記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【日めくり太宰治】11月19日

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11月19日の太宰治

  1947年(昭和22年)11月19日。
 太宰治 38歳。

 十一月に書かれた、山崎富栄の日記。

富栄「こうした私の心の飛躍」

 今日は、太宰の愛人・山崎富栄が、1947年(昭和22年)11月17日から11月23日までに書いた日記を紹介します。
 今日紹介する日記の直前、11月16日付の日記は、11月15日の記事で紹介しましたが、太田静子が長女を出産し、太宰が太田治子命名した時の様子について触れられていました。

十一月十七日

 私の大好きな、
 よわい、やさしい、さびしい神様。
 世の中にある生命を、わたしに教えて下さったのは、あなたです。
 今度もわたしに教えて下さい。
 あなたのように名前が出なくてもいいのです。
 あなたのみこころのような、何か美しいものを、み姿のかげに残しておくことができれば……。

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■山崎富栄

十一月十八日

 ひる。
”――サッちゃん、”レベッカ”は苦しいでしょう?”
”サッちゃん、あの子が太宰さんの子なんですよ!”
”――いいえ、あの子は斜陽の子です”
”私は奥様と同じように、あなたが斜陽の人に逢うことはいやです。もし逢ったら、私死にます”
”逢わない、誓う、ゲンマン
 一生、逢わない”
 十八日、よる。
 修治さんに、書いたものをおみせする。
 勝つよ。僕達は勝つよ、と仰言って下さる。
”愛の問題だよ、これぽっちも(と、小指の先を示して)愛情がないんだよ”

  次の11月20日付の日記は、富栄が父親と母親に宛てた手紙になっています。

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■富栄と父・山崎晴弘 晴弘は、日本最初の美容学校である、お茶の水「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者。富栄は次女。

十一月二十日

 お父さま、お母さま、御元気でいらっしゃいますか、もう御病気も快くなられたことと存じて御便りいたします。
 暖かいうちに、一度近江にいきたいと思いながら、その日に追われて御無沙汰いたしておりました。奥名の籍ももとに戻って、いま、手続きをいたしております。抄本が一緒に入っていなかったので遅れていたのです。昔の話になりますけど、十二月九日にお式をあげて二十一日までの奥名富栄さん、それから今日までの四年の間に、本郷での罹災――田舎落ち――鎌倉――三鷹町――と随分わたしも転々といたしました。それでも、奥名家山崎家へも、ことの外のご迷惑もかけないで、どうやら生きてまいりました。

 葬儀もすっかり終え、お部屋に落ちついて昔をふりかえってみますと、感慨深いものがございます。
 この間、武田様、飯田様が御一緒におみえになりました。おくやみと、わたしの再婚のこと(別に具体的なことではなく)を御心配下さるお話しでした。それにつきまして、わたしも近いうちに御訪ねして、今日このお便りのうちに書きますような、私の決心を御話し申し上げる気持ちでおりますので、その前にお父さま、お母さまに御相談――というよりもわたしのこのお願いをどうしても受け入れていただきたくて、お便りいたします。
 少し長くなりますけど、どうか終わりまで判読下さいますよう、お願いいたします。
 成人した娘の真剣な願いごとを受けていただきたいのです。冷静に書いて、理解していただきたいと(ねが)っております。
 そう――お父さまが御上京のときには、いつも笑いながらお話ししましたでしょう。おつきあいいただいている先生のこと。わたし、そのお方を敬愛しておりました。
 大変御苦労なさって、生きていらしたお方なので、人の苦しみや、悲しみや、また、よろこびなどにも、悲しみ深いおこころをお持ちになってあらゆる周囲の方々から敬愛されていられるのです。
 たびたびお遊びにみえましても、お話の落ちが女になるというようなことは一度も仰言ったこともなく、わたしも相変わらずの、やんちゃ娘で、おつきあい願っておりました。
 淡々としたおつき合いで、どういうお家柄のお方とも、どういう御家庭をお持ちのお方とも存じておりませんでした。また知ろうとも思いませんでした。
 お友達とお話していらっしゃるいろいろの事柄を、おそばで伺っておりますうちに、世の中にこんな美しいお心のお方が生きていらっしゃったことがうれしく、御一緒になれないお方でもいい、せめて、こうして時折のお招きに、おそばに坐って、可愛がっていただければと、わたしは思うようになりました。そうしておりましても、わたしの仕事を休んだことはございませんし、先生も、御自分のお仕事を愛していらっしゃいますから、いつでもちゃんと、お仕事をなさってから、文学のことや思想のこと、ときには政治の御批評を伺いにいらっしゃるお友達と御一緒に、わたしとも遊んで下さいました。
 わたしの貧しい知識を補うためにも、お誘いをうれしく思っておりました。先生のお名前は、津島修治様と仰言って、ペンネームを太宰治様と仰言います。
 津島様のお父様は御他界遊ばされていられますが、御名前を源右衛門様といわれ、貴族議員をなさっていられました。お兄様は、現在青森県知事をなさっていらっしゃいます。
 津島様は弘高から東大仏文科を卒えて、たしか亡くなった(とし)ちゃんとは御同年のお方でいらっしゃいます。
 いつか病院で、(てる)ちゃんが、
「僕も入院生活でお前のそばについていてあげられないし、苦しいことがあったら話しに来いよ」といって下さったことがありますが、いまさらのように思い出されます。
 輝ちゃんがいて下さったら、お父さまへのお願いごとも、きっとすらすら運んで下さったのではないかしらと、そんな気持ちもいたします。だって、お父さまも、お母さまも、輝ちゃんが大好きだったのでしょう。そして輝ちゃんは、わたしをとても可愛がって下さったし、わたしにとって輝ちゃんは、両親のように思われるときもあれば、また姉のようにも懐かしく思われて慕っておりましたから。

 

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■山崎輝三男告別式(前列右端が富栄) 三兄・輝三男は応召して満州に出征。戦地で病を得て内地送還となり、1942年(昭和17年)4月10日に戦病死した。次兄・年一(としかず)と同じ命日にあたる。

 

 お父さま、なぜ富栄は輝ちゃんのことを書いたりして本当のことを避けているのでしょう。お父さま、お母さまのお怒りが怖いからでしょうか。いいえ、ただひとこと「ごめんなさい」と申し上げたかったのです。そしてわたしの願いごとを、ありのままに書いて、わたしたちの心の中に隠されている宝を理解していただきたかったのです。
 どうぞ、わたしからこの宝をとってしまおうとなさらないで下さいませ。津島様は明晰な頭脳と、豊かな御人格で、日本作家陣の最高の地位を保っておられ、文壇をリードされていらっしゃる御立派なお方で、御性格からは、侘びしさと、優しさの印象がわたしには強く感じられるのですけれど、お友達の言葉を借りますと、
「とても貴族的で、明朗で、天才的なお方」なのです。
 津島様はわたしとは十も年がお違いになっていらっしゃいますが、何となく血のつながりの濃いものが感じられ、お父さま、お母さまの御心配なさるようなお方ではございません。
 わたしも年が明ければ三十ですし、罹災して、あちこち世の中の苦労も身につけ、もう一通りの女の眼や、成人生活も持ったつもりでおりますし、そうしたものを通して、御つきあいいただいているつもりでございます。
 わたしは女史といわれるお方のように、世の中に名前が出なくてもいいのです。
 芸術の生命をわたしに教えて下さったお方に愛されて、そのお方の持っている美しいもののような何かを残して死にたいのです。
 お父様も、現在の打算を抜いてお考え下されば、きっとわたしのようにお思い下さるのではありませんかしら。
 一時的な関係から起こってくる放埓(ほうらつ)な生活――というようなことにはおちいりません。
 私達はいつの頃からというようなことはなく、なにか、こうなることが自然に与えられた宿命のように、お互いに愛しあうようになりました。
 津島様はわたしを信じて下さって(、、、、、、、)作品以外の重要な事柄をもお話し下さいますし(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)、いろいろの御相談をもなさって下さいます。
 信じ合うということは貴いことの一つではございませんかしら。
 わたし達は、お互いの家庭に傷をつけないように、責任のある態度で生活していきたいと心懸けております。
 わたしたちがこうなったことは、津島様が悪い男の方でも、また、わたしが悪い女のひとになったからでもありません。 
 同じ夢を抱いて歩んでいた二人のひとが、一つの道でやっとめぐり逢ったということが世の中にはあることなのではありませんかしら。そして、それが社会には全面的にうけ入れられないものであっても。
 わたしのお店の方のことも、こうしたわたしの個人的な問題と、電気についていろいろな問題からお断りいたしました。
 津島様は、わたしの仕事のことは自由にしてもいいからと仰言って下さるのですけど、津島様のお仕事のお手伝いと、御来客の御接待に、毎日忙しく日を送っておりますので、十一月からずーっと家に落ち着くことにいたしましたが、わたしの生活のことにつきましては、そのお仕事のことで十分足りておりますから御心配はいりません。

 こういうお便りを差し上げたからと言って、わたしのお父さまを慕う心も、お母さまを思う心にも、少しの変化もございません。
 わたしが悪い女のひとになったのなら、こうした苦しい手紙を書かないで、さっさと歩いて行ったことでしょう。
 わたしは人の温かいこころにふれていとうございます。
 なんでもなく、こうしたことの、(ゆる)された時代に生きていた昔の人達を、羨ましいと思います。
 富栄のこうした願いごとをお読みになることは、お父さま、お母さまにとって、とてもお辛いこととよく承知いたしております。
 こうした私の心の飛躍は、あまり突飛すぎて、受け入れてはいただけないのでございましょうか。若しお許しいただければ、ほんとうにわたしは幸せなのです。
 わたしは津島家の愛人として慎み深く立派に成長していきとうございます。
 お父さまの御返事が、わたしを惨めにさせないようにと祈っております。
  十一月二十日
          富栄拝
 お父さま
 お母さま
 追伸
 師走の風がついすぐそこまで吹いてまいりました。お体くれぐれも御大切になさって下さいませ。わたしはこれをお読みになる御両親の御姿を思い浮かべながら、毎日御返事を待っております。このことは、わたしにまかせて下さいませ。

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■山崎富栄

十一月二十一日

 いつものように御仕事におみえになる。
 ここ四、五日前から御洋服。「デブちゃんなんだよお!」とおうわさになっていた小説新潮の女のかたもおみえになる。
 井伏先生と、御一緒に写されてある御写真を拝見する。私も欲しいわ。

 

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■太宰と師匠・井伏鱒二

 

 三時近くになると、お体の調子も、御疲れになられるせいか「まだ三時か――」などと仰言って、お仕事なさっていられる。
 御酒がお飲みになりたい?
 この間は喀血なさったし、あまりかんばしいお体ではないんだけど。アダリンと膏薬を買ってくる。
「昨日の朝ね、胸を開いて寝てたんだ。そしたら、里子ちゃんは幸せね、羽左衛門と一緒に寝られて――って女房が来ていうんだ」
 妙布の貼り工合が変わっていたかしら。
 お仕事の方は、私には分からないので、毎日心配しながら、おそばで用事をしているのだけれど、「とてもよく書けるんだよ」と仰言って、書きかけのを「読んでごらん」とみせて下さる。
 いつものように夕方土手べりを歩いてお送りする。お月様が明るくて、霧のようなものがおりていて、ボーッとした、美しい眺め。
 二人で終戦後のものでは好きな歌だと仰言る「あなたと二人で来た丘は……」というのをハミングする。
 三鷹病院の横を通る。
「入院するようになったら来てね」
「こちらからお願いします」
「頼みますよ。そして、二人でベッドの上で死のう」
 いつものようにお近くの横丁でベーゼ。おやすみなさい。

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太宰治 撮影:田村茂。

十一月二十二日

 野平さんと御一緒に七時頃、再びおみえになる。
 毎日の停電でお気の毒。お泊りになる。

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三鷹の若松屋 左から太宰、女将、新潮社の担当編集者、野原一夫と野平健一。撮影:伊馬春部 

十一月二十三日

 あさ、お見送りしてから東京へ出る。
 吉川さんと、久我さん宅へおよりする。
 下着を、もう一枚着たせいか温かい。
 亀島様から、御本のプレゼント、お心づかいを感謝。
 八時頃かえってきてから、「斜陽」と「晩年」の印を押す。(二万)。四時間かかって出来上がる。二十五日に御持参なさる由なので、是非とも今日中にはと思って。それと、わたしも自分の体をこわしたかったので。
 修治さんばかり病状が悪化するのでは、いや。

  「『斜陽』と『晩年』の印を押す。」とあるのは、検印のこと。

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■検印 現在出版されている本には無いが、ISBNやバーコードが無かった時代に、出版社が著者との取り決めで、著者が出来上がった著書の総製作部数を確認するために、検印用紙に印を押し、印を押した検印用紙を著書の奥付に貼りつけた。写真は、太宰の処女短篇集晩年のもの。2019年、著者撮影。

 翌12月10日付で、「新潮文庫」の1冊として新潮社から晩年が、5日後の12月15日付で、斜陽が新潮社から刊行されました。斜陽は、たちまちベストセラーになり、初版10,000部、再版5,000部、三版5,000部、四版10,000部と版を重ね、翌年7月に刊行された新版と併せて、1949年(昭和23年)3月までに120,000部を越したそうです。

十一月二十三日

 斜陽のひとのお手紙に Nо(ナンバー) をつける。信じて私に持たせておいて下さる心はうれしい。
「さっちゃんの角が出るよ」と御冗談。
「五、六本生やそうかな」と読み出す。
「別に角も出ませんわ」
「カッコの中読んだ?」
「私生児とその母……こういうことは、今の女のひとには随分多い考え方だと思うわ。わたしだってそう思っているし、この斜陽が結局そういう人達の代弁になっているんじゃあない」
 斜陽を御執筆のころ、わたしに良く似た考えのひともあるものだと思っていた。――よなかの二時。
”美しいもの”
 吉田さんが、何日(いつ)か、 酔い寝しながら、ブツブツと、
 「僕がこんなに太宰のことを思っているのに、太宰は僕のことを思ってくれない」と。
 修ちゃんと、伊馬さんと、お二人の会話。
 いいお友達ね、羨やましかった。――太陽の如くいけ――って。
 ひとに知られずに描いた一つの種の成長を眺めることの美しさ。

  斜陽のひと」とは、長女・太田治子を出産したばかりの太田静子のこと。「お手紙に Nо(ナンバー) をつける」とありますが、太宰は、養育費として毎月10,000円(現在の貨幣価値に換算すると、約18万~36万円)送金することを約束していましたが、実際に送金の手続きを行っていたのは、富栄でした。

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■太田静子と治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

 【了】 

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【参考文献】
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム ー女性篇ー』(広論社、1982年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月18日

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11月18日の太宰治

  1940年(昭和15年)11月18日。
 太宰治 31歳。

 旧制新潟高校出身の野本秀雄(のもとひでお)の依頼を受け、新潟高等学校で講演をした。

太宰、新潟へゆく

 1940年(昭和15年)10月下旬、太宰は、旧制新潟高校の卒業生で、東京帝国大学文学部国文学科に在籍していた野本秀雄(のもとひでお)から「あるお願い」をされます。
 今回は、太宰治研究 5に収録されている野本の回想『「みみずく通信」と「佐渡」のころ ー旧制新潟高校講演の前後ー』から引用しながら、「あるお願い」から始まった、太宰の新潟行きについて紹介します。

 私の出身校の旧制新潟高校では、文芸部の主催で、毎年東京から作家を招いて文芸講演を行っていた。それは、生徒たち自身の勉強のためと同時に、地方都市として中央の文化に遅れなようにと、一般新潟市民に対する文化活動の一環でもあった。
 昭和十五(一九四〇)年には、文芸部では太宰治を招きたいということになった。太宰治は、当時すでにかなり多くの作品を発表していたが単行本はまだ数点程度であり、<異色の新進作家>として特に若い人の間に人気があった。
 講演の依頼・説明は文芸部員が上京して当たるべきことだが、簡略化して、部の先輩、つまり新潟高校を卒業して東京の大学にいる者が、それを引き受けることが多かった。
 それで太宰治には、その年の春東大国文科に入学したばかりの私が当たることになった。私は当時、太宰治の作品はほんの数点しか読んでいなかったが、伝手をたどって、当時東大図書館に勤務していた作家渋川驍(しぶかわぎょう)氏(物故)に紹介を頼んだ。渋川氏は直ぐに連絡をとって、太宰治は承知してくれたが直接に説明を聞くために、私に会ってくれるという日を知らせてくれた。
 一〇月下旬の妙に薄ら寒い日だった。本郷に下宿していた私は中央線に乗って、当時の東京府三鷹下連雀(今は賑やかな三鷹市)の太宰治の家をたずねた。吉祥寺駅からの方がわかりやすいと聞いていたのでそこで下り、井の頭公園を突っ切って、畑の中を小川に沿ってかなり歩くと、周囲にはあまり家のない畑の真ん中に、太宰治の家はあった。小さな平家で、今でいう三Kといったところであろうか。

 

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三鷹の家の玄関

 

 玄関の硝子戸をガタガタ押し開けると、狭い三和土(たたき)に何人かの靴があり、硝子戸の内では人の話声がしている。私はくり返し声をかけたが聞こえないようだった。「出版社の人たちでも来ているのかも知れない。これでは話ができそうもない。しばらく時間をおいて来てみよう」と思って、そっと戸を閉めた。井の頭公園へ引っ返し、池の貸しボートなどで時間をつぶした。
 再び玄関の戸を開けてみると、客は帰っていた。玄関と障子戸一枚でへだてた六畳間に、太宰治は腕を組んできちんと座っていた。
 部屋の隅に机はあったが客用のテーブルなどはなく、私は彼の前にぎこちなく膝を折って座った。そして、講演承諾のお礼をのべたあと、新潟高校の講演会の趣旨について話し、古くは芥川龍之介川端康成などを招いたこと等も言い添え、例年の講演会の具体的な情況なども説明した。その間、太宰治は黙ったままだった。地方から上京したばかりの大学一年生は講演料のことなど言いにくくて、どもりながら付け加えたりした。
 だが、太宰治は一言の受け答えもせずに、私が話し終わったあとも、じっと腕組みをしたまま、南庭に面した障子の方へ首を向けて黙りこくっていた。私も黙ったままになった。ずいぶん長い時間がたったようだった。太宰治は変わり者だと聞いて覚悟はして来たものの、こうした場面にぶつかるとは思いもよらず、その場の白けた雰囲気に私はすっかり閉口してしまった。

 

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三鷹の家の南庭

 

 障子には小春日和の陽が明るく当たっており、庭の木の影とその枝に飛び回る野鳥の影とが、くっきりと映っている。それを見ながら私はつい「今日はわりに暖かですね」と言ってしまった。いかにも取って付けたような自らの言葉にハッとしたとたんに、太宰治の、一喝のような言葉が飛んできた。
 「なんだ、それは。商人のお世辞じゃああるまいし。君は学生じゃないか。自分の身を自分で切り裂いて、そこから噴き出す血のようなことだけ言いたまえ。それが真実の言葉というものだ」
 これには参った。私は頭を下げっ放しだった。以下の文章中に引用する太宰治の言葉はすべて「という意味(、、)の言葉」であるわけだが、右の一喝の言葉だけは、半世紀後の今も殆どそのまま再現できたような感じである。それほど私には<こわい言葉>だったのである。
 そのあと太宰治は話し続けて、文学のこと、恋愛のこと、交友のことなど、さまざまな事柄を鎖のようにつなげながら、小一時間も語り続けた。それは、自己を語ることでもあり、人間・人生を論ずることでもあり、そして私は、それ自体一つの作品を読み聞かされているかのように感じていた。その中に、やはり私に係わる<こわい言葉>がもう一つあった。それは、交友・人間関係についての話の中であった。
 「人は一日のうちで、人との関係に一番多くの神経を使っているものだ。むだな時間も費やしている。私はつき合いたくない人が訪ねてきた時には、そこへぴたりと手をついて、『どうかお帰りください』と、きっぱり言うつもりだ」
と言い、次のこわい言葉が続いたのである。
 「さっき玄関の戸を開けたのは君だろう。人の家を訪ねる時は、先客があろうがなかろうが、どんな偉い客がいようが、『おれが第一の大切な客なんだ』という自信を持って来るべきなんだ」
 しまったと思った。この日私が来ることは予定されていたとは言え、こう見透かされていては言葉もない。やはり頭を下げただけであった。話が一段落すると、彼は初めて例のはにかんだような笑顔になり、「君が新潟へ案内してくれるといいんだが。ひとりじゃ心細い」と言って、「飲みに行こう」と立上り、もう薄暗くなった道を、三鷹駅近くのおでんやへ私は連れて行かれた。飲みながら彼は
 「新潟のついでに佐渡へ行ってみようと思う。佐渡は死ぬほど淋しい所だろう。一度そういう所へ行ってみたいんだ」
と言ったが、短篇「佐渡」(昭和一六<一九四一>年一月)でくり返し使っている「死ぬほど淋しいところ」という言葉は、この時に言っていたのである。彼が新潟での講演を引き受けたのは、このことが大きな原因だったに違いない。

 

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  野本の三鷹来訪から、2週間程度が過ぎた同年11月16日。太宰は、野本に案内され、一路、新潟を目指します。

 一一月一六日の朝、案内役を引き受けた私は、太宰治とは上野駅で待ち合わせて新潟に向かった。当時は急行で四時間だった。列車が上越の山にさしかかるころ、太宰治は窓の外へ眼をやったり、何かつぶやくふうでもあり、ちょっと様子の違った感じがした。霧の吹き上げている上越の山の景色が珍しいのかなと思ったりした。私はその頃まだ、太宰治小山初代との自殺未遂を知らなかったが、後になってそれが上越水上温泉だったことを知り、あの時の彼の動きの変化はそれと関係があったのかな、とも思った。それは思いすごしだったかも知れないが。

 

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■初代新潟駅舎と駅前広場 昭和戦前期の撮影。

 

 新潟駅に着くと、文芸部の委員の宇尾野宏君(物故)が出迎えに来ていた。車中で、新潟名物の日本一長い万代橋の話などもしていたので、その長い橋を歩いて渡ったが、短篇「みみずく通信」(昭和一六年一月)には、「別段、感慨もありませんでした」とのみ書かれている。用意されていた古町通りの大野屋旅館に案内した。それは新潟市では名のある古い旅館で、毎年の教師はたいていそこに泊まった。講演の時間を見計らって車を呼ぶと、太宰治は鞄から袴を取り出して身につけた。改まった感じだった。講演会の具体的なようすは、伊狩章(いかりあきら)氏が(中略)詳述しておられるので、ここではすべて省略に従う。なお、講演の内容には、先月私が訪ねた時に彼が小一時間語ったことが、かなり含まれていた。それは当然のことだけれども、結果として、あの時の話は講演のリハーサルになったわけだな、と思ったりした。してみると、あの時、彼が腕を組んで長いこと沈黙していたのは、学生服の私を目の前にしたために、高校生たちにどんな話をしたらよいかが気になって、いろいろと思いめぐらしていたのではないかなどと、私は想像した(しかし、それは後述するように、あとで修正することになる)。

 ここで、 太宰治研究 3に収録されている、野本の回想にも登場した、当時旧制新潟高校に在籍していた伊狩章(いかりあきら)「旧制新潟高校太宰治 ー初めての講演ー」から、太宰講演の様子について引用します。

 講演会の会場は学生ホールの階上、観客は学生だけではなく、街に貼られたポスターを見て集まって来た一般市民もかなり多く、席は一杯になっていたといいます。

 太宰は壇に上ると本を二冊とりだして「これは自作の作品ですが、はじめにこれを読みます」と言うとそのまま本を読みだした。
 これには意表をつかれたというか、少々呆気(あっけ)にとられた思いだった。聴衆がちょっとザワめいた。
 後から分かったのだが、それは「思い出」の一節だった。太宰はしばらく一五分か二〇分位読むと、バタンと本を置いて何か説明した。私小説について語ったのだが、その時の私にはよくわからなかった。
 訥々(とつとつ)とした語り口で、雄弁の反対の印象をうけた。ただし、チャンとした標準語で東北なまりは感じられなかったかと思う。
 暫く、ニ、三〇分位しゃべると水を飲み、また別の本をとり出して読みはじめた。この方はよく分った。「走れメロス」である。これを二〇分ちかく朗読、また本を置くと、こんどは友情についてしゃべった。
 これはかなり熱を入れてしゃべった。少々力んで顔が上気していた。聞いていると、その情熱に引き込まれるようなところがあったのを憶えている。幼稚な高校生の私の頭に、それだけの感銘を与える何かがあったのであろう。
 太宰は早くから若い読者、青年層の心を捉える才分をそなえていたように思われる。文章でもそうしたところが光っていた。
  (中略)
 ともかく、今から考えると太宰の最初の講演は成功だった。太宰らしく、しかも聴く者、高校生に印象づけるところも大きく、上々の出来ばえと言ってもよかろう。
 講演会後、私たちの間で太宰の人気は急上昇した。私らは手あたりしだいに彼の作品を読むようになった。

 

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■講演中の太宰 写真は、1940年(昭和15年)10月上旬東京商科大学で「近代の病」と題して行われた講演の様子。

  講演が済むと、太宰は席を移し、太宰を囲んで座談会になりました。座談会は明るい雰囲気で、学生たちからは質問もなく、太宰が1人しゃべりました。
 予定の時間が来ると、太宰は退席して校長室へ行き、文芸部長の教授から70円(現在の貨幣価値に換算すると、約75,000~79,000円)の謝礼を受け取ったそうです。

 野本の回想に戻ります。

 講演会は成功裡に終った。(中略)講演会が終って太宰治は、文芸部の生徒たちと学校のすぐ近くの浜べに行き、佐渡ヶ島の見える砂丘にたたずみ、それから市街に出て、両岸に柳の並ぶ掘割りの道を歩き、イタリヤ軒での歓迎会のテーブルにつく。半日たっぷり生徒たちとつき合ったわけである。(中略)朝早く東京を発ってから相当にきついスケジュールだったわけだが、彼は疲れたふうは殆ど見せなかった。しんの丈夫な人なんだなと思った。

 

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■講演会後、旧制新潟高校の図書室で 前列中央が太宰、後列左から3人目が野本。

  イタリヤ軒は西洋料理店。モダンな外観と重厚な内装とで、市民からは「鹿鳴館の再来」ともてはやされていたそうです。
 太宰は、『みみずく通信に「ここは有名なところらしいのです。君もあるいは、名前だけは聞いた事があるかも知れませんが、明治初年に何とかいうイタリヤ人が創った店なのだそうです。二階のホオルに、そのイタリヤ人が日本の紋服を着て収った大きな写真が飾られてあります。モラエスさんに似ています。なんでも、外国のサアカスの一団員として日本に来て、そのサアカスから捨てられ、発奮して新潟で洋食屋を開き大成功したのだとかいう話でした。」と書いていますが、創始者のイタリア人は、ピエトロ・ミリオーレ。1874年(明治7年)にサーカス「チヤリネ曲馬団」の賄い夫として新潟で巡回公演中に足をケガし、傷が癒えなかったため、新潟に置き去りにされます。新潟に残ったミリオーレは、市内で牛肉、牛乳の販売店を開業し、これがイタリア軒の始まり。ミリオーレは、ミオラの愛称で市民に親しまれたそうです。

 翌一一月一七日、私と委員の宇野尾君は、佐渡へ行く太宰治を港へ案内した。<死ぬほど淋しい所>は余人の立ち入る世界ではないので、当然のこと私は同行しなかった。霧雨にかすむ港で、太宰治は長身を寒そうにかがめて「おけさ丸」に乗り込んだ。それから佐渡夷港(えびすこう)(今の両津港)に着くまでの三時間近くのことが、短篇「佐渡」の前半に生き生きと描かれている。

 

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■おけさ丸

 

 それは、佐渡ヶ島の工字形の形態と夷港(えびすこう)の位置の関係で、初めて佐渡へ行く人は、船の進み方が理解できないで、たいがいが錯覚。混乱を生ずることなのだが、この作品について、佐渡出身の文芸評論家青野末吉が、「小説とはありがたいものだと思った。船が佐渡へ近づいていく時の人々の感情を、まさにその通り見事に描き出してくれている。」という意味のことを何かに書いていた。
 もしも私が案内に同行していたら、太宰治の疑問に直ぐ答えたであろうから、青野末吉を<ありがたい>と感動させた文章は生まれなかったわけだ、と思うので、その部分をほんの少し敢えて引用しておきたい。

 

(中略)佐渡は、もうすぐそこに見えている。全島紅葉して、岸の赤土のがけは、ざぶりざぶりと波に洗われている。もう、来てしまったのだ。それにしては少し早すぎる。(中略)船は、島の岸に沿うて、平気で進む。(中略)これは、佐渡ヶ島でないのかも知れぬ。(中略)
 
ひょいと前方の薄暗い海面をすかし眺めて、私は愕然がくぜんとした。(中略)はるか前方に、かすかにあおく、大陸の影が見える。(中略)満洲ではないかと思った。まさか、と直ぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶滅茶になった。能登半島。(中略)「さあ、もう見えて来ました。」という言葉が、私の耳にはいった。
 私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違わんじゃないかと思った。(後略)

 

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■「幽かに蒼く大陸の影が見える。満州ではないかと思った」

 

 佐渡へ着く前から混乱し、うんざりした太宰治は、あとの小旅行もうんざり続きであった。そして「佐渡には何も無い。あるべき筈はないという事は、なんぼ愚かな私にでも、わかっていた。けれども来て見ないうちは、気がかりなのだ。」(佐渡)ということになった。しかし、この短篇の最後の場面は次のようにしめくくられている。

 

 外は、まだ薄暗かった。私は宿屋の前に立ってバスを待った。ぞろぞろと黒い毛布を着た老若男女の列が通る。すべて無言で、せっせと私の眼前を歩いて行く。
「鉱山の人たちだね。」私は傍に立っている女中さんに小声で言った。
 女中さんは黙って首肯うなずいた。

 

 私は、この描写を、佐渡そのものが作家の確かな眼でしっかりと捕らえられた名文だと思っている。
 佐渡に二泊した太宰は、一九日の午後新潟発上野行きの汽車に乗った。私も打ち合わせ通りに行って、彼の前の席に腰をおろしたが、彼は不機嫌なようすだった。それで私も「佐渡はいかがでしたか」などと気軽に話しかけられず、黙っていた。だが、発車すると間もなく「参ったよ」と切り出し、旅館での夕食後に散歩に出かけて立ち寄った料亭で、次々と出される料理の山にうんざりしたことを、事細かに長々と話し続けた。そして「みんな話したら、さっぱりしたよ」と笑顔になった。後に短篇「佐渡」を読んだ時、私に長々と話した内容が、その何分の一かにきっちりと書かれているので、小説の文章とはこういうふうに書かれるものなんだな、などと思った。

  同年11月19日、太宰は、新潟に来た時と同じように野本に付き添われ、三鷹へ帰京しました。
 野本の回想中にも登場しましたが、太宰の旧制新潟高校での講演と佐渡行きについては、太宰の短篇みみずく通信佐渡の題材になっています。

 【了】

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【参考文献】
・長篠康一郎『太宰治文学アルバム』(広論社、1981年)
・『太宰治研究 3』(和泉書院、1996年)
・『太宰治研究 5』(和泉書院、1998年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「日本円貨幣価値計算機
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月17日

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11月17日の太宰治

  1941年(昭和16年)11月17日。
 太宰治 32歳。

 文士徴用令書を受けた。

太宰に文士徴用令書が届く

 1941年(昭和16年)11月15日、太宰は「文士徴用令書」を受け取ります。同年12月8日、日本の機動部隊がハワイ真珠湾を奇襲する直前のことでした。

 1939年(昭和14年)7月8日、国家総動員法に基づいて国民徴用令が制定され、同年7月15日に施行されました。これは、戦時下において、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので、この徴用令の施行により、国民の経済活動の自由は完全に失われました。
 人員を徴用する際に出されたのが召集令状で、応召者(徴集対象者)の戸籍がある市町村を所管する連隊区司令部(陸軍)、もしくは鎮守府(海軍)が作成・発行し、役場の兵事係(現在の戸籍係に相当)の職員が対象者の自宅を訪れ、本人に直接手渡して交付していました(本人が不在の場合は、同居の家族に交付)。

 この「召集令状」には、赤紙」「白紙」「青紙」の種類がありました。
 赤紙は、在郷軍人を軍隊に召集するために発行された文書。「白紙」は、徴集令状で、戦争には行かせないが、軍需工場での労働のために召集するために発行された文書。労働条件が過酷だったため、赤紙と同様に恐れられたそうです。「青紙」は、白紙の後で登場し、すでに退職した人たちを職業指導などで、工場や企業などに配属するために発行された文書でした。

 作家の徴用がはじまったのは、1941年(昭和16年)10月からで、太宰の手元に届けられたのは、いわゆる「白紙」と呼ばれる徴用令書でした。

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■徴用令書(見本)

 徴用令書を受け取った2日後、同年11月17日。太宰は、本郷区役所二階の講堂で文壇の人々とともに、徴用のための身体検査を受けました。
 このときの様子を、太宰の妻・津島美知子回想の太宰治に書いているので、引用します。

 太宰のところに出頭命令書が舞いこんで、本郷区役所に行くと文壇の人々が集まっていて、徴用のための身体検査を受けた。太宰の胸に聴診器を当てた軍医は即座に免除と決めたそうである。「肺浸潤」という病名であった。助かったという思いと、胸の疾患をはっきり指摘されたこととで私は複雑な気持であった。

 「肺浸潤」とは、結核菌に侵された肺の一部の炎症が、だんだん広がっていくことです。過去には、肺結核の初期の病状のことを意味していました。

 同年11月21日午前9時、太宰は、文士徴用で大阪の中部軍司令部に出頭を命ぜられて特急(つばめ)で東京駅を出発する、小田嶽夫中村地平井伏鱒二高見順寺崎浩豊田三郎を見送りに行きます。

 太宰はこの後も、召集がかかった自身の弟子たちを見送っています。翌年の1942年(昭和17年)1月に、三田循司。同年4月に、堤重久。翌々年の1943年(昭和18年)9月に、桂英澄
 太宰はどのような心境で、弟子たちを戦地に送り出していたのでしょうか。

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■1943年(昭和18年)の太宰 井の頭公園で撮影。左は、三上雪郎。

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「赤紙、白紙、青紙とは?」(ヒロシマの視線
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月16日

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11月16日の太宰治

  1938年(昭和13年)11月16日。
 太宰治 29歳。

 御坂峠を降りて、石原くらが見付けてくれた、石原家と齋藤家との中間辺り、甲府上府中中西寄りの、甲府市西竪町九十三番地の素人下宿寿館に止宿した。

太宰、天下茶屋を後にする

 1938年(昭和13年)11月16日、太宰は、同年9月13日から滞在していた山梨県南都留郡河口村御坂峠の天下茶屋を降り、のちに妻となる石原美知子の母・石原くらが見付けてくれた、石原家と斎藤家の中間にあたる、甲府上府中西寄りの山梨県甲府市西竪町93番地の素人下宿・寿館に止宿しました。

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■御坂峠の天下茶屋

 この寿館は、朝日町のにぎやかな通りから約30メートルほど小路を入ったところにあった瓦葺のニ階建てで、入口には「高等御下宿寿館」という看板がかけてあったそうです。

 寿館に止宿した頃の太宰は、約1ヶ月前の10月24日に、師匠・井伏鱒二とニ度と破婚はしない旨の「誓約書」を結び、11月6日には石原家で結婚披露宴を行ったりと、美知子との結婚を控え、本格的に準備をはじめていました。

 美知子は著書回想の太宰治で、寿館止宿中の太宰について、次のように回想しています。

 昭和十三年の十一月半ば、太宰は御坂峠をおりて、寿館に止宿した。この下宿は、甲府の上府中(甲府市の北部の山ノ手)の西寄りにあった。
 当時甲府の市内には大小の製糸工場が点在していて寿館の近くにも、「小路一つ隔てて」かどうかは確かめていないが、製糸工場があって、サナギを煮る匂を漂わせていた。製糸工場はみな木造二階建てで通行人にいくつも並んだ窓を見せていた。ここで働く女性たちは通勤で、宿舎の設備のある大規模の施設はなかった。太宰が寿館で書いた”I can speak”の女工さん姉弟の姿と声とは、幻で見、幻で聞いたのであろう。
 寿館は下宿屋らしい構えで、広い板敷の玄関の正面に大きい掛時計、その下が帳場、左手の階段を上り左奥の南向きの六畳が、太宰の借りた部屋である。私の母が探して交渉してくれたのだが、勤めももたず、荷物というほどの物も持たぬ、いわば風来坊の彼のために保証人の役もしたのだと思う。御坂にくる迄の彼の荻窪の下宿が西陽のさしこむ四畳半と聞いて、それはひどいと同情した母の声音を記憶している。日当りのよい窓辺に机を据え、ざぶとん、寝具一式を運び、一家総がかりで彼のために丹前や羽織を仕立てたり、襟巻を編んだりした。太宰はほとんど毎日、寿館から夕方、私の実家に来て手料理を肴にお銚子を三本ほどあけて、ごきげんで抱負を語り、郷里の人々のことを語り、座談のおもしろい人なので、私の母は(今までつきあったことのない、このような職業の人の話を聞いて)、世間が広くなったようだ、と言っていた。酒の合間に硯箱や巻紙封筒を出させて、これは下宿にその用意がなかったからであろうが、ちゃぶ台に向かったまま、左掌の上で巻紙を繰り出しながら毛筆を走らせて、私の母なども時折、荷札に宛名を書くときなどその手でやっていたが、私はとしよりの芸当くらいに思っていたので、太宰がよその茶の間で、私どもの面前で、そうして巻紙を下におかずに手紙を書くのを見て、若くても文士というものはさすが違っていると、感服した。
 太宰はあるとき私の亡兄の追悼文集を拾い読みしていて、寄稿者の中に弘前高校の同期生の名を発見し、太宰も私の兄も同じ昭和五年生大学に入学したことがわかり、私の実家のものみな太宰との距離が近くなったように感じた。
 いつもお銚子三本が適量だと言って、キリよく引きあげていたが、適量どころか火をつけたようなもので、このあと諸所を飲みまわって異郷での孤独をまぎらわせていたらしい。ある飲み屋の女の人から「若様」とよばれたなどと言っていた。
 ある日下町を一緒に歩きまわってから寿館に寄ったら、寝具が敷き放しになっていて枕もとにはパンの食べ残しがちらばっていた。太宰は大いそぎで、ふとんを二つ折にし、パンのことを「倉さんが東京から送ってくれたのだ」と言った。倉さんこと小林倉三郎氏のことは太宰からもその前に聞いていたし、「虚構の春」の冒頭の書簡の「田所美徳」は、小林氏のことであろうと推測していた。佐藤春夫夫人の令兄で、太宰を強く支持して下さっていた方である。パンのことは真実かもしれず、あるいはみっともないところを見られてとっさに口から出た出まかせであったかもしれない。
 寿館では部屋ごとにお膳を運ばずに玄関の右わきの食堂で朝夕の食事を摂るきまりであった。夜遅く帰ると食堂は閉まっていて、酒はのんでも腹にたまるものを食べていないので、床の中でパンをかじるような侘しい夜もあったのである。「夜食」という二字が目に入ると、私は今でもその夜の寿館の太宰の部屋で見た光景を思い出す。
 倉さんが送ってくれたという夜食のパンのこと、それから翌年御崎町(さきちょう)に移ってすぐ書いた「黄金風景」や「新樹の言葉」がたけさんを恋う心から生まれていることから、私には甲州という異郷にあって太宰が、小林さんや郷里のたけさんなど、自分を支持してくれる人の名を呼びつづけていたような気がする。
 寿館の主のKさんの息子さんは事故か病気のせいかで、足が不自由になりМ高校を中退して療養中であることを太宰から聞いた。
人間失格」の終りに近く、不幸な薬局の女主人が登場する。私はこれを読んだとき、寿館の息子さんのことを連想した。

 天下茶屋で執筆を進めていた火の鳥は遅々として捗りませんでしたが、この頃には、やっと100枚近くになっていたといいます。

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■太宰と石原家の人びと 前列左から、太宰、義母・石原くら、中列左から、義妹・愛子、美知子、義姉・富美子、後列は義弟・昭。1939年(昭和14年)正月、甲府市水門町の石原家の玄関横で撮影。 

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月15日

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11月15日の太宰治

  1947年(昭和22年)11月15日。
 太宰治 38歳。

 太田静子の弟太田通が来訪。

(あかし)「この子は 私の 可愛い子」

 1947年(昭和22年)3月中旬頃、太宰は、太田静子の住む下曽我大雄山荘を訪れた際、静子から妊娠を告げられました。太宰は、同年2月21日斜陽を執筆するための日記を静子から借り受けるため、大雄山荘を訪問し、5日間滞在していました。

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大雄山 太田静子が親類のつてで疎開していた別荘。2009年(平成21年)12月26日早朝、原因不明の出火により全焼。

 静子から妊娠を告げられた太宰は、「それは、よかった」とにっこり笑って、とても素敵な表情をしたそうです。しかし、太宰は三鷹に戻ったあと、次のようなハガキを静子に送ります。

  東京都下三鷹下連雀一一三
   太宰治より
  神奈川県足柄下郡下曽我村原 大雄山
   太田静子宛

 昨日はありがとうございました。昨日帰宅したら、ミチは、へんな勘で、全部を知っていて、(手紙のことも、静子の本名も変名も)泣いてせめるので、まいってしまいました。ゆうべは眠らなかった様子で、きょう朝ごはんをすましてから、また部屋の隅に寝ています。お産ちかくではあり、カンガ立っているのでしょう。しばらく、このまま、静かにしていましょう。手紙も電報も、しばらく、よこさない方がいいようです。どうもこんなに騒ぐとは意外でした。では、そちらは、お大事に……

 同年5月25日、居ても立っても居られなくなった静子は、心配してついて来た弟・太田通と一緒に三鷹の太宰を訪ねます。新潮社の編集担当・野原一夫や太宰の親友・伊馬春部、太宰の愛人・山崎富栄たちと小料理屋「千草」で飲み、その後、「すみれ」で二次会をし、そのまま、洋画家・桜井浜江の自宅に宿泊することになります。
 翌日、静子は三鷹を後にしますが、静子と太宰は、ほとんど話すことはありませんでした。

 三鷹の太宰を訪れてから約5ヵ月半が過ぎた、同年11月12日。静子は、娘・太田治子を出産します。「お多福蚕豆(そらまめ)のような顔をした、八百八十(もんめ)の丈夫そうな女の()だった」と、静子は『あわれわが歌』に記しています。静子は、弟・通に、女児の出産を告げる電報を打ちました。

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■太田静子と治子 1948年(昭和23年)春に撮影。

 静子が治子を出産した3日後の、同年11月15日。静子の弟・通が、三鷹を来訪。静子が生んだ子供が、太宰の子であるという(あか)しと命名とを太宰に要請しました。

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  (あかし)
   太田治子(はるこ)
 この子は 私の
可愛い子で 父を
いつでも誇って
すこやかに育つ
ことを念じてい

 昭和二十二年
   十一月十二日
    太宰治

 太宰は、「お金のことで困るようなことがあったら、いつでも言って下さい」という言葉を添えて、通にそのお墨付きを渡しました。
  出産から7日目の朝、通から、出産届の用紙と、太宰のお墨付きが入った書留速達を受け取ります。太宰のお墨付きは、「力のこもった、太い字で半紙いっぱいに書いてあった」と静子は回想しています。

 静子の産んだ子を「私の可愛い子」と認めた太宰ですが、このお墨付きが書かれたのは、太宰が仕事部屋としても使っていた、愛人・山崎富栄の部屋でした。富栄は、この時の様子を、自身の日記へ次のように記しています。

十一月十五日

 斜陽の兄君みえる。
 永井さんのお便りによる。
 どうやらこうとやらを御存知なくておいでになられた御様子。
 太宰さん。直接でかえってよかったよ、とほっとされた御様子。
    証
        太田治子
 この子は私の可愛い子で
 父をいつでも誇って
 育つことを念じている。
  昭和二十二年十一月十二日
        太宰 治

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■山崎富栄

十一月十六日

 伊馬さん、野原さんみえる。
 いろいろのことがありました。
 泣きました。顔がはれるくらい
 泣きました。わびしすぎました。
”サッちゃん、ツラかったかい”
 いいえ、そんなお言葉どころではありませんでした。もう、死のうかと思いました。
 苦しくッて、悲しくッて、五体の一つ、一つが、何処か、遠くの方へ抜きとられていくみたいでした。ほんとうは、ほんとうは泣くまい、泣くまいと頑張っていたのです。涙を出さないようにと、机の上を拭いてみたり、立ってみたり、縫物を広げてみたり、ほんとうは、そっとして、ふれないでいてほしかったのです。
  (以下、四行抹消)

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 しかも”大事にしてね””なんでも相談するから”と仰言っていらっしゃったのに。
”修治の治、これは「はる」とも読みますね。治子(はるこ)、この名はどうでしょう”
”サッちゃん、どうだろう”
 斜陽の兄君を前にして、”いやです”なんて、申せませんし、このときばかりは、ほんとうに何とも言えない苦しさでした。御自分のお子様にさえお名前から一字も取ってはいらっしゃらないのに。
斜陽の子ではあっても、津島修治の子ではないのですよ。愛のない人の子だと仰言いましたね。女の子でよかったと思いました。男の子であったら、正樹ちゃんがお可哀想だと思って、心配していたのです。
  (以下、三行抹消)

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”そんなこと形式じゃないか。お前には、まだ修の字が残っているじゃないか。泣くなよ。僕は、修治さんじゃなくて、修ッちゃだもの。泣くなよ”
”いや、いや、お名前だって、、いや。髪の毛、一すじでも、いや。わたしが命がけで大事にしていた宝だったのに”
”でも、僕、うれしい、そんなに思っていてくれたこと。ごめんね、あれは間違いだったよ。斜陽の子なんだから陽子でもよかったんだ。遅いよ、君のは。この前のときだって、君に逢ってさえいたら、伊豆へなんかいかなくてもよかったんだよ。そうすれば、僕だって苦しまなくてもよかったんだよ。もう一日早かったらなあ――”
”ネ、もう泣くのやめな。僕の方が十倍もつらくなっているんだよ。ね、可愛がるから。そのかわり、もっと、もっと可愛がるから、ごめんね”
 私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、分かっていたのです。でも泣くまい、そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が涙を湧かせてしまうのです。
 泣いたりして、すみません。
”僕達二人は、いい恋人になろうね。死ぬときは、いっしょ、よ。連れていくよ”
”お前に僕の子を産んでもらいたいなあ――”
”修治さん、私達は死ぬのね”(以下、二行抹消)
”子供を産みたい”
”やっぱり、私は敗け”
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。死にたいくらいのくやしさで、涙が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に――。)
 救って下さい。教えて下さい。
 主よ、御意ならば我を潔くなし給うを得ん。わが意なり、潔くなれ。
 ――斜陽の女のかたにひとこと、
”あなたの書簡集はお見事でした”

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 【了】

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【参考文献】
・太田静子『あはれわが歌』(ジープ社、1950年)
・山崎富栄 著・長篠康一郎 編纂『愛は死と共に 太宰治との愛の遺稿集』(虎見書房、1968年)
・『太宰治全集 12 書簡』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
志村有弘・渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
太田治子『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』(朝日文庫、2012年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月14日

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11月14日の太宰治

  1946年(昭和21年)11月14日。
 太宰治 37歳。

 十一月十二日、十数名の人々に見送られ、羅紗(ラシャ)地の紺色に染め直した折襟の兵隊服、兵隊靴、それにゲートルを締めた姿で金木を出発。

太宰、金木から三鷹へ帰京

 太宰は、1945年(昭和20年)7月31日から、三鷹甲府を経て、故郷・金木町の生家に疎開していました。

 太宰は金木で終戦を迎え、新座敷で執筆を続けながら、1年3ヶ月半を過ごしますが、ついに三鷹への帰京を決意します。

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新座敷」 長兄・津島文治が結婚記念に建てた離れ。この建物は、現在 太宰治疎開の家( 旧津島家新座敷 )として公開されています。文壇登場後の太宰の居宅として、唯一現存する邸宅でもあります。

 1946年(昭和21年)11月12日、太宰一家は、十数名の人々に見送られ、羅紗(ラシャ)地の紺色に染め直した折襟の兵隊服、兵隊靴、それにゲートルを締めた姿で金木を出発しました。アヤ(男衆)がリュックサックを背負い、川部駅まで見送ってくれたそうです。

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■折襟の兵隊服、兵隊靴にゲートルを締めた太宰

 途中、五所川原旭町で中畑慶吉(なかはたけいきち)宅に立ち寄ったとき、「太宰治」と表書きした茶封筒を渡されます。封筒の中には、「結婚前の不始末や事件にかかわる始末書」などが入っていました。「もう大丈夫だろう」と中畑は言い、太宰は「これは懐かしい。女房には見せられないもんだ」と言ったといいます。

 太宰一家は、青森から上野行きの夜行列車に乗って、翌11月13日の朝に仙台で途中下車。同年7月3日に帰還し、10月1日から河北新報社の編集局取材部に勤務していた、弟子・戸石泰一に逢います。
 11月13日の朝、戸石が出社すると、机の上にざら紙のメモ用紙に走り書きした置手紙がありました。
「今朝仙台に下車した。駅で待っています。すぐおいで下さい。太宰」
 戸石は、喜び勇んで駅に向かう。太宰は駅の入口に立っていました。戸石が出征する直前に上野駅で会って以来、2年9ヶ月振りの再会でした。

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■戸石泰一

「待ったですか?」
「うん、それほどでもない」
「先生、醜くなったですね。醜貌さらに醜を加えた感がある」
「いいよ、いいよ。お前は相変わらず美男子だよ」
 以前と全く変わらない会話を交わします。駅前の当時2階建て木造だった「仙台ホテル」で家族を休ませ、太宰が持参したどぶろくを2人で飲みました。
 酒がなくなると、乾物屋で手土産の鴨を買い、河北新報社出版局を訪ねます。太宰にパンドラの匣執筆を依頼した村上辰雄は、当時、岩手新報社に出向中(同年12月1日付で岩手新報社取締役)で、宮崎泰二郎だけがいました。
 3人は、まだ昼間にもかかわらず、東一番丁「虎屋横丁」に繰り出し、焼き鳥屋で飲み始めます。太宰はゲートルをつけておらず、軍隊のズボンは膝から下が細くなり、下が紐で結ぶようになっていて、その紐の結び方も、軍靴の紐の結び方も、律儀な感じだったといいます。
 その日は、宮崎が紹介した霊屋下(おたまやした)の旅館「宝来荘」に泊まることになります。河北新報社出版局の他の社員らも加わり、太宰の家族が寝ている隣の部屋で、鴨料理をつつきながら、夜遅くまで酒盃を傾けました。
 何かやれと言われて、歌舞伎の「三人吉三」の声色を真似し始めた戸石に、太宰は笑いながら、「ちっともいいとこないじゃないか」「みっともないから、もう一生やるな。俺の恥になるよ。あ、こら失礼な奴だ。無作法だ。足をそんな恰好して。ちゃんとすわっていろ」と言っていたそうです。

 翌11月14日、太宰は家族に仙台の街を見せると言って、東一番丁に戸石も連れて行ったあと、10時発の急行に乗車して、21時に上野駅へ到着。上野には、三鷹の留守宅を守っていた弟子・小山清が出迎えに来ました。

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小山清

 太宰の妻・津島美知子は、「上野から新宿にまわる山手線の車窓から見おろした東京の灯が、谷間のともしびのように、さびしかった」といいます。
 金木からの帰途、仙台への寄り道は、太宰にとって最後の仙台訪問となりました。

 最後に、美知子の回想回想の太宰治からも、金木から三鷹への帰京の様子を紹介します。

 昭和二十一年の十一月半ば、一年四ヵ月の疎開生活をきりあげて、帰京することになった。太宰は京都とか住みたい土地をあげていたが、適当な家を用意してくれる人がいるわけもなく、一旦三鷹の旧宅に戻るほかなかった。
 十一月十一日出発ときまり、疎開中迷惑をかけ通しだったのに皆名残りを惜しんで、駅には十数名の人々が賑やかに見送ってくれた。太宰は例の折襟の兄のお下がりの黒服、私も長女も防空服装で、アヤが大きなリュックサックを負って川部駅まで見送ってくれた。当時は、金木、青森間と青森、上野間と同じくらいの時間がかかった。上野行夜行に乗りこんだが、大変な混み方なので翌朝、仙台に途中下車して、河北新報社の方々のお世話になって一泊し、翌日の夜、上野着、フォームには小山さんが出迎えてくださった。上野駅の明るくきれいなこと、レールの本数の多いことなどに、お上りさんそのまま一驚したが、車窓やフォームから眺める街の灯は、まだ九時前というのに低く暗く谷間の灯のように思われた。

 

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 太宰は途中吉祥寺の、馴染の酒の店に寄って行くという。そこのおばさんとは私も親しい間柄であったが、その夜は寄り道せずに一刻も早くわが家に落ち着きたかった。けれども太宰に従って一同、店の奥の炬燵に当たらせてもらい、太宰はそこで大分ご機嫌になるまで飲んで、風の吹き荒れる夜更けの井之頭公園を抜けてやっと帰り着いた。生垣のヒバの匂がなつかしかった。
 下連雀の爆撃以後、太宰はこの家のことを「半壊だ」と言う。今まで気にかかるので何度も念を押して聞いたが「半壊だ」としか言わない。ところがいま眼前のわが家は、そして入って見廻したところは、大した変わりようもないように見える。私はなんのことやらわからなくなって「これで半壊ですか」と言った。太宰は知らぬふりをし、小山さんはうす笑いを浮かべて、その表情で――だまされていればいいのですよ、と私に語っていた。

 

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三鷹の太宰の住居

 【了】

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【参考文献】
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ー人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【日めくり太宰治】11月13日

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11月13日の太宰治

  1939年(昭和14年)11月13日。
 太宰治 30歳。

 「困惑の弁」十枚を脱稿。

『困惑の弁』

 今日は、太宰のエッセイ『困惑の弁』を紹介します。
 『困惑の弁』の原稿10枚は、1939年(昭和14年)11月13日に脱稿。翌1940年(昭和15年)1月20日付発行の「懸賞界」第六巻第二号(一月下旬号)に発表されました。

『困惑の弁』

 正直言うと、私は、この雑誌(懸賞界)から原稿書くように言いつけられて、多少、困ったのである。応諾の御返事を、すぐには書けなかったのである。それは、私の虚傲(きょごう)からでは無いのである。全然、それと反対である。私は、この雑誌を、とりわけ卑俗なものとは思っていない。卑俗といえば、どんな雑誌だってみんな卑俗だ。そこに発表されて在る作品だって、みんな卑俗だ。私だって、もとより卑俗の作家である。他の卑俗を嘲うことは私には許されていない。人おのおの懸命の生きかたが在る。それは尊重されなければいけない。
 私の困惑は、他に在るのだ。それは、私がみじんも大家で無い、という一事である。この雑誌の、八月上旬号、九月下旬号、十月下旬号の三冊を、私は編集者から恵送せられたのであるが、一覧するに、この雑誌の読者は、すべてこれから「文学というもの」を試みたいと心うごき始めたばかりの人の様子なのである。そのような心の状態に在るとき、人は、大空を仰ぐような、一点けがれ無き高い希望を有しているものである。そうして、その希望は、人をも己をも欺かざる作品を書こうという具体的なものでは無くして、ただ漠然と、天下に名を挙げようという野望なのである。それは当りまえのことで、何も非難される筋合いのものでは無い。日頃、同僚から軽蔑され、親兄弟に心配を掛け、女房、恋人にまで信用されず、よろしい、それならば乃公の、奮発しよう、むかしバイロンという人は、一朝めざめたら其の名が世に高くなっていたとかいうではないか、やってみよう、というような経緯は、誰にだってあることで、極めて自然の人情である。その時、その人は興奮して本屋に出掛け、先ずこの雑誌(懸賞界)を取り挙げ、ひらいてみると太宰なぞという、聞いたことも無いへんな名前の人が、先生顔して書いている。実に、拍子抜けがすると思う。その人の脳裏に在るのは、夏目漱石森鷗外尾崎紅葉徳富蘆花、それから先日文化勲章をもらった幸田露伴。それら文豪以外のひとは問題ではないのである。それは、しかし、当然なことなのである。文豪以外は、問題にせぬというその人の態度は、全く正しいのである。いつまでも、その態度を持ちつづけてもらいたいと思う。みじめなのは、その雑誌に先生顔して何やら呟きを書いていた太宰という男である。
 いっこうに有名でない。この雑誌の読者は、すべてこれから文学を試み、天下に名を成そうという謂わば青雲の志を持って居られる。いささかの卑屈もない。肩を張って蒼穹を仰いている。傷一つ受けていない。無染である。その人に、太宰という下手くそな作家の、醜怪に(しゃが)れた呟きが、いったい聞えるものかどうか。私の困惑は、ここに在る。
 私は今まで、なんのいい小説も書いていない。すべて人真似である。学問はない。未だ三十一歳である。青二歳である。未だ世間を知らぬと言われても致しかたが無い。何も、無い。誇るべきもの何も無いのである。たった一つ、芥子粒(けしつぶ)ほどのプライドがある。それは、私が馬鹿であるということである。全く無益な、路傍の苦労ばかり、それも自ら求めて十年間、転輾(てんてん)して来たということである。
 けれども、また、考えてみると、それは、読者諸君が、これから文豪になるために、ちっとも必要なことではない。むだな苦労は、避け得られたら、それは避けたほうがよいのである。何事も、聡明に越したことはない。けれども私は、よほど頭がわるく、それにまた身のほど知らぬ自惚れもあり、人の静止も聞かばこそ、なに大丈夫だ、大丈夫だと匹夫(ひっぷ)(ゆう)、泳げもせぬのに深潭(しんたん)に飛び込み、たちまち、あおおうあっぷ、眼もあてられぬ有様であった。そのような愚かな作家が、未来の鷗外、漱石を志しているこの雑誌の読者に、いったいどんなことを語ればいいのか。実に、困惑するのである。
 私は、悪名のほうが、むしろ高い作家なのである。さまざまに曲解せられているようである。けれども、それは、やはり私の至らぬせいであろうと思っている。実に、むずかしいものである。私は、いまは、気永にやって行くつもりである。私は頭が悪くて、一時にすべてを解決することは、できぬ。手さぐりで、そろそろ這って歩いて行くより他に仕方がない。長生きしたいと思っている。
 そんな情態なので、私は諸君に語るべきもの、一つも持っていない。たったひとつ、芥子粒(けしつぶ)ほどのプライドがあると、さっき書いたが、あれもいまは消し去りたい気持ちである。ばかな苦労は、誇りにならない。けれども私は、(わら)ひとすじに(すが)る思いで、これまでの愚かな苦労に執着しているということも告白しなければならない。若し語ることがあるとすれば、ただ一つ、そのことだけである。私は、こんなばかな苦労をして、そうして、なんにもならなかったら、せめて君だけでも、自重してこんなばかな真似はなさらぬようにという極めて消極的な無力な忠告くらいは、私にも、できるように思う。燈台が高く明るい光を放っているのは、燈台みずからが誇っているのでは無くして、ここは難所ゆえ近づいてはいけませんという忠告の意味なのである。

 

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 私のところへも、ニ、三、学生がやって来るのである。私は、そのときにも、いまと同じ様な困惑を感じるのである。彼等は、もちろん私の小説を読んでいない。彼等もまた青雲の志を持っているのであるから、私の小説を軽蔑している。また、そうあるべきだと思う。私の小説などを読むひまがあったら、もっともっと外国の一流作家、または日本の古典を読むべきである。望みは、高いほどよいのである。そんなに、私の小説を軽蔑していながら、なぜ私のところへ来るのか。来易(きやす)いからである。それ以外の理由は、ないようである。玄関をがらっとあけると、私が、すぐそこに坐っている。家が狭いのである。
 せっかく訪ねて来てくれたのである。まさか悪意を持って、はるばるこんな田舎まで訪ねて来てくれる人もあるまい。私は知遇に報いなければならぬ。あがりたまえ、ようこそ、と言う。私は、ちっとも偉くないのだから、客を玄関で追いかえすなどは、とてもできない。私は、そんなに多忙な男でもないのである。忙中謝客などという、あざやかなことは永遠に私には、できないと思う。
僕よりもっと偉い作家が、日本にたくさんいるのだから、その人たちのところへ行きなさい。きっと得るところも、甚大であろうと思う、と私は或るとき一人の学生に、まじめに言ったことがあるけれども、そのとき学生は、にやりと笑って、行ったって、僕たちには逢ってくれないでしょう、と正直に答えたのである。そんなことは無いと思う。逢ってくれないならば、にぎりめし持参で門の外に頑張り、一夜でも二夜でも、ねばるがよい。ほんとうにその人を尊敬しているならば、そんな不穏の行動も、あながち悪事とは言えまい、と私は、やはりまじめに言ったのであるが、学生は、こんどは、げらげら笑い出して、それほど尊敬している人は、日本の作家の中には無い、ゲエテとか、ダヴィンチのお弟子になるんだったら、それくらいの苦心をしてもいいが、と(うそぶ)き、卓の上の饅頭を一つ素早く頬張った。青春無垢のころは、望みは、すべてこのように高くなければならぬのである。私は、その学生に向っては、何も言えなくなるのである。私は、軽蔑されている。けれども、その軽蔑は正しいのである。私は貧乏で、なまけもので、無学で、そうして甚だ、いい加減の小説ばかり書いている。軽蔑されて、至当なのである。
 君は苦しいか、と私は私の無邪気な訪客に尋ねる。それあ、苦しいですよ、と饅頭ぐっと呑みこんでから答える。苦しいにちがいないのである。青春は人生の花だというが、また一面、焦燥、孤独の地獄である。どうしていいか、わからないのである。苦しいにちがいない。
 なるほど、と私は首肯し、その苦しさを持てあまして、僕のところへ、こうしてやって来るのかね、ひょっとしたら太宰も案外いいこと言うかも知れん、いや、やっぱり、あいつはだめかな? などとそんな気持で、ふらふらここへ来るのかね、もし、そうだったら、僕では、だめだ、君に何んにもいいこと教えることができない。だいいち、いま僕自身あぶないのだ。僕は、頭がわるいから、なんにもわからないのだ。ただ、僕はいままで、ばかな失敗ばかりやって来たから、僕のばかな真似をするなとなんべんでも繰り返して言いたいだけだ。学校をなまけては、いけない。落第しては、いけない。カンニングしてもいいから、学校だけは、ちゃんと卒業しなければいけない。できるだけ本を読め。カフェに行って、お金を乱費してはいけない。酒を呑みたいなら、友人、先輩と牛鍋つつきながら悲憤慷慨せよ。それも一週間に一度以上多くやっては、いけない。侘びしさに堪えよ。三日堪えて、侘びしかったら、そいつは病気だ。冷水摩擦をはじめよ。必ず腹巻きをしなければいけない。ひとから金を借りるな。餓死するとも借銭はするな。世の中は、人を餓死させないようにできているものだ。安心するがいい。恋は、必ず片恋のままで、かくして置け。女に恋を打ち明けるなど、男子の恥だ。思えば、思われる。それを信じて、のんきにして居れ。万事、あせってはならぬ。漱石は、四十から小説を書いた。
 愚かな私の精一ぱいの忠告は、以上のような、甚だ高尚でないことばかりだったので、かの学生は、腹をかかえて大笑いしたのであるが、この雑誌の読者もまた、明日の鷗外、漱石、ゲエテをさえ志しているにちがいないのだから、このちっとも有名でないし、偉くもない作家の、おそろしく下等な叫び声には、さだめし失笑なされたことであろう。それでいいのだ。望みは高いほどよいのである。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
日本近代文学館 編『図説 太宰治』(ちくま学芸文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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