記憶の宮殿

僕は、記憶の宮殿を自由に旅する。太宰治がソウルフレンド。

【週刊 太宰治のエッセイ】青森

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今週のエッセイ

◆『青森』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
 『青森』は、1941年(昭和16年)1月11日発行の「月刊東奥」第三巻第一号の「特集・初春に余す」欄に発表された。この欄には、ほかに「漁村の曙」(鳥谷幡山)、「早ぐ春ア来ればいゝぢゃなア」(今官一)、「コミセと正月のウマコ」(木山捨三)、「第一の春(短歌)」(和田山蘭)など19編が掲載された。

「青森

 青森には、四年いました。青森中学に通っていたのです。親戚の豊田様のお家に、ずっと世話になっていました。寺町の呉服屋の、豊田様であります。豊田の、なくなった「お()さ」は、私にずいぶん力こぶを入れて、何とかはげまして下さいました。私も、「おどさ」に、ずいぶん甘えていました。「おどさ」は、いい人でした。私が馬鹿な事ばかりやらかして、ちっとも立派な仕事をせぬうちになくなって、残念でなりません。もう五年、十年生きていてもらって、私が多少でもいい仕事をして、お()さに喜んでもらいたかった、とそればかり思います。いま考えると「おどさ」の有難いところばかり思い出され、残念でなりません。私が中学校で少しでも)い成績をとると、おどさは、世界中の誰よりも喜んで下さいました。
 私が中学の二年生の頃、寺町の小さい花屋に洋画が五、六枚かざられていて、私は子供心にも、その)に少し感心しました。そのうちの一枚を、二円で買いました。この)はいまにきっと高くなります、と生意気な事を言って、豊田の「おどさ」にあげました。おどさは笑っていました。あの)は、今も豊田家のお家に、あると思います。いまでは百円でも安すぎるでしょう。棟方志功氏の、初期の傑作でした。
 棟方志功氏の姿は、東京で時折、見かけますが、あんまり颯爽と歩いているので、私はいつでも知らぬ振りをしています。けれども、あの頃の棟方氏の)は、なかなか)かったと思っています。もう、二十年ちかく昔の話になりました。豊田様のお家の、あの)が、もっと、うんと、高くなってくれたらいいと思って居ります。

 

太宰と豊田家

 太宰が「お()さ」と書くのは、豊田太左衛門のことです。
 豊田太左衛門は、青森市寺町14番地の呉服・布団の老舗の当主でした。豊田家は、太宰の叔母・津島キヱ(きえ)の二度目の夫・津島常吉の実家で、太左衛門は、常吉の従兄に当たります。また、太左衛門の長女・ちゑは、太宰の父・津島源右衛門の代から津島家へ出入りしていた五所川原の背負呉服商中畑慶吉と結婚しています。

 太宰は、青森中学校に入学してから卒業するまでの4年間を、叔母・キヱきえ)の口利きで豊田家の二階で過ごし、毎日2キロほどの道のりを徒歩で通学しました。また、のちに3歳年下の弟・津島礼治や甥・津島逸郎もここに加わりました。二階の一隅に、囲炉裏もある八畳の一間を与えられ、初めて自分の部屋を持つことが出来たことを、喜んでいたそうです。
 叔母・キヱきえ)の依頼もあったと思われますが、太左衛門は太宰をヤマゲン(津島家の屋号)の人間として丁寧に扱ったため、あまり干渉も受けず、気ままな生活を送ることができました。
  太左衛門は通人でもあり、太宰をよく可愛がり、外出に連れ出しては、小料理屋「おもたか」などでもてなしました。これは、弘前高等学校に入学してからの「遊び」に繋がるきっかけだったのかもしれません。

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■太宰の中学時代 前列左から、豊田太左衛門、津島逸郎、太宰、後列左から、津島礼治、太宰の次姉・津島トシ。

 このような環境の中で、太宰は「津島家の秀才」として中学時代を過ごし、のちに師匠となる井伏鱒二『幽閉』(のちに山椒魚と改題)と出会います。『幽閉』を読んだ太宰は、「埋もれたる無名不遇の天才を発見」「坐っておられないくらい興奮」と、この時のことを回想しています。

 青森中学校を卒業して弘前高等学校へ進学、豊田家を出た太宰ですが、平日は弘前義太夫を習い、週末は青森へ出かけ、豊田家から花柳界へ出入りする、という生活をはじめました。制服制帽で豊田家へ向かった太宰は、角帯に着替え、小料理屋「おもたか」へ繰り出し、芸者・紅子べにこ)小山初代おやまはつよ))を呼び出して遊んだといいます。これが、のちに太宰の最初の結婚へと繋がっていきます。

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■芸者時代の小山初代

 その後も、太宰の長兄・津島文治の命により、太左衛門を名代とする小山家との結納や、鎌倉での太宰と田部あつみとの心中未遂事件(あつみのみ死亡)後に、太宰と初代との仮祝言への立会いを命じられたりと、太宰と深く関わっていくことになりました。

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■豊田家跡 太宰は中学時代、ここに下宿していた。2020年撮影。

 【了】

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【参考文献】
・『写真集 太宰治の生涯』(毎日新聞社、1968年)
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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 "太宰治の日めくり年譜"はこちら!】

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【週刊 太宰治のエッセイ】五所川原

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今週のエッセイ

◆『五所川原
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)12月下旬頃に脱稿。
 『五所川原』は、1941年(昭和16年)1月発行の「西北新報」に発表されたと推定されています。

五所川原

 叔母が五所川原にいるので、小さい頃よく五所川原へ遊びに行きました。旭座の舞台開きも見に行きました。小学校の三、四年生の頃だったと思います。たしか友右衛門だった(はず)です。梅由兵衛に泣かされました。廻舞台を、その時、生れてはじめて見て、思わず立ち上ってしまった程に驚きました。この旭座は、そののち間もなく火事を起し、全焼しました。その時の火焔(かえん)が、金木から、はっきり見えました。映写室から発火したという話でした。そうして、映画見物の小学生が十人ほど焼死しました。映写の技師が罪に問われました。過失傷害致死とかいう罪名でした。子供にも、どういうわけだか、その技師の罪名と運命を忘れる事が出来ませんでした。旭座という名前が「火」の字に関係があるから焼けたのだという噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七ツか。八ツの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が(あご)のあたりまでありました。三尺ちかくあったのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたのでそれにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちょうど古着屋のまえでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵古帯(へこおび)でした。ひどく恥かしく思いました。叔母が顔色を変えて走って来ました。
 私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ッぷりが悪いので、何かと人にからかわれて、ひとりでひがんでいましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言ってくれました。他の人が、私の器量の悪口を言うと、叔母は、本気に怒りました。みんな遠い思い出になりました。

 

太宰と叔母・キヱ(きえ)

  太宰が「叔母が五所川原にいるので」と書いているのは、津島キヱ(きえ)のことです。キヱ(きえ)は、太宰の母・津島夕子(たね)の妹で、太宰の叔母に当たります。

 太宰は、生れて間もなく乳母に預けられました。太宰の父・津島源右衛門(げんえもん)衆議院議員に当選したため、妻の夕子(たね)とともに東京、弘前、青森に出掛けることが多く、留守がちだったためです。家に戻ってくるのは、1ヶ月か2ヶ月に1回。滞在期間は1週間程度だったそうです。
 しかし、その乳母が再婚することになり、太宰は、生家(現在の斜陽館)に戻ることになります。その際、叔母・キヱ(きえ)が面倒を見ることになり、娘4人と一緒に十畳一間の部屋で暮らしました。

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■斜陽館 2011年、著者撮影。

 キヱ(きえ)は、17歳の時に義兄・源右衛門(げんえもん)(姉・夕子(たね)の夫)の実弟松木友三郎を婿養子として迎えましたが、友三郎の酒乱や女性交遊が原因で、二児をもうけた後、離婚。その後、2人目の夫として、青森市の豊田家から実直な豊田常吉を迎えましたが、二児をもうけた後に、常吉が病没してしまったため、28歳という若さで未亡人となり、実家に戻って来ていました。
 キヱ(きえ)は、病弱な姉・夕子(たね)とは異なり健康的で、多少勝気な性格の女性で、姉に代わって、津島家の主婦の役割を担っていました。世話好きで、ことのほか太宰を可愛がり、キヱ(きえ)の娘たちも、従弟である太宰を実の弟のように世話を焼いたため、太宰は自分をキヱ(きえ)の長男だと思っていたそうです。
 不眠症だった太宰に、キヱ(きえ)は添寝をして、津軽地方に伝わる昔話を語って寝かしつけたそうですが、この時の体験が、お伽草紙などの作品の根底に流れているのかもしれません。

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■太宰1歳数か月の頃 前列右から叔母・キヱ(きえ)、太宰、母・夕子たね。後ろは、三上やゑ(やえ)やゑ(やえ)は、金木第一尋常小学校の訓導で、太宰の5つ上の姉・あいの担任で、母と弟と一緒に津島家が経営する銀行の奥の一室に間借りしていた。

 キヱ(きえ)は、1916年(大正5年)1月18日に津島家から分家します。四姉・リエの夫・季四郎が、津島歯科医院を開業するために、五所川原へ引越すことになったためでした。太宰は、キヱ(きえ)の一家と共に五所川原に引越し、小学校入学直前までの約2ヶ月を一緒に過ごしました。

 また、太宰が青森中学校に入学する際にも、亡夫・常吉の実家である豊田家に熱心に頼み込み、豊田家が下宿先となりました。
 太宰が長兄・津島文治と義絶中も、文治の留守中に帰郷した太宰を生家に泊めるわけにはいかないため、五所川原の家に迎えたりもしています。

 キヱ(きえ)一家が五所川原に分家した際に建てられ、太宰も訪れた蔵は、現在太宰治「思ひ出」の蔵として、一般公開されています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】弱者の糧

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今週のエッセイ

◆『弱者の糧』
 1941年(昭和16年)、太宰治 32歳。
 1940年(昭和15年)11月下旬頃に脱稿。
 『弱者の糧』は、1941年(昭和16年)1月1日発行の「日本映画」第六巻第一号の「局外批評」欄に発表された。この欄には、ほかに「活動のこと」(池田源尚)、「人間教育における児童映画」(田辺耕一郎)、「俳句の映画」(龍胆寺雄)、「文化映画私見」(下村千秋)、「『悲しみ』の力」(横山美智子)が掲載された。

「弱者の糧

 映画を好む人には、弱虫が多い。私にしても、心の弱っている時に、ふらと映画館に吸い込まれる。心の猛っている時には、映画なぞ見向きもしない。時間が惜しい。
 何をしても不安でならぬ時には、映画館へ飛び込むと、少しホッとする。真暗いので、どんなに助かるかわからない。誰も自分に注意しない。映画館の一隅に坐っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんな、いいところは無い。
 私は、たいていの映画に泣かされる。必ず泣く、といっても過言では無い。愚作だの、傑作だのと、そんな批判の余裕を持った事が無い。観衆と共に、げらげら笑い、観衆と共に泣くのである。五年前、千葉県船橋の映画館で「新佐渡情話」という時代劇を見たが、ひどく泣いた。翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら、嗚咽が出た。黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。翌る朝、思い出して、また泣いたというのは、流石に、この映画一つである。どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。あれは、よかった。なんという監督の作品だか、一切わからないけれども、あの作品の監督には、今でもお礼を言いたい気持がある。
 私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、すいぶん多い。
 やはり五年前、船橋に住んでいた頃の事であるが、くるしまぎれに市川まで、何のあてもなく出かけていって、それから懐中の本を売り、そのお金で映画を見た。「兄いもうと」というのを、やっていた。この時も、ひどく泣いた。おもんの泣きながらの抗議が、たまらなく悲しかった。私は大きな声を挙げて泣いた。たまらなくなって便所へ逃げて行った。あれも、よかった。
 私は外国映画は、余り好まない。会話が、少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する文章を一々読みとる事も至難である。私には、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。実に、疲れるのである。それに私は、近眼のくせに眼鏡をかけていないので、よほど前の席に坐らないと、何も読めない。
 私が映画館へ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。
 日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの、この優しい慰めに接して、泣かじと欲するも得ざる也。いい事だか、悪い事だか、私にもわからない。
 観衆たるの資格。第一に無邪気でなければいけない。荒唐無稽を信じなければいけない。大河内傳次郎(おおこうちでんじろう)は、必ず試合に勝たなければいけない。或る教養深い婦人は、「大谷日出夫(おおたにひでお)という役者は、たのもしくていいわ。あの人が出て来ると、なんだか安心ですの。決して負ける事がないのです。芸術映画は、退屈です。」と言って笑った。美しい意見である。利巧ぶったら、損をする。
 映画と、小説とは、まるでちがうものだ。国技館角力(すもう)を見物して、まじめくさり、「何事も、芸術の極致は同じであります。」などという感慨をもらす馬鹿な作家。
 何事も、生活感情は同じであります、というならば、少しは穏当である。
 ことさらに、映画と小説を所謂「極致」に於いて同視せずともよい。また、ことさらに独自性をわめき散らし、排除し合うのも、どうかしている。医者と坊主だって、路で逢えば互いに敬礼するではないか。
 これからの映画は、必ずしも「敗者の糧」を目標にして作るような事は無いかも知れぬ。けれども観衆の大半は、ひょっとしたら、やっぱり侘しい人たちばかりなのではあるまいか。日劇を、ぐるりと取り巻いている入場者長蛇の列を見ると、私は、ひどく重い気持になるのである。「映画でも(、、)見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息がひそんでいるように、私には思われてならない。
 弱者への慰めのテエマが、まだ当分は、映画の底に、くすぶるのではあるまいか。

 

太宰が観た映画

 太宰は映画が好きだったようで、今回のエッセイ『弱者の糧』だけではなく、友人・知人の回想にも、「太宰と映画」について言及されています。

 太宰の友人・檀一雄の回想小説 太宰治には、太宰のセリフとして、次のように書かれています。

檀君。こんな活動を見たことない? 海辺でね、チャップリンが、風に向って盗んだ皿を投げるんだ。捨てたつもりで駈け出そうとすると、その同じ皿が、舞い戻ってくるんだよ。同じ手の中に、投げても投げても帰ってくるんだ。泣ける、ねぇ」

 今回は、エッセイ『弱者の糧』に登場したものも含め、太宰が観た映画4本を紹介します。


①「新佐渡情話」

 1936年(昭和11年)1月に公開された浪曲トーキー映画です。監督は清瀬英次郎。黒川弥太郎、花井蘭子、酒井米子が出演していました。

【あらすじ】
佐渡の港で、行き倒れ同然に拾われたお梅(花井蘭子)。拾った伊作(山田好良)は、お梅がふしだらな妹・お由(酒井米子)の娘であることを知り、彼女を立派に育ててやろうと決心するが…。

 太宰が「翌る朝、目がさめて、その映画を思い出したら。嗚咽が出た。」「私は前後不覚に泣いたのである。」と書いた映画です。

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■左から、黒川弥太郎、花井蘭子、酒井米子


②「兄いもうと

 1936年(昭和11年)6月に公開され、室生犀星むろうさいせい)の短篇小説『あにいもうと』を、江口又吉が脚色し、木村荘十郎が監督した「傾向映画」です。小杉義男、英百合子丸山定夫が出演していました。
 傾向映画とは、1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけて、当時の経済恐慌や社会文化状況を反映して、階級社会の暴露や闘争を描いた映画群を指します。

【あらすじ】
寒村の川原で堤防を作る人夫頭の赤座(小杉義男)には、妻のりき(英百合子)と長男の伊之(丸山定夫)、長女のもん、次女のさんの三人の子供がいた。東京へ女中奉公に行っていたもんが帰って来るが、彼女は奉公先で出会った小畑という学生の子供を妊娠していた。しかし、お腹の子供が死産し、もんは家を飛び出してしまう。しばらく後、小畑がもんを連れて赤座家を訪れた。父親に止められて来ることができなかったことを詫びる小畑に、赤座は理解を示す。しかし、たまたま帰宅した伊之は、小畑を土手に連れ出し、暴力をふるってしまった。

 太宰が「ひどく泣いた。おもんの泣きながらの抗議が、たまらなく悲しかった。」と評した映画です。

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室生犀星むろうさいせい)(1889~1962) 石川県金沢市出身の詩人・小説家。『あにいもうと』は、1934年(昭和9年)、「文藝春秋」7月号に発表された。室生の養母・赤井ハツをモデルとする赤座もんを主人公に、元々仲が良かったが、妹の妊娠を機に、激しく対立する兄妹の複雑な愛情を描いた。


③「乙女の湖」

 1934年にフランスで製作された、オーストラリアの作家・ヴィッキイ・バウムの小説が原作の青春ドラマ映画。日本での初公開は、1935年(昭和10年)。監督はマルク・アレグレ。ジャン=ピエール・オーモン、シモーヌ・シモンが出演していました。

【あらすじ】
夏の間だけ、チロルの湖で水泳を教える若いエリック。女性の目を惹く美しい容姿を持つ彼を巡り、ロマンティックな物語が展開する。

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 「私は外国映画は、余り好まない。」と言う太宰ですが、1941年(昭和16年)12月中旬、東京駅で愛人・太田静子と落ち合った太宰は、新宿の武蔵野館で、この映画を観ています。


④「弥次喜多凸凹道中」

 1948年(昭和23年)4月に公開された、東海道五十三次を下敷きにしたコメディ映画です。監督は原研吉。清水金一大坂志郎飯田蝶子山路ふみ子が出演していました。

【あらすじ】
例によって、東海道五十三次を今日も歩き続ける彌次郎兵衛(清水金一)と喜多八(大坂志郎)。ここは近江琵琶湖。財布の中は2人とも無一文で足取りも弾まない。やがて、通りかかった一座に入って食にありつこうと思った懸命の努力も、「芸無し」では水の泡。かえって、2人を介抱してくれた鳥追姿のお銀(山路ふみ子)がその美声を買われて一座に入れられてしまう。
ようやく辿り着いた城下町は、悪家老・原野黒兵衛の悪政によるインフレで、市民は苦しんでいた。ところが、江戸からこの町に視察官がやって来る、という情報が黒兵衛の耳に入る。

 太宰は、1948年(昭和23年)4月29日から5月12日までの約2週間、人間失格の「第三の手記 二」と「あとがき」を執筆するために、埼玉県大宮市に滞在していましたが、その際に、大宮駅前にある飲み屋街「南銀座通り」にあった映画館・日活館で、この映画を鑑賞したようです。


 太宰が観た映画4本を紹介しました。
 以下の記事では、「太宰と映画」のタイトルで、映画化された太宰の小説作品について紹介しています。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
檀一雄小説 太宰治』(岩波現代文庫、2000年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・HP「新佐渡情話 作品詳細 | シネマNAVI
・HP「新佐渡情話 | 映画 | 日活
・HP「兄いもうと|allcinema
・HP「弥次喜多凸凹道中|MOVIE WALKER PRESS
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】文盲自嘲

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今週のエッセイ

◆『文盲自嘲(もんもうじちょう)
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)10月1日に脱稿。
 『文盲自嘲(もんもうじちょう)』は、1940年(昭和15年)10月の執筆と推定されるが、1942年(昭和17年)10月発行の「琴」第一輯に発表された。

文盲自嘲(もんもうじちょう)

 先夜、音楽学校の古川という人が、お見えになり、その御持参の鞄から葛原しげる氏の原稿を取り出し、私に読ませたのですが、生れつき小心な私は、読みながら、ひどく手先が震えて困りました。こういう事が、いつか必ず起るのではないかと、前から心配していたのでした。私は、「新風」という雑誌の七月創刊号に、「盲人独笑」という三十枚ほどの短篇小説を発表しました。それは、葛原勾当(くずはらこうとう)日記の、仮名文字活字日誌を土台にして、それに私の独創も勝手に加味し、盲人一流芸者の生活を、おぼつかなく展開してみたものでした。けれども、この勾当の正孫の、葛原しげる氏は、私たち文士の大先輩として、お元気で、この東京にいらっしゃる様子なのですから、書きながら、ひどく気になって居りました。御住所を捜し、こちらからお訪ねして、なお(くわ)しく故人の御遺徳をも伺い、それから、私ごとき非文不才の貧書生に、この活字日誌の使用を御許可下さるかどうか、改めてお願して、そのおゆるしを得て、はじめて取りかかるべき筋合いのもであるとは、不徳の小文士と(いえど)も、まずは心得て居りました。それが、締切日の関係やら、私のせっかちやら、人みしりやらで、とうとうその礼を(つく)さぬままにて、発表しました。お叱りは、覚悟の上でありました。けれどもいま、葛原しげる氏の原稿を拝読して、そんなに、厳しいお叱りも無いので、狡猾の小文士は思わず、にやりと笑い、ありがたしと膝を崩そうとした、とたんに、いけませんでした。「えちごじし、九十へんとは、それあ聞えませぬ太宰くん。」とありました。逃げようにも、逃げられません。いたずらに、「やあ、それは困った。やあ、それは、しまった。」などと阿保な言葉ばかりを連発し、湯気の出るほどに赤面いたしました。文盲不才、いさぎよく罪に服そうと存じます。他日、創作集の中に編入する時には、「四きのながめ。琴にて。三十二へん。」と訂正いたします。
 まことに、重ね重ねの御無礼を御海容下さらば幸甚に存じます。秋深く、蟲の音も細くなりました。鏤心(るしん)の秋、琴も文も同じ事なり、まずしい精進をつづけて行こうと思います。

 

盲人独笑』のモデル、葛原勾当(くずはらこうとう)

 太宰の小説盲人独笑は、筝曲家(そうきょくか)である葛原勾当(くずはらこうとう)が遺した葛原勾当日記』を基に執筆されました。

 葛原勾当(くずはらこうとう)(1813~1882)は、江戸後期から明治期に生きた地歌筝曲家、作曲家です。名は重美、前名は矢田柳三。
 葛原勾当は、備後国安那郡八尋村(広島県深安郡神辺町、現在は福山市)に、庄屋・矢田重知の長子として生まれました。幼い頃から音楽を好んでいましたが、3歳の時に痘瘡(とうそう)(かか)って両眼とも失明し、以後、ますます音楽に心を寄せるようになりました。
 9歳で隣村の瞽女(ごぜ)お菊について、琴と三味線を学びました。瞽女(ごぜ)とは、日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称で、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来するそうです。
 11歳の時に京都に上り、生田流の松野勾当(のちの、松野検校(けんぎょう))に師事し、14歳で座頭になり、その翌年に備後に帰郷。三備地方を巡遊して、広く筝曲の教授に当たる傍ら、たびたび上洛しては、その技を磨きました。
 そののち、郷里の地名をとって「葛原姓」を名乗るようになり、22歳で「勾当」の地位を許されました。江戸時代、幕府は障害者保護政策として、排他的かつ独占的職種を容認することで、障害者の経済的自立を図ろうとし、盲人の階級を定めていましたが、「勾当」は「検校」より下、「座頭」より上の位階に当たります。この頃から、生田流の名手として、京都以西にもその名が知られるようになりました。
 作曲も行い、筝の研究と普及に一生を捧げました。「花形見」「狐の嫁入」「おぼろ月」などの作曲が、その業績です。
 折り紙の名人でもあり、折り雛やキジなどの作品約60点が現存しており、江戸時代の技法を今に伝えています。
 田中氏あさを(めと)って、二男一女があったそうです。

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葛原勾当(くずはらこうとう)(1813~1882) 江戸後期から明治期に生きた、日本の地歌筝曲家、作曲家。

 太宰が小説盲人独笑を執筆する際に使用した葛原勾当日記』は、1827年(文政10年)、葛原勾当が16歳の時から、1882年(明治15年)に71歳で病没するまで、56年間つけ続けていた日記です。
 はじめの10年間は、稽古の日付・人名・曲名などを代筆で書き留めていただけでしたが、1837年(天保8年)、26歳になってからは、自ら考案した木製活字を用いて、盲目ながら、自分の手で日記をつけ始めました。平仮名、数字、句点、日・月・正・同・申・候・御などの漢字を合わせ、計60数個の木活字を作らせ、各活字の左右側面に1本から17本までの横線を刻むことで、いろは歌の第何段。第何行のどの字であるかを触って識別できるようにしていたそうです。
 葛原勾当日記』は、方言や俗語を交えた口語体で、発音通りに記された箇所が多く、和歌の記載も多いため、音楽史や国語史にとっても好資料となっています。
 また、しばしば歯痛の記述も見られ、19世紀における歯科資料としても注目を浴びているそうです。

 今回のエッセイに登場した葛原しげる(1886~1961)は、葛原勾当の孫で、童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者です。
 作詞した童謡は4000篇とも言われ、「夕日」「とんび」「白兎」「キューピーさん」「白衣」「たんぽぽ」などの代表作があります。
 本名は「葛原𦱳」ですが、普段使用される漢字ではないため、「しげる」と平仮名で表記することが多かったそうです。

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葛原しげる(1886~1961) 葛原勾当の孫で、童謡詩人、童謡作詞家、童話作家、教育者。

 太宰が使用した葛原勾当日記』は、1916年(大正4年)11月25日付で、博文館から刊行されました。太宰はこの日記の話を、親友の伊馬春部から聞き、本を貸してくれるよう伊馬に頼み、送られてきた仮名文字活字日誌の葛原勾当日記』を土台にして、小説盲人独笑を執筆しました。

 葛原しげるから、

「えちごじし、九十へんとは、それあ聞えませぬ太宰くん。」とありました。逃げようにも、逃げられません。いたずらに、「やあ、それは困った。やあ、それは、しまった。」などと阿保な言葉ばかりを連発し、湯気の出るほどに赤面いたしました。文盲不才、いさぎよく罪に服そうと存じます。他日、創作集の中に編入する時には、「四きのながめ。琴にて。三十二へん。」と訂正いたします。

と言われたという太宰ですが、エッセイの通りに訂正されているかどうかは、ぜひ盲人独笑を読んでみて下さい。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】自身の無さ

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今週のエッセイ

◆『自身の無さ』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)5月31日か6月1日に脱稿。
 『自身の無さ』は、1940年(昭和15年)6月2日発行の「東京朝日新聞」第一九四五七号の第六面「槍騎兵」欄に発表された。

「自身の無さ

 本紙(朝日新聞)の文芸時評で、長與先生が、私の下手な作品を例に挙げて、現代新人の通性を指摘して居られました。他の新人諸君に対して、責任を感じましたので、一言申し開きを致します。古来一流の作家のものは作因が判然(はっきり)していて、その実感が強く、従ってそこに或る動かし難い自信を持っている。その反対に今の新人はその基本作因に自身がなく、ぐらついている、というお言葉は、まさに頂門の一針にて、的確なものと思いました。自信を持ちたいと思います。
 けれども私たちは、自信を持つことが出来ません。どうしたのでしょう。私たちは、決して怠けてなど居りません。無頼の生活もして居りません。ひそかに読書もしている筈であります。けれども、努力と共に、いよいよ自信がなくなります。
 私たちは、その原因をあれこれと指摘し、罪を社会に転嫁するような事も致しません。私たちは、この世紀の姿を、この世紀のままで素直に肯定したいのであります。みんな卑屈であります。みんな日和見(ひよりみ)主義であります。みんな「臆病な苦労」をしています。けれども、私たちは、それを決定的な汚点だとは、ちっとも思いません。
 いまは、大過渡期だと思います。私たちは、当分、自信の無さから、のがれる事は出来ません。誰の顔を見ても、みんな卑屈です。私たちは、この「自身の無さ」を大事にしたいと思います。卑屈の克服からでは無しに、卑屈の素直な肯定の中から、前例の無い(、、、、、)見事な花の咲くことを、私は祈念しています。

 

太宰の読書事情

 太宰は、今回のエッセイの中で「ひそかに読書もしている筈であります」と書いていますが、太宰の読書事情は、どのようなものだったのでしょうか。太宰の親友・檀一雄が、回想記太宰と安吾に収録の「太宰と読書」で回想しているので、引用して紹介します。

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檀一雄(1912~1976) 山梨県生まれ。太宰の3歳下の親友。東京帝国大学経済学部在学中に処女作『此家の性格』を発表。1950年、『真説石川五右衛門』で直木賞を受賞。最後の無頼派とも言われる。『檀流クッキング』など、文壇きっての料理通としても有名。

「太宰と読書」

 太宰と読書について少しばかり述べておく。太宰は平常、机辺に書籍を置かないことを常とした。いや、どの時代にも蔵書というものは、(ほとん)ど皆無だったことを私は知っている。
 古びた辞書が一冊、それから明治頃の版によるのだろう。活字の大きい枕草子が一冊、多分、これは露店の十銭のものででもあったのだろう。しかし、一度読んで安心のゆける本は太宰は精読するたちだった。これも又、旅行と同断である。一度読み馴染んで安心のいった本でないと読まないわけだ。自分から書籍を読みあさることは決してなく、人にすすめられ、納得してから、おもむろに読んでいる。それが気に入れば、繰り返し繰り返し読んでみるというのが、太宰の読書の自然な流儀であった。
 私がすすめて読み(ふけったものに、花伝書があった。また、保田(やすだにすすめられてしばらく斎藤緑雨(さいとうりょくうに読み耽っていた時期がある。
 さて、太宰の座右の書を、もう一度あげるなら、(座右と言っても、繰りかえすが決して机辺には置かずほんの五、六冊を隅に隠してつみ重ねていただけであるが)大抵夜店あたりで買った、十銭古本のたぐいで、兼好の徒然草。まあ、日本の古典では枕草子徒然草を繰りかえし繰りかえし精読していただろう。但しこれは決して趣味的読書ではなく、至るところに応用、転化出来るぐらいの、全く血肉の読書であった。それから円朝(えんちょう全集。太宰の初期から最後に至る全文学に落語の決定的な影響を見逃したら、これは批評にならないから、後日の批評家諸君はよくよく注意してほしいことである。
 太宰の文章の根幹が、主として落語の転位法によって運営されている事を忘れてはならない。ただし落語は寄席にこる趣味というのでは決してなく、講談社の落語全集であれ、道端十銭の落語本であれ、それを拾い買って来て、読み耽っていただけのことである。
 それから、「柳樽」これも又太宰が各時代を通じて手離さなかった、愛読の書であった。
 上田秋成西鶴芭蕉。繰り返すが、決して全集を集めるとか、そんな事をやるわけではなく、たまたま買ってきた古本の一冊を絶えず読み耽るといった按配(あんばいだ。まあ、これだけが太宰の文学の殆ど全根幹を形づくっていただろう。それに金槐集なぞ、時に読んでいたかも知れない。云うまでもないことだが、太宰の文学が西洋につながるものだなぞと早合点してはならない。あれ程、日本文学の湿気の多い沼の中に深く根を下していた、文学は少ないことを、私ははっきりと知っている。言い忘れたが、お伽草子黄表紙のたぐい、それに伊曾保物語。これも又、太宰がひそかに押入の隅にかくし持っていた(わずかの蔵書の一つである。
 万葉勿論(もちろん)読んだかも知れないが、繰り返し読んだとはいえないだろう。源氏ははっきりとは断言出来ないが、読んでいなかったと私は考えたい。つまり、枕草子から始まる、唯今(ただいま列記した書籍類は、繰り返し開いては読んで、血となり肉となっていた。
 それから、近世では鏡花、泡鳴(ほうめい荷風、善蔵、あたりではなかったろうか。
 さて、西洋の部であるが、まあ聖書だろう。ただし私はあまり興味がなかったから、聖書について語りあったことは殆どない。大抵山岸(やまぎし怪気熖(かいきえんを挙げていた。つまり、愛とか、苦悩とか、信じるとか、そんな大それた言葉の濫用は私の郷家の封建の気風に、全くないので、口にするのが恥ずかしかった。
 太宰が、手紙の中で絶えずこれらの言葉を濫発するのを、いつも奇異な心持で眺めたばかりである。
 何といっても、西洋の文学で太宰の一番の愛読書はチェホフだ。短篇のすべての根幹にその激しい影響が見られるだろう。

 

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■アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860~1904) ロシアを代表する劇作家であり、多くの優れた短篇を遺した小説家。代表作に『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』がある。太宰は、「傑作を書きます。大傑作を書きます。日本の『桜の園』を書くつもりです。没落階級の悲劇です。」と言って、小説斜陽を執筆した。

 

 太宰は長い小説は書くのも嫌いのようであったが、読むのも面倒のようだった。「スタフォロギン」と絶えず口走っていたが、もし読んだとすれば、「悪霊」と「カラマゾフの兄弟」が一番長い小説だったろう。
 チェホフの短篇は、しかし随時古本屋から買い改めて来ては、こそこそと読んでいた。
「決闘ぐらいの小説が書けたらねえ」太宰はよくそんなことを云っていた。
 それから、プーシュキン。これは太宰の西洋気質を刺戟し、導いた一番のものだったろう。オネーギンやスペードの女王は、太宰がこっそり開いて随時堪能した西洋憧憬の根源である。
「生くることに心せき、感ずることも急がるる」
 これ程鍾愛(しょうあいした太宰の言葉は、他にないだろう。
 レールモントフ。これはその生活の上から太宰に顕著な興味を与えたようだった。
 何処の版であったか、又、何という小説の訳本であったか、今、全く忘れたが、コーカサスの谷の多い大地の上を、飄々(ひょうひょうと歩いている、レールモントフの口絵を太宰が飽かず眺めて、嘆息していたことを覚えている。
 イギリスでは、何といってもシェークスピアだろう。取り分けハムレット。「左の目に憂愁。右の目に……」という言葉は又太宰の随分好きな言葉だった。それから、バイロン卿だ。太宰だって、ひそかにあのヘレスポント海峡は泳ぎ渡ってみたく思ったことだろう。
 また、サロメは愛読した。いや、「獄中記」はやっぱり太宰の愛読書であったろう。
 アメリカでは勿論ポーだ。
 大ゲーテはあまり太宰は読まなかった。が、多分「ヘルマンとドロテア」を開いて読んでいたことを、一度だけ覚えている。
 (むしろ鷗外の手引きで、シュニツラーの「みれん」や、クライストの「地震」なぞの方が好きだったろう。云うまでもないことだが、鷗外ぐらいの名訳でなければ、太宰は馬鹿々々しくて西洋のものは読まなかった。
 そうだ。登張竹風(とばりちくふうの「如是説法」、生田長江(いくたちょうこうの「ニーチェ全集」は、これは太宰の最大の蔵書であった。
 それから、時折買っては売っていた、鴎外全集の翻訳編。「女の決闘」の中に書かれてある通りに、これは繰りかえし読んで飽かなかった。
 東大の仏文科に在籍したといっても、フランス語は目に一丁字もなかったから、マラルメランボーなどと口ばしっても、なに、その解説に胸をときめかすだけで、納得のゆく読書にはなっていなかった。ただ、青い何処かの文庫本で読んでいた、フランソワ・ヴィヨンの「大盗伝」が、(もっとも納得のいった面白いものだったろう。それから、エドモン・ロスタンだ。
 ベルレーヌは、これは上田敏か、堀口大学の訳で読んだのであろうが、随分気質的に鍾愛したようだった。ラヂゲのドルジェル伯の舞踏会は、私がすすめた程の、面白い反応は示さなかった。ジイド。ヴァレリー。時々読んでいたのを覚えている。まあ太宰の読書は、これだけの通い馴れた道を、行きつ戻りつ、しかし、その都度思いがけぬ甘い不思議な花を見つけて来る、といったふうの読みかただった。
 しばしば、気に入った文句を、自分流の妄想で勝手に、改変した原文の章句を、これまた自分流に口調よく作りなおして、人に聞かせたり、引用したりしていたが、時に、原文の本旨と全くかけ違ったことすらある。
撰ばれたものの、恍惚と不安と二つながら我にあり
「罪なくて配所の月」
 それから先程も引用した、
「生くることにも心せき、感ずることも急がるる」
 などは、どうしてどうして、太宰の全生涯をゆすぶったあまりにも鍾愛の文字であった。
 それから北欧では、イプセンとストリンドベルヒ。
 中国の文献は「剪燈新話(せんとうしんわ」以外、何を読んだか全く知らない。
 トルストイ。こればかりは太宰が語ったのを、未だかつて聞いたためしがない。
 それから、思いだしたが、太宰はまた「三銃士」や「巌窟王」や「椿姫」などというのは、これは熟読したようだ。人生の「大活劇」や「大悲劇」ほど太宰が好きだったものはない。心が鎮まった日には、然し同じ気分で「サフオ」「サフオ」と云っていた。

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 太宰の妻・津島美知子は、著書回想の太宰治で、太宰の読書事情について、次のように回想しています。

 太宰が読書家で、何でも読んでいた、とは彼と親しかった方たちの間の定評である。
 私は、高校卒業くらいまでに東西の古典はほとんど読了したのだろうか、端座読書の姿を見ることはあまりないが、いつ読書するのだろう、早朝ひとり目覚めて、家族の起き出すまで床の中で読むのだろうか、などと本気で疑問に思っていた。結局、す早く本を選別し、選んだその一冊の精粋をつかんでしまうのではないか。手にとってパラパラ繰っている間に、もう何かを感得するたぐいの読書家ではなかったかと思う。

 また、美知子夫人は、次のようにも回想します。

 新聞は、朝日新聞だけを購読していたが、細かく読む方で、新聞記事はよく作品にとり入れていたと思う。常住坐臥(じょうじゅうざが、小説のことを考え、小説のタネはないかと考えていた様子である。

 今回、紹介したエッセイ『自身の無さ』が掲載されたのは「朝日新聞」。太宰の絶筆グッド・バイが掲載される予定だったのも「朝日新聞」。太宰と朝日新聞には、縁があったようです。

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 太宰に思いを馳せながら、太宰が読んでいたという本を手に取ってみても、面白いかもしれません。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
檀一雄太宰と安吾』(角川ソフィア文庫、2016年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】三月三十日

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今週のエッセイ

◆『三月三十日』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)3月30日に脱稿。
 『三月三十日』は、1940年(康徳7年)4月1日発行の「物資と配給」第二巻第四号の「随筆」欄に発表された。「物資と配給」の発行所は満州生活必需品株式会社(新京特別市大同大街一三〇二)で、編集人は石黒直男、発行人は肱岡武夫。初出誌の本文末尾には、「(完)」とある。この欄には、ほかに「家のはなし」(木崎龍)、「私の職場日記」(北浦きみ)、「ヴィタミンC」(浅見淵)が掲載された。
 『三月三十日』は、著者書入のある雑誌の切抜きが残っており、標題の『三月三十日』は抹消されて、『祝建国』と改題されている。

「三月三十日

 満州のみなさま。
 私の名前は、きっとご存じ無い事と思います。私は、日本の、東京市外に住んでいるあまり有名でない貧乏な作家であります。東京は、このニ、三日ひどい風で、武蔵野のまん中にある私の家には、砂ほこりが、容赦無く舞い込み、私は家の中に在りながらも、まるで地べたに、あぐらをかいて坐っている気持でありました。きょうは、風もおさまり、まことに春らしく、静かに晴れて居ります。満州は、いま、どうでありましょうか。やはり、梅が咲きましたか。東京は、もう梅は、さかりを過ぎて、花弁も汚くしなび掛けて居ります。桜の蕾は、大豆くらいの大きさにふくらんで居ります。もう十日くらい経てば、花が開くのではないかと存じます。きょうは、三月三十日です。南京に、新政府の成立する日であります。私は、政治の事は、あまり存じません。けれども、「和平建国」というロマンチシズムには、やっぱり胸が躍ります。日本には、戦争を主として描写する作家も居りますけれど、また、戦争は、さっぱり書けず、平和の人の姿だけを書き続けている作家もあります。きのう永井荷風という日本の老大家の小説集を読んでいたら、その中に、
「下々の手前達が兎や角と御政事向の事を取沙汰致すわけでは御座いませんが、先生、昔から唐土の世には天下太平の兆には綺麗な鳳凰とかいう鳥が舞い下ると申します。然し当節のようにこう何も彼も一概に綺麗なもの手数のかかったもの無益なものは相成らぬと申してしまった日には、鳳凰なんぞは卵を生む鶏じゃ御座いませんから、いくら出て来たくも出られなかろうじゃ御座いませんか。外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦絵まで御差止めに成るなぞは、折角天下太平のお祝いをお申し出て来た鳳凰(くび)をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。」
 という一文がありました。これは「散柳窓夕栄」という小説の中の、一人物の感慨として書かれているのであります。天保年間の諸事御倹約の御触に就いて、その一人物が大いに、こぼしているところなのであります。私は、永井荷風という作家を、決して無条件に崇拝しているわけではありません。きのう、その小説集を読んでいながらも、幾度か不満を感じました。私みたいな、田舎者とは、たちの(ことなる作家のようであります。けれども、いま書き抜いてみた一文には、多少の共感を覚えたのです。日本には、戦争の時には、ちっとも役に立たなくても、平和になると、のびのびと驥足きそく)をのばし、美しい平和の歌を歌い上げる作家も、いるのだということを、お忘れにならないようにして下さい。日本は、決して好戦の国ではありません。みんな、平和を待望して居ります。
 私は、満州の春を、いちど見たいと思っています。けれども、たぶん、私は満州に行かないでしょう。満州は、いま、とてもいそがしいのだから、風景などを見に、のこのこ出かけたら、きっとお邪魔だろうと思うのです。日本から、ずいぶん作家が出掛けて行きますけれど、きっと皆、邪魔がられて帰って来るのではないかと思います。ひとの大いそがしの有様を、お役人の案内で「視察」するなどは、考え様に依っては、失礼な事とも思われます。私の知人が、いま三人ほど満州に住んで大いそがしで働いて居ります。私は、その知人たちに逢い、一夜しみじみ酒を酌み合いたく、その為ばかりにでも、私は満州に行きたいのですが、満州は、いま、大いそがしの最中なのだという事を思えば、ぎゅっと真面目になり、浮いた気持もなくなります。
 私のような、すこぶ)る「国策型」で無い、無力の作家でも、満州の現在の努力には、こっそり声援を送りたい気持なのです。私は、いい加減な嘘は、吐きません。それだけを、誇りにして生きている作家であります。私は、政治の事は、少しも存じませんが、けれども、人間の生活に就いては、わずかに知っているつもりであります。日常生活の感情だけは、少し知っているつもりであります。それを知らずに、作家とは言われません。日本から、たくさんの作家が満州に出掛けて、お役人の御案内で「視察」をして、一体どんな「生活感情」を見つけて帰るのでしょう。帰って来てからの報告文を読んでも、甚だ心細い気が致します。日本でニュウス映画を見ていても、ちゃんとわかる程度のものを発見して、のほほん顔でいるようであります。此の上は、五年十年と、満州に、「一生活人」として平凡に住み、そうして何か深いものを体得した人の言葉に、期待するより他は、ありません。私の三人の知人は、心から満州を愛し、素知らぬ振りして満州に住み、全人類を貫く「愛と信実」の表現に苦闘している様子であります。

 

エッセイ『三月三十日』の時代背景

 1932年(昭和7年)3月1日、関東軍(日本帝国陸軍の総軍の1つ)の主導で、奉天市(中華民国満州国にかつて存在した、現在の中華人民共和国瀋陽市に相当する都市)において「満州国」の建国を宣言します。首都は長春(新京)とし、年号は大同に改められました。さらに、同年9月、満州国の執政に、大清帝国第12代にして最後の皇帝・愛新覚羅あいしんかくら) 溥儀ふぎ)が就任しました。
 満州国は、建国以降、関東軍南満州鉄道の強い影響下にあり、1933年(昭和8年)8月8日に閣議決定された「満州国指導方針要綱」では、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていました。当時の国際連盟加盟国の多くは、満州地域は法的には中華民国の主権下にあるべきと主張し、国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書をもとに満州国の非承認を決定します。このことが、1933年(昭和8年)3月27日に日本が国際連盟を脱退する大きな理由となりました。
 1932年(昭和7年)頃の太宰は、左翼運動の支援をしていましたが、長兄・津島文治の働きかけを受けて、青森警察特高課に出頭。左翼運動から足を洗い、ペンネームを太宰治と決め、本格的に作家を志した時期です。

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満州国皇帝・溥儀

 今回のエッセイ『三月三十日』が掲載された雑誌「物資と配給」の発行所である「満州生活必需品株式会社」は、「満州国において生活必需品の配給合理化をはかり、あわせて物資政策の徹底的遂行を容易ならしめる」ことを目的として新京に本店が設立された、大配給会社でした。

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■新京の関東軍総司令部

 エッセイ冒頭、太宰は「きょうは、三月三十日です。南京に、新政府の成立する日であります。」と書いていますが、これは、1940年(昭和15年)3月30日から1945年(昭和20年)8月16日まで存在した、中華民国の国民政府中華民国国民政府」(「中華民国南京国民政府」とも呼ばれる)のことです。1937年(昭和12年)7月7日から1945年(昭和20年)9月9日まで、大日本帝国中華民国の間で行われた日中戦争において、日本軍占領地に成立した親日政権で、「和平・反共・建国」を標語として掲げており、行政院長(首相)には、汪兆銘おうちょうめい)が就任しました。

 文芸評論家の中村光夫(1911~1988)は、1940年(昭和15年)という年について、「昭和十五年という年は、斎藤、津田問題が象徴するように、国の動向を批判する自由がすべて失われた年、正月の門松も立てられず、デパートの売出しも「自粛」させられ」た年だったと回想しています。
 泥沼化していく中国との戦争の中、1938年(昭和13年)5月に「国家総動員法」が施行され、言論・出版も統制の対象となり、その取締りは年々厳しくなっていきました。
 エッセイ終盤、太宰は「私のような、すこぶ)る「国策型」で無い、無力の作家でも、満州の現在の努力には、こっそり声援を送りたい気持なのです。」と書いていますが、1940年(昭和15年)1月1日付発行の「知性」新年号に発表した小説(かもめ)には、次のように書いていました。

 私は醜態の男である。なんの指針をも持っていない様子である。私は波の動くがままに、右にゆらり左にゆらり無力に漂う、あの、「群集」の中の一人に過ぎないのではなかろうか。そうして私はいま、なんだか、おそろしい速度の列車に乗せられているようだ。この列車は、どこに行くのか、私は知らない。まだ、教えられていないのだ。汽車は走る。轟々ごうごうの音をたてて走る。イマハ山中ヤマナカ、イマハハマ、イマハ鉄橋、ワタルゾト思ウ間モナクトンネルノ、闇ヲトオッテ広野ヒロノハラ、どんどん過ぎて、ああ、過ぎて行く。

 小説の語り手に、先行きの見えないまま加速して行く状況への不安を語らせてもいた太宰。戦時中、最も多くの作品を発表したと言われる太宰ですが、「知人が、いま三人ほど満州に住んで大いそがしで働いて居」る状況の中、どのような心境で作品を発表し続けていたのでしょうか。

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■1940年(昭和15年)、群馬県四万温泉にて

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・内海紀子/小澤純/平浩一 編『太宰治と戦争』(ひつじ書房、2019年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)・HP「満州国生活必需品配給会社案の要綱」(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 アジア諸国(10-053))
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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【週刊 太宰治のエッセイ】義務

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今週のエッセイ

◆『義務』
 1940年(昭和15年)、太宰治 31歳。
 1940年(昭和15年)2月25日から29日までの間に脱稿。
 『義務』は、1940年(昭和15年)4月1日発行の「文学者」第二巻第四号の「随筆」欄に発表された。この欄には、ほかに「海についての本」(大森義太郎)、「小説の魅力」(春山行夫)、「好日」(榊山潤)、「炭」(新田潤)、「廣津村の思出」(和木清三郎)、「結婚式」(徳田一穂)、「酒」(岡田三郎)が掲載された。

「義務

 義務の遂行とは、並たいていの事では無い。けれども、やらなければならぬ。なぜ生きているか。なぜ文章を書くか。いまの私にとって、それは義務の遂行の為であります、と答えるより他は無い。金の為に書いているのでは無いようだ。快楽の為に生きているのでも無いようだ。先日も、野道をひとりで歩きながら、ふと考えた。「愛というのも、結局は義務の遂行のことでは無いのか。」
 はっきり言うと、私は、いま五枚の随筆を書くのは、非常な苦痛なのである。十日も前から、何をかいたらいいのか考えていた。なぜ断らないのか。たのまれたからである。二月二十九日までに五、六枚書け、というお手紙であった。私は、この雑誌(文学者)の同人では無い。また、将来、同人にしてっもらうつもりも無い。同人の大半は、私の知らぬ人ばかりである。そこには、是非書かなければならぬ、という理由は無い。けれども私は、書く、という返事をした。稿料が欲しい為でもなかったようだ。同人諸先輩に、媚びる心も無かった。書ける状態に在る時、たのまれたなら、その時は必ず書かなければならぬ、という戒律のために「書きます」と返事したのだ。与え得る状態に在る時、人から頼まれたなら、与えなければならぬという戒律と同断である。どうも、私の文章の vocabulary は大袈裟なものばかりで、それゆえ、人にも反発を感じさせる様子であるが、どうも私は、「北方の百姓」の血をたっぷり受けているので、「高いのは地声」という宿命を持っているらしく、その点に就いては、無用の警戒心は不要にしてもらいたい。自分でも、何を言っているのか、わからなくなって来た。これでは、いけない。坐り直そう。
 義務として、書くのである。書ける状態に在る時、と前に言った。それは高邁(こうまい)のことを言っているのでは無い。すなわち私は、いま鼻風邪をひいて、熱も少しあるが、寝るほどのものでは無い。原稿を書けないというほどの病気でも無い。書ける状態に在るのである。また私は、二月二十五日までに今月の予定の仕事はやってしまった。二十五日から、二十九日までには約束の仕事は何も無い。その四日間に、私は、五枚くらいは、どうしたって書ける(はず)である。書ける状態に在るのである。だから私は書かなければならない。私は、いま、義務の為に生きている。義務が、私のいのちを支えてくれている。私一個人の本能としては、死んだっていいのである。死んだって、生きてたって、病気だって、そんなに変りは無いと思っている。けれども、義務は、私を死なせない。義務は、私に努力を命ずる。休止の無い、もっと、もっとの努力を命ずる。私は、よろよろと立って、闘うのである。負けて居られないのである。単純なものである。
 純文学雑誌に、短文を書くくらい苦痛のことは無い。私は気取りの強い男であるから、(五十になったら、この気取りも臭くならない程度になるであろうか。なんとかして、無心に書ける境地まで行きたい。それが、(ただ)一つのたのしみだ)たかだか五枚六枚の随筆の中にも、私の思うこと全部を叩き込みたいと(りき)むのである。それは、できない事らしい。私はいつも失敗する。そうして、また、そのような失敗の短文に限って、実によく先輩、友人が読んでいる様子で、何かと忠告を受けるのである。
 所詮は、私はまだ心境ととのわず、随筆など書ける(がら)では無いのである。無理である。この五枚の随筆も、「書きます」と返事してから、十日間も私は、あれこれと書くべき材料を取捨していた。取捨では無い。捨てることばかり、やって来た。あれもだめ、これもだめ、と捨ててばかりいて、とうとう何も無くなった。ちょっと座談では言えるのであるが、ことごとしく純文学雑誌に「昨日、朝顔を植えて感あり」などと書いて、それが一字一字、活字工に依って拾われ、編集者に依って校正され、(他人のつまらぬ呟きを校正するのは、なかなか苦しいものである。)それから店頭に出て、一ヶ月間、朝顔を植えました、朝顔を植えました、と朝から晩まで、雑誌の隅で繰り返し繰り返し言いつづけているのは、とても、たまらないのである。新聞は、一日きりのものだから、まだ助かるのである。小説だったら、また、言いたいだけのことは言い切って在るのだから、一月ぐらい、店頭で叫びつづけても、悪びれない覚悟もできているが、どうも、朝顔有感は、一ヶ月、店頭で呟きつづける勇気は無い。

 

太宰の原稿執筆状況

 エッセイの冒頭で「はっきり言うと、私は、いま五枚の随筆を書くのは、非常な苦痛なのである」と漏らす太宰ですが、 普段の小説の原稿執筆状況は、どうだったのでしょうか。
 太宰の妻・津島美知子は、著書回想の太宰治の中で「午後三時前後で仕事はやめて、私の知る限り、夜執筆したことはない。〆切に追われての徹夜など、絶えてない」と回想しています。今回は、関係者の証言を引用しながら、太宰の原稿執筆状況について紹介したいと思います。

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■太宰と妻・津島美知子

 まずは、1938年(昭和13年)に石原美知子と再婚し、文筆家として再起を志した頃の様子について、妻・美知子回想の太宰治から引用してみます。

 この家(著者注:新婚後、最初に住んだ山梨県甲府市御崎町の家)での最初の仕事は「黄金風景」で、太宰は待ちかまえていたように私に口述筆記をさせた。副題の「海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて」を書かせて、どうだ、いいだろう、と言った。次が「続富嶽百景」で「ことさらに月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、――」から始まったが、私は前半を全く読んでいなかったので筆記しながら唐突な感じがした。

 太宰は、自分で執筆するだけでなく、美知子や雑誌編集者に口述筆記を依頼することもありました。ちなみに、太宰の人気作品の1つでもある富嶽百景ですが、当時は文芸雑誌「文体」に2回にわたって連載されたため、美知子はその前半部分を読まずに、後半を口述筆記したようです。
 また、美知子は口述筆記について「一番記憶に強く残っている」として、同じく回想の太宰治の中で、次のように回想しています。

黄金風景」と「続富嶽百景」のあと、「兄たち」「(アルト)ハイデルベルヒ」「女の決闘」(一部)が口述筆記でできた。「駈込み訴え」の筆記をしたときが一番記憶に強く残っている。「中央公論」に発表されるということで太宰も私もとくに緊張したのであろう。昭和十五年の十月か十一月だったか、太宰は炬燵に当たって、盃をふくみながら全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもしなかった。ふだんと打って変わったきびしい表情に威圧されて、私はただ機械的にペンを動かすだけだった。

 口述筆記にもかかわらず、「全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しも」せずに紡がれたという駈込み訴え。太宰の文体はリズミカルで、「音読に向いている文章」と言われることもありますが、太宰は「自ら読み上げたときにも心地よい文章」という、こだわりがあったのかもしれません。
 ちなみに、東京帝国大学に在学中、作品が出来上がると、友人を呼び集めて朗読会を開いていたというエピソードも残っています。

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■『駈込み訴え』と『富嶽百景』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 口述筆記の話題が続きましたが、今度は、必死に原稿用紙に向かう姿です。再び、妻・美知子の著書回想の太宰治からの引用です。太宰は、第二子・正樹の出産準備のため、美知子の甲府の実家へ滞在していました。

(著者注:1944年(昭和19年))六月十五日に「津軽」を起稿し、同月二十一日から甲府市の私の実家に滞在して、二十五日には「津軽」を百枚書き上げて、午後井伏先生を、疎開先の市外甲運村に訪れた。六月末まで甲府で、七月は一日から二十日まで三鷹で書き、二十一日からまた甲府で、月末に三百枚を脱稿した。起稿から脱稿まで一月半ほどである。
 三鷹の二十日間は自炊の不便を忍び、甲府では(夏向きに建てられた天井の高い家の、一番涼しい部屋に陣取っていたのではあるが)暑さに耐えての労作であった。私は第二子出産のためこの間ずっと実家に滞在し、毎朝早起きして煙草を買う行列に加わった。

 根強い人気を誇る、小説津軽執筆の舞台裏でした。
 全く家事をしなかった、防空壕を掘る際も、ただ側に立って見ているだけだった、というエピソードも残っている太宰ですが、こと小説となると、やはり力が入るようです。

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■『津軽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 続いて紹介するのは、第二次世界大戦のため、故郷である金木町に疎開していた頃の原稿執筆についてです。
 1945年(昭和20年)9月、疎開中の太宰のもとを、宮城県仙台市にある新聞社・河北新報社の出版局次長・村上辰雄が訪れ、日刊新聞である「河北新報」への新聞連載小説を依頼します。この依頼を受けて執筆されたのが、太宰にとって初の新聞連載小説となるパンドラの匣です。太宰は、村上に「終戦後の希望」を書きたいと語り、「月末までに第一回を送稿する」と約束したそうです。

 約束の9月末、太宰は約束通り、「作者の言葉」とともに、パンドラの匣連載20回分にあたる、原稿80枚近くを村上に送付しました。
 原稿を受け取った村上は、パンドラの匣の挿絵を描くことになっていた仙台近郊に住む中川一政に原稿を届け、挿絵を依頼しましたが、中川は、「これはとても描けない。いや、こういう小説にタッチしたら、面白くて、精魂をつくし果てるまでに抜きさしならなくなる。僕がこのパンドラの匣をやるとしたら、きっと絵筆の勉強を投げ出してかかるだろう。それが怖いので、とても描けない。どうか太宰君によろしく言ってください」と断られてしまったといいます。
 最終的にパンドラの匣の挿絵は、版画家の恩地孝四郎が手掛けることになりましたが、恩地は、「新聞小説でこんなにまとめて原稿をもらったのは太宰さんが初めてだった」「これほど楽しい仕事はかつてなかった」と話したそうです。

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■『パンドラの匣』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 最後に紹介するのは、言わずと知れた有名長篇小説斜陽の原稿執筆についてです。斜陽は、太宰がベストセラー作家になるきっかけとなった作品でもあります。
 太宰は終戦後、1946年(昭和21年)11月14日疎開していた故郷の金木町から三鷹へ戻って以降、仕事部屋を持つようになりました。自宅が手狭なことや来客を避けるためで、三鷹へ戻ってから玉川上水で心中するまでの1年7ヶ月の間に、6ヶ所を転々と使用しました。

 太宰は、金木町から戻った後、すぐに新潮社を訪ね、「『桜の園』(作者注:ロシアの劇作家・チェーホフの戯曲)の日本版を書きたい、題名は『斜陽』だ」と意気込んでいたそうです。作家として「大ロマン小説を一つ書いて死にたい」と常に語っていたそうで、いよいよその時がやって来ようとしていました。
 太宰は、1947年(昭和22年)2月下旬、安田屋旅館の二階「松の弐」斜陽を起稿します。ここで、第一章と第二章を執筆して、三鷹に戻ります。
 その後、同年4月6日から5月20日まで仕事部屋としていたのが、田辺精肉店の裏のアパートでした。ここで、太宰は斜陽の第三章からを書き始めます。太宰が執筆を終える午後3時以降、だいたい飲んでいたという松屋の仲介で、田辺万蔵・かつ夫妻が経営するアパートを借りていました。
 田辺は、「空になったアパートのその部屋だけ、夜も遅くまで煌々(こうこう)と電気がついていた」と回想していたそうです。コラム冒頭で引用しましたが、妻・美知子は「午後三時前後で仕事はやめて、私の知る限り、夜執筆したことはない。〆切に追われての徹夜など、絶えてない」と回想しており、この様子から、太宰が斜陽に懸ける情熱が伺い知れるような気がします。

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■『斜陽』初版復刻本 1992年(平成4年)、日本近代文学館より『名著初版本復刻 太宰治文学館』として復刻された初版本。

 このように太宰は、作家としての「義務」をしっかり果たしていたようです。
 ちなみに、妻・美知子によると、「死の前年秋の某誌に載ったインタヴューでは、夜中はだれかがうしろにいてみつめているようでこわいから仕事しないと答えている」そうです。斜陽を執筆していたのも、死の前年にあたるのですが…。

 【了】

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【参考文献】
・『太宰治全集 11 随想』(筑摩書房、1999年)
志村有弘/渡部芳紀 編『太宰治大事典』(勉誠出版、2005年)
・津島美知子『回想の太宰治』(講談社文芸文庫、2008年)
・山内祥史『太宰治の年譜』(大修館書店、2012年)
・田村茂 写真『素顔の文士たち』(河出書房新社、2019年)
・須永誠『太宰治と仙台 ―人・街と創作の接点』(河北新報出版センター、2019年)
 ※モノクロ画像は、上記参考文献より引用しました。
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