宿先があったので、そこで学生服を、りゅうとした和服に着かえて現われ、太陽というカフェーの二階にあがったのだ。カフェーというのは、いまのコーヒー店とバーとレストランを混合してひとつにしたような日本独特の店で、ホステスとはいわぬ女給がいた。ふたりであがった太陽というカフェーの二階は日本座敷になっていて、芸妓がよべたのである。太宰は、のちに細君となった紅子(べにこ)とのいきさつをのべたあと、かの女をよんで私に紹介するつもりであったのだが、かの女は来ずにその朋輩の芸妓が来た。太宰は、きげんがわるくなり、荒れてきて酔うほどにその芸妓に「こう見えても津島修治という男は……」などといったり、そうかと思うと「津島修治がこういっていたと紅子によくいっておけ……」などと啖呵めいた気焔をあげたりした。しかしふたりともまだ後年のような酒飲みにはなっていなかったので七本程度の銚子でかなり酩酊したのであろう。十一月末の青森は、すでに冬であった。カフェーを出たふたりはマントを着て肩を抱きあい、寮歌などうたいながら、青森駅へ行きここで私は太宰と別れて弘前へ帰ったのである。
 太宰と紅子(べにこ)の関係はいつごろできたかについていろいろの説をなすものがあるが、私の日記についていえば、昭和三年の九月ということになっている。”枕をかわす”などというのは今では耳ざわりのいいことばとはいえないが、そのころ義太夫などをやっていた太宰は、なんの抵抗もなくこういうことばを使っていたのである。

 

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■「のちに細君となった紅子(べにこ)」こと小山初代

 【了】

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【参考文献】
・山内祥史 編『太宰治に出会った日』(ゆまに書房、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月24日

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11月24日の太宰治

  1944年(昭和19年)11月24日。
 太宰治 35歳。

 マリアナ基地を発進したアメリカ空軍B29型重爆撃機の大編隊が、三鷹町の北部に隣接する武蔵野中島飛行機上空に現れ爆撃攻撃をした。

戦時下における三鷹での太宰

 1944年(昭和19年)11月24日、マリアナ基地を発進したアメリカ空軍B29型重爆撃機の大編隊が、三鷹町の北部に隣接する中島飛行機の武蔵野製作所上空に現われ、爆撃攻撃をしました。
 マリアナ基地は、B29で日本を爆撃できる飛行距離内にあり、1944年(昭和19年)10月28日の訓練爆撃から、翌1945年(昭和20年)8月15日未明まで、本土を焼野原にした空爆作戦数は331を数えたといいます。

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アメリカ空軍B29型重爆撃機

 中島飛行機は、1917年(大正6年)12月に創設された中島飛行機飛行研究所が前身で、9名の従業員からスタートしました。創業から30年後には20万人を超える社員を抱え、航空機の分野では三菱重工と肩を並べるまでに急成長を遂げました。
 欧米に遅れる航空技術に追いつこうと、中島知久平が一代で築いた夢の会社で、財閥で、古くから重工業の実績があった三菱とは異なり、ゼロから出発した民間企業でした。そして、1938年(昭和13年)3月、中島飛行機は、陸軍発動専門工場として武蔵野製作所を新設しました。
 三鷹に研究所の建設が始まったのは、1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃の直後でした。戦況は加速し、この研究所を軸に軍需工場や研究施設が整備されていき、三鷹町は「一代軍需工業地帯」と呼ばれるまでの変貌を遂げると同時に、アメリカ軍の重点爆撃標的地となり、多くの尊い命が犠牲となりました。
 1945年(昭和20年)8月15日、日本の無条件降伏による終戦に伴い、中島飛行機も解散。航空技術で世界への飛翔を夢見た民間企業は、その歴史に幕を閉じました。

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■武蔵野製作所 紀元2601年の仕事始めを祝賀アーチをつくって祝った。1941年(昭和16年)撮影。

 戦況が激しさを増していく中、三鷹軍需産業による出稼ぎなどで人口が増加し、町民の生活は困窮を極めていきます。町会、隣組などの組織化も目まぐるしく進展し、防空訓練を実施し、配給を分け合うなど、戦時下における町内との関りは重要性を高めていきました。
 太宰も、1944年(昭和19年)10月から、翌1945年(昭和20年)3月まで、隣組長、防火郡長に就任し、早朝からの召集を3度受け、遠く国民学校まで赴いて軍事訓練を受けています。
 また、太宰が度々、作品の中で舞台にしている井の頭公園の杉の木15,000本が、軍部の指令により、空襲犠牲者の棺をこしらえるために伐採されたりもしました。

 戦時下における太宰の様子について、太宰の妻・津島美知子の回想回想の太宰治から引用して紹介します。

 病気をもつ太宰も昭和十七、十八年と戦局の進展につれて奉公袋を用意し、丙種の点呼や、在軍軍人会の暁天(ぎょうてん)動員にかり出された。暁天動員のときは朝四時に起きて、かなり離れた小学校校庭で訓練を受けた。出なくてもよい査閲に参加して思いもよらず上官から褒められたことを書いているが、それは事実あったことである。隣組を単位としてほとんどすべての生活必需物資が配給制になり、私たち主婦も動員されて藁布団(わらぶとん)を作ったり、タービン工場に乳児を負うて働きに出たりした。
 太宰はずっと和服で通してきていたので、ズボン一つ持ち合わせが無く、いわゆる防空服装を整えるのに苦心した。戦時下にも時勢にふさわしいおしゃれはある。私は来訪される方々が、よい生地の国民服を着て、鉄カブトを背負ったりしているのを見ると、どこで調達されるのだろうかと羨ましかった。

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■1943年(昭和18年)の太宰 井の頭公園で撮影。左は、三上雪郎。三上は出征の際、太宰に日の丸の寄せ書きをしてもらったそう。

 終戦後、人に聞くと、手づるがあって食料にも衣料にもほとんど不自由しなかったという人、また適齢期の娘のために相手もきまらぬ先に早々婚礼衣装や調度を整えたという人まであって、あらためて自分の戦時下の窮乏生活が顧みられたが、当時私たちは買いだめの余裕もない上、どうにかなると安易に考えて暮らしていて、毎日食べてゆくのが精一杯で、何より大切な防空対策や、疎開について全く無策であった。これは空襲、外敵浸入の体験を持たぬ国民一般に通じることでもあった。しかし用心深い人や、つてのある人は次々と地方に疎開していった。私たちは、私の実家のある甲府市三鷹よりも危く思われたし、太宰の生家には太宰から、大切な物だけを預かってもらいたいと依頼状を出したが、返事をもらうことが出来なかった。三鷹の家のまわりにはまだ林や畠が広々と残っていて、私たちはこのへんが、まさかねらわれることなどないだろうと、タカをくくっていた。そのころのはやり言葉の「希望的観測」の典型であった。防空演習に集まるようにと指令があったのだが昭和十九年の初めであるが、指導者がいるわけでもなく、ただ近隣の主婦たちが集まって雑談しただけで、真剣に空襲のことを心配している様子は見えなかった。三鷹にも軍需工場がいくつもあって安全どころではなかったのに、空襲警報のサイレンが鳴り出すと私たちは家の前の空地に掘った申訳ばかりの防空壕に入って小さくなっていた。押入に首をつっこんで急場をしのいだこともある。ラジオがないので太宰は始終三畳間の窓から上半身をのり出して近隣のラジオの伝える情報に聞き入っていた。

 

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■自宅縁側で娘たちと 長女・津島園子と次女・津島里子と一緒に。1948年(昭和23年)撮影。

 

 昭和十九年の九月から子供が二人になった上に、隣組長と防火郡長の番が廻ってきて、私の負担は一段と重くなり、一層緊張して動き廻った。近くの小学校分教場で隣組長の集会があって出席していたとき空襲警報が発令されて直ちに会は解散、家路を急ぐと、向こうから外出していた太宰がやはり急ぎ足で帰ってくるのと、ばったり会って、家に帰ったからといってなにも安全なわけでもないのに、人間やはりこんな場合には家にひかれるものなのかと思ったことが忘れ難い。つまり戦争が太宰を家にしばっていたのである。

 

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■太宰と妻・津島美知子

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団 編集・発行『平成三十年度特別展 太宰治 三鷹とともに ー太宰治没後70年ー』(2018年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月23日

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11月23日の太宰治

  1930年(昭和5年)11月23日。
 太宰治 21歳。

 会談の結果、長兄文治は、生家からの分家除籍を条件として、初代との結婚を承諾した。

分家除籍と初代との結納

 1930年(昭和5年)10月1日、太宰が東京帝国大学文学部仏文科に入学して5ヶ月が経った頃、青森県弘前高等学校2年生の時から懇意にしていた、料亭置屋「玉家」のお抱え芸妓・小山初代を東京に呼び寄せます。
  初代の上京事件から数日後、話をききつけた太宰の長兄・津島文治は、「玉家」の女将・野沢たまの息子・野沢謙三に連絡をし、文治と謙三は、青森市寺町(現在の本町)の呉服商豊田太左衛門方(津島家の縁戚。中学時代の太宰の下宿先)で対談します。
 この対談を受け、謙三は上京。太宰と初代に会って話をし、その時の様子を文治に報告しました。

 その後、同年11月上旬に文治も上京。11月9日、文治は戸塚の太宰の下宿を訪れ、会談しました。
 太宰は、この時の様子を、1940年(昭和15年)7月に執筆した小説東京八景で、次のように書いています。「H」と書かれているのが、初代です。

そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hである。Hとは、私が高等学校へはいったとしの初秋に知り合って、それから三年間あそんだ。無心の芸妓である。私は、この女の為に、本所区駒形こまがたに一室を借りてやった。大工さんの二階である。肉体的の関係は、そのとき迄いちども無かった。故郷から、長兄がその女の事でやって来た。七年前に父をうしなった兄弟は、戸塚の下宿の、あの薄暗い部屋で相会うた。兄は、急激に変化している弟の兇悪な態度に接して、涙を流した。

 この会談の結果、文治は、生家からの分家除籍を条件として、太宰と初代との結婚を承諾しました。
 分家に際しては、財産分与の形は採らず、大学卒業まで毎月120円(現在の貨幣価値で、約230,000円)を仕送りすると決め、仮証文の「覚書」に署名させ、落籍の手続きをとるために、文治は初代を連れて帰郷しました。文治には、この一件を上手く利用して、太宰と左翼運動との関係を断ち切ろうという思惑もありました。
 この時の様子について、再び東京八景から引用してみます。

必ず夫婦にしていただく条件で、私は兄に女を手渡す事にした。手渡す驕慢きょうまんの弟より、受け取る兄のほうが、数層倍苦しかったに違いない。手渡すその前夜、私は、はじめて女を抱いた。兄は、女を連れて、ひとまず田舎へ帰った。女は、始終ぼんやりしていた。ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。女は、ひどく安心してしまっているらしかった。私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみをめさせてまで、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。けれども女は、手紙を書きたがらないひとであった。私は、絶望した。朝早くから、夜おそく迄、れいの仕事の手助けに奔走した。人から頼まれて、拒否した事は無かった。自分の其の方面に於ける能力の限度が、少しずつ見えて来た。私は、二重に絶望した。

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■小山初代

 文治が帰郷して10日後の11月19日、会談の通り、金木町大字金木字朝日山414番地の金木町役場に分家届出が提出され、太宰は除籍されました。

 同年11月24日、文治は、豊田太左衛門を名代とし、津島市三郎(津島家の帳場担当)を同道して、小山家と結納を交わしました。

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■中学時代の太宰 前列左端が豊田太左衛門、右端が太宰、後列左が太宰の弟・津島礼治

 初代宛の「結納目録」には、次のように書かれていました。

   覚
 熨斗(のし)
一 金五百円
一 紋付羽織 一
一 羽織   一
一 衿    一
一 衿    一
一 襦ばん  一
一 帯    一
一 コート  一
 以上

 昭和五年十一月廿四日
        津島修治
 初 代 殿

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■初代宛「結納目録」

 同年11月25日、豊田太左衛門から太宰に宛てて、「昨日結納相交」した旨を記した封書が投函されました。その封書には、次のように書かれていました。

愈々(いよいよ)来月六日午後十一時急行にて出立致シ事確定仕候(上野下車)万事可然御承引被下度

 封書には、「翌12月6日午後11時、初代が、急行で青森を出発し、上野で下車することに決まった」とありますが、初代の再上京は予定通りには行われることはありませんでした。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバムー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月22日

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11月22日の太宰治

  1946年(昭和21年)11月22日。
 太宰治 37歳。

 夜、坂口安吾織田作之助と、実業之日本社主催の座談会に出席した。司会は、平野謙。この時、織田作之助が一時間ほど遅刻し、太宰治坂口安吾とは、座談会開始以前にすでに酩酊していたという。この座談会の記録は、翌年四月二十日付発行の「文学季刊」第三輯に「現代小説を語る」と題して掲載された。

『現代小説を語る』

 1946年(昭和21年)11月22日、無頼派(ぶらいは)を代表する作家である太宰治坂口安吾織田作之助の座談会が、実業之日本社主催で行われました。司会は、文芸評論家の平野謙
 無頼派(ぶらいは)とは、第二次世界大戦後、近代の既成文学全般への批判に基づき、同傾向の作風を示した一群の作家たちの総称。座談会に出席した3人を中心に、石川淳伊藤整高見順田中英光檀一雄なども含まれます。

 無頼派(ぶらいは)を代表する3人が一堂に会するのは、実はこの座談会が初めてでした。しかし、織田は座談会に1時間ほど遅刻し、太宰と坂口は、座談会の開始以前に、すでに酩酊していたといいます。
 『現代小説を語る』と題された座談会の行方や、如何に……。

『現代小説を語る』

 坂  口    安  吾
 太    宰     治
 織 田 作 之 助
 平     野    謙

 

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■左から坂口安吾太宰治織田作之助 

 

平野 大体現代文学の常識からいうと、志賀直哉の文学というものが現代日本文学のいっとうまっとうな、正統的な文学だとされている。そういう常識からいえばここに集まった三人の作家はそういうオーソドックスなりリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られているが…。
太宰 冗談言っちゃいけないよ。
平野 いや、冗談じゃない、ほんとの話だよ。太宰さんはすでに少々酔っぱらってるから……。
坂口 平野が言う意味は向うが正統的の文学だとすれば、俺たちがデフォルメだというのだよ。
平野 それはそうだろうと思う。いくらあなたがそうじゃないと頑張ったっても…。
太宰 俺にはちっとも分っていやしない。デフォルメなんて……。
平野 それじゃ一つ、そのデフォルマシオンに非ざる弁を一席やって下さいよ、太宰さん。
太宰 やるも何も………僕はいつもリアリストだと思っているのですよ。現実をどういう具合に、どの斜面から切ったらいいか、どうすれば現実感が出るか、それに骨身を砕いているわけじゃないか、なにも志賀直哉の、あんなものが正統であってオーソドックスだという……そんなことを僕は感じたくない。(むし)ろあの人は邪道だと思っている。文学から……。
平野 しかし、世間の常識からいえば志賀直哉がオーソドックスであなた方はデフォルメ……まあそういう風に見られていると思う。だからそういう作家が偶然寄って……偶然か企画か知らんが……一堂に会して現代文学を語るということになれば、そこにありふれた座談会なんかと面目を異にした面白い座談会ができるだろうと僕は期待するわけなんだ。

 

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平野謙(1907~1978) 京都府京都市上京区生まれの文芸評論家。本名、平野朗(ひらのあきら)。政治と文学、私小説などをテーマに、鋭い評論を発表。戦後文学の代表的評論家として活躍した。主な著書に『島崎藤村』『芸術と実生活』『昭和文学史』などがある。

 

坂口 それは平野の言うのは当りまえさ。
太宰 僕は初耳だった。デフォルメなんて言葉は……。
平野 デフォルメが気に入らなきゃ、外道の文学と言ってもいい。とにかく、太宰治の『晩年』は僕も愛読したが、あれは正統なリアリズム文学か――つまり、いわゆるブルジョア文学もプロレタリア文学もみんな崩壊した地盤からはじめて生れた文学だ。
坂口 われわれはつまり横道だということ……ね。みなそう考えているよ。
太宰 僕は坂口さんの小説など、あまりオーソドックスすぎて、物足りないくらいなんですよ。かえって……。
坂口 確かにそうだな。
太宰 それがデフォルメなどというのは、ふざけているよ。
平野 ふざけてやしないよ。デフォルメでいいじゃないの。
太宰 誰が言ったことか、それは。
平野 誰がというより、一般にそう言っている、常識じゃないか。
太宰 そんなら俺はもう芭蕉閉関論(へいかんろん)じゃないが、門を閉じて人に会いたくないな。
織田 志賀直哉はオーソドックスだと思ってはいないけど、そういうものにまつり上げてしまったんだ。オーソドックスなものに……文壇進歩党みたいなもので、進歩党の党首には誰もなりたがらないのだよ。けれども誰かまつり上げて来るのだ。で、志賀さんが褒めればどの雑誌だってありがたがって頂戴するのだよ。

 

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志賀直哉(1883~1971) 宮城県牡鹿郡石巻市生まれの小説家。「小説の神様」と称され、多くの日本人作家に影響を与えた。主な作品に『暗夜行路』『和解』『小僧の神様』『城崎にて』などがある。

 

太宰 女の人なんか殊にそうだ。
織田 第二の志賀直哉が出ても仕方がないのだよ。
太宰 あれは坂口さん、正大関じゃなくて張出しですよ。
坂口 そうだ、張出しというより前頭だね。あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ。
織田 そうそう、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに「もっとも」という言葉が二つくらい出て来るだろう。褒めているうちに褒めていることに夢中になって、自分の理想型をつくっているのだよ。志賀直哉の作品を論じているのじゃない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性というノスタルジアを感じただけで……。
 みんなが小林秀雄がほんとうに志賀直哉の実体を批評したのだと思っているのだよ。横光さんの『機械』を小林秀雄が褒めたときでも同じですよ。『機械』というものをちっとも批評していない。
坂口 小林という男はそういう男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくという一歩手前に気がつく。そういうカンの良さに論理を託したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んで御覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……小林の作家論の一足先のカンで行く役割というものは全部終っている役割だね。
織田 管を巻いているのをみんな白面(しらふ)で聞いているからおかしいのだよ。
坂口 けれど小林は偉いところもある。その後どんどん育っているからね。

 

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小林秀雄(1902~1983) 東京府東京市神田区猿楽町生まれの文芸評論家、編集者、作家。近代日本の文芸評論の確立者。主な著書に『様々な意匠』『ドストエフスキイの生活』『無常という事』『モオツァルト』『考えるヒント』『本居宣長などがある。

 

太宰 僕は昨夜小林の悪口をさんざん言っちゃって、今日は言う気がしないな。
平野 どこで……。
太宰 新潮社、Kさんと……。
平野 太宰さん、どうですか、佐藤春夫などは……戦争中或は戦争後の佐藤春夫をどういう風に思っていますか。
太宰 佐藤春夫はこれからも書けるのじゃないですかね。僕はなにもあの人は駄目だとは思わないけれども……『疎開先生大いに笑う』あれ、たいへん不評判だったようですね。だけど、僕はあれならなにもそんなに不評判になるほど悪い作品とは思わなかった。面白かったですね。
平野 しかし、大正時代の佐藤春夫は僕も非常に好きだったけれども、昭和の中頃からずいぶん違って来ているのじゃないですか。何か急に年とってしまって……。
太宰 そう変ってはいないのじゃないですか。もともと佐藤春夫というのはああいうだらしない人だったのじゃないか。
坂口 僕はあまり好きじゃない、佐藤春夫は……。
織田 僕は考えてみたこともないね。佐藤春夫とは何ぞやということについて五分間も考えたことはない。
太宰 五分間考えるというのはたいしたことだよ。大抵一分くらい……。

 

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佐藤春夫(1892~1964) 和歌山県東牟婁郡新宮町生まれの詩人・小説家。艶美晴朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌と、活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。井伏鱒二と同様、太宰の師匠でもある。主な作品に『西班牙犬の家』『田園の憂鬱』『純情詩集』『都会の憂鬱』『退屈読本』『車塵集』『晶子曼陀羅などがある。

 

坂口 僕は佐藤春夫の作品じゃ探偵小説が一ばん好きだ。片仮名で書いた『陳述』という作品、あれなんか好きだ。
織田 そういう意味じゃ、『維納の殺人事件』とかいうのがあったでしょう。ああいうものを書かすといいのだ。あの人は新聞記者にすればよかった。
平野 いや、あれは大して面白くなかった。探偵小説的では、『オカアサン』というのがいい。
織田 僕は面白かったね。佐藤春夫のものでは一ばん読んだ。あいつが助かるかどうかと思って……。
太宰 僕は『侘しすぎる』というのはやはりいいと思ったね。やはりお千代さんというのは偉大な女性かも知れないな。谷崎さんに『蓼喰う蟲』を書かしたし、佐藤さんに『侘しすぎる』を書かしたのだからな。あれは明治、大正、昭和を通じて女性史に残る。
坂口 そうかな。
太宰 だって二人をあんなに苦しめたんだもの……二人とも油汗を流した。
坂口 自分で苦しんでいるのだよ。あの頃の作家は……永井荷風でもそうだ。荷風の部屋へ行くと惨澹(さんたん)たるものだそうだ。二ヶ月くらい掃除をしておらんのだ。それでずいぶん散らかっている中に住んでいて、部屋がない、部屋がないといって、部屋を探しに歩いているそうだ。そういうのは趣味だと思うね。ちっとも深刻でもなんでもない。
太宰 でも女房を寝取られるというのは深刻だよ。坂口さんには経験がないかも知らんが……。
織田 日本の作家というのは苦しめられ過ぎる。
太宰 ああいう煮湯を呑まされるという感じはひどいものですよ。

 

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谷崎潤一郎(1886~1965) 東京市日本橋区蛎殻町生まれの小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き、終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。主な作品に『刺青』『痴人の愛』『卍』『蓼喰う蟲』『春琴抄』『細雪などがある。

 

坂口 女房を寝取られることだってそんなに深刻じゃないと思う。
太宰 そんなことはない。へんな肉体的な妙なものがありますよ。それを対岸の火災みたいな気持で……それで深刻でないなどというのは駄目ですよ。
坂口 僕はそういう所有欲を持っておらんのだよ。
太宰 いや、所有欲じゃないのだ。倫理だとか、そういう内面的なものじゃない。肉体的に苦しむ。
坂口 肉体自身、そんなに事寄せる必要はないよ。君たち、そんなに事寄せるということがおかしい。
太宰 肉体に事寄せる、そんな意味じゃないのだ。
坂口 君たちが女房という観念を持つことが何か僕はおかしいのだよ。
太宰 あなたは独身だから……。
坂口 独身だって変りはないよ。恋人はたくさんある。女房に準ずるものがたくさんある。ちっともそんなことに変りはないよ。
太宰 それは駄目だなあ。ホームというのは、あれはいじらしいものですよ。
坂口 それは、若いときはホームがいじらしいのじゃなくて、若さ自体がいじらしいのだよ。なにも若さのホームがいじらしいわけじゃないと思うね。
太宰 いや、ホームというのも僕はいじらしいものがあると思うのですよ。たとえば、僕たち旅行をして歩いておって、ボーっと窓に明りがともっているのを見て、なにか郷愁をそそられることがありはしないかしら。ああいうのはやはりホームのいじらしさだと思うけれども……。
織田 それはしかし、女房だとか何とかいうのと違って、人間の持っているノスタルジア、人間が人間に感じているわびしさ憂愁の感覚、そういうものは女房というもので一ばん現われ易いのだけれども……。
太宰 突然ホームに土足で上って来て、俺は今日ここへ寝るんだ、お前の女房を貸せ………これじゃかなわないよ、やはり……。
織田 しかし、そういうノスタルジアみたいなものは、結婚して五年くらい経って、(ふる)い女房みたいなものが分ることが……しかし、外国の文学というものは、何年か経って女房のあわれさが分ったという文学じゃない。そういうノスタルジアというのは初めに含んでいるのじゃない。日本の文学というのは、なにか生活をして、その女房と十年連れ添うて、初めてこれだなあと分ったような文学じゃない。生活の総決算みたいなもので……。
平野 坂口さんは家庭というものを非常に恐怖していると思うが、どうだね。
坂口 恐怖なんかしていない。
平野 いやあなたの近頃の作品のモチーフには、家庭恐怖症が根を張っている。だから、自己破壊なんてことも出て来る。
坂口 世間的に恐怖する。一ぺん女房を貰うと、別れるとき世間の指弾がこわいというそういう恐怖だよ。
織田 それはこわくないよ。最近俺やったけれどもちっともこわくないよ。
坂口 俺の恐怖はそういう恐怖だよ。ほかに何も恐怖はない。
織田 こわくないですよ。僕はごそっと取られたが、こわくないよ。
坂口 僕は純情というのは好きじゃないのだ。大体所有するということが元来好きじゃないのだよ。
織田 あれは所有じゃないね。女房というのはくっついて来るから仕方がないのだ。
坂口 否応ないのだけれども、否応なさに理屈がついて来る。みな強いて理屈をつけようというのじゃないか。
太宰 恋女房というのもあるからな。
坂口 それはあるよ。それはやはり恋女房と言ったんじゃいかんので、惚れるという世界だね。女房の世界じゃない。
太宰 やはり谷崎の……前の話だけれども恋女房じゃないのですか。
坂口 僕は谷崎潤一郎がこしらえているイメージだと思う。
太宰 しかし『蓼喰う蟲』は相当あぶら汗が出ているじゃないか。僕谷崎ものでは『蓼喰う蟲』が一番好きなんだけど……ほかのは何のこともないが、あれは相当読みごたえがある。

 

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太宰治(1909~1948) 青森県北津軽郡金木村生まれ。本名、津島修治。左翼運動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。主な作品に走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『斜陽』『人間失格などがある。

 

坂口 こしらえているような気がするね。自分勝手に……こしらえ方が僕らを納得させてくれないのですよ。
平野 坂口さん、白鳥(はくちょう)はどうですか。
太宰 白鳥僕は徹頭徹尾嫌いですね。なんだいあれは……ジャーナリストですよ。あれはただ缶詰を並べているだけで……牛缶の味ですよ。
織田 小林秀雄というのは白鳥に頭があがらない。
坂口 しかし読物の面白さはもっている。僕そう思うね。
太宰 あれを思想家だの何だのと言っているけれども、ちっとも僕は……。

 

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正宗白鳥(1879~1962) 岡山県和気郡穂浪村生まれの小説家・劇作家・文芸評論家。本名、正宗忠夫。虚無的人生観を客観的に描く自然主義の代表作家として出発。批評精神に満ちた冷徹な境地を拓いた。主な作品に『何処へ』『入江のほとり』『最後の女』『自然主義盛衰史』などがある。

 

坂口 一種の漫談家ですよ。徳川夢声と同じもので……しかし読物としての面白さはもっている。
太宰 文章はうまいからな。
坂口 僕は徳川夢声を好きだが、好きというのは読物として……徳川夢声正宗白鳥(まさむねはくちょう)獅子文六、これは読ませる力をもっている。
太宰 村松梢風なんか……『残菊物語』。
坂口 僕その三人は同じジャンルだと思う。これはしかしそう馬鹿にする必要はないだろう。それはそれでいいだろう。やはり一つの読物としての力をもっているということは……。
平野 あの手管は大したものだ。とにかく読ませる。
坂口 大したことでもないけれども、高座の円朝とか、浪花節の大家とかいうのと、それは君、同じものだよ。
平野 しかし、終戦後の白鳥は、読物としてもあまり面白くないのじゃないかね。
坂口 いや面白い。俺は今朝白鳥を読んだ。ヨーロッパにいた時の……ドイツの話なんか、やはり面白いね。
平野 あれは最近の白鳥としてはよくできてた方だ。『光』に載ってたやつだろう。あれはしっかりしていて面白い。しかし『群像』の小説なんかずいぶん人を喰った、投げやりの作品だったなあ。
坂口 やはり何か……ああいうのは読者のツボを知っている書き方だね。だから僕は高座の芸術だというんだよ。徳川夢声でもそうだし、雲月の芸風でもみなそうだ。こう書けばこう読むだろう、こう語ればこう来るという、ツボを知っている書き方なんだ。これは君、やはり存在していいのだよ。それは一つの……芸術か何か知らんけれども、木戸銭を取るだけの値打はあるのだね。僕はそう思うのだ。
平野 それじゃ里見弴(さとみとん)はどう?
坂口 これはないね。木戸銭を取る値打はないよ。

 

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■里見弴(1888~1983) 神奈川県横浜市生まれの小説家。本名、山内英夫。ペンネームは、電話帳をペラペラとめくり、指でトンと突いた所が里見姓だったことに由来。志賀直哉の『暗夜行路』冒頭に出てくる友人・阪口のモデルでもある。永く鎌倉に住み、鎌倉文士のはじまりとされることもある。主な作品に『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』『恋ごころ』などがある。

 

平野 じゃ、宇野浩二は?――どうも酔っぱらい相手の進行係は辛いね。
坂口 宇野浩二? これも木戸銭は取れないね。老大家で木戸銭取れるというのは正宗白鳥谷崎潤一郎も木戸銭取れるだろう。
太宰 まあ里見弴だの、宇野浩二だのというのは、あまり言いたくないものね。「文学の鬼」は凄いね。
坂口 ああいう馬鹿を言うのがいるからね。そういう表現は無茶だよ。志賀直哉は文学の神様だとか……。しかし、やはり文学などというものは木戸銭が取れるという風になることが先決条件だね。
太宰 そうですね。それがなければ……。
坂口 それがなければ何んにもならない。

 

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宇野浩二(1891~1961) 福岡県福岡市南湊町生まれの小説家。本名、宇野格次郎。おかしみと哀感のある作品を独自の説語体で発表し、文壇に認められた。一時精神に変調をきたすが、復活後は冷厳に現実を見つめる簡素で写実的な作風に転じた。主な作品に『蔵の中』『苦の世界』『子を貸し屋』『枯れ木のある風景』『器用貧乏』『思ひ川』などがある。「文学の鬼」は、宇野の自称。

 

太宰 馬琴という男、あれは非常にペダンティックな嫌な奴ですけれども……それでも『八犬伝』なんか書く場合には、はしがきに「婦女子の眠けざましともなれば幸いだ」と書いておったけれども、いい度胸だと思ったですね。
平野 しかし『八犬伝』そのものはちっとも面白くない。真山青果(まやませいか)の受け売りだけど、馬琴の生活の方がずっと面白い。
太宰 うん、面白くないね。徹頭徹尾……。
坂口 説教しているからな。
平野 説教だけじゃなくて、あれは長過ぎるんだよ。あんなに長くする必要はない。『大菩薩峠』と同じさ。
坂口 しかし『大菩薩峠』も初めは面白いだろう。
太宰 『八犬伝』の、龍の講義なんか……龍には三十何種類、いや、二十何種類だったかな? あれはかなわない。
織田 谷崎にもそういう長さというものがある。
坂口 しかし馬琴だの、中里介山(なかざとかいざん)の『大菩薩峠』などが古典みたいになるということは、日本の読書界の貧困を物語るものだね。

 

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中里介山(1885~1944) 神奈川県西多摩郡羽村生まれの小説家。本名、中里弥之助。はじめ社会主義に傾倒し、日露戦争下に「平民新聞」に反戦詩を発表する。『氷の花』『島原城などの新聞連載小説を手掛け、代表作大菩薩峠は、のちの大衆文学に大きな影響を与えた。のち郷里羽村に西隣塾を開き、文壇から離れて超然とした生活を送った。

 

平野 読者ばかりじゃない。作家自身の貧困だね。
太宰 僕は作家の貧困じゃないと思う。やはり地盤がなくちゃ駄目だよ。梨のつぶてで何んにもなりやしないよ。
織田 地盤はできたって出ないのだよ。地盤のない、へんな所からポコっと消えてしまうやつは……ね。
太宰 織田君などは地盤から出たかね。
織田 地盤なんかないね。地盤はちょっと探して見ようと思ってうろうろしたけれども、ないということが判って……。
坂口 馬琴の退屈さと、プルーストの退屈さと非常に違う。
太宰 プルーストも、貴族の生活にゆかりのある者が、あれを読めばとても面白いのですよ。ところが、貧民があれを読んだって、てんで駄目なんだ。あれイギリスなんかに受けたというのでしょう。イギリスは貴族が多いからね。貴族の老女なんかあれを読んで……思い出があるから面白く読めるのでしょう。
坂口 アメリカで非常に受けているというのは、アメリカの貴族への憧れだ。

 

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■ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト(1971~1922) フランス共和国パリ16区オートゥイユ地区生まれの小説家。『失ひし時を索めて』は後世の作家に強い影響を与え、ジェイムズ・ジョイスフランツ・カフカと並び称される20世紀西欧文学を代表する世界的な作家として位置づけられている。太宰は、処女短篇集晩年を出版する際、淀野隆三・佐藤正彰共訳『マルセル・プルウスト全集 失ひし時を索めて第一巻 スワン家の方』と同じ体裁で出版することを要望した。

 

平野 織田さん、サルトルのことを何か書いてたけれど……僕は『水いらず』しか読まないけれども、あれはどうなんです。面白いのですかね。
織田 僕サルトルとファビアンと二つ比較して考えて見たんだけれど……ケストネルのファビアン……。サルトルというのはフランスからああいうものが出るんだね。ファビアンというのは非常にデフォルマシオンだよ。あれはやはりドイツなどの、小説の伝統がない国の小説だよ。サルトルなどは訳のせいもあるだろうけれども、読んで見れば非常にまともなんだよ。そのくせほかの奴とちがうんだ。僕は(おも)うにサルトルというのは、あれはまだデッサンなんだ。デッサンの勉強をやっているのだ。僕はそう思う。美術学校の生徒が入ればすぐ裸体を描いているでしょう。一生懸命……裸体が描けないのに着物を着せたら尚お描けないものね。まだあれは一生懸命……裸体を描いている。だから彼は第一歩をやっているだけなんだ。セニクが日本の作家なんて誰も第一歩をやっていないから近代以前だ……。美術学校でいえば裸体のデッサンをやっていないのだ。初めからヴェールで包んで描いているのだ。そういう意味で僕はサルトルは面白いと思うね。
太宰 でも作家というのは白痴なもので、なにか系統立つことを言おうとすると、なにか馬鹿なことを言っているね。
織田 しどろもどろだ。だからイメージのない言葉は喋らないことだね。
坂口 しかし、サルトルはやはり作家だよ。君はどう読んだか知らんけれども……あれは肉感だけで書いているな。あの肉感が好きなんだよ。知性とか何とかいうものじゃないからね。
平野 しかし、あれは普通の小説じゃないか。
坂口 普通というのは、そういうものじゃないよ。……あの小説は感覚だけでモラルじゃない。知性もない。そういういちばん当り前のことを……。文学とはそういうことじゃないか、いちばん当りまえのことをやるのじゃないか。
織田 第一歩だよ。始まりだよ。あれは。
坂口 なかなか当りまえのことがやれないのじゃないか。

 

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■ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(1905~1980) フランス共和国パリ生まれの哲学者・小説家・劇作家。右目に強度の斜視があり、1973年には、それまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物。

 

織田 あの辺から始めて行こうというのだね。僕がサルトルを持ち出したのは、あれを終りだと言っていやしない。
坂口 当りまえでないことばかりやっているのだ。小手先で……小手先というのはわれわれ器用だからね。君たちを胡麻化すくらいわけないのだ。(笑声)しかしなかなかそういうものじゃない。サルトルは小手先で胡麻化しておらん。
織田 あなたは(平野氏に)どう思った……?
平野 心理が行動を決定しないで、人間と人間とのかかわり合いで行動がきまってゆく、というのがあれのモティーフだろう。とすれば一番普通の小説じゃないかと思った。
坂口 いちばん普通の小説だよ。それが正しいのだよ。
平野 しかし、織田さんのエッセーだと、非常にあれは新しい文学で。
織田 新しいというのは、第一歩だよ。あそこからはじめなければ何にも出て来やしない。

 

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織田作之助(1913~1947) 大阪府大阪市南区生まれ。「織田作(おださく)」の愛称で親しまれる。夫婦善哉で作家としての地位を確立。短編を得意とし、出身地である大阪にこだわりを持ち、その作品には大阪庶民(特に放浪者)の暮らしが描かれている。ほか主な作品に『青春の逆説』『土曜夫人』などがある。撮影:林忠彦

 

平野 秋声の文学などとの対比で言っている。そういう気持もわかるが、ああいう対比のしかたはやはり僕には腑に落ちなかった。
織田 僕は形の上で言っているのじゃなくて……。
坂口 秋声など非常に尤もらしい小説だけれども、サルトルの方はあたりまえの小説だ……何というか、人間のいちばん当りまえのところだよ。秋声はそうじゃない。秋声の普通さというのはたとえばコロンバンか何かでコーヒー飲んでいる。その外を自動車でさあッと通る。そんなところが普通なんだよ。
織田 『縮図』なんて立派なものだけど、しかし若い者が書いたらおかしいでしょう。しかも若い者が目標にしたら尚おかしいでしょう。サルトルというのはあすこから始めてもおかしくない。そういう意味で僕はサルトルのあの義眼の顔を面白いといったんです。で秋声は末期の眼だという、どっちを選ぶかというのだ。それを言ったに過ぎない。デフォルムの小説としてはファビアンの方をとる。しかしそういうデフォルメをやれないのだよ。フランスじゃ……まともなんだ。やはり第一歩からやっているというところで、僕が持出す意味を認めたのだよ。
平野 日本の作家で第一歩からやり始めている作家というのはいないね。
織田 西鶴でもみなやったのだ、昔は……。
平野 いまは……。
織田 いまここに集まっている四人……しかしそんなこと言えないじゃないか。
平野 もう少し、面白い話題はないかなあ。
織田 太宰さん最近戯曲を書いていらっしゃるけれども、僕は若いときに戯曲を書いておった。日本の小説を読んだことがない。初めて読んだ小説は梶井基次郎……あれは高等学校も同じだし、病気も同じそういう興味で初めて読んだ。これは非常に面白いと思って……ところが、スタンダールを読んで、芝居より小説の方が面白いと思って小説を書き出した。ところが翻訳の文章じゃ小説は書けない。だからいろいろどんなやつがいるんだと思って……小林秀雄志賀直哉瀧井孝作などの美術工芸小説を褒めているでしょう。何だ、これが小説かと思って、やり出してへんなことになった。『赤と黒』というようなことから小説の面白さを発見しながら、面白くもない志賀直哉瀧井孝作の小説を一生懸命読んで、その文体を真似なくちゃ小説を書けないということを、まだ若い身空で教え込まれた。いまの若い人たち、いろいろな小説、外国の小説を読むでしょう。だけど翻訳の文章は悪いでしょう。やはり名文は横光さん、川端さん、志賀さんとか言われて、結局その方から文章をとらんとするでしょう。やはり真似をしなくちゃなかなか書けないもんね。だから、やはり横光さん、川端さん、志賀さんなんかから勉強して、文学というものを学んでやったって、ちっとも新しい文学は出て来ない。滅茶々々でもいいよ。サルトルを読んでから初めて小説が分って……なにも読まなくてもいいんだ。そこから入って行ったらいいじゃないか。やはり志賀さん、横光さん、川端さんから文学というものを教わってやっているから、へんに北條誠みたいなようになるんだ。
坂口 北條誠というのは癩病(らいびょう)の小説を書いた男だろう。

 

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■北條誠(1918~1976) 東京生まれの小説家・劇作家。川端康成に師事し、1940年(昭和15年)に『埴輪と鏡』芥川賞候補になる。ラジオ、舞台、テレビの脚本を書き、『向う三軒両隣り』がヒットした。1963年(昭和38年)、最初のNHK大河ドラマ花の生涯の脚本も担当している。

 

織田 むちゃくちゃだよ、北條民雄だよ。
平野 太宰さん、今度戯曲は初めてですか。
太宰 初めてです。
平野 どういうわけで戯曲を書く気になったんです。
太宰 僕は戯曲を書きたかった。書くべくした書いた。作家というのは白痴なものですよ。どういうわけでと言われたって、あとでこじつけて……。
坂口 そうですね。実際自分自身が白痴とか何とか……何か外にももっと自分が持っているような気がするけれども嘘だものね。
太宰 ゲーテの対話エッケルマン、あれだってゲーテがもっともらしいことを言って……そうして小説は、ヘルマンとドロテア、あんな他愛ない恋愛を書いているでしょう。何にもエッケルマンの対話には出ていない。尤も余はかくの如きものを書こうなどと言ったって嘘だよ。余は如何にして何々主義者になりしか、なんて。
平野 しかし内村鑑三なんかやはり立派ですよ。実生活もなかなか波乱万丈でね……。
太宰 あれは題はそうだけれども、そうでないものね。ほんとうになるべくしてなったというだけのもので、水が低きに流れるようなもので、飛躍もなにも……或る一夜において、こういう人からこう言われて、そこで(みぞれ)の降る晩に外套もなく歩いておったときにフッと感じたと、よくあるじゃないの、嘘ばっかり。
坂口 僕は内村鑑三を好きじゃない。ほんとうに女に惚れておらんものね。迷っておらんもの……。
太宰 でも女房を五たびくらいかえたのじゃないですか。あれは豪の者ですよ。さすがに僕も五たびは……。

 

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内村鑑三(1861~1930) 武蔵国江戸小石川(現在の東京都文京区小石川)生まれのキリスト教思想家。文学者。伝道者・聖書学者。一高教授の時、教育勅語に対する敬礼を拒否して免職となる。日露戦争に際し、非戦論を唱えた。雑誌「聖書之研究」を創刊。主な著書に『余は如何にして基督教徒となりし乎』『基督教徒の慰』『求安録』などがある。

 

坂口 精神的のことばかり言っているが、肉体のことを言っておらない。ああいうインチキなことは嫌いさ。女房をかえるのだったらもっと肉体的なことを言わなくちゃ嘘だ。
太宰 ヒルテイなんかでも『眠られぬ夜のために』……眠られぬ夜はせんべい三枚食べると一寸空腹感が充たされて眠れる、と書いてあるが、ああいうのはいいな。
坂口 恋愛の精神性というのは大嫌いだよ。やはり肉体から出て来なければ駄目だよ。
太宰 しかし、坂口さんの最近の作品には肉体性がちっとも出てない。
坂口 出て来るよ、これから……。
太宰 案外ピューリタンなんじゃないか。男色の方じゃないか。
坂口 そうでもないよ。しかしそういう肉体ということにやはり一応徹しなければ文学というものは駄目だね。気取り過ぎるよ。
太宰 だけど女房を寝取られたときの苦しさというのは気取った苦しさじゃない。つまりあの型でまたやったか……それだよ。煮湯を飲むというのはそれなんだ。
平野 そういう女房を寝取られたときの苦しさというような肉体的な……。
太宰 それは所有欲とか何とかいうものじゃない。
平野 そういうものはやはり坂口さんの文学に出ていないね。岩上順一がたしか坂口さんをエロ作家のなかに数えていたが、ちっともエロなんかありやしない。おそらく観念的だ。
坂口 これから出て来るよ。
太宰 それじゃホームをつくりなさい。ホームをつくって大事にして……。
坂口 大事にする気がしない。寝取られることを覚悟しているということだよ。
太宰 弱いのだ。坂口さんは実に弱い人だね。最悪のことばかり予想して生活しているね。
坂口 ほんとうにそうだよ。僕は初めから……。
平野 いま三十代の作家というと、雑誌なんか見ると井上友一郎とか、なにとか、ああいう人が非常によく書いている。みんな力作なんだ。しかしなにか印象が稀薄なんだね。というのは、あのゼネレーションは一種のブランクがあるのじゃないかという気がする。
織田 あの辺やはりブランクだね。
坂口 あの辺三十代というのかね。しかしそんなこと言ったら俺と同じ時代じゃないか。俺は四十を越しているけれども……そういうことはない。つまりあのゼネレーションだね。太宰でも俺と同じゼネレーションだ。
織田 だからゼネレーションじゃない。もうこうなれば一人々々だ。
平野 やはりゼネレーションというものはあると思うね。坂口さんなどやはり僕らよりは先輩だよ。牧野信一と友達だなんて人は……。
織田 僕らの方がなにかゼネレーションを代表しているように思っているので、あれなんか僕ゼネレーションと思わない。ゼネレーション外れだよ。ゼネレーションにはゼネレーションの主張があるでしょう。主張がないのだもの、ゼネレーション外れだ。
坂口 いま若い三十代か四十代か知らんが、俺と同年輩か或は一寸以下か知らんが、面白い作家というのは一人もいないね。

 

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坂口安吾(1906~1955) 新潟県新潟市西大畑通生まれ。本名、坂口炳五(へいご)アテネ・フランセでフランス語を習得。純文学のみならず、歴史小説推理小説も執筆し、文芸や時代風俗から古代歴史まで広範に材を採る随筆など、多彩な活動をした。主な作品に堕落論』『白痴』『桜の森の満開の下などがある。

 

平野 石川淳など面白いでしょう。
坂口 石川君は僕は……やはりそういうことをいうと、ゼネレーションというものの違いがはっきり感じられるね。
平野 やはり上ですか。
坂口 これは上だね。退屈ですよ。
平野 そうかなあ。僕は反対だなあ。僕は石川さんの『森鷗外』という本に非常に感心したのだが、ところがあの本ではゼネレーションの違いというものをほとんど感じなかった。

 

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石川淳(1899~1987) 東京市浅草区生まれの小説家・文芸評論家・翻訳家。無頼派、独自孤高の作家と呼ばれた。一連の作品には、和漢洋にわたる学識を背景にした現代社会への批判精神が溢れている。そこに、若い頃に関わったアナキズムの考え方に加え、一見奇想天外とも思える設定の中に、自ら「精神の運動」と呼ぶダイナミズムをみることができる。主な作品に『普賢』『焼跡のイエス』『紫苑物語』『至福千年』『狂風記などがある。

 

坂口 石川さんは無駄なことが非常に好きな人だね。
平野 それはどういうこと?
坂口 石川さんなるものについて、僕は石川淳のダンディということだね。石川さんのダンディズム、そっくり別な現実をでっちあげて、現実と混線していないから。
織田 しかし作品はダンディズムじゃないね。
平野 いや、ずいぶんハイカラだね。
織田 僕はハイカラな感じはしない。
坂口 それは君のダンディズムと違うんだ。ダンディの内容が各人同じということはない。これはやはり大阪と東京の違いだよ。たとえば北原武夫にダンディをちっとも感じないというのは、つまりダンディの母胎が違う。そして田舎にだってダンディはある。だが北原の場合は田舎のダンディというのでなしに、あれはどうも偽物だもの……。
太宰 北原武夫は偽物じゃないのですよ。僕は却って嘉村礒多に似たものを感じます。おしめの匂いがして……僕は『妻』というのを一つ読んだだけだけれども……。とても愚痴っぽくじめじめしていますよ。
織田 僕はあれは田舎者だと思う。都会人はスタイルなどということを言わない。都会人は野暮だからね。スタイルとか、お洒落だからというのは田舎者の証拠だ。
坂口 僕は北原のスタイルは嫌いだ。なぜ嫌いか、あのスタイルは文学の言葉でなく現実の女を口説く言葉だから。われわれも小説で女を口説くけど、われわれは永遠の女を口説いているから。
太宰 負け惜しみを言っているな。
坂口 あれは現実の女を口説いている。そういうところがあるね。それはやはり北原の俗物性だと思うな。僕が女を口説くときは小説なんか決してだしに使わない。
太宰 あなたなんか小説をだしに使っても無駄ですよ。
織田 小説をだしに使えるような小説を書いていないのだ。小説をよませるとかえってふられる。
坂口 北原はしかしそうだよ。小説の中で現実の女を口説いているね。
太宰 そんなことはないだろう。
坂口 それは君たち肉体を持っておらんから……。
太宰 肉体々々というけれども……。
織田 自分がいま関係している女のことを念頭において書いていることも事実だし、その女が読むということを勘定に入れていることも分るね。ラブ・レターだよ。
平野 しかし、北原武夫と嘉村磯多と同じだというのは面白いな。北原武夫が聞いたら、一ばんびっくりするよ。
坂口 舟橋は右翼だと言っているが。
平野 あれは喜んだろう。ちょっと北原武夫の思う壺だ。
坂口 一時はびっくりしたよ。が、一種の名言だね。
織田 何か新潮に書いておったね。思いがけぬ敗戦となり驚愕と狼狽を感じたとか何とか……文学という宿命というのもおかしい。
坂口 まあ北原のことはよそう。
平野 舟橋聖一が「織田作之助と俺とは違うんだ」というようなことを書いていたが、織田さんどうです。
坂口 それは面白いじゃないか。

 

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舟橋聖一(1904~1976) 東京府東京市本所区横網町生まれの小説家。戦中に書き継いで声価の高い『悉皆屋康吉』を経て、戦後は、『雪夫人絵図』『芸者小夏』シリーズなどの愛欲小説や、花の生涯をはじめとする歴史物を書いて人気作家となった。その後も『ある女の遠景』『好きな女の胸飾り』などで独自の伝統的、官能的な美の世界を展開した。

 

織田 舟橋というのはチラチラ見せている。僕はぐっとまくるので……。
太宰 何をまくる……? まくるものがないじゃないか。
織田 何をまくるかということに言葉で答えると舟橋聖一になるのだよ。
坂口 舟橋というのはなかなか面白いところがあるよ。小説は下手だけど……。
平野 いや『律女覚え書』というのは巧いね。
坂口 あまり具体的に読んでおらんから言えないけれど……。
平野 大した巧さだ。傑作だよ。
太宰 傑作なんてそんな……あまり残酷だよ。僕たち、駄作ばかり書いている。
坂口 そうでもないよ。君など秀作を書き過ぎる方だよ。もっと大いに駄作を書いた方がいいのだ。太宰君は駄作を書かない人だな。
太宰 あなたはひどいよ。あなたは僕より少し年が上だ。それだけ甲羅が硬くて、あんなへんな傑作ばかり書くんだな。あれが嫌ですね。……織田作之助というのは一つも傑作がないのだろう。駄作ばかり……。
織田 ないんだ。それで何書いても面白いんだよ。何書いても誰と一緒に書いても俺のが一ばんくだらなくて、息もつかせず読める、ちっとも傑作じゃないのだよ。
太宰 息もつかせず……?
織田 読ませるよ。
坂口 そういうところはあるね。
太宰 織田作之助(ふる)いよ。(ふる)くないか。
坂口 いやそうじゃない。太宰も(ふる)いし、俺も(ふる)い。俺たち一ばん(ふる)いんだよ。
太宰 意外だね。それは意外な忠告だ。
坂口 そんなことはない。文学の歴史始まって、ギリシャの初からお前みたいのがあった。それを意識しないのは、お前はただ時代々々に即してものを書いているだけの話で……。
太宰 そういうエピキュリアン……。
坂口 万葉詩人みたいに恋を時代感覚で語る最も素朴なインテリゲンチャだよ。
平野 素朴なインテリゲンチャなんてないよ。
坂口 俺もそうだ。進歩なんかありやしない。進歩がないところでいいじゃないか。
平野 大体人間に進歩というものはあるのですかね。
坂口 俺も知らんけれども、人間に関しては……恐らくギリシャが始まってから、人間に関しては一歩も進歩というものはないだろう。
太宰 でも表現は変るね。
平野 変るということは非常にある。
太宰 絵を見ていると表現がガラッガラッと変る。変っているけれども、その変っている絵がいわゆる近代絵画という、いや、もうよそう、平野さん好きなんでしょう、近代絵画なんて……実際平野さん一等いや、『近代文学』なんて鹿爪らしくして……。
平野 冷やかしちゃ駄目だよ。どうも少しアレて来たね。
太宰 座談会はもういいよ。これくらいで……。
坂口 今度は文学でないことを喋ろうよ。
織田 今日は女房の話が出すぎたね。
平野 坂口さんなんか知りもしないくせして……。
坂口 俺しかし日本に住んでおって、女房を持たんというのは悪いみたいだね。
太宰 それはそうです。織田君どう思う。
織田 そういうことはあまり言わんことだな。黙ってやろうじゃないか。何か頻りにこだわっているようだね、そんなことに。
太宰 座談会はもうよそう。

 座談会終了後、企画担当の倉崎嘉一を交えて、5人で銀座のバー「ルパン」へと繰り出します。太宰はビールを飲み、坂口はウイスキーを飲み、織田は「徹夜のカンヅメになるため」にコーヒーを飲んだそうです。織田はこの日の夜、『可能性の文学』を執筆しています。

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■「銀座・ルパン 2017年、著者撮影。

 「ルパン」には、青山光二高木常雄入江元彦も先に来ており、太宰が先に帰った後、「改造」の編集者で、坂口と「青い馬」(坂口のデビュー雑誌)同人仲間の西田義郎が入って来ました。坂口は、「ルパン」の支払いは全部自分が持つと言って、高木を神田の出版社へ集金に行かせます。その間に織田は、西田と銀座裏の佐々木旅館に帰り、坂口は金の到着を待って、最後に「ルパン」を出て、高木とともに泥酔しながら佐々木旅館へ押し掛けたそうです。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「坂口安吾デジタルミュージアム
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月22日

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11月22日の太宰治

  1941年(昭和16年)11月22日。
 太宰治 32歳。

  「日記抄」を脱稿。

『日記抄』と太平洋戦争中の太宰

 1941年(昭和16年)11月22日、太宰は『日記抄』を脱稿します。
 『日記抄』は、1942年(昭和17年)1月1日付発行の「国語文化」第二巻第一号「特集日記文学研究」の「日記抄」欄に発表されました。この欄には、高橋新吉前田夕暮宮本百合子大槻憲二壷井栄をはじめ、20名の「日記抄」が掲載されていました。

『日記抄』

 私は日記を附けていませんので、家の者の日記帳から、拾って左記いたします。
 十一月二十一日 雨
 主人暗き中に起きて皆様を見送りに東京駅に出掛けらる十一時頃お帰り。午後、鰭崎、池田、賀川、戸台の諸氏順々に来訪。夕方、主人外出せらる。
 雨中銭湯に行き買物し、道悪く転びて難渋せり。町税一円、銀行に収む。

 太宰は、『日記抄』を脱稿する前日の1941年(昭和16年)11月21日、三鷹の自宅を「暗き中に起きて」出掛け、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられ、午前9時に特急(つばめ)で東京駅を出発する小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎を見送りました。
 この4日前、太宰もほかの文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けましたが、「肺浸潤」との診断を受け、軍医から即座に徴用免除を告げられました。

 徴集された文壇仲間から取り残された太宰は、戦時下において、活発に創作活動を行います。
 太平洋戦争中(1941年(昭和16年)12月8日~1945年(昭和20年)8月15日)の約3年9ヶ月の間に執筆された太宰の作品を並べて見てみると、次のようになります。

【1941年(昭和16年)12月8日~】3作品
新郎十二月八日律子と貞子

【1942年(昭和17年)】9作品
待つ正義と微笑水仙小さいアルバム花火帰去来禁酒の心故郷黄村先生言行録

【1943年(昭和18年)】9作品
鉄面皮赤心右大臣実朝花吹雪佳日作家の手帖散華不審庵新釈諸国噺

【1944年(昭和19年)】14作品
雪の夜の話武家義理心中東京だより津軽貧の意地人魚の海仙台伝奇/髭候の大尽大力猿塚破産赤い太鼓粋人遊興戒吉野山

【~1945年(昭和20年)8月15日】6作品
惜別竹青瘤取り浦島さんカチカチ山舌切雀

  太宰は、1933年(昭和8年)から1948年(昭和23年)6月13日までの15年半の期間で作家活動を行い、全部で155作品(小説のみ)を執筆していますが、太平洋戦争中の約3年9ヶ月で41作品を執筆しており、これは全作品の約3割弱にあたります。この期間中に発表された他作家の小説作品数と比較してみると、太宰がいかに旺盛な創作活動を行っていたかが分かります。
 また、この時期に、国威発揚のための小説は多く書かれましたが、その中に文学史に残るような名作はなく、現代に至っても読み継がれているものは、ほとんどありません。しかし、国から命じられて書かれた小説の中で、現在も読まれている小説に、太宰の惜別があります。惜別は、国の意図に反して、国威発揚の小説とは、ほど遠い内容になっています。時流に迎合するような作品をほとんど書くことはなかったことも、この時期の他作家とは異なる特徴になっています。

 太宰は、1946年(昭和21年)4月1日付発行の「文化展望」創刊号に発表した十五年間の中で、この時期を振り返って、次のように書いています。

 昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。(中略)私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理窟りくつではなかった。百姓の糞意地くそいじである。
  (中略)
 私は「津軽」という旅行記みたいな長編小説を発表した。その次には「新釈諸国噺」という短篇集を出版した。そうして、その次に、「惜別」という魯迅ろじんの日本留学時代の事を題材にした長篇と、「お伽草紙」という短篇集を作り上げた。その時に死んでも、私は日本の作家としてかなり仕事を残したと言われてもいいと思った。他の人たちは、だらしなかった。

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 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月21日

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11月21日の太宰治

  1945年(昭和20年)11月21日。
 太宰治 36歳。

 青森市で四姉きやうの葬儀が行われ参列。焼香の時に「耐えきれず泣いてしまった」という。

太宰の四姉・小舘きやうの死

 1945年(昭和20年)11月14日、小舘家の長兄・小舘貞一に嫁いでいた太宰の四姉・小舘きやうが、青森市郊外の浅虫にある小舘別荘で、小学5年生の一人娘・小舘俱子を残して、午前9時20分に逝去しました。享年40歳でした。
 1週間後の11月21日、青森市できやうの葬儀が行われ、太宰はその葬儀に参列しました。

 今回は、太宰治研究 4に収録されている太宰の妻・津島美知子の回想『回想記 ー姉たちとその周辺の人々の思い出ー』から引用しながら、太宰と姉・きやうについて紹介します。

 昭和一四年一月、甲府の御崎町に所帯を持って暫く経ったころ、青森から木箱入りのリンゴが届いた。荷札には「小舘せい」と書かれていた。
 このとき初めて太宰から、すぐ上の姉が、材木商の小舘家に嫁いでいること、「せい」さんは、(しゅうとめ)に当たる方だということなどを聞いた。
 春になって蟹田の中村貞次郎さんが、手籠いっぱいの毛ガニを送ってくださった。
 せいさんからのリンゴも、旧友中村さんからのカニも、太宰の再出発を祝っての贈りものだったのだろう。
 京姉に会ったのは、それから約四年後であるが、それ以前にも文通や贈答はしていて、姉のいいつけで、母の病に効くという「万惣の西瓜糖」を金木に送ったこともあり、一六年に長女が生まれてからは、姉がその娘の着古しを次々、送ってくれて衣料品欠乏の折から助かっていた。(一八年夏、園子がお下がりの一つ、チェックの吊りスカートをはいて、父と三鷹の家の出窓に並んで写っている写真が「文学アルバム」に収められている。)

 

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三鷹下連雀の自宅出窓で、チェックの吊りスカートを穿いた長女園子太宰治 1943年(昭和18年)夏、撮影。

 

 金木に行った帰りに、姉の入院先の阿部病院に見舞い、私は初めて京姉に会った。
 小舘家からの中年の女中がつき添っていた。
 姉は、黒髪豊かな美しい人だった。寝たきりの重態というほどでもないらしく、姉は太宰と、時には私をも交えて快活に語り合い、見舞いをよろこんでいるように見えた。
 太宰は前夜、泊った寺町の豊田家から、電話をかけるか、使いを出すかして、私どもの見舞いを姉に前以って連絡し、姉も同様に小舘家に知らせておいたらしい。姉は園子にと、お古の赤い小さなケープを用意してくれていた。
 そのケープを着せてみせているとき、小舘母堂せいさんが、姉の娘、俱子を伴ってきた。
 私はあわてゝ、ケープを脱がせ、母堂に挨拶した。
 この昭和一七年一一月初旬の午後が、京姉と私との、たゞ一度の対面のときである。

 わずかの年月の交流、一度会っただけの印象であるが、姉は周囲に細かい気配りを欠かさぬ人柄で、太宰が自分のことを「母親ゆずりの苦労性――」と書いているが、この姉も太宰と同じ体質と、性格の一面とを持っているように感じた。
 かつて度々、婚家に在って、この弟の起こした事件で、手ひどい打撃を受けた姉であるが、昭和一七年は太宰が新しい出発をして安定していた時期で、初対面の妻子を連れて、郷里の母を見舞った帰りではあり、姉弟、明るく談笑したのだろう。私は、このひとときを持つことができて、ほんとによかったと思う。
 昭和一九年「津軽」取材の旅に出た太宰は、帰京する前、青森市の自宅で療養中の姉を見舞い、これが姉と太宰との最後の対面となった。
 戦局が険しくなって、私ども一家が、甲府三鷹で爆撃にあい、逃げまわった末、二〇年夏、金木に辿り着いた。その間、姉は一時、小康を得たこともあったが、本復できず、敗戦後の秋は重態となり、昭和二〇年一一月一四日、浅虫の小舘別荘で他界した。享年四〇年。一粒種の俱子は一一歳で、母を(うしな)った。
姉の告別式には、金木から長兄と、病気入院中の次兄の代理の(あによめ)とともに太宰も参列した。
 姉の死に直面して、度を失っていたのだろう。帰宅した太宰は「がまんしていたが、耐えきれず声に出して泣いてしまった。そのうえ、焼香のとき長兄の次は自分と思い、代理の(あによめ)がいるのに、うかうか起ち上がって焼香しようとして恥ずかしかった――」と、小康順というものは、なおざりにしてはならないことなのに、満座の人々の眼前で失態を演じたことを悔やんで、私に訴えた。

 

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■太宰の中学時代 左から、テイ(叔母・キヱの次女)、太宰、母・夕子(たね)、四姉・きやう、弟・礼治、三兄・圭治

 太宰が成人後、自身の著書を贈り、私信を交わしたのは、肉親の中で四姉・きやう1人でした。きやうは、太宰にさんざん心配させられながら、この弟に何か期待するものがあったのか、終始見捨てず、陰ながら支え続けていました。
 姉の死により太宰は、かけがえのない自身の支持者を1人、失うことになりました。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治研究 4』(和泉書院、1997年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月20日

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11月20日の太宰治

  1946年(昭和21年)11月20日。
 太宰治 37歳。

 牛込区矢来町七十一番地の新潮社を訪れ、「新潮」編集顧問の河盛好蔵(かわもりよしぞう)、「新潮」編集長斎藤十一(さいとうじゅういち)、出版部長の佐藤哲夫野原一夫(のはらかずお)などと、神楽坂の焼跡の鰻屋で酒盃を傾け、「流行の進歩的文化人を罵倒し、世相を慨嘆して、軒昂(けんこう)だった」という。

野原一夫(のはらかずお)三鷹通いのはじまり

 1940年(昭和21年)9月上旬、復員後に新潮社に入社し、出版部に配属された野原一夫(のはらかずお)は、「新潮」編集長・斎藤十一(さいとうじゅういち)の「好きな作家は誰か」という問いがきっかけで、太宰に原稿執筆の依頼をしますが、太宰は故郷の青森県金木町に疎開中でした。
 太宰と2、3度手紙の往復があった後、野原は太宰から「十一月十四日には東京に帰り着くだろう」という連絡を受け取ります。

 野原は、早速、太宰が東京に着くという翌日11月15日の朝、長篇執筆依頼のために三鷹の太宰を訪れます。
 今日は、野原が太宰に長篇執筆を依頼してから、太宰がその長篇小説の連載と刊行を新潮社で確約するまでを、野原の回想 太宰治から引用して紹介します。

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三鷹の若松屋 左から太宰、女将、新潮社の野原一夫と野平健一。撮影:伊馬春部

 十五日の朝、社に寄らず、三鷹に直行した。駅前の町並みも、小川も、雑木林も、畑のひろがりも、三年前とすこしも変っていないように思われた。路地を入って太宰さんの家の前に立ったときは、まだ九時半をすこしまわった頃だった。早すぎたかなと思ったが、ためらわず玄関の格子戸をあけた。

 

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三鷹の家の玄関

 

 詰襟の服を着た毬栗頭(いがぐりあたま)のひとが顔をのぞかせた。津軽からきたお手伝いのひとかと思ったが、私は来意を告げた。津軽疎開中に三鷹の家の留守番をしていた小山清さんと知ったのは、あとのことである。
 なかから太宰さんの声がした。
「あがりたまえ。しかし、早いねえ」
 太宰さんは黒いラシャ地の兵隊服のようなものを着て、所在なげにあぐらをかいていた。部屋のなかは、まだ荷物があちこちに置かれたままになっていた。
「ゆうべおそく帰り着いたんでね、まだこのとおりの乱雑ささ。汽車がめちゃくちゃに混んでね。いや、ひでえめに会った。からだじゅうを丸太棒で叩かれたみたいだ。」
 そして太宰さんは、実際に両手で肩や胸を叩いてみせた。それから、
「しばらく。元気かね。色が黒くなったようだね。」
 と私の顔をのぞきこんで、微笑した。
「はあ。」
 と答えたまま、私はしばらく言葉が出なかった。あたたかい、やわらかいものに包まれたような、なにかうっとりした気分に私はなっていた。
「新潮社とは、いいところに入ったね。大いによかった。老舗には、どこかいいところがあるものです。『新潮』の連載は書く。書きたいものがあるんだ。いや、これは、大傑作になる。疑ってはいけない。すごい傑作になるんだ。」
 笑いながらそう言って、右の手をひらいてそれをすかし見るような恰好をした。この手で傑作を、という心組みだったのかもしれない。
 奥さんがお茶をもってこられ、「片付いておりませんので、たいへんとり散らかしておりまして。」と挨拶された。長居は失礼と思い、近いうちに新潮社に来てもらうようお願いして、私はおいとました。
 三鷹駅の畑の中の一本道を歩きながら、突然、まったく唐突に、ああ、戦争は終ったんだなあという思いが、こみ上げてきた。私はすこし(なみだ)ぐんだ。

 

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三鷹、中央通りと品川用水(現在の、さくら通り)との交差点 1947年(昭和22年)頃。

 

 二十日の夕刻、太宰さんは新潮社に来てくれた。セーターにグレイの背広を着て、兵隊靴をはいていた。編集顧問の河盛好蔵氏、『新潮』編集長の斎藤十一氏、出版部長の佐藤哲夫氏が同席して、『新潮』への小説連載と新潮社からの単行本刊行が正式に依頼された。

 

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株式会社新潮社 1896年(明治29年)設立。東京都新宿区矢来町71。

 

 旧知の河盛さんに久しぶりに会って、太宰さんは嬉しそうだった。
「傑作を書きます。大傑作を書きます。小説の大体の構想も出来ています。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。もう題名は決めてある。『斜陽』。斜めの陽。『斜陽』です。どうです。いい題名でしょう。」
 意気込んだ口調でいっきに喋った。
 席を移して、神楽坂の焼跡に新築されたうなぎ屋に太宰さんをお連れした。酒がまわるにつれ太宰さんはいよいよ意気さかんだった。
 ジャーナリズムの軽佻浮薄(けいちょうふはく)には呆れ果てた。きのうまで日の丸を振っていたと思ったら、きょうはもう赤旗だ。冗談かと思ったら、これが大真面目なのだからオドロくね。進歩的文化人とかいう輩は、あれは何ですか。そう、そう、いつかお手紙いただいて、文化と書いて、それにハニカミとルビを振ったらと河盛さん言ってらっしゃったが、大賛成。ハニカミ、含羞。これを持っていない人間を俺は信用しないね。あの文化人どもには、ハニカミがまるでないじゃないか。戦争犯罪人だなんて大騒ぎしてるけど、ナンセンス。我々はみんな日本に味方したんです。戦争に協力したんです。負けると分っていて、いや負けると分っていたから協力したんです。見殺しにはできねえ。河盛さん、あのジッドの文章、あれはおもしろかったですね。
「そう、あれはおもしろかった。」
 と河盛さんは大笑いして、
「『世界文学』の創刊号に載ってるんですけどね、コンゴー地方の土人の寓話なんですよ。大きな河を舟で渡ろうとして、その舟には人がいっぱい乗っているんだな。超満員でね、そのため舟が浅瀬に乗り上げましてね、さて誰かをおろさなくちゃならない。太った商人とか悪い金貸しとかバクチ打ちとか、憎まれ者がはじめにおろされましてね、それでも舟は動かない。乗客も次々とおりましてね、それでもなかなか動かないんだけど、舟はだんだん軽くなってきて、針金のように痩せた一人の宣教師がおりた途端、舟がすうっと浮き上がったんですね。すると土人たちが大声で叫ぶんだな。『あいつだ! あいつが重りのぬしだ、やっつけろ!』」
「いや、あの話はおもしろかった。」
 と太宰さんは腹をかかえて笑い、なかなか笑いやまなかった。
 河盛さんが、『新潮』の十二月号に貰った「親友交歓」のお礼を言い、その出来映えをほめると、太宰さんは嬉しそうな顔をして、肩肘いからせた小説が大流行のようだから、それでコントふうのコメディを書いてみたんです。それにしても、巧い短篇小説を書ける作家がこの頃すくなくなったように思う。サービス精神が不足しているからではないかしら。いい材料を選んで、丹念に料理して、味付けに心を配って、その心づくしが足りないのだと、ニ、三の作家の悪口を言い、それから井伏さんの小説をほめた。井伏鱒二氏の愛読者でまた親交もある河盛さんと、広島県疎開中の井伏さんの消息などについてひとしきり話し合い、それから、一転、小林秀雄論。小林というひとは、おいしさの分らないひとじゃないのかねえ、河盛さんのほうがずっと読み巧者です。
 河盛さんは目をしばたたいた。
 一年半の津軽疎開から帰って、久しぶりに東京の空気に触れ、河盛さんのようないい聴き手を得て、太宰さんの舌はますます滑らかになった。お酒も、ずいぶんのんだ。いかにも楽しげだった。
 傑作を書きます。「斜陽」。いい題名でしょう。日本の「桜の園」を書きます。「桜の園」、あれはいいもんだ。一生に一度あんな作品が書けたらなあ。
 しきりにそれをくり返すようになった。
 その夜、私は太宰さんを三鷹に送った。酩酊、に近いようだった。飯田橋から電車に乗ったその車中、混んでいて、吊革につかまった太宰さんは時々よろけそうになった。
 いちど、よろけて、となりに立っていた中年の女性にしなだれかかるような恰好になった。度の強い眼鏡をかけたその女性は、いかにも厭らしそうに顔をしかめ、露骨にふりほどこうとした。からだを立て直した太宰さんは、その中年をにらみ、
「だれが!! うぬぼれちゃいけない!」
 吐きすてるように言った。
 意外な感じが、私はした。酔っているとはいえ、そういうけわしい一面が太宰さんにあるとは、私には意外だった。
 その晩は、太宰さんのお宅に泊めてもらった。

 

 そして、その日から、私の三鷹通いがはじまった。

 河盛好蔵は、新潮社で斜陽の連載と出版確約の瞬間を、 「新潮社の応接室で、折からの冬の夕陽が斜めに鈍い光を部屋のなかに射しこむのを見上げるようにして、『つまりこれです。この日ざしです』と言ったのも忘れない」と回想しています。

 【了】

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【参考文献】
・野原一夫『回想 太宰治』(新潮文庫、1983年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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